ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ラマナ・マハルシ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

沈黙の教え

その人が、本当はどんな人かは、言葉ではなく行動で分かると言われる。
言うことは立派でも、行動が駄目であれば駄目な人だ。
逆に、口は悪くても優れた人もいる。
ラマナ・マハルシは、滅多に話をしなかったという。
ある時、誰かがマハルシに霊的な質問をしたところ、マハルシは答えなかった。
普通なら、質問者は、マハルシに答を催促するか、諦めて引き下がるかのどちらかになるだろう。
しかし、この時は質問者も立派だった。彼はマハルシに、
「今の沈黙を答と受け取って良いですか?」
と尋ね、マハルシは、
「そうだ」
と答えた。

また、ある人がマハルシにこう尋ねた。
「あなたはなぜ講演を行わないのですか?」
これに対しては、マハルシはこう答えたらしい。
「私は毎日、演壇に立って熱弁を振るっている」
これも、マハルシの普段の沈黙のことを述べているのだろう。
沈黙に優る教えはないのである。

『荘子』の中に、こんな話がある。
偉い人である立派な館の主人が本を読んでいるのを見て、庭で仕事をしていた職人がその主人に、
「先生は何を読んでおられるのですか?」
と尋ねると、主人は、
「昔の偉人の教えだよ」
と答えた。
すると職人は、
「すると、それは昔の偉い人の残りかすみたいなものですね」
と言い、それによって主人は激怒し、職人に申し開きを要求する。
しかし職人は平気で、
「私どもの職人の技だって、言葉で教えられることはほんの僅かで、かすみたいなものですから」
と答える。

偉い人の教えも行動で分かる。
それも、とりとめのない行動に現れることも多い。
ラマナ・マハルシの教えは、沢山の分厚い本に書かれているが、それもマハルシの残りかすかもしれない。
しかし、マハルシの、こんな行いが書かれている。
マハルシは木の枝を拾い、小刀で杖を作り始めた。
長時間、熱心に作り続けた杖の出来栄えが見事だったので、皆驚いた。
すると、マハルシは、向こうからやって来た羊飼いの少年に、その杖をすっと渡し、少年は何気なく受け取って歩いて行った。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻(ナチュラルスピリット)
(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)大菩薩峠(全41巻)、法然行伝、他(中里介山)

春風と太陽
AIアート1674
「春風と太陽」
Kay

神になるシンプルな方法 ※自信作

意識を「高い方」に切り替えることが出来れば、後は何もする必要はない。
それは簡単に出来ることなのだが、どんな簡単なことも、やり方を知らなければ出来ない。
やり方というのは、教えてもらうか、自分で偶然に発見することで自分のものに出来る。
意識の切り替え方というのは、言葉で表現し難いので、教えてもらうことは難しい。
最近売れているらしい『タフティ・ザ・プリーステス』という本では、そのやり方を、たらたらと余計な文言をつけまくって、長々と、読者を混乱させて喜んでいるとしか思えない書き方で述べている。だいたい、タフティなんて、変なオバサン(本では巫女と言っている)を登場させる意味なんてないだろうに。
とはいえ、シンプルに書いたはずの『荘子』でも、やっぱり出来るようになる人は少ないのだ。
ヴァーノン・ハワードだって、そのことを言おうとして、完全に失敗しているとしか思えない。

私が、自分に分かるように言えば「自分は今、何をしているかに気付く」だけなのだが、これで分かるだろうか?
荘子は、「視線を自然にして、何の判断もせずに見る」と言い、十分な言い方だと思うが、ほとんどの人がその通りに出来ない。

私は、それは訓練で出来るようになると気付いた。
その訓練とは、何でもいいから、1つのものをぼんやりと見続けることだ。
何でもいいが、嫌悪感も特別な好感も感じないものが良い。
たとえば、コップとか、ハサミとか。
時計のように、変化するものは使わない方が良いと思う。
私の場合は、4歳くらいの時、ドアノブを見ていた。
そんなものを、ぼんやり見ていたら、意識が切り替わる瞬間が必ず来る。
ずっとやっていたら、それ(意識が切り替わること)がよく分かるようになるので、その感覚を憶えれば良いのである。

