ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ラーマーヤナ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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「私は誰か?」の問い方

「私は誰か?」の問い方を改めて説明する。

「私は誰か?」と問うとして、答はあるのかというと、ある。
その答とは、「全知全能の無限の魂」である。
この魂とは、我々の知る観念で、唯一近いものは「神」である。
その神は、一神教で言う神がより近いが、多神教の場合はトップの神である・・・とはいえ、あくまで観念なので、いちいち神の名まで説明しない。

我々人間は、不幸な理由で、自分がそんな無限の魂であることを完全に忘れ、それと共に、全知全能の力のことも忘れてしまった。。
それで、そのことを思い出すために、「私は誰か?」と問うのである。
問い続ければ、魂の反応を得られるだろう。

春爛漫
AIアート43
「春爛漫」
Kay


だが、我々の魂は力を弱められている。
どうやって弱められているのかというと、魂の僕(しもべ)である心をコントロールすることでだ。
心に魂を支配するような力はないが、魂は、心に幻想を作らせ、それを楽しむことを利用された。
つまり、コントロールされた心が、魂を幻想で覆い、魂に、自分は身体や心であると思い込ませたのである。
だが、魂に残された力が、心に「私は誰か?」と問わせることで、心自身を消させ、それにつれ、魂は自己を取り戻すのである。

上のようなことを記憶に置きつつ、なるべく多く「私は誰か?」と自分に問えば、心が消えていくと共に、魂が力を取り戻していき、自分は、身体や心ではなく、全知全能の無限の存在であることを思い出す。
それなれば、神のごとき魂の力を取り戻すのである。

『ラーマーヤナ』の主人公ラーマが自分と思うと良いだろう。
尚、シータはラーマの半身であることから、シータだと見なしても良いのである。
また、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナでもある。








『老子』第7章を一言で言うと「無私であれ」

今回は『老子』第7章である。
非常にシンプルで分かり易い章と思う。
いつも通り、一言でまとめると「無私であれ」である。
シンプルなので、書いてある通りに取れば良い。
聖人は天地の真似をして生きていると書いてある。
この「天地」は、一切のことであり、万物のことであり、つまりは神のことだ。
つまり、聖人とは神のように生きている。
我々も、聖人になるには、神の真似をすれば良い。
そこで、神の真似とはどのようなものであるかといった、実用的でありがたいことを教えてくれている章である。

我々は、悪の宇宙人のマインドコントロール装置によって、自分が身体や心だと思い込まされている。
だが、我々は魂であり、魂は永遠不滅で全知全能の無限者・・・つまり、神なのだ。
だから、我々は神でないフリをやめることと共に、初めは意識的に神のフリをしなくてはならない。
それによって、悪の宇宙人の装置の影響を脱していくことが出来る。

では、神のフリとは何かと言うと「無私」である・・・「私がない」ことだ。
これに関し、老子はよく「自分を後にする」とか「前に出ない」という言い方をする。
一般的に言えば「我を引っ込める」ということで、未熟な人間には難しいこととされる。
しかし、本当は、円熟したように見える人間にも難しい。
だが、実は易しい。
ただ、「私は誰か?」と問えば、我(自我、エゴ)は引っ込み、前に出ず、後ろに下がる。

この『老子』第7章は、『ラーマーヤナ』(インドの壮大な長編叙事詩。タイトルの意味は「ラーマの物語」)全巻にも相当する。
『ラーマーヤナ』では、最後に、ラーマ王は打ち倒した魔王ラーヴァナに教えを乞う。
勝った者が負けた者に教えを乞うのが美しい伝統で、王であるラーマはそれを守らなければならない。
たとえ、相手(倒した相手)が魔王であろうとも。
そして、魔王ラーヴァナは、ラーマに教えを説く。
とてもシンプルな教えだ。
「私心なければすぐに行い、私心がある間はやってはならない」
これは、稲盛和夫が座右の銘としていた教えである。
ラーマは、本当は至高神であるが、それを忘れ、人間として生きてきた。
だが、ラーヴァナに、神のように在る秘法を教わり、神に戻った。
我々も神であり、ラーマであり、シータ(ラーマの妻で絶世の美少女)だ。

