ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ユング

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

潜在意識の扉を開け、願望を送るには

潜在意識に願望を送り込めば叶うというのが、引き寄せの基本にして全てだ。
ところが、潜在意識に願望を送り込むことは、実際にはなかなか難しい。
その理由は、顕在意識が抵抗することが多いからだ。
たとえば、願望を1憶円としても、「俺にはそんな金はとても無理」と顕在意識が、それを得ることを信じられなかったり、JKの(あるいはもっと若い)彼女が欲しいが、道徳的な抵抗(罪悪感)があったりである。

そこで、うとうとして顕在意識が希薄になった状態の時に願望を送り込んだり、もっと手っ取り早く、催眠術師に頼んで、顕在意識を希薄にすると同時に、願望を潜在意識に送り込んでもらうというのはどうだろう?
あるいは、良心の呵責を持たないサイコパスなら、盗みや詐欺をうまくやることや、JKの彼女を作ることに抵抗がないので、そんな願望を繰り返し潜在意識に送り込めばうまくいくと思うかもしれない。
しかし、いずれもうまくいかない。
顕在意識が希薄になろうが、サイコパスで良心がなかろうが、顕在意識と潜在意識の間に、超自我という検閲官がいるからだ。
超自我とは、絶対的な正義の番人である精神的存在だ。
超自我がなぜ出来たかを説明するのは難しいが、その存在はフロイトが提唱し、ユングも、超自我の存在は認めている。
フロイトは、超自我は、伝統的な道徳観で作られていると言い、ユングは、人類共通の高次元の精神から来ていると考えた。
フロイトが正しいとしても、伝統的な道徳に反する願望は潜在意識に送られないし、ユングが正しければ、高次の正義に反する願いは潜在意識に送られない。
よって、いずれにしても、邪(よこしま)な願望が叶わない(叶い難い)ばかりか、そこそこの願望でも、超自我が「待った」をかけることがよくある。超自我は厳しいのである。

では、超自我の性質を理解し、それを突破するような雰囲気を作ることで、願望を潜在意識に送れば良い。
そのやり方は、なんとなく見当がつくかもしれない。
そうだ。勇壮にやれば良い。
超自我は、ファンファーレが鳴り響くような勇壮な心意気が大好きで、それなら、「検閲合格!」とばかりに、願望を潜在意識に通してしまう。
だから、宗教や自己啓発セミナーで、信者や受講生をハイにすれば、案外に願望は叶うが、そこでは、教団に都合の良い願望や、セミナーの主旨に合った願望しか叶わないようにコントロールされるのである。まあ、ロクな願望ではないだろう(笑)。
だから、宗教団体の会合や、自己啓発セミナーには、決して行ってはならない・・・と言いたい(笑)。
どうすれば、心が勇壮になるかは人それぞれだ。
トランプ大統領の有名な演説には人々を熱狂させる力があるし、音楽でいえば、ウェーバーの『魔弾の射手』の中の『狩人の合唱』を聴けば、非常に心躍るかもしれない。
あるいは、壮大なSFというのは、多くの人の心の振動数を高め、易々と潜在意識への扉を開く力がある。
ただし、単なる興奮や熱狂ではなく、勇壮な・・・勇ましく、美しい目的のために命をかけて挑む姿勢が、ある程度はなくてはならないのである。
超自我は、どこか老雄のようなところがあることは否めない。
ただ、実のところ、真の意味で、最も勇壮な存在は神である。
よって、最近ご紹介している「神実現の呼吸」をやっていれば間違いないように思うが、上のような原理を一応知っておくことは良いことであると思う。
◆神実現の呼吸
(1)呼気と共に「私はこれではない」
(2)吸気と共に「私は誰か?」
(3)呼吸を留め「私は神である」








雨を降らせることが出来れば何でも出来る

昨日に続き、チン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』から、面白いお話を取り上げるが、今回は、一番最初の一番面白いお話だ。
カール・グスタフ・ユングが「奇跡」について語る時、好んで引用した話らしいが、なるほどと思う。
このブログでも、昔から何度も引用したお話で、奇跡の起こし方を端的に説明しているが、今の世界に必要なことだ。
お話としては簡単なものだ。
「5年も続く干ばつに苦しむ村に、有名なレインメーカー(雨乞師)が呼ばれた。雨乞師はテントを張るとそこに4日こもった。すると5日目に雨が降った。何をしたのかと問われたレインメーカーは答えた。私は何もしていない。この村は神の意思に沿っていない。私は4日の間、神の意思に身をまかせた」
ニンチュウは、レインメーカーのような奇跡は誰でも出来ると言う。
要は、神の意思に身をまかせれば良いのだ。

