ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ラマナ・マハルシ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

引くべきところは引く

願いが叶うかというと、本当の願い・・・魂から来た願いであれば叶うのではないかと思う。
しかし、大抵の願いは洗脳から来るものだ。
洗脳から来る願いとは言っても、なかなか激しい場合もある。
絶対、アイドルになりたいとか、プロサッカー選手になりたいとか、なれる可能性などゼロに等しいとしても、なぜか熱狂する。
だが、全ての願いの元は、単にチヤホヤされたいだけなのだ。
そして、イエスは、「お前達は髪の毛1本、白くも黒くも出来ない」と言った。
ラマナ・マハルシは、「働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない。働く運命にあれば、仕事は避けられない」と言った。
人には何の力もないと言っているようだ。

それなら、引き寄せの法則は何なのだと言う人がいるかもしれない。
どんな願いも叶うのではないかと。
しかし、引き寄せの法則が胡散臭く思われるのは、単にチヤホヤされたいための願いでも叶うように思わせるからだ。
そこで、ニーチェやイェイツの思想が注目される。
本当の願いは現状であるということだ。
今のこの状況は自分が願ったことであるということだ。
安月給で、カボチャババアの妻と出来の悪い子供と家のローンを抱えて鬱々と生きることが自分の願いだったとは、なかなか思いたくはないだろうが、それが真実かもしれない。

ジョージ・ワシントンは、偉い金持ちになってチヤホヤされることが願いで、その願いは非常に強かった。
軍人になったのもそのためで、司令官の地位に就くことも出来た。だが、それは、あくまでチヤホヤされるためだった。
だが、ある時目覚め、アメリカの独立が願いになり、以前とは違う想いで軍の仕事をし、政治家にもなった。

よく、「自分の夢は何かを真剣に考えろ」と言われるが、考えて分かるようなことではない。
好きなことを毎日やっていれば、自然に本当の夢に導かれる。
しかし、好きなことが何か分からない人が多い・・・というか、それが圧倒的かもしれない。
好きなことなら毎日やれると言うが、逆に、毎日やれることが好きなことだ。やれと言われたわけでもないこと、あるいは、やるなと言われたことでも、毎日やってしまうことだ。別に、毎日興奮しながらやるわけではなく、落胆することもあるが、1年365日、ついついやってしまうことだ。
それで芽が出ないとすれば、何か余計なことを考えているのだろう。

我々に希望を与えてくれる言葉はスーフィーの次のものかもしれない。
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
ラクダとは心のことで、心をさ迷わせるな、あるいは、心を暴れさせるなという意味だろう。
早い話が、「泣き言を言うな」「文句を言うな」ということだ。
普通の人は、泣き言や文句を実現させるのだ。
ある賢い親は、子供にたった1つのことを命じた。
「文句を言うな」
だが、心の願い、自我の願いが軽視されるわけではない。
アイドル、サッカー選手、大いに結構である。
だが、イエスが言ったように、
「私の想いではなく、あなた(神)の想いが実現しますように」
を忘れなければ。
真の自分である神、あるいは、魂の想いが実現してこそ、自我である自分も満足する。
それを妨げるものは、自我の想いを魂の想いより上に置くことである。
あくまで、神、魂が上であることを忘れなければ、自我、心の想いも、ある程度実現するものである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
(2)誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる(チン・ニンチュウ)
(3)新約聖書(日本聖書協会)
(4)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省翻訳)

花の意識
AIアート1422
「花の意識」
Kay

フォース(力)の使い方

私が昔読んだ、聖徳太子が登場する山岸凉子さんの漫画『日出処の天子』で、厩戸皇子(聖徳太子)が、自分の超能力のようなものに対し、「こんなことはやろうと思えば誰にでも出来る。水が高い所から低い所に流れるように当たり前のことだ」といったようなことを言ったのに対し、私は「それはそうだろうね」と同意した。私は自分でかなり(超能力めいたことが)出来たからだ。

要は、皆、やり方を知らないのだ。
このことに関し、ラマナ・マハルシが面白いことを言っていたようだ。
マハルシは、イエスの奇跡の力について、こう言っていたらしい。
「イエスは自分の神通力について気付いていなかった」
つまり、厩戸皇子が言ったように、「極めて当たり前のことなので、気付きもしなかった」のだと思う。

『マトリックス』で、モーフィアスがネオにこう言ったらしい。
「速く動こうとするな。速く動けると知れ」
これも、「水を高い所から低い所に流そうとするな。高い所から低いところに流れると知れ」といったようなことだろう。

『葬送のフリーレン』で、若い魔法使いのユーベルが、自分をはるかに超える実力を持つ魔法使いゼンゼと全く同等の力を持つ複製対をあっさり倒すが、その直後、ユーベルは「みんな、頭を使い過ぎなんだよ」と言う。
ユーベルの攻撃は切ることであるが、ユーベルにとって、ゼンゼは切れて当たり前のもので、言い換えれば、ゼンゼを切れないことを知らないのだ。