「私は誰か?」と問えば、私心はなくなるので、行いは全て正しくなる。
そもそも、行っている者がいないのだ。
それが無私である。
ラマナ・マハルシは、偉大な人物の行いについて、こう言っていたものだ。
「その事業家は大きな事業を成しつつある。しかし、彼は何もしていない」
「財務長官は最大の注意と責任感を持って仕事をしているように見える。しかし、彼は何もしていない」
闇雲に「私は誰か?」と問い続けることは難しい。
しかし、自分が神であることを思い出すという目的で「私は誰か?」と問うのは楽しく易しいことである。








引き寄せの力に選ばれる者

徳川家康か言ったのだと思うが、
「人が天下を選ぶのではない。天下が人を選ぶのだ」
という言葉をよく憶えている。
ところが、『魔法騎士レイアース』というアニメで、クレフという名の導師(精神的指導者という意味だが、魔法力のあるマスターの意味で使われることもある)が、光、海、風(ふう)という名の14歳の3人の少女にこう言う。
「お前達に魔法を授けようとしたが、魔法の方でお前達を選んだ」
これも、家康の言葉と同じような意味だろう。

よく、引き寄せ関係の書籍、動画に、「こうすれば絶対に引き寄せが出来る」みたいなタイトルで注意を引こうとするものがあるが、中身は大抵、期待を裏切る。
引き寄せも、上と同じなのだ。
「人が引き寄せの力を選ぶのではない。引き寄せの力の方が人を選ぶのだ」
こう考えれば、極めてすっきりし、納得出来ると思う。

何ごとも同じと思える。
人が富を選ぶのではなく、富が人を選ぶのである。
人が大統領の地位を選ぶのではなく、大統領の地位が人を選ぶ。
人が栄光を選ぶのではなく、栄光が人を選ぶのである。

そして、これらは全て、引き寄せの力によって得られるのであるから、引き寄せの力に選ばれる人間でなければならない。
結局、重要なことはこれだけになる。
では、どうすれば、引き寄せの力に選ばれるのだろうか?
「神は取り引きに応じない」と言われるように、「これをしたから引き寄せの力に選ばれる」ということはない。
選ばれる条件は、言葉で言えばいろいろだが、どれも同じ意味である。
「器量が大きい」「無私である」「心が強い」
この中で最も誤解され易いのが「心が強い」だが、上の『魔法騎士レイアース』で言われていたことがこれで、誤解され易いと共に、最も分かり易い。
「心が強い」とは、「エゴをねじ伏せる心の強さがある」ことで、そんな人間のことを「器量が大きい」「無私である」と言うのである。
エゴの声は、たとえばこうである。
「誰も見ていなければ、ちょっとくらい悪いことをしてもいいじゃないか」
「みんなこれくらいのことはしている。俺がやっても責めらるようなことじゃない」
「脅しておけば大丈夫だ」
「捕まらなければやってもいいんだ」
こんな声に従うような者に引き寄せは出来ない。
また、こんな声の誘惑に弱いほど、引き寄せの力が弱いとも言える。
『魔法騎士レイアース』で、最も心が強い少女、光の信条はこうであると思われる。
「約束は必ず守る」
彼女はよく言う。
「約束したんだ。約束は守らなくちゃ駄目だ」

エゴにも良いところがあると言う人もいる。
それはどんなところだろう?
多分、「現実的であることも必要」という意味だ。
たとえば、宮沢賢治の『雨にも負けず』のように、

東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

そんなこと、いちいちやっていたら生きていけない。それが現実だ。
・・・とエゴが言ってくれるのである。
光のような若い少女なら、エゴのこんな声すらねじ伏せようとするかもしれない。
だが、「面倒だからしない」「損だからしない」と言うのがエゴである。
心が強い者は、別に、エゴのそんな言葉に従っているのではない。
この場合、心が強い者がエゴをねじ伏せる想いは、「自分の問題は自分で解決しなければならない」である。
すると、エゴは「手助けくらいはすべき」と言うかもしれない。
しかし、エマーソンは「私は、一切の寄付も断りたい」と述べている。
ドナルド・トランプが個人的にも多額の寄付をするのも、「神が余分に与えてくれた分の一部は還元すべき」と考えているからかもしれないし、エマーソンも言うように、「寄付をした方が面倒でない(エマーソンはそうすることを恥じていると言うが)」からかもしれない。
本当のところは分からないが、エゴによる強迫観念に縛られてのことではない。

