ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ラマナ・マハルシ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

働かなくてもいい人

ラマナ・マハルシは、「世界平和のために、あなたが出来ることは何ですか?」と質問された時、即座に「真我の実現」と答えた。
真我の実現とは、悟りを開くことと同じで、言葉で表現することは難しいし、非常に多様な言い方が出来てしまうが、単純に言えば、自我が魂に逆らわない状態になることと思う。
上記の応答の意味は、マハルシ個人のことではなく、人間が世界平和に貢献するために唯一出来ることが真我の実現であるという意味だ。
もちろん、世界中には現実的手段で世界平和に貢献する大勢の人々・・・政治家、事業家、医者、科学者、教育家、軍人、作家、技術者、配送者、その他あらゆる活動をする人々がいる。
ラマナ・マハルシは、こういった世間的活動には従事しなかったが、真我を実現した人にも、こういった活動をする人はいるし、むしろ、それが一般的だと思う。そして、真我を実現した人の活動は非常に効果的である場合が多い。
だが、真我を実現した人は、現実でいかに大きな成果を上げているように見えても、本人は何もしたとは思っていない。
つまり、何もしていないのと同じなのである。
このことを、マハルシはこう言っている。
「ある事業家は大きな事業を成し遂げつつある。しかし、彼は何もしていない。国の財務長官は最大の責任感を持って仕事をしている。しかし、彼は何もしていない」
真我を実現していようがいまいが、やる運命になっていることはやることになる。
ただ、真我を実現した人とそうでない人との違いは、真我を実現していない人は、自分がそれをやっていると思っているが、真我を実現している人は、自分は何もしていないことを知っていることだ。

真我を実現するには、学校でいろいろなことをしたり、仕事に熱心に打ち込んでいろいろな経験をしながら修行を行うことが効率が高い。
とはいえ、必ずしも一般的な社会活動が必要とは限らない。
マハルシは、学校ではスポーツに打ち込んだりしていたが、16歳でほとんど真我を実現してしまった。これは、一部で言われるような、前世での修行の成果とか素質といったことではなく、そういう運命であっただけだ。
我々も、何かをする運命から逃れることは出来ないが、たゆまず修行を行えば運命を超えることもあると思う。
修行と言っても、宗教的な苦行や荒行みたいものは必要ない(したければすれば良いが)。単に、真我を実現するための修行であればよく、それは実は何でも良い。
座禅を組みたければ組めば良いし、念仏を唱えたければ唱えれば良い。
キーワードはただ1つで、それは、
「死ぬまでやる」
であるが、「やりながら死ねる」でも良いと思う。

真我の実現レベルが上がると、RPGゲームでレベルやスキルが上がるのと同じで、人生が楽になる。おそらくは、セレンディピティが起こり、引き寄せがうまくなったように見える。
しかし、真の目的はあくまで真我の実現であり、成功の快楽で自我が強くなると、真我の実現から遠ざかり、現実の方も不幸になっていく。
ある程度、真我の実現に近付くと、人からは不幸に見えていても、本人は幸福である。まあ、普通は、真我の実現に近付けば、外的にもそれなりに恵まれ、途方もなく成功する場合もあるが、それも単に運命による。
いずれにしろ、真我を実現してしまえば、どちらでも良いことである。

RPGゲームでは、敵を倒したり、クエスト(課題)をこなすとレベルが上がる。
現実というゲームも同じで、勉強、スポーツ、仕事、恋愛などを真剣に行うことで真我実現に近付く・・・つまり、真我実現レベルが上がる。
特に、様々な不幸に遭った時(たとえば病気になる)、それにうまく対応するとレベルが大きく上がる。
だが、効率は悪いながら、ゲームで地味なレベルアップ作業を行うように、現実で地味に修行をすると、やはりレベルが上がる。
効率が悪くても、常に行えば、大きな成果になる。
勉強や仕事が、かえってレベルを落とすこともあることを考えれば、修行は着実な方法だ。
そんな修行の中で、今今メソッド(今この瞬間に集中する)は効果が高いと思う。
私は、現実では人並よりは多くのことをやってきたと思うが、それと比べても今今メソッドの効果は高いと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
(2)ラマナ・マハルシの教え(ラマナ・マハルシ。山尾三省)
(3)さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(エックハルト・トール)
(4)パワーかフォースか(デヴィッド・R・ホーキンズ )
(5)<わたし> (デヴィッド・R・ホーキンズ)
(6)セレンディピティ~思いがけない発見・発明のドラマ~(ロイストン・M・ロバーツ)
(7)左脳さん、右脳さん。(ネドじゅん)

