ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

リア王

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

『老子』第45章を一言で言えば「本物はもの足りない」

今回は『老子』第45章である。
この章を一言で言えば「本物はもの足りない」である。
教訓としては最上の章かもしれないと思う。

「本物はもの足りない」
言い換えれば、
「もの足りなくてこそ本物」
である。

最高のプレゼントは、もらった者はどこかもの足りなさを感じるものだ。
最高の親切は、どこか不親切を感じるものだ。

こういったことを、この章では、やや小難しく、たとえば、岩波文庫版では、
「大いなる完成は欠けているように見えるが、その働きは衰えない」
「大いなる充実は空虚のように見えるが、その働きは窮’(きわま)らない(尽きない)」
「大いなる直線は屈折しているように見え」
「大いなる技巧は稚拙なように見え」
「大いなる弁舌は口下手のように見え」
と書いている。
だが、上の、私が上げたものの方が具体的で分かり易いかもしれない。

最高の恋人には、どこか不満を感じるものだ。
こう言われて、ピンとくるようでなくてはならない。
重要なことだ。

「あの人は最高の人でした」と言われる者は、見栄っ張りの偽物である。
本当に偉大な人は、偉大さが分かり難いものなのだ。

リア王は、3人の娘に、自分をどれだけ愛しているか問うたが、上の姉2人は、文句のない答をし、リア王を喜ばせた。
そんな答は嘘に決まっている。
対して、末娘は、
「当たり前にお父様を愛しています」
と答え、リア王は、もの足りなさに怒った。
80もとおに超えながら、リア王の愚かさは嘆かわしい。

「私は誰か?」と自分に問う探求も、もの足りなさを感じるはずだ。
他の「ついに発見した究極のメソッド」みたいなもののような迫力や煌(きら)びやかさがない。
また、そんなメソッドは、光が見えたり、天から声が聴こえたり、身体の中心が熱くなったり、心がぱーっと広がるみたいなエキサイティングな体験も売りだが、「私は誰か?」と問うても、特に何も起こらない。
だが、当たり前の自然の貴さがある。
リア王の末娘の本物の慈愛を忘れないことだ。








『老子』第23章を一言で言えば「自然に」

今回は『老子』第23章である。
この章を一言で言えば「自然に」である。
「自然な」・・・これほど美しいものはない。
『老子』の、特にこの第23章は難しく感じるかもしれないが、老子は難しいことなど言わない。
この章も、最も大切な「自然であれ」ということを書いているだけである。

昔、有名な007俳優であったショーン・コネリーがテレビCMの中で、
「美しいか。美しくないか。それが行動の基準だ」
と言うものがあったが、本当に美しいものは「自然さ」が備わっている。
だが、現代人はそれを忘れている。
現代人そのものが不自然になっているのだ。

たとえば、筋肉がついた逞しい男性の身体は美しい。
しかし、過度に筋肉がついた身体を見たことがあると思うが、あれが美しいことはない。
不自然な筋肉だからだ。
また、女性の大きな胸を美しいと感じる人は多いが、最近のアニメやゲームで、ヒロインの若い女性が異常に大きな胸をしていることがよくあるが、あれも、どう見ても、少しも美しくない。
だが、これらのものがもてはやされるのは、現代人の感覚が不自然になっているのである。
不自然になることを、老子は「道から外れる」という言い方をする。それは、荘子や列子でも同じだ。
現代人は、そして、現代の社会は、かなり道から外れてしまっている。

いくつかの『老子』の翻訳・・・たとえば岩波文庫では、この章の最後は、
「支配者に誠実さが足らなければ、人民から信用されないものだ」
とあるが、この文章は、それまでの文章の続きとしては唐突感が大きく、後世に付け加えられたとする説がある。
あるいは、この一文について、全く別の言葉による意訳をした翻訳もある。
だが、この「誠実」についても、本当の誠実とは自然なものだということを理解しておくと良い。
不自然な誠実は少しも美しくはなく、災難の元にもなりかねない。
それを表現したのが、シェイクスピアの『リア王』だ。
この作品(戯曲)で、長女と次女は、父のリア王をどれほど深く愛しているか美辞麗句を並べ、それを聞き愚かなリア王は喜んだ。
だが、三女は「私は当たり前に父上を愛しています。それ以上でも以下でもありません」と言い、リア王を怒らせた。
「当たり前に愛する」という自然さを、リア王が分からなくなっていたことが不幸の原因である。

