ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ラーマーヤナ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

本物の感謝

インドには、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』という2大長編叙事詩・・・つまり、詩で書かれた長編物語が存在し、共に、国内では聖典として尊重されているのだと思う。
ちなみに、『バガヴァッド・ギーター』は、『マハーバーラタ』の6巻に含まれるものである。

このうち、『ラーマーヤナ』は、ラーマと魔王ラーヴァナ(正確には羅刹という鬼神の王)の戦いをメインテーマとした物語で、ラーマーヤナの意味は「ラーマ王行状記」らしいが、もっと簡単に言えば「ラーマの物語」で、私はこっちの言い方が好きだ。
『ラーマーヤナ』が編纂されたのは紀元前3世紀と言われるが、核心部分は紀元前4~5世紀にはあったと言われている。
5千年以上も前の物語にネタバレもないが、ラーマとラーヴァナの戦いの決着がついた時の話が非常に素晴らしい。
美しい伝統に則り、勝者は敗者の教えを敬って受けるのである。
この時、ラーヴァナがラーマに授けた教えは、「何かをしようとした時、私心がなければすぐにやるのが良いが、私心があるうちはやってはならない」というものだ。
稲森和夫の有名な「動機善なりや、私心なかりしか」は、ここから来ているような気がするが、そんな証拠は見たことがない。

「勝った方が負けた方の教えを受ける」といった伝統が重視されれば、愚かな戦いは少なくなると思われるが、おそらく、インドでもそんな伝統は今はないと思う。
この世に戦いはなくならないかもしれないが、せめて戦いの中に、このような規律があれば、戦いの意味も変わってくると思う。

ところで、私が好きな作品(小説、漫画、アニメ)の『俺だけレベルアップな件』で、アニメでは完全に削られたことがある。
水篠旬が、悪魔王バランを倒した後、小説では、旬はバランに「ありがとう」と言うのである。
別にバランは喜びもしなければ、感謝される筋合いもないと思うだろう。
だが、旬は、バランにたどり着くまでの戦いの中でも、ずっと自然に起こる感謝を感じていた。
これが、アニメでは全くなくなっている。
旬は、戦いの相手に対し、自分を強くしてくれたことに感謝の気持ちが溢れてならなかったのだ。
戦いは命がけで、旬の方が死ぬ可能性も十分あったが、だからこそ大きな力を得られたのである。それに対して、感謝しかない。
世の中では、感謝、「ありがとう」の大安売りが横行している。
「ありがとう」を1万回だか10万回だか言ったら良いことが起こるといったことがよく言われている。
また、偉い人がインタビューで、誰かや何かに対し「感謝しかありません」とよく言うが、本当にそう思っているのか怪しいこともある。
だが、上の話を読むと、感謝とは、意図的に行うものではなく、自然に湧き出るものでしかないのだと思う。
ラーマも、敵であったが、教えを授けてくれたラーヴァナに、自然に感謝したのだと思う。

ある成功した経営者が、「あの時、あの人がいじめてくれたおかげで私は強くなった。あの人には本当に感謝している」と言った話を憶えているが、これは嘘ではないのだと思う。
まあ、そんな人(いじめられた相手)に対しては、いつまでも恨みを持つ場合が多いだろう。
そこが、強い者と平凡な者の違いだろう。
そんなことも感じさせる、『俺だけレベルアップな件』の小説の、その部分が省かれたことは残念である。
また、『俺だけレベルアップな件』の小説は、今(2025年5月)のところ、スマートフォンのぴっこまアプリでしか読めないのも残念だ。
ただし、あまり一度に沢山は読めないが無料で読むことが出来る。
漫画もぴっこまアプリで無料で読めるが、個人的に絵柄が好きではない。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラーマーヤナ(上) (レグルス文庫)
(2)俺だけレベルアップな件 ※Amazon dアニメストア for Prime Video