レプティリアン
AIアート972
「レプティリアン」
Kay

「私は誰か?」の本当の意味

ラマナ・マハルシが教えた「私は誰か?」と問うことは、実際にはあまり行われていないように思う。
その理由は、「なぜ、これを行うのか?」が全く分からないからで、これは非常に問題だ。
マハルシが、「私は誰か?」と問う意味について語った内容の翻訳もあるが、どれも抽象的過ぎてほとんど分からない。
では、マハルシに代わって、分かっている人が分かり易く説明すれば良さそうなものだが、それがないということは、分かっている人がいないということだろう。
「意味など分からなくても、マハルシが言うことだからやればいいのだ」と言うのは、宗教であれば、それで良いのかもしれない。
しかし、マハルシの教えは宗教ではない。

確かに、マハルシが、
「『私は誰か?』は、あらゆる想いを消し、最後には『私は誰か?』という想いすら消す」
と語った日本語の文章もあるが、実際に、その効果を感じた人はほぼいないと思われる。
そして、ただ「私は誰か?」と唱えるだけでは駄目だとマハルシが語ったこともある。
では、どう唱えれば良いのかというと、その説明は、やはりひどく抽象的だったり、行うことが難しいものだったと思う。

いずれにしても、もっと現代的に、そして、まずは誰でも簡単に分かるように言わないと、それを人々が実践することはまずない。
簡単で分かり易くあってさえ、ほとんどの人はやらないのだ。
ましてや、抽象的で掴みどころのないメソッドなど、ないも同じである。

そこで、私なりの説明をする。
「私は誰か?」は、記憶を消すメソッドだ。
決して笑い話ではなく、「私は誰?ここはどこ?」というのは、記憶喪失に陥った状態を端的に示した言葉だ。
そして、「私は誰か?」と、まるで記憶喪失の人間のように問えば、実際に記憶が消えていくのだと思う。
聖者というのは、その気になれば記憶を蘇らせることは出来るし、必要な記憶なら自動的に蘇るが、頭の中に記憶はない。
人間が魂の力を発揮出来ない原因は記憶である。
記憶がなければ、固定観念も偏見も洗脳もない。
そんな聖者の状態に近付けるマントラが「私は誰か?」である。
これが分かると、「私は誰か?」と問い易くなるし、問う意欲も出るのである。
あなたも、嫌な記憶は消したいだろう?
そして、良いと思える記憶だって、実は、それと共に悪い記憶がくっついているのである。
そこで、良い記憶も悪い記憶も消し去ってしまえば、心は軽く、清々しい気分になる。
必要な記憶は、頭になくても、どこかにあって、必要であれば出てくる。
だから困らない。
それに、頭の記憶は、ほとんどが変質している。つまり、嘘の記憶である。
だが、頭以外の記憶は正しい。
従って、頭の記憶を消せば、事実に基づいて生きられるのである。

こういったことが分かれば、「私は誰か?」は最高のメソッドであることが分かるのである。

耐える
AIアート816
「耐える」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省翻訳)
(2)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻(福間巖翻訳)
(3)左脳さん、右脳さん。(ネドじゅん)
(4)ダイアネティックス(L.ロン.ハバード)