自然さは、過激でも極端でもない。
仏教では、極端を排することを「中道」と言うらしい。
仏教だって、本来は自然さを尊ぶものなのに、形骸化、権威化した仏教は不自然さが多い。
だから、賢い人は極端を避ける。
過度なマッチョ、過度な巨乳も、避けるべき極端だ。
『バガヴァッド・ギーター』にも、「食べ過ぎてはいけない。だが、少食過ぎるのもよくない」とあるように、極端を避け、自然であることが良い。
頑張り過ぎるのもよくないが、怠け過ぎるのも当然よくない。
子供やペットを甘やかすのは、決して悪いことではないが、それにも限度があるということだ。
「徹底的にやる」ことが悪くないこともある。
しかし、それすら、限度を守って「徹底的にやる」ものである。
限度を超えた「徹底的」は災禍を起こすのである。

自然さ・・・この最も貴いことを忘れてはならない。








孤独な魂に徹する

少し前に、孤独が心を鍛えるという話をしたが、心が強くなければ、どんなこともなし得ないだろう。
だから、人間は孤独に耐えなければならないが、孤独になるためと言っても、引きこもったりして、無理に孤独になる必要はない。
そうではなく、志を持てば、嫌でも孤独になる。
志を持っていれば、普通の人とは、行動も考え方も合わなくなるので、どうしたって孤独になる。

普通の人は群れたがる。
心の奥に必ずある天への志向性より、グループに入る安心感を選ぶのだ。
また、学校は、グループに入らなければやっていけない・・・あらゆることで不都合になる仕組みになっている。
学校の根本にあるのは、工場労働者を作るというポリシーであり、そのためには、志を持たない凡庸な人間にする必要があるからだ。
だから、学校では、群れていれば快適であり、志があって孤独でいれば、かなり辛い思いをしなければならない。

孤独になるきっかけは、幼い時に、他の子供と接触する機会がなく、他人との接し方、距離の取り方を身体で覚えなかったことが多い。
このあたりは、人間も猿と同じだと思う。
赤ん坊の時、他の子猿達と隔離された子猿は、他の子猿達を恐れ、グループに入ろうとしないが、人間も同じなのだろう。
つまり、初歩的なコミュニケーション力がなくて孤独になるのだ。
そんな孤独な猿は、ほぼ全て、生涯に渡って日陰者になる。
だが、人間の場合は、ここが違う。

孤独になるきっかけはいろいろで、上のように、コミュニケーションを取る方法が感覚的に分からないということもあれば、わがままなために他の者達に嫌われるという者もいる。
その両方ともなれば、まず間違いなく引きこもりになる。
だが、どんな理由で孤独癖がついたかなんて、どうでも良いことだ。
どうせ孤独なら、志を持ち、孤独に徹することだ。
幼い時に、首尾よくコミュニケーション力を持て、仲間とうまくやっている者でも、何かのきっかけで志を持てば、自ずと、他の者達とやっていけなくなり、孤独になるが、そんな者は多くない。
仲間と群れて快適なら、そこから敢えて抜け出すような者は滅多にいないからだ。

岡本太郎は子供の時、大いに孤独で、非常に辛い目にあったが、それは、太郎が、岡本かの子という偉大なる変人に育てられ、他の子達とあらゆる点で違っていたからだ。
岡本太郎は、子供の時は苦しかったろうが、それがなければ、後の大芸術家、岡本太郎はなかった。
強制的に与えられた孤独ではあったが、太郎自身も、自らを貫いた・・・つまり、志を持っていたから、強くなったのだ。