森の声
AIアート1654
「森の声」
Kay

日本人は欧米人レベルに落ちた

この2000年ほどは、日本人に与えられた最も高い指示は「無になれ」で、一般的には「無心になれ」であり、「無私になれ」「無我になれ」といったバリエーションがあるが、どれも同じである。
有名な事業家の稲盛和夫さんが、判断をする際、「私心なきか」を基準にしていたという話が知られていて、これが非常に高度なことのように感じるが、実は、元々日本では、これが当たり前の教えなのである。
で、誰がそう日本人に指示したのかというと、よくは分からないが、それは人間を超えた高度な存在で、神とか善なる宇宙人といったレベルであると思われる。

ただ、上の稲盛和夫さんの「私心なきか」は、インドで誰でも知っている『ラーマーヤナ(ラーマの模範)』という物語の最後で、英雄ラーマが、宿敵である魔王に教わる教えだ。インドの美しい伝統では、戦いで勝った者は負けた者に教えを請わないといけないのである。
稲森さんは、もしかしたら、このインドのお話に学んだのかもしれないが、日本にこそ、この教えはあったのである。
『古事記』で、イザナギ神がイザナミ神と決別し、服や飾りを1つずつ全部取り去り、海に入って身体の汚れを1つずつ落としていくのは、思考という穢れを消していくことを示しており、完全にクリーンになった・・・つまり、無心、無私、無我になった時、両目と鼻から、3柱の貴い神が生まれたのである。

ところが、日本人が駄目になってしまい、「無になれ」の教えが理解出来なくなってしまった。
世界一清らかだった日本人の心が曇り、日本が、特に支配層が、そして、庶民が乱れに乱れてしまった。
そして、今の日本人に対する(神か宇宙人の)教えの第一は「良い人になれ」になってしまった。
これは、ヨーロッパ等で教えられていた、一段低い教えである。
つまり、神による日本人に対する特別視は終わり、他国と同じ扱いになってしまったのである。
有名なファティマでの聖母マリアの出現で、マリアが子供達に教えたことが「良い子でいなさい」だった。
せっかく、世界一の精神大国であった日本が、ヨーロッパに並んでしまったのである。
まあ、ヨーロッパやアメリカはさらに落ちようとしているのだが・・・

それで、これからの世の中、良い人でなければ生きていられなくなる。
自己中心的な人間、それで嫌われる人間はもう駄目である。
これまでは、自分勝手な行動を率先して行う人間がいい思いをしていたが、これからはそんな下種は本当に駄目になるのだ。
神や宇宙人は、日本人は無になることは無理でも、良い人くらいにはなれると思っているのだろうか?
それは疑問だが、それが出来なければ、当たり前の国に落ちてしまった日本は最後である。

お城が見えるバルコニー
AIアート508
「お城が見えるバルコニー」
Kay


とはいえ、あなたは日本人であって欲しいのだ。
つまり、無になって欲しい。
簡単に言えば、思考を消して欲しい。
何度も取り上げるが、矢追純一さんが言ったように、「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」のようにやって欲しい。
頭が悪くない人間などいないのだが、凡人は皆、自分は頭が良いと思っているのである。
駄馬ならぬ駄民に落ちてしまった日本人は、まさに、自分は頭が良いと思って思考を止められないし、教育やマスメディアは日本人に思考を崇拝するようそそのかしている。
だが、深呼吸を忘れなければ日本人でいられ、思考を消していけ、無に進むことが出来る。
無になれば無敵であるが、まだ無敵でないなら、単に深呼吸が足りないだけである。

◆当記事に関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ラーマーヤナ(上) (レグルス文庫)
(2)ワイド版 マンガ日本の古典1-古事記
(3)新装版 ヤオイズム あなたは本当に生きているか
(4)聖母マリアの秘密: 今も続くメジュゴリエでの奇跡
(5)弓と禅

「私は誰か?」の問い方

「私は誰か?」の問い方を改めて説明する。

「私は誰か?」と問うとして、答はあるのかというと、ある。
その答とは、「全知全能の無限の魂」である。
この魂とは、我々の知る観念で、唯一近いものは「神」である。
その神は、一神教で言う神がより近いが、多神教の場合はトップの神である・・・とはいえ、あくまで観念なので、いちいち神の名まで説明しない。

我々人間は、不幸な理由で、自分がそんな無限の魂であることを完全に忘れ、それと共に、全知全能の力のことも忘れてしまった。。
それで、そのことを思い出すために、「私は誰か?」と問うのである。
問い続ければ、魂の反応を得られるだろう。