最も優れた修行

インドの聖者ラマナ・マハルシが「私は誰か?」という問いを提示したことは、精神世界に関心がある人にはよく知られている。
だがこれは、答を得るために問うのではないと言って良いと思う。
これは、一種の精神集中の訓練と言えるのではないかと思う。
つまり、「私は誰か?」と問えば、他の思考は起こらないので、「私は誰か?」以外の思考を消すことが出来るのである。
そして、しまいには「私は誰か?」という思考自体も消えてしまい、完全に思考が消える。
思考が消えれば・・・無になれば真の自己である真我になるが、真我とは神である。

とはいえ、この修行は成果を上げ難いと思う。
面白くないし、修行の意味が分からない。
マハルシを含め、修行の意味をちゃんと説明した人はいなかったと思う。いたとしても、その説明は曖昧ですっきりせず、修行に熱が入り難いと思う。

「私は誰か?」という問いは、その答を求めるためのものではないと書いたが、答はあると言う。
しかし、その答を教えない。
まあ、答は真我なのだろうが、その真我が何か分からない。
確かに、真我とは何かを言葉で説明することは難しいし、言ってみれば、真我とは神でありキリスト(イエスという人間のことではない)、あるいはブッダ(釈迦や各如来のことではない)である。

少なくとも、「私は誰か?」と問うことは、普通の人には有益な修行になり難い。
答をさっさと教え、もっと有意義な修行をした方が良いかもしれない。
「私は誰か?」の答は、神であるが、神とは「存在の自覚」である。
「存在の自覚」とは、「私は在る」という感じである。
改めて意識を自分の存在に向けると、「私は在る(存在している)」と分かると思う。
その感じが神であり、真我である。
そして、「存在の自覚」を感じることが、「私は誰か?」と問うよりずっと良い修行であると思える。

よこしまな気がしないわけではないが、「存在の自覚」を感じれば、引き寄せの力が恐ろしいほど大きくなるのだから楽しみもある。
よこしま・・・と言ったが、修行には方便も必要である。
方便とは「嘘も方便」で誤解されるような嘘ではなく、あくまで「人を導く手段」のことである。

ちょっと、宮本武蔵の話をする。
彼が本当の剣豪であったかどうかは疑問らしいが、喧嘩に滅法強かったのも確かで、生涯無敗であったという。
勝てる相手としか戦わなかったのだと言われることもあるが、それでも百戦百勝は厳しいことである。
吉川英治の『宮本武蔵』では、武蔵は、吉岡道場相手の決闘をしたことになっている。
まず、道場当主の吉岡兄と決闘し、吉岡兄の肩を木刀で一撃で砕き勝利。続いて、兄以上の実力者である吉岡弟と決闘し、木刀で撲殺。その後、吉岡道場全員との決闘となり、奇策と実力で快勝。
これらは、吉川英治の創作で、実際は、吉岡兄弟は元気で長生きしたそうだ。

ところで、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』でも、武蔵は、吉岡兄と試合をしている。
ところが、吉岡兄は、ある時期から全然稽古をしなくなり、当主ではあっても、道場は弟にまかせ、他流試合の挑戦者との決闘も弟の役目になっていた。
だが、武蔵が決闘を申し込んできたら、吉岡兄は自分が戦うと言いだした。
兄は弟に「お前では武蔵に勝てない」と言う。
子供の時は、弟は兄に全く敵わなかったが、今や自分の方が兄よりはるかに上と信じている弟は面白くない。
そもそも、兄は全く稽古をしていない。
弟が「自分に勝てない武蔵であるなら、兄ならなおさら」と思うのも当然であった。
ところが、兄が夜中に一人でどこかに行くのに気付いた弟は、夜中に兄をつけてみると、兄は夜の野原でじっと座っていた。
弟は兄に近付き、兄に「兄者を今斬ってよいか」と尋ねると、兄は「よい」と言う。
そこで、弟は刀を抜き、兄を斬る気で進もうとするが、弟は身動き出来ず、脂汗が流れるだけであった。
兄は弟に、剣の腕ではお前の方が勝っているが、気では自分が勝っていること、そして、自分が野原に座っているのは気を鍛えるためであること、その気とは何かを説明したが、その説明が抽象的なのは、兄も理屈では分かっていないからだと思う。