意識がずっと高い方にいる人のやることを想うのも効果的だ。
たとえば、こんな話だ。
ある時、ラマナ・マハルシは、木の棒をナイフで削り始めた。
陽が明るい時に始め、マハルシは何時間も休まずそれを続け、夕暮れが迫る頃に杖が完成したが、出来栄えが見事だったので皆驚いた。
その時、向こうから羊飼いの少年が羊を連れて来たが、マハルシはその杖を何気ない様子で少年に手渡し、少年はそれを持って行った。
マハルシは、いつも高い意識で全てを見ているのだろう。

笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』にも、良い話がある。
紋次郎は、天才的な鍛冶師が、早朝から仕事をしているのを、離れたところから見ていた。
一世一代の名刀が出来ようとしていた。
紋次郎は、鞘の中の刀が折れていたが、そんな名刀、紋次郎が買えるはずがないし、その鍛冶師は紋次郎に「あなたには売りませんよ」と言っていた。
日が沈む頃、遂に名刀は完成した。
その間、紋次郎はずっと動かずに見ていた。
鍛冶師は紋次郎のところに行き、紋次郎の刀を受け取ると、折れた紋次郎の刀を柄から外し、完成したばかりの刀を取り付け、無言で紋次郎に渡す。
「お代はいりませんよ」
紋次郎は、ずっと高い意識で見ていたのだ。

さあ、これでやり方が分かっただろう。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)木枯し紋次郎(二)~女人講の闇を裂く~(笹沢佐保)
(2)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
(3)新釈 荘子 (PHP文庫)

死者の瞳
AIアート1589
「死者の瞳」
Kay

これだけで願いが叶う

私が一貫して述べてきたのは「無になれば不可能はない」で、もっと一般的に言えば「思考しなければ全て叶う」だ。
だが、方法論に関しては、人によって性質が違うので、どうしても多様になる。
まあ、別に方法などなくても、単に意思の力で思考を止めれば良いだけで、難しいと感じるかもしれないが、1秒なら出来るだろうし、その1秒の積み重ねが大きな報いをもたらす。

それでも、昔から、効率の良い方法が提示されてきた。
ラマナ・マハルシが提唱した「私は誰か?」と問うことは、「真我の実現のため」と言うが、これも実際には思考を消す方法だ。
だが、マハルシがタミール語で言った「ナン・ヤー」が、一般に「私は誰か?(Who am I?)」と訳されているが、ニサルガダッタ・マハラジの弟子ラメッシ・バルセカールによれば、これは「私とは何か?」と訳す方が正しいと言う。
また、インドに移住したこともあり、マハルシを崇拝していた詩人の山尾三省氏は、「ナン・ヤー」を「私とは?」としていたが、私はこれが一番適切と思うし、唱えていても抵抗を感じない。

私が宇宙人から聞いたことによれば、思考を消すには「私」と唱えるのが最も効果的だが、マハルシもそれを勧めることがあったらしい。
これを引き寄せの方法と言うのもためらいはあるが、実際、「私」とよく唱えていた時は、その時期「こうなればいいな」と思っていたことが、その通りになっているし、そのこと(私と唱えること)を忘れていた時は、叶わないことが多かった。
マハルシは、「私」は最も優れたマントラであると言う。
「私」は、マハルシが使ったタミール語で「ナン」で、インドの公用語であるヒンディー語では「メイン」、古代のサンスクリット語では「コー」のようだが、その国の言葉の「私」で良いと思う。
ところで、日本では「私」の表現が多様で、普通にも「我(吾)」「俺」「僕」「わし」と言うし、昔の偉い人は「余」とか言っていたし、「あ」「あれ」「拙者」「某(それがし)」という言い方もある。むしろ「私」は歴史が短いかもしれず、実際、よく考えれば、自分のことを「私」と言うのはやや堅苦しいかもしれない。
いずれでも、自分が最も好ましく感じるように言えば良い。