今、仲間達とチャラチャラと群れ、快適にやっている者は、凡人のつまらない人生を送る可能性が圧倒的である。
だが、どんな理由だろうが、他人とうまくやれず、孤独であるなら、是非とも高い志を持ち、試練に耐えることを決意すべきである。
結果、人生が悲劇に終わっても、それはそれで満足出来るに違いない。
イェイツだって、「人は、人生が悲劇だと認識した時に、初めて本当に生きることを始める」と言ったように、人生は元々が悲劇かもしれないのだ。
だが、志を持ち、孤独で心を鍛えれば、人生は喜劇であることが分かる。
ならば、楽しむべきである。
イェイツだって、本当は、リア王もハムレットも陽気だと言うのだ。
リア王の魂すら笑っていた。
なら、我々もそうすべきである。
リア王やハムレットになれるのも、孤独な魂の特権だ。
それは、誰も知らないが、震えるほど楽しいことである。









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ヨーダや武蔵を買いかぶるな

シェイクスピアの『リア王』のリア王は、特別に愛されることに執着したから不幸になった。
身から出た錆だよ。
まともな人間であったリアの末娘は、愚かなリア王に冷遇されてしまったが、彼女は別に、地位や財産に執着していなかったので、不幸ではなかった。

筒井康隆さんの『時をかける少女』は、ちょっとしたサスペンスではあるのだが、和子も、ケン・ソゴルも、何にも執着していなかった。
ケンは和子が好きだったみたいだが、だからといって、和子の時代に留まる気はなかったし、和子を自分の時代に連れていこうともしなかった。
つまり、別に和子に対する執着なんかなかったのだ。
和子も、ケンのことを忘れないといけないことを悲しいとは思ったが、絶対に嫌だとまでは言わなかった。
だから、和子もケンも不幸ではない。
あのお話は、ハッピーエンドとはいえないのかもしれないが、妙にすがすがしい理由は、そんなところにあるのだろう。

一方、『スター・ウォーズ』では、アナキン・スカイウォーカーが何かに執着してしまったことが、銀河規模の不幸を招いてしまう。
それは、アナキンの師のオビ・ワンや、さらにその師のヨーダが無能だったってことじゃあないのかな?
一番肝心なところを教えることができなかったのだから。
日本の田舎のちゃんとした教師だって教えられることが、ヨーダには教えられなかったのだ。
ジェダイだの、フォースだの、それがもたらす強さや名誉に執着した結果なのだよ。
土台、ヨーダのような厳(いかめ)しい顔をしたがる者にロクなやつはいないさ。

宮本武蔵は強さに執着し、散々な人生だった。
お気の毒としか言いようがない。
武蔵は、人間性を疑われて、どこにも仕官が叶わず、やっと置いてもらえた藩では、自慢話ばかりして嫌われていたのだよ。
だが、武蔵も、年を取ってから、自分の欠点に、ちょっとは気付いたのだ。
それで、息子(養子)には剣を教えず、学問に精を出させたのだ。
息子はそこそこ出世し、しかも、地位に執着しなかったので、充実した生涯を送ったようだ。
だが、武蔵は、執着を捨て切ることができず、『五輪書』のような余計なものを残した。
あれは、武蔵を哀れむ書として見てこそ、貴重な教訓を得られるのである。









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娘を本当に愛している父親とは

さだまさしさんの1979年の曲で、『親父の一番長い日』という、12分30秒にもなる長い曲がある(オリコンシングルチャート1位を獲得した曲では、現時点では史上2番目に長いらしい)。
実は私は、この歌を通して聴いたことはないのだが、だいたいの内容として、娘を嫁に欲しいという青年が挨拶に来た頑固親父の悲哀を、シリアスながら、ちょっとユーモラスに描いたような歌だったと思う。
歌の最後のあたりで、父親は、「分かった、娘はくれてやるから、君を一発殴らせろ」といったようなことを言うのだったはずだ。
これを聴いて、娘を持つ世の父親達が共感を覚えるのはまあ仕方ないかもしれないが、この親父のことを、「娘を愛しているのだなあ」という馬鹿なことを考えてはいけない。
この「親父」は、ちっとも娘を愛してなどいない。
「いや、そんなことはない。私も娘を愛する父親だから分かるぞ」
などという者がいるなら、君は大嘘つきなのだ。
ただ、自分で嘘に気付いていないだけだ。
こんな父親は娘を愛してなどはいない。
単に、娘を自分の所有物だと思っているだけだ。
特に近年では、娘、息子に関わらず、結婚相手に強い不快感を持つのは、むしろ母親の方だ。
無論、こんな母親も娘や息子を全く愛してなどいない。
多くの母親は、自分の子供を自分のものだとしか考えられないのであり、特に、現代はこれが極端になってきている。
ますます、母親に愛が無くなってきているのだ。