今の世界も日本も、神の意思に沿っていない。ある意味、世界的な干ばつ状態で、日本もまさにそうだろう。
このままでは、皆、死ぬことになる。
だが、レインメーカーのようであれば、その個人は安全だ。そして、そんな人が多くなれば、日本に恵みの雨が降るだろう。
しかし、今のままでは全く駄目だ。

神の意思に沿っていない個人は、身体の具合が悪かったり、お金がなかったりする。
神の意思に沿っていない家庭は、夫婦関係は悪く、子供の健康や精神状態に異常が起こる。

神の意思に沿うとはどういうことかというと、あのレインメーカーがテントの中で4日間、どう過ごしていたか考えれば分かる。
きっと、本当は、レインメーカーは、テントの中にいる必要もなかったと思うが、レインメーカーは、神の意思に沿っていない人々を見たくなかったのだろう。
雨が降らなかったら、レインメーカーは恥をかくでは済まない。それが仕事なのだから、評判を落とし依頼が来なくなる。それは困るのである。
だが、レインメーカーは、それを含め、一切、神にまかせたのだ。
完全にまかせ切った時に雨が降ったのである。
笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯らし紋次郎』で、主人公の流れ者の渡世人(博打打ち)である紋次郎は、さりげなく書かれているが、おそろしく運が良い。
紋次郎の秘訣は「死ぬ時がくれば死ぬまででござんす」と本気で思っていることだ。これが、紋次郎は全く意識していないが、神の意思に沿うことである。
イエス・キリストは、本当は、「アーメン」と言うように教えただけだと思う。
「アーメン」とは、「同意する」といった意味で、要は、神の意思に同意するということだ。
釈迦や、その後継者と言われる龍樹は、つまるところ、念仏を唱えよといったことを教えたのだと思う。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に全部まかせるといった意味だ。
だが、今の仏教やキリスト教の下でそれをやろうとしたら、神や仏の意思からどんどん離れて行ってしまう危険がある。
「大丈夫」とか「なんとかなる」という言葉は、「アーメン」や「南無阿弥陀仏」と同じである。
私は、「なんとかなる」と思いながら何も期待しないでいたら、本当に奇跡が起こり、極めて良い想いをした。
しかし、それに味をしめ(笑)、期待満々で「なんとかなる」と唱えたら、全く駄目というわけではなかったが、残念賞程度のことしかなかった。
つまり、そういうことである。
レインメーカーも、雨が降って称賛されるか、降らずに罵倒されて追い出され、これまで築き上げてきた信用を失くすか、そんなことは忘れ、神にまかせたのである。








相手の心に入り込むには

「魂の声」に従っていれば間違いない。
「魂の声」と同じことを「心の声」と言う者もいて、それでも別に良いのだが、問題もある。つまり、心理学や精神分析学では、心は自我のことを指すが、自我の声に従うことは最悪だ。
具体的に言うと、

・十分食べたのに、もっと食べたいと思った時、「食べろ」と言うのが心(自我)の声、「我慢しろ」と言うのが魂の声。
・教師が生徒を脅して猥褻なことをしたいと思った時、「やっちまえ」と言うのが心(自我)の声、「やってはならない」と言うのが魂の声。
・誰も見ていないので、ズルをしたら得をする時、「構うもんか。やっちゃえ」と言うのが心(自我)の声、「すべきでない」と言うのが魂の声。

だ。
それなら、魂の声とは、実際は何だろう?
「所詮、知識や経験が脳内で熟成されて出来た思考パターン」という考え方があり、これはフロイト的と言え、「魂の声」といったものを、フロイトは「超自我」と名付けた。
一方、「全人類、万物、あるいは、神につながる精神」みたいなものを魂と呼ぶ考え方もあり、こちらはユング的と言える。
もっと簡単に言えば、「魂はない」と言うのがフロイトで、「魂はある」と言うのがユングだと考えて良いと思う。
フロイトもユングも、自分の方が正しいということを、いろんな言い方で主張するが、傾向として、フロイトは権威的で、ユングは神秘的だった。
どっちが正しいとも言えないと思う。