春爛漫
AIアート43
「春爛漫」
Kay


だが、我々の魂は力を弱められている。
どうやって弱められているのかというと、魂の僕(しもべ)である心をコントロールすることでだ。
心に魂を支配するような力はないが、魂は、心に幻想を作らせ、それを楽しむことを利用された。
つまり、コントロールされた心が、魂を幻想で覆い、魂に、自分は身体や心であると思い込ませたのである。
だが、魂に残された力が、心に「私は誰か?」と問わせることで、心自身を消させ、それにつれ、魂は自己を取り戻すのである。

上のようなことを記憶に置きつつ、なるべく多く「私は誰か?」と自分に問えば、心が消えていくと共に、魂が力を取り戻していき、自分は、身体や心ではなく、全知全能の無限の存在であることを思い出す。
それなれば、神のごとき魂の力を取り戻すのである。

『ラーマーヤナ』の主人公ラーマが自分と思うと良いだろう。
尚、シータはラーマの半身であることから、シータだと見なしても良いのである。
また、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナでもある。








『老子』第7章を一言で言うと「無私であれ」

今回は『老子』第7章である。
非常にシンプルで分かり易い章と思う。
いつも通り、一言でまとめると「無私であれ」である。
シンプルなので、書いてある通りに取れば良い。
聖人は天地の真似をして生きていると書いてある。
この「天地」は、一切のことであり、万物のことであり、つまりは神のことだ。
つまり、聖人とは神のように生きている。
我々も、聖人になるには、神の真似をすれば良い。
そこで、神の真似とはどのようなものであるかといった、実用的でありがたいことを教えてくれている章である。

我々は、悪の宇宙人のマインドコントロール装置によって、自分が身体や心だと思い込まされている。
だが、我々は魂であり、魂は永遠不滅で全知全能の無限者・・・つまり、神なのだ。
だから、我々は神でないフリをやめることと共に、初めは意識的に神のフリをしなくてはならない。
それによって、悪の宇宙人の装置の影響を脱していくことが出来る。

では、神のフリとは何かと言うと「無私」である・・・「私がない」ことだ。
これに関し、老子はよく「自分を後にする」とか「前に出ない」という言い方をする。
一般的に言えば「我を引っ込める」ということで、未熟な人間には難しいこととされる。
しかし、本当は、円熟したように見える人間にも難しい。
だが、実は易しい。
ただ、「私は誰か?」と問えば、我(自我、エゴ)は引っ込み、前に出ず、後ろに下がる。

この『老子』第7章は、『ラーマーヤナ』(インドの壮大な長編叙事詩。タイトルの意味は「ラーマの物語」)全巻にも相当する。
『ラーマーヤナ』では、最後に、ラーマ王は打ち倒した魔王ラーヴァナに教えを乞う。
勝った者が負けた者に教えを乞うのが美しい伝統で、王であるラーマはそれを守らなければならない。
たとえ、相手(倒した相手)が魔王であろうとも。
そして、魔王ラーヴァナは、ラーマに教えを説く。
とてもシンプルな教えだ。
「私心なければすぐに行い、私心がある間はやってはならない」
これは、稲盛和夫が座右の銘としていた教えである。
ラーマは、本当は至高神であるが、それを忘れ、人間として生きてきた。
だが、ラーヴァナに、神のように在る秘法を教わり、神に戻った。
我々も神であり、ラーマであり、シータ(ラーマの妻で絶世の美少女)だ。

「私は誰か?」と問えば、私心はなくなるので、行いは全て正しくなる。
そもそも、行っている者がいないのだ。
それが無私である。
ラマナ・マハルシは、偉大な人物の行いについて、こう言っていたものだ。
「その事業家は大きな事業を成しつつある。しかし、彼は何もしていない」
「財務長官は最大の注意と責任感を持って仕事をしているように見える。しかし、彼は何もしていない」
闇雲に「私は誰か?」と問い続けることは難しい。
しかし、自分が神であることを思い出すという目的で「私は誰か?」と問うのは楽しく易しいことである。