吉岡兄は、本人は分かっていなかったのだろうが、結果として、野原で「存在の自覚」を感じ続けたのだと思う。
それ以外に考えられない。
だが、今もだが、当時のように、武道の修行に価値があった時代でも、真理が明確でなく、修行の仕方に無駄があることも多かったが、良い修行では、「存在の自覚」を感じることを程度の違いはあっても行っていたのだ。
無論、この修行は、剣や、あるいは、武道、武術に限らず、あらゆることに万能である。
ならば、我々も取り組まずにはいられないと思う。

私はここにいる
AIアート781
「私はここにいる」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)真説 宮本武蔵(司馬遼太郎)
(2)五輪書(宮本武蔵)
(3)ラマナ・マハルシの教え
(4)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(5)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話

最強のマントラ

今回は超高級マントラの話で、使えない人も多いとは思う。
効果は、普通の概念での効果とはまるで異なる。
というのは、効果を生むその根本に作用するからで、ごく簡単に言えば神になるものといった感じだ。
あるいは、この世界がコンピューターが作るVR(仮想世界)だとしたら、そのメインコンピューターを操るようなものだ。

ラマナ・マハルシが、ある時、最高のマントラは「私」だと言い、2番は「オーム」だと言ったという話がある。
ただ、これは相手に合わせて言った話で、彼が最も重要視していた言葉は「私は誰か?」だ。
ところが、これは彼が使ったタミール語の「ナン・ヤー」を「私は誰か?」と訳したのだろうが、ラメッシ・バルセカールは「私とは何か?」に近いと言ったらしい。
だが、詩人の『ラマナ・マハルシの教え』の翻訳者である山尾三省氏に、漁師の人が送ってくれた詩の中では、「私とは・・・?」という言葉で表現されていた。
(その詩は『ラマナ・マハルシの教え』の「あとがき」に収録)
これが全く適確で、これが使われなかったのは残念であると私は思う。
よって、最上のマントラの1つは「私とは?」である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、現代に復活したイエス・キリストが最上の言葉と言ったのは「神」である。
昔はそうではなかったかもしれないが、現代では、一般の日本人が使う「神」と英語のGODに、ほぼ差異はないと思う。
ただ、 『ヒマラヤ聖者の生活探求』の信憑性や価値は、著者のベアード.T.スポールディングさえ、「自分で決めて」と言うくらいのものである。
だが、私は「神」というマントラ・・・と言って良ければ、本当に最上のマントラであることは、昔は直観で分かり、今では個人的には検証も出来たと思う。
そこで、もう1つの最上のマントラは「神」である。

ところで、マハルシもイエスも、これらのマントラを「呪文のように繰り返すな」と同じことを言っている。
唱えるのは「1度だけでいい」と言っているのだが、これには困惑するだろう。
まさか、一生に一度唱えればいいというのではあるまい。
だが、これも解明出来た。
それは、このマントラが、鐘やりん(「おりん」とも。漢字では「鈴」。チーンと鳴らす仏具)のようなものであるということだ。
鐘やりんを、まだ音が響いているのに続けて鳴らす人はおるまい。
それと同じで「神」「私とは?」と唱えると、意識の中で言葉が響くのである。
それが響いている間は、もう唱える必要はない。
どのくらいの長さ響くのかというと、それは人それぞれで、数十秒とか数分の場合もあれば、数日とか、もっと長い場合もあるだろう。
このマントラが響く様を現す良い言葉は「余韻嫋嫋(よいんじょうじょう)」だ。
この言葉の意味は、次の通りだ。

音が鳴りやんでも、なお、かすかに残る響き。また、その音が細く長く続く様子。詩や文章の言外の趣や、事が終わったあとの情緒あふれる風情にもたとえる。「嫋嫋」は音声の細く長く続くさま。