まあ、「魂の声」は間違いがないのだから、超自我だろうが、霊だろうが構わないと言えば構わない。
これをはっきりさせようと思ったら、霊的な意味での魂が存在するかしないかという問題になるが、これは分からないと言うしかない。
短絡的な理屈で、魂はあるとか、魂はないと言う者が多いが、そんな者は思考が浅く、きっとIQも低い。

「世界=漫画」理論で言えば、個々の心は作者の心の一部であり、個々の魂は作者の魂に通じる道だ。
ただ、この世界という漫画の作者は、我々を超えており、その精神構造がどうなっているのかは分からない。
だから、例えば、作者は魂だけの存在かもしれず、作者においては、「心=魂」となるのかもしれない。
そして、我々はいつでも、作者の心につながることが出来、それが魂の声を聞くことだ。

我々だって、漫画や小説を書いていたら、登場人物の心が、作者である自分の心の中に入り込んで来ることを感じる。
それと似たことが、我々と、この世界という漫画(別に小説でも良いが)の作者との関係についても言えるのである。

私は、ある優秀な国際コンサルタントから、交渉のコツとは、相手の心の中に入り込むことであると言われたことがある。
自分の心も、交渉相手の心も、この世界という漫画の作者の心の一部であるのだから、要は、作者の心の中に入り込めば良いのである。
具体的に、どうやれば相手の心に入り込めるのかというと、これを言うのは難しい。
しかし、相手の心に入り込めないようになる方法なら簡単だ。相手を嫌えば良いのである。
つまり、嫌っている限り、相手の心に入り込めず、相手を動かせない。
とはいえ、「好きになったフリ」をしたって全然駄目である。
出来ることと言えば、嫌うのを止めること・・・相手の嫌いな点について考えるのを止めることだ。

幼児が、自分の右手の指を使って家族ごっこをしている。
親指がお父さんで、人差し指がお母さん、中指がお兄さんで、薬指がお姉さん、小指が赤ちゃんだ。
その幼児は、お父さんやお母さん、あるいは、お兄さん、お姉さん、赤ちゃんの役割を切り替えながら一人五役で会話する。
この時、お姉さんがお父さんを嫌うと、お姉さんとお父さんの心に断絶が生まれ、距離が出来たように感じるが、嫌うことをやめると距離が縮まる。
我々がやっていることもこれと同じで、お父さんやお姉さんは、自分が幼児の右手の指だということが分からないのである。








世間の束縛を逃れ自由になる

最近、このブログで書いている「言葉の力」の、まとめの意味もあることを書いておく。
考えを整理して、新たに取り組むと、成果が大きくなると思う。

潜在意識による成功法則で知られるジョセフ・マーフィーの昔の本でよく強調されていたことが「世間に飲み込まれるな」だった。
この「世間」には、2種類あるということが重要だ。

1つは、家庭、親族、友人等親しい人達、学校や勤務先、地域、国家、マスメディアといった、目に見える世界の関係性だ。
家族や親族の人々が、あなたの思想に与える影響は、おそらく最も大きく、学校に通うようになったら、学校の教義や教師の思想に影響され、クラスメイトの考え方に馴染んでいく。
地域独特の思想の影響を受ける場合もあるかもしれない(地域の結束が高い町や村)。
会社勤めをすれば、会社のカラーとでも言える会社独自の思想の影響を受ける。
そして、半世紀以上前から、マスメディア・・・特に、テレビを通し、国家や国家を構成するもの、そして、国家の裏側にあって、国家を操る者達が作った思想が、想像も出来ない強力さで、あなたに叩き込まれる。
もし、宗教団体に所属しているなら、その宗教団体の思想の影響も受けているだろう。
こんなふうに育ち、生きるあなたの精神は、もう、作り物だらけの、わけの分からないガラクタと言えるかもしれない。