稲盛和夫の信念は「無私であればやる。無私でなければやらない」で、これは、『ラーマーヤナ』で、ラーマの宿敵である魔王ラーヴァナが、ラーマに教えたことである。
倒した敵から教えを受ける。
ラーマは、この美しい慣習に従ったのである。
そして、この教えは、心が強い者の心構えである。








願いを叶える心

人間は誰でも、潜在意識の無限の力を持っているので、不可能はなく、どんなことでも出来るはずである。
しかしながら、そのようなことが書かれた本を読み、書いてある通りにやってみると、時としてうまくいったように思う時もあるが、肝心なことがうまくいかない。
それで、「こうだから、あなたはうまくいかない」「うまくいかなかった人も、こうすれば成功する」といった話が目につくが、そんなものをいくら見ても、結果は変わらない。

とはいえ、潜在意識の法則を使うことは、本来、少しも難しくない。
何度も書いたが、私など、子供の時は、潜在意識の法則の本など全く読んでいなかったが、どんな奇跡でも起こせた。
今でも、やれることはやれるが、うまくいかないことも多い。
では、うまくいく時と、うまくいかない時の違いがあるのかというと、ある。
それは、美しいか、美しくないかだ。
あるいは、穢れているか、穢れていないかとも言える。
稀にだが、他の人の、潜在意識の法則で叶えたい願いを、本人から聞くことがある。
そんな時は、だいたいが「無理だな」と思うし、すぐには分からなくても、しばらく様子を見れば分かる。
大抵が、汚い、薄汚れている、醜い、美しくないと感じる。

まあ、自分のことに関しては、見極めが難しいかもしれない。
稲盛和夫さんは、ものごとを始める時、「私心なきか否か」と問い、私心ではないと確信したら実行するという話は、よく知られている。
これは、インドの神話『ラーマーヤナ(ラーマの物語)』で、最後に、ラーマが魔王ラーヴァナを倒した時、美しき伝統に則り、ラーマがラーヴァナに教えを請い、それに応え、ラーヴァナがラーマに言ったことと同じだ。
「私心があるうちはやってはいけない。しかし、私心がなければすぐにやりなさい」

ただ、実際のところ、100パーセント私心がないということは難しい。
私だって、子供の時に起こした奇跡・・・以前見たテレビドラマを放送させるとか、何の知識も手掛かりもなく夜空の星の中から土星を見つけるとか、天体望遠鏡を手に入れるなどは、どれも、私心と言えば私心だ。
しかし、純粋な好奇心から来るもの、叶っても誰にも迷惑をかけないもの、正当なもの・・・そういったものなら、私心であっても叶うように思う。
また、単なる欲望であれば叶わないが、憧れとか、敬うような気持があれば叶うと思う。
例えば、噂に聞く美味しい料理を食べたいと思った時、単に舌を楽しませる目的であれば叶わないが、その料理への憧れや敬いがあれば、あっさりと食べられる状況になる。
私心がないこと、私心と思われても憧れや敬いがあること・・・これを美しい、穢れていないと言うのだと思う。
一方、欲望の私心、憧れも敬いもない動物的欲望・・・こういうのを、醜い、穢れていると言うのである。








人間力とは決断力

人間の「力」を計るバロメーター(本来は気圧計、晴雨計のことだが、現在の状態を示すものという意味)となるのは「決断力」である。
人間にとって、決断ほど重要なものはない。
決断力があれば、必ず成功する。
決断力とは、「断固として決め、それを必ず実行する」力と言って良い。