引き寄せの力に選ばれる者

徳川家康か言ったのだと思うが、
「人が天下を選ぶのではない。天下が人を選ぶのだ」
という言葉をよく憶えている。
ところが、『魔法騎士レイアース』というアニメで、クレフという名の導師(精神的指導者という意味だが、魔法力のあるマスターの意味で使われることもある)が、光、海、風(ふう)という名の14歳の3人の少女にこう言う。
「お前達に魔法を授けようとしたが、魔法の方でお前達を選んだ」
これも、家康の言葉と同じような意味だろう。

よく、引き寄せ関係の書籍、動画に、「こうすれば絶対に引き寄せが出来る」みたいなタイトルで注意を引こうとするものがあるが、中身は大抵、期待を裏切る。
引き寄せも、上と同じなのだ。
「人が引き寄せの力を選ぶのではない。引き寄せの力の方が人を選ぶのだ」
こう考えれば、極めてすっきりし、納得出来ると思う。

何ごとも同じと思える。
人が富を選ぶのではなく、富が人を選ぶのである。
人が大統領の地位を選ぶのではなく、大統領の地位が人を選ぶ。
人が栄光を選ぶのではなく、栄光が人を選ぶのである。

そして、これらは全て、引き寄せの力によって得られるのであるから、引き寄せの力に選ばれる人間でなければならない。
結局、重要なことはこれだけになる。
では、どうすれば、引き寄せの力に選ばれるのだろうか?
「神は取り引きに応じない」と言われるように、「これをしたから引き寄せの力に選ばれる」ということはない。
選ばれる条件は、言葉で言えばいろいろだが、どれも同じ意味である。
「器量が大きい」「無私である」「心が強い」
この中で最も誤解され易いのが「心が強い」だが、上の『魔法騎士レイアース』で言われていたことがこれで、誤解され易いと共に、最も分かり易い。
「心が強い」とは、「エゴをねじ伏せる心の強さがある」ことで、そんな人間のことを「器量が大きい」「無私である」と言うのである。
エゴの声は、たとえばこうである。
「誰も見ていなければ、ちょっとくらい悪いことをしてもいいじゃないか」
「みんなこれくらいのことはしている。俺がやっても責めらるようなことじゃない」
「脅しておけば大丈夫だ」
「捕まらなければやってもいいんだ」
こんな声に従うような者に引き寄せは出来ない。
また、こんな声の誘惑に弱いほど、引き寄せの力が弱いとも言える。
『魔法騎士レイアース』で、最も心が強い少女、光の信条はこうであると思われる。
「約束は必ず守る」
彼女はよく言う。
「約束したんだ。約束は守らなくちゃ駄目だ」

エゴにも良いところがあると言う人もいる。
それはどんなところだろう?
多分、「現実的であることも必要」という意味だ。
たとえば、宮沢賢治の『雨にも負けず』のように、

東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

そんなこと、いちいちやっていたら生きていけない。それが現実だ。
・・・とエゴが言ってくれるのである。
光のような若い少女なら、エゴのこんな声すらねじ伏せようとするかもしれない。
だが、「面倒だからしない」「損だからしない」と言うのがエゴである。
心が強い者は、別に、エゴのそんな言葉に従っているのではない。
この場合、心が強い者がエゴをねじ伏せる想いは、「自分の問題は自分で解決しなければならない」である。
すると、エゴは「手助けくらいはすべき」と言うかもしれない。
しかし、エマーソンは「私は、一切の寄付も断りたい」と述べている。
ドナルド・トランプが個人的にも多額の寄付をするのも、「神が余分に与えてくれた分の一部は還元すべき」と考えているからかもしれないし、エマーソンも言うように、「寄付をした方が面倒でない(エマーソンはそうすることを恥じていると言うが)」からかもしれない。
本当のところは分からないが、エゴによる強迫観念に縛られてのことではない。

稲盛和夫の信念は「無私であればやる。無私でなければやらない」で、これは、『ラーマーヤナ』で、ラーマの宿敵である魔王ラーヴァナが、ラーマに教えたことである。
倒した敵から教えを受ける。
ラーマは、この美しい慣習に従ったのである。
そして、この教えは、心が強い者の心構えである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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