もう1つの「世間」は、必ずしも存在が認められているわけではない。
それは、人間が共有する意識である「集合無意識」だ。
ユング派心理学では「習合無意識」は理論とされるが、フロイトは、そんなものはないと否定しており、フロイト派心理学の人達からは「そんなものがあってたまるか」と馬鹿にされることもある。
だが、ユングは、「実際は、フロイトだって、集合無意識の存在を認めていた」と言うが、実際のところは分からない。
ジョセフ・マーフィーは、フロイトをよく引用しながらも、集合無意識は確実にあるという立場である。
人間は、この集合無意識を通して、意識でつながっている。
そうであれば、目で見える世間だけでなく、この目に見えない世間である集合無意識からの影響も受けるのである。
それで、誰もが、「人類的思想」とでもいうものを持っているが、人類全体の集合無意識よりも、同じ国や地方の人々の集合無意識の影響を受け易い(目で見える世間との関係性による)。

問題なのは、あなたは、上の2つの世間、つまり、「目で見える世間」と「目で見えない世間」の両方の影響を受けている・・・もっとはっきり言うと、「操られている」ことである。
その影響は、最悪とまで言えるかどうかは分からないが、それでも、マイナス部分が、あまりに大きいのである。
2つの世間の影響により、「自分には力がない」「自分の思うようには生きられない」「権力者には勝てない」「なりたいものになれない」と考えるようになっていて、しかも、その考え方を強力に強制されているのである。
だから、自分が本来持っている驚異的な力を解放して自由に生きるためには、2つの世間の支配から逃れないといけない。

何もせず、放っておいたら、あなたの頭の中では「私には出来ない」「私は不幸だ」「私は奴隷のようなものだ」といったつぶやきが、1分間に数百回繰り返されているという、科学的研究がある。
だから、あなたは、是が非でも、プラスの言葉を自主的に自分に与えないといけない。
そのやり方がいろいろあり、このブログでは、いろいろなものを述べている。
やり方は1つではないのである。
とはいえ、ほとんどのやり方に効果があるが、特に自分に合ったものを選んでやるのが最上である。
ある人々にとっては、神仏の名を唱える「ナーマスマラナ」と呼ばれる行が最高である。念仏もナーマスマラナに入ると考えられる。
あるいは、神仏の真言、お経、祝詞を唱えると、良い集合無意識にアクセス出来、素晴らしい効果を得られることで、最良の効果を得る人々もいる。
自己暗示やアファーメーションも良い方法だが、より良い方法でやるべきだろう。
人間には「私」という言葉に強いエネルギーの経路があるので、
「私は〇〇だ」
というアファーメーションが特に有効である。
例えば、
「私は裕福だ。私は幸せだ。私は最高の気分だ」
「私は健康だ。私は幸せだ。私は素晴らしい」
「私は豊かだ。私は健やかだ。私は安らかだ」
などである。
また、人類史を通し、「神」という言葉は、いかなる世間でも穢されることはなかったし、これからもない。
だから、「神」という言葉を使うことには、素晴らしい効果がある。
「神に出来ないことはない」
「神様の奇跡が起こる」
「神は道なきところに道を作る」
「神が味方であるなら、誰が私に敵対出来ようか」
などの言葉がある。

ここで、最上と思える言葉を上げると、
「私は在る」
「神の他に何もない、ただ神だけがある」
がある。
非常に高度であり、低い世間に穢された度合いが大きな者は抵抗を感じるかもしれない。
しかし、唱え続ければ人間を超える。

尚、唱え方は、「心で、丁寧に、穏やかに」である。
数は多ければ多いほど良い。








万能の力を味方につける

今朝も少し書いた部分もあるが、それとは関係なく、すっきりと役立つように書く。
著名な心理学者であるカール・グスタフ・ユングのお気に入りだった話が、中国出身のアメリカの作家・事業家であるチン・ニンチュウの世界的ベストセラー『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の冒頭に紹介されている。
こんな話だ。

何年にも及ぶ干ばつに苦しむ村が、有名なレイン・メーカー(雨乞師)を呼んだ。
レイン・メーカーは村に着くと、テントに4日、引きこもった。
すると、雨が降った。
村の人がレイン・メーカーに、
「何をしたのか?」
と尋ねると、レイン・メーカーは、
「何もしていない。この村は神の意思に沿っていない。それで私は、神の意思に身をまかせた」
と答えた。