アメリカ人はアメリカ国家『星条旗よ永遠なれ』が聴こえると、無意識に胸に手を当てるらしいが、あれも思考を消す優れた方法である。
そして、面白いことに「私は」と言う時、無意識に胸に手を当てたり、人差し指、あるいは、親指で自分の胸を指すことがよくある。
ラマナ・マハルシが言うには、胸の中央から指2本分右が魂の座で、そこが肉体的に「私」の位置である。
よって、そこを手を当てるなどで意識しながら「私」と唱えると、もう思考することは不可能である。つまり、それで神であり全能である。
左手を使う方が自然であるように思う。
「私と唱える」「胸に手を当てる」で超越状態となり、両方同時にやればさらに強力というわけである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(ラマナ・マハルシ口述。山尾三省訳)
(2)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
(3)「潜在意識」を変えれば、すべてうまくいく(アレクサンダー・ロイド)
(4)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~

バランス
AIアート1502
「バランス」
Kay

引くべきところは引く

願いが叶うかというと、本当の願い・・・魂から来た願いであれば叶うのではないかと思う。
しかし、大抵の願いは洗脳から来るものだ。
洗脳から来る願いとは言っても、なかなか激しい場合もある。
絶対、アイドルになりたいとか、プロサッカー選手になりたいとか、なれる可能性などゼロに等しいとしても、なぜか熱狂する。
だが、全ての願いの元は、単にチヤホヤされたいだけなのだ。
そして、イエスは、「お前達は髪の毛1本、白くも黒くも出来ない」と言った。
ラマナ・マハルシは、「働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない。働く運命にあれば、仕事は避けられない」と言った。
人には何の力もないと言っているようだ。

それなら、引き寄せの法則は何なのだと言う人がいるかもしれない。
どんな願いも叶うのではないかと。
しかし、引き寄せの法則が胡散臭く思われるのは、単にチヤホヤされたいための願いでも叶うように思わせるからだ。
そこで、ニーチェやイェイツの思想が注目される。
本当の願いは現状であるということだ。
今のこの状況は自分が願ったことであるということだ。
安月給で、カボチャババアの妻と出来の悪い子供と家のローンを抱えて鬱々と生きることが自分の願いだったとは、なかなか思いたくはないだろうが、それが真実かもしれない。

ジョージ・ワシントンは、偉い金持ちになってチヤホヤされることが願いで、その願いは非常に強かった。
軍人になったのもそのためで、司令官の地位に就くことも出来た。だが、それは、あくまでチヤホヤされるためだった。
だが、ある時目覚め、アメリカの独立が願いになり、以前とは違う想いで軍の仕事をし、政治家にもなった。

よく、「自分の夢は何かを真剣に考えろ」と言われるが、考えて分かるようなことではない。
好きなことを毎日やっていれば、自然に本当の夢に導かれる。
しかし、好きなことが何か分からない人が多い・・・というか、それが圧倒的かもしれない。
好きなことなら毎日やれると言うが、逆に、毎日やれることが好きなことだ。やれと言われたわけでもないこと、あるいは、やるなと言われたことでも、毎日やってしまうことだ。別に、毎日興奮しながらやるわけではなく、落胆することもあるが、1年365日、ついついやってしまうことだ。
それで芽が出ないとすれば、何か余計なことを考えているのだろう。

我々に希望を与えてくれる言葉はスーフィーの次のものかもしれない。
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
ラクダとは心のことで、心をさ迷わせるな、あるいは、心を暴れさせるなという意味だろう。
早い話が、「泣き言を言うな」「文句を言うな」ということだ。
普通の人は、泣き言や文句を実現させるのだ。
ある賢い親は、子供にたった1つのことを命じた。
「文句を言うな」
だが、心の願い、自我の願いが軽視されるわけではない。
アイドル、サッカー選手、大いに結構である。
だが、イエスが言ったように、
「私の想いではなく、あなた(神)の想いが実現しますように」
を忘れなければ。
真の自分である神、あるいは、魂の想いが実現してこそ、自我である自分も満足する。
それを妨げるものは、自我の想いを魂の想いより上に置くことである。
あくまで、神、魂が上であることを忘れなければ、自我、心の想いも、ある程度実現するものである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
(2)誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる(チン・ニンチュウ)
(3)新約聖書(日本聖書協会)
(4)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省翻訳)