最も当たり前のことが究極の真理で、それ(究極の真理)に一致すれば全能になる。
ただ、なかなかそこまでは難しいのが、究極の真理に近いことに一致しても、かなりのことが出来る。
合氣道家の藤平光一さんが、一応の真理としたのが「重みは下にある」で、「重みは下にある」と言えば奇跡を起こすことが出来る。ただし、真理の究極度がさほどでないので、そこそこの奇跡しか起こせないが。

デカルトは、究極の真理を探究し続け、ようやく見つけたと思ったものが、
「疑っている私は存在している」
で、これがどういうわけか「われ思う、ゆえにわれあり」というヘンテコな言葉にされてしまった(笑)。
これなら、むしろ、ルドルフ・シュタイナーが言ったように「われ思う、ゆえにわれなし」「われ思わず、ゆえにわれあり」の方が、よっぽどマシだ。

ニサルガダッタ・マハラジが言う究極の真理は「私は在る」だが、そう思いたい人はそう思うと良いかもしれない。
しかし、私は同意しない。
そもそも、これは、旧約聖書の「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」の誤訳(私は在りて在るものである)を基にしたものと思われるし。
(これが誤訳というのは、確信はあるが私の独断)

各自、究極の真理を発見することだ。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、F.L.RAWSONがたどり着いた究極の真理は、
❝There is nothing but God.❞
だった。
「神の他に何もない」という意味だ。
※翻訳では「神の他に何もない。ただ神だけがある」と訳されている。
ラマナ・マハルシも同じことを述べていたし、『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナ神も、アルジュナにそう教えたと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)日出処の天子(完全版)1(山岸凉子)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第5巻(ベアード T.スポールディング)
(3)ラマナ・マハルシの教え ※『私は誰か?』収録
(4)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(5)葬送のフリーレン ※Amazon Prime Video
(6)氣の威力(藤平光一)

川縁にて
AIアート1421
「川縁にて」
Kay

超難しく語られる聖者の教えを超簡単に

近代のインドの聖者ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジの教えは、日本語書籍で見る限り、複雑怪奇で恐ろしく抽象的で、古くなったトーストのように食えないと感じる。
(「古くなったトースト」は、コリン・ウィルソンがルドルフ・シュタイナーの教えを喩えた表現。なかなか適確だ 笑)

だが、2人の教えは、誰もやっていないが、合わせて簡単に言える。
いずれも、究極の真言、
「私はなるようになるだろう」
「私は常に生成する者である」
を唱えることに吸収される。
それは、簡単に説明出来る。

マハルシの教えは、「私は誰か?」と問うこと、あるいは、人生を全て神に明け渡すことだ。どちらでも良いと言う。
「私は誰か?」の答は、「常に生成する者」なので、
「私は常に生成する者である」
と唱えれば良い。
人生を明け渡すことは、最も端的な言葉で言えば、
「私はなるようになるだろう」
であるので、これを唱えれば良い。

ニサルガダッタ・マハラジの教えはバラエティに富んでいるが、実際に彼が悟りを開いた方法は、師に言われた、
「あなたは至高の実在である」
という言葉を忘れなかったことだけで、修行はしなかったと言う。
だが、「至高の実在」というのは、曖昧過ぎるし、適確でもないと思う。
「私は至高の実在である」
を、力を発揮する言葉として言い換えれば、
「私は常に生成する者である」
だ。
マハラジのもう1つの教えは、「私は在る」と唱えよであるが、この「私は在る」は、旧約聖書の『出エジプト記』の神の言葉「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」の誤訳・・・とまでは言わないが、不味い訳である。
これの正しい訳は、
「私はなるようになるだろう」
で、高次な視点で言えば、
「私は常に生成する者である」
だ。どちらも正しいが、視点の違い(人間の視点と神の視点)があるだけだ。

「私はなるようになるだろう」
「私は常に生成する者である」
好きな方、あるいは、両方を唱えれば、いずれは悟りを開けると思うが、それまでにも心が静まり、万能の引き寄せの力は「ついでに」得られるだろう。
英語が好きなら、それぞれ、
I Will Be What I Will Be.
I Am The Ever-Becoming.
でどうぞ。
他のアファーメーションが好きなら、これらを副次的(二次的)に使えば、アファーメーションの威力を増すと思う。

尚、個人的には、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジの教えの根本を、混乱なく理解するには、マハラジの弟子であったラメッシ・バルセカールとの対談集である『誰がかまうもんか?!』をお薦めする。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
(2)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(3)ラマナ・マハルシの教え
(4)ルドルフ・シュタイナー(コリン・ウィルソン)

教会の子
AIアート1385
「教会の子」
Kay

最も簡単な聖なるメソッド

聖なるメソッドは、最上の引き寄せメソッドでもあるという話を今朝の記事でした。
聖なるメソッドと思われるものでも、宗教色が強いものは適切でない場合が多いが、宗教色がない聖なるメソッドも多い。特に、近代の聖者が教えるものには、そのようなものが多い。