もし、本物の嘘発見器があったとして、夫婦や恋人達に、お互いを愛しているかというテストをしたら、間違いなく「嘘」の判定が出る。
どんなに電車の中でベタベタしているカップル達も同じで、むしろ、そんな者達は、なおさら相手を愛してなどいないのである。
親から子供への愛、子供から親への愛も同じことだ。
シェイクスピアの『リア王』で、リヤ王の末娘は正直に、父王のリアに対し、「お父様として当たり前に愛しているが、それ以上でも以下でもない」と言ったのが、まずまずの良い答と言える。
つまり、彼女は、父親に対して特別な想いはない・・・つまり、父であるリア王は、彼女にとって、それほど大事なものではないと言っているのだ。
そして、それが当たり前なのである。
別に、嫌いとも言っていない。父のことは、他の全ての人達と同じくらい大切に思うと、末娘は言っているのだ。
素晴らしいことだ!
それで十分ではないか?
それ以上、何を求めると言うのだろう?
そして、リア王の姉娘達は、「お父様は私にとって特別な人です」といった意味のことを饒舌に述べてリア王を喜ばせるが、実際は、彼女達は、リア王を「これっぽっち」も愛していなかった。
そして、間違いなく、姉娘達は、他の全ての人達も、父王同様、少しも愛してなどいないのだ。
姉娘達が愛しているのは自分だけである。

さあ、少しは、世間の愛の幻想に気付けただろうか?

多くの歌で、「愛してる」「愛してます」「愛してるぜ」などと歌うが、そんなのを聴くと、悲しいほど気が滅入る。
真っ赤な嘘を聴いて楽しいはずがない。
人間が「愛してる」というのは、全て嘘なのだから。
だが、初音ミクが歌う限りは嘘ではない。
彼女は人間ではないのだから。
では、ミクのために、そんな歌を創った人達が嘘をついているかというとそうではない。
ミクの歌を創る人達は、自分の名を出さず、奇妙なアーチスト名を名乗っている。
つまり、ミクの歌は無記名と言って良い。
芸術作品というものは、無記名であるべきものだ。
なぜなら、本当に、その人が創っているのではないからだ。
アーチストが、自分が創っているという意識がなく、アートストはただの道具である時に、芸術は生まれる。
フランス国歌は、事実上無記名の曲だ。あの歌の作者など、ほとんど誰も知らない。
音楽家でも何でもない、ただ音楽が趣味であるだけの1人の職業軍人(技術軍人)が、天啓を得て、一晩で創ったのがあの名曲なのだ。
アマチュアが創ったミクの歌にだって、同じくらいの作品はゴロゴロあると思う。

ところで、本当に娘を愛している父親とは、どんな父親だろう?
自分でよく考えてみると良い。
本当に良い男を選べるよう、きちんと娘を教育する父親だろうか?
そんなことができると思うのは、愛するとか以前に、どうしようもない愚か者で馬鹿である。
また、どんなに賢い娘になったとしても、間違った男を選んでしまうものなのだ。
君だって、真面目な素晴らしい女性を騙したことがあるのではないのか?私はいっぱいあるぞ。
では、そんな相手の男の本性を察知して、その男をやっつける父親が、娘を愛する父親であろうか?
父親にそんなことが分かるものか。
父親は、娘以上に間違うのだ。
答えは既に述べている。
それは、リア王の末娘の言ったことである。
自分の娘は別に特別ではない。
世界中の娘達、あるいは、人々と同じように、当たり前に自分の娘を大切に思っている父親が、本当に愛することができるのだ。
そんな父親なら、どれほど美男子で若い娘にもてても、彼女達を騙そうとはしないだろう。
どの娘も、自分の娘と同じなのだから。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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