つまり、「神」あるいは「私とは?」と唱えて、その余韻嫋嫋を感じることが最上のマントラなのである。

UFO
AIアート702
「UFO」
Kay


余談だが、私は余韻嫋嫋という言葉には、人生で2度しか出会ったことがない。
1つは、とくPさんによる初音ミクさんの楽曲『SPiCa』の中で。
もう1つは、笹沢佐保さんの小説『帰って来た木枯し紋次郎』シリーズ(『木枯し紋次郎』シリーズの続編)のどれかの中で、お寺の鐘の音を、そう表現していたと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省翻訳)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第5巻(ベアード.T.スポールディング)
(3)SPiCa (とくP feat. 初音ミク)※MP3
(4)MIKUNOPOLIS in LOS ANGELES “はじめまして、初音ミクです” [Blu-ray]
(5)帰って来た木枯し紋次郎(笹沢佐保)

彼女にしようとするな。既に彼女であると知れ

江戸末期の神道家、黒住宗忠は「天照大神にまるごと任せれば嬉しいことばかりになる」と言い、親鸞は「阿弥陀如来に全て任せれば悪いことは消え、いいことばかりになる」と言った。
もちろん、天照大神と阿弥陀如来は、宗教的には違っても、異なるものではなく、今日流に言えば広義(広い意味)では潜在意識のことである。
インドの聖者ラマナ・マハルシも同じことを言っている。
「神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろう」
この神も、やはり潜在意識のことである。
荘子は、全く同じことを非常に簡潔に言った。
「いっさいをなりゆきにまかせよ」

このことは、たとえて言えばこんなものだ。
私がある映画で見たものだ。
まだ若い金持ちの紳士が高級レストランに入る。
紳士の目つきや立ち居振る舞いは、特に上品ぶっているわけではないが尊ぶべき人であることを現しており、スタッフは特に丁重に対応する。
普通、金持ちは、オーダーの際、細かい注文を付ける。
ところが、注文を聞かれた紳士は、ごく大雑把な注文の後こう言う。
「まかせるよ」
スタッフは、うやうやしく頷いて下がる。
紳士はスタッフにまかせたというより、状況にまかせた・・・つまり、なりゆきにまかせたのだ。
私は、実際に、そんなものを見たことがある。
政木和三さんとレストランに昼食に行った時のことだ。
そこは、政木さんが度々昼食を取るレストランだった。
政木さんは私にこう言った。
「私はね、ここで一度もオーダーしたことはないのですよ。黙って座っていれば、ちょうどいいものを作ってきてくれるのです」
実際、身体に良さそうな適度な量の美味しい昼食が出てきたのだった。
※その映画のような話が『マスターの教え』の中にもある。

この政木さんのようにやれば良いのである。
いちいち何かを願わなくても、潜在意識は、ちょうど良いものを与えてくれるのである。
何かを望めば、もう叶っているのであり、それをいちいち「これを下さい」と言わなくても良いのである。

放恣の空
AIアート666
「放恣の空」
Kay


まあ、ここまでは、言う人はいくらかいる。
だが、ここで大問題だと思ってしまうのは、「どうすれば潜在意識にまかせることが出来るか」「どうすればなりゆきにまかせられるか」だろう。
これに関し、インドの聖者の教えを変な日本語に訳してしまう人がいる。
「あろうとするな。ありなさい」
無茶苦茶な訳だ(笑)。
もっとマシな訳は、
「あろうとするな。あるのだから」
だ。
まかせることも同じで、
「まかせようとするな。もうまかせているのだから」
になる。
私は思いあたらないが、『マトリックス』で、モーフィアスがネオに、
「速く動こうとするな。速く動けると知れ」
と言ったらしい。
なら、やはり、
「まかせようとするな。まかせていると知れ」
である。
少しレベルを下げればこうだ。
「あの娘を彼女にしようとするな。もう彼女になっていると知れ」

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)いのちの教え―黒住宗忠に学ぶ自然体の生き方
(2)三帖和讃(現代語版)※親鸞の『現世利益和讃』収録
(3)ラマナ・マハルシの教え
(4)奇跡の実現―欲望を捨てれば不可能が可能になる(政木和三)
(5)マスターの教え
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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