ラマナ・マハルシは、瞑想をする時間もないという女性に、常に「私」と心で唱えるよう教えた。
マハルシの本来の教えは「私は誰か?」と問うことであるが、これは難しいメソッドであると思う。
それに比べ、「私」と唱えるだけなら容易い。
そして、マハルシは「私」こそ最高のマントラ(真言)で、ヒンズー教で最も価値の高いマントラと言われる「オーム」は2番なのだと言う。
しかし、それよりも、「私」には、もっと道理に適った意味がある。

実は、「私は誰か?」と問うのも、「私」と唱えるのも原理は同じである。
悟りのための聖なるメソッドも、引き寄せのメソッドも、思考を消すという目的は同じなのである。
思考は、必ず「私」から生まれる。
では、「私」だけを思考するようにすれば、思考は広がっていくことが出来ない。
よって、「私」以外の思考は消える。
「私は誰か?」の方が、鋭く思考を「私」に向けるが、意味不明な問を発し続けることで脳が疲れてしまうかもしれない。
脳が疲れることは悪くはないのだが、それを不快に感じると、メソッドを続けることが出来ないという問題がある。
そこで、やや鋭さは欠けるが、気楽に出来る「私」と唱えることは、普通の人には適していると思われる。

ついでに言えば、「私」と唱えると、「私」以外の思考は消えるが、「私」は残る。
一方、「私は誰か?」は「私」すら消え、悟りを得られる。
しかし、そこまで求めないなら、「私」と唱えるだけで十分である。

「私」と唱えることを実践している人が、その感想を言う動画があったが、わずかな期間実施しただけの人であった。
わずか数日行っただけで何かが起こるという即物的なメソッドではないが、長く続ければ、想像をはるかに超える効果があると思う。
毎日、それなりに実践すれば、自然に幸運に恵まれるようになると思う。
また、意識したことが、自然に引き寄せられるようになるだろう。
とはいえ、効果を期待せず、淡々と行うことが大切である。

※「私」と唱えるメソッドは『あるがままに』(ナチュラルスピリット)にあるが、詳しい説明はないので、このメソッドのために読む必要はないと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)あるがままに ~ラマナ・マハルシの教え~
(2)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
(3)不滅の意識 ~ラマナ・マハルシとの会話~
(4)静寂の瞬間(とき) ~ラマナ・マハルシとともに~

古い記憶
AIアート1240
「古い記憶」
Kay

「私は誰か?」の答

インドの聖者ラマナ・マハルシが「私は誰か?」という問いを提示したことはよく知られている。
これは、各自が「私は誰か?」を見出さねばならないということだ。
では、私は誰だろう?
実は、マハルシ自身が言葉で答えている。
その答は、文章では複雑・抽象的に書かれているが、簡単に言えば、
「身体と心を除いた後に残る覚醒(目覚めた精神)」
である。
目覚めた精神の本質は、「存在、意識、至福」である。

ところで、「私は誰か?」の答を、「想定の法則」で知られる伝説的な引き寄せのマスターであるネヴィル・ゴダードがこう簡単に言っている。
それは「存在の自覚」だ。
彼は、原語で聖書を読んで研究し、その確証を得たのだと思われる。

マハルシの答もゴダードの答も、本質は同じと思う。
どちらも分かり易いとは言えないが、ゴダードの「存在の自覚」の方が分かり易いので、こちらを採用する。

神やイエスに、「あなたは誰ですか?」と尋ねた時、返ってくる答えは、
「私は、<私は在る>だ」
である。
たとえば、あなたが電気ショックを受けて身体が動かず、知覚も働かず、朦朧として思考も働かないが、意識だけはある状態で、心の奥から「おい、居るか」という声があったら、あなたは「居る」と感じるだろう。
それが存在の自覚だ。
そして、聖者やネヴィル・ゴダードが言うところでは、存在の自覚が神である。
『若きウェルテルの悩み』というゲーテの傑作小説があるが、ウェルテルが何を悩んでいたか分からなくても、絶対にこれで悩んでいたのではないと断言出来ることが「私は存在するのだろうか?」だ。
つまり、いかなる状態であろうが、ウェルテルには存在の自覚があるということだ。
その存在の自覚に集中することが、真の自己(「私は誰か?」の答)に集中することで、同時に、神に集中することだ。
「存在の自覚」を感じるほど、余分なものが剥がれて純粋な自己が現れる。
純粋な自己は神なのだから、全知全能である。

「私は在る」と唱えれば、わずかかもしれないが、存在の自覚を感じる。
唱えれば唱えるほど、存在の自覚が分かってくる。
やがて、「私は在る」と唱えなくても、存在の自覚を簡単に感じるようになる。
それを突き詰めれば、悟りに至るのだろうが、なかなかそこまではいかない。しかし、引き寄せのマスターにはなれると思う。
引き寄せマスターは、凡人の意識状態から悟りの意識状態への途中経過にある者だと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省訳)
(2)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(3)アイ・アム・ザット 私は在る~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(4)新約聖書 福音書(塚本虎二)

都市に吹く風
AIアート1226
「都会に吹く風」
Kay

プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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