アニメなどでも、「ああ、このヒロインは力がある」と思わせるのは、彼女が決断する場面である。
『魔法騎士レイアース』で、マジックナイトになることを要請された3人の少女のうち、即座に「マジックナイトになる」と決断したのは獅堂光だった。
また、それから間もなく3人が殺されかけた時、獅堂光は、「約束したんだ。マジックナイトになるって。約束は守らなくちゃ駄目だ」と言って、危機に際しても諦めずに抗った。
『灼眼のシャナ』では、まだ人間の11歳くらいの少女だったシャナが、紅世の輩という怪物に殺されかけた時も、「決めた。私はフレイムヘイズになる」と言って、この絶体絶命のピンチでも決して諦めなかった。

決断力がある者は迷わない。
特に、些細なことであれば即決する。
ところが、飲食店で食事をする時の注文すら、ぐずぐずいつまでも迷っている者がいる。
挙句、店員に「これはどんな料理ですか?」「お薦めは何ですか?」と尋ねる始末だったりする。
そんなの、注文して食べれば分かるし、注文して食べない限り分からない。
決断力がない者は迷う。
迷う者は弱い。
弱い者は、他人の決定に従うことになる。

迷うことと、じっくり考えることは全く違う。
じっくり考える者というのは、決断のための指標や基準があり、その指標や基準による条件が成立すれば「やる」、しなければ「やめる」となる。
だが、迷っている者は、指標や基準がなく、誰かに決めてもらいたがる。

そして、迷うと弱くなる。
迷っている者にはスキがあり、悪霊が憑りつき易いのだ。
常に迷えば、沢山の悪霊がくっついてしまい、もうどうしようもない状態になる。
決断出来る基準を持たなければならない。
たとえば、ある優れた人物は、飲食店で注文する際は、メニューの1番上のものと決めているそうだ。
無論、1番上のものが明らかに不適切であれば2番にすれば良い。
しかし、1番で決定的な不都合がないのに、1番か2番で迷うことは決してない。

迷わない練習をすれば良い。
スーパーでお弁当を買う際、「これが美味しそうだけどあれも良さそう」と迷う人がいるし、いつまでも迷っている人もいる。
こんな時も、「基準は何か?」と考え、それをすぐに決める。
「500円以下」「野菜が多い」などだ。
そして、これは些細な選択なのだから、一番最初に見たものが条件に合っていそうなら、他を見ず、即座にそれに決めるのである。

昔、京セラの社長だった稲盛和夫氏が、ヤシカという会社を買収する時には、非常に迷ったそうだ。
この場合は、京セラの発展はもちろん、ヤシカの従業員にとって、この買収が悪いものにならないかと考えないといけないのだから、迷うのは当然である。
しかし、決断しなければならない。
この時、稲盛和夫氏は、後によく知られるようになった「私心なきか」と考えた。
そして、「私心なし」と分かれば、買収自体には、京セラにとってもヤシカにとってもメリットが大きいことは分かっていたので、即座に決断した。
「私心なきか?」という基準を稲盛和夫氏がどうやって持ったのかは知らないが、インドに伝わる壮大な物語である『ラーマーヤナ』の最後に、こんな話がある。
『ラーマーヤナ』とは、「ラーマの物語」という意味で、ビシュヌ神が転生したラーマという英雄が、魔王ラーバナの軍団と戦う物語である。
最後に勝利を得たラーマだが、美しい伝統に従い、敗れた魔王ラーバナにこうべを垂れ、教えを請うた。
その時、ラーバナがラーマに教えたのが、「私心があるならやってはならない。私心がなければすぐにやりなさい」だったのだ。

決断のための基準がないと、いつまでも決められず迷ったり、決めても早計ということになる。
だが、些細なことであれば、最初は早計に決めても、それで痛い目に遭って経験を積めば、自分の基準(確率などとも言う)を持てるだろう。
ある程度力がつけば、稲盛和夫氏のように、あるいは、ラーマのように、「私心なきか」を基準としても良いだろう。

尚、迷いの人生を送ってきて、沢山の悪霊に憑りつかれて駄目になっているなら、神社でお祓いとか、尊いお守りを持つとか、祝詞を唱えるとかすると良い。
私は最近、『お清めCDブック』という本に付いているCDの、テクノロジーと融合したボーカロイド祝詞が気に入っている。電子版を買っても、CDと同じ内容の音源をダウンロード出来る。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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