花の意識
AIアート1422
「花の意識」
Kay

フォース(力)の使い方

私が昔読んだ、聖徳太子が登場する山岸凉子さんの漫画『日出処の天子』で、厩戸皇子(聖徳太子)が、自分の超能力のようなものに対し、「こんなことはやろうと思えば誰にでも出来る。水が高い所から低い所に流れるように当たり前のことだ」といったようなことを言ったのに対し、私は「それはそうだろうね」と同意した。私は自分でかなり(超能力めいたことが)出来たからだ。

要は、皆、やり方を知らないのだ。
このことに関し、ラマナ・マハルシが面白いことを言っていたようだ。
マハルシは、イエスの奇跡の力について、こう言っていたらしい。
「イエスは自分の神通力について気付いていなかった」
つまり、厩戸皇子が言ったように、「極めて当たり前のことなので、気付きもしなかった」のだと思う。

『マトリックス』で、モーフィアスがネオにこう言ったらしい。
「速く動こうとするな。速く動けると知れ」
これも、「水を高い所から低い所に流そうとするな。高い所から低いところに流れると知れ」といったようなことだろう。

『葬送のフリーレン』で、若い魔法使いのユーベルが、自分をはるかに超える実力を持つ魔法使いゼンゼと全く同等の力を持つ複製対をあっさり倒すが、その直後、ユーベルは「みんな、頭を使い過ぎなんだよ」と言う。
ユーベルの攻撃は切ることであるが、ユーベルにとって、ゼンゼは切れて当たり前のもので、言い換えれば、ゼンゼを切れないことを知らないのだ。

最も当たり前のことが究極の真理で、それ(究極の真理)に一致すれば全能になる。
ただ、なかなかそこまでは難しいのが、究極の真理に近いことに一致しても、かなりのことが出来る。
合氣道家の藤平光一さんが、一応の真理としたのが「重みは下にある」で、「重みは下にある」と言えば奇跡を起こすことが出来る。ただし、真理の究極度がさほどでないので、そこそこの奇跡しか起こせないが。

デカルトは、究極の真理を探究し続け、ようやく見つけたと思ったものが、
「疑っている私は存在している」
で、これがどういうわけか「われ思う、ゆえにわれあり」というヘンテコな言葉にされてしまった(笑)。
これなら、むしろ、ルドルフ・シュタイナーが言ったように「われ思う、ゆえにわれなし」「われ思わず、ゆえにわれあり」の方が、よっぽどマシだ。

ニサルガダッタ・マハラジが言う究極の真理は「私は在る」だが、そう思いたい人はそう思うと良いかもしれない。
しかし、私は同意しない。
そもそも、これは、旧約聖書の「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」の誤訳(私は在りて在るものである)を基にしたものと思われるし。
(これが誤訳というのは、確信はあるが私の独断)

各自、究極の真理を発見することだ。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、F.L.RAWSONがたどり着いた究極の真理は、
❝There is nothing but God.❞
だった。
「神の他に何もない」という意味だ。
※翻訳では「神の他に何もない。ただ神だけがある」と訳されている。
ラマナ・マハルシも同じことを述べていたし、『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナ神も、アルジュナにそう教えたと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)日出処の天子(完全版)1(山岸凉子)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第5巻(ベアード T.スポールディング)
(3)ラマナ・マハルシの教え ※『私は誰か?』収録
(4)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(5)葬送のフリーレン ※Amazon Prime Video
(6)氣の威力(藤平光一)

川縁にて
AIアート1421
「川縁にて」
Kay

プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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