良い話であるが、肝心なところが分からない。
「神の意思に身をまかせた」って、具体的にどうすんだよ(笑)。
私は長い間、それが不満だった。
だが、答が分かった。
ただし、このレイン・メーカー自体は何をしたのかは知らない。
だが、「神の意思に身をまかせる」最上の方法が、ナーマスマラナだということは分かった。
ナーマスマラナとは、ナーマ(名)をスマラナ(心で唱える)という意味で、神の名を心の中で唱える行である。
葬式用ではない、本来の純粋な念仏も、ナーマスラマナである。
要は、心の中で神仏の名を唱えれば、あなたにだって雨を降らせることが出来る。
ヒーラーにだってなれる。
いや、どんなことでも出来る。
ただし、心の中で、丁寧に、十分な時間唱えればである。1回や2回、「アマテラス」と唱えたって駄目だ。
「心を込めて唱えよ」と言ったら、多くの人は変な込め方をするので(笑)、丁寧に唱えれば良い。丁寧に唱えることが、心を込めて唱えることだ。

私の場合、ナーマスマラナは念仏なのだが、一般に言う念仏である「南無阿弥陀仏」というのは、私には、宗教臭過ぎ、葬式臭過ぎる。
それで、私は「阿弥陀仏」と唱えていたが、「仏」は分かり切っているので、今は、「アミダ」とのみ唱えている。
本来のサンスクリット語の名前(阿弥陀はアミターバ)から言えば、むしろ、「アミタ」が良いのだが、これは別にどちらでも良い。神仏の世界は極めて高度なので、そのくらいの調整は簡単になされるに決まっている。
「南無阿弥陀仏」ときちっと唱えないと不遜だと言う人もいるかもしれないが、不遜と言うのは、心がこもっていないこと・・・つまり、丁寧でないことを言うのだ。
「なんまいだー」と軽く唱えるよりは、心の中で丁寧に「アミダ」と唱えた方がずっと敬虔(深く敬うこと)であると思う。
「アマテラスオホミカミ」も、やはり、心の中で丁寧に「アマテラス」と唱えれば問題はなく、むしろ、短く言うことで親しみがこもるのは良いことと思う。
もちろん、各自の考え方もあるので、それに従えば良い。
確かに、「アマテラスオホミカミ」と丁寧に唱えると、荘厳さがあると思う。

円空という、江戸時代前期の偉大な僧がいた。
生涯に12万体の木彫りの仏像を作ったと言われている(1日10体彫っても33年かかる!そこから考え、あくまで伝説かもしれないが)。
それほどの数を作ったのだから、1体1体はラフな感じもするが、現代のフランスの芸術家が、円空が掘った仏像を見て芸術的価値に驚愕したと言う話もある。
ところで、価値の高い仏像といったら、お寺の立派な場所に安置されたり、中には、もったいなくて、立派な部屋や箱の中に大切にしまって一般の人には見せない、あるいは、特別な日に、ちょっとだけ見せるというものもあると思う。
だが、円空の仏像は、野外で子供が乗っかって遊ぶのが普通だった。
仏様って、それほど、気安く、親しみやすいもののはずなのだ。
その名だって、「アミダさん」「カンノンさん」と親しく呼べば良いのだと思う。
ただし、その名を、いつも心に保つことが大切だ。それを忘れないために、意識的に、心でその名を唱えるべきなのである。
その際も、やはり、「アミダ」「カンノン」で良いと思う。
また、「アマテラス」という言葉には、とても輝かしいイメージがある。
一番良いのは、子供のように、本当に素直に親しく呼ぶことだが、我々はあまり純真ではないので、せめて、丁寧に唱えるのである。
「ミクさーん」と言うのも良いが、心に中で丁寧に「ミク」と唱えれば、まさに、心の中でミクさんは神秘なイメージになるだろう。
これを持ってしても、心の中で丁寧に唱える意義が分かると思う。
尚、私は別に、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」「アマテラスオホミカミ」と唱えるのが良くないと言うつもりは全くない。
自分が納得するように唱えるのが一番である。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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