ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ユング

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ユングが好きな話とエマーソンが好きな話

共に人類史に残ると思われる、心理学者のカール・グスタフ・ユング(1875~1961)と哲学者のラルフ・ウォルドー・エマーソン(1803~1882)の、それぞれが好きな変わった話があった。
いずれも非常に面白い話だ。

ユングの方は、レインメーカー(雨乞い師)の話だ。
何年も雨が降らない町にやって来たレインメーカーは、テントに3日間閉じこもった。すると、雨が降った。
「何をしたのか?」と尋ねられたレインメーカーは「何もしない。ただ神と調和した。この町は神と調和していなかった」と言った。

エマーソンの方は、酔っ払いの公爵の話だ。
酔っ払って路上で寝ていた浮浪者が、公爵の屋敷に運ばれた。
身体を洗われ、上等なものを着せられ、豪華なベッドで目覚めた浮浪者に、執事達がうやうやしく傅(かしず)き、あなたは公爵だと言う。

ユングの話のレインメーカーは、神と調和したと言ったが、具体的にどうしたのか?
それは分からない。レインメーカー自身は、何もしなかったと言った。
だが、確かなことは、レインメーカーがテントの中で、ぜーぜーはーはーと息をしておらず、静かに息をしていたことだ。
それで十分だ。静かな息をすることが神と調和することだ。
ついでに言うと、レインメーカーは何事もソフトタッチ(穏やか)に行ったのだ。
元々、レインメーカーは神と調和していたのだ。
静かに息をしていれば、ソフトタッチで行う人になり、そのような者は神が助けてくれる。

エマーソンの酔っ払いの公爵の話は、我々の状態を示している。
我々は、みすぼらしいなりで、酔っ払って路上で寝ているようなものだ。
だが、本当は公爵のようなものなのだ。
しかし、では、どうすれば公爵らしくなるのか?
それは、「自分は本当に浮浪者なのか?」「これは夢ではないのか?」「自分は本当は公爵ではないのか?」と「軽く」疑うことだ。ソフトタッチで疑うのだ。
それだけである。
ソフトタッチで疑うことが出来ないなら、静かな息をすれば出来る。
そもそも、静かな息をすれば公爵に戻れる。浮浪者の息は荒く、立派な公爵の息は静かだ。
逆に、ソフトタッチで疑えば、静かに息をするようになる。

ユングもエマーソンも、そして、これらの話を解説する人達も、皆、抽象的で難しい話をし、具体的なことを言わない。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる(チン・ニンチュウ)
(2)自己信頼(ラルフ・ウォルドー・エマソン)
(3)新装版 眠りながら成功する(ジョセフ・マーフィー)
(4)方法序説(デカルト著。谷川多佳子訳)

すっぴん
AIアート1284
「すっぴん」
Kay

「なぜか分からないが」アファーメーションまとめ

ここ最近よく話題にしている「なぜか分からないが」アファーメーションの要点をまとめておく。
私も、やったら面白かったし、誰にとっても特に引き寄せ易い方法だと思う。

基本形:「なぜか分からないが、Xだ」
◆「なぜか分からないが」のバリエーション
なぜか分からないけど
なぜか知らないが
なぜか知らないけど
不思議だが
不思議だけど
※心地よいものを使う。複数使っても構わない。
◆X例
預金が1億円
A子(高嶺の花であること)が恋人
私はベストセラー作家
私はMIT大学院留学生
◆Xの条件
(1)現状とかけ離れた高い状況。誰もが「お前には無理」と言うほど高い目標。
(2)本当に欲していること。
(3)人に言わない(絶対否定しないと分かっている人は別)。

ところで、ロリコンが「なぜか分からないが11歳の彼女がいる」とか、ジャニー喜多川のような逸脱者・変質者だが金も権力もない男が「なぜか分からないが美少年の愛人がいる」と言ったらどうなるかというと、普通は悪い状況になり、悲惨に至る場合も多いと思う。
なぜなら、まず、それらの目標は、現状とかけ離れているわけではなく、いわば、「高級品を万引き出来た」というようなものだ。
それよりも、そのような非道徳的な目標を立てると、超自我の抵抗が起こり、アファーメーションが続かない。
超自我とは、フロイトが提唱したもので、自我に対し、道徳を守るよう命じる精神的存在で、「良心」と考えて良いものだ。
尚、フロイトは超自我の正体は伝統的規範と言ったが、ユングは集合無意識、つまり、人類に共通する大きな精神から来ると言った。
特にユング説の場合、超自我を無視するとロクなことにならない。
尚、ユングは、実はフロイトも、本心では明らかに、超自我は伝統的規範を超えていると認めていたという。

休憩
AIアート582
「休憩」
Kay


いずれにしても、唱えていて楽しくないとか、陰鬱さを感じるアファーメーションは行わない方が良い。
その気になれば、1日中でも唱えていられそうなアファーメーションが良い。
そして、出来れば、1日中唱えることだ。
大きな引き寄せを行うためには、ある程度の根気は必要である。

◆当記事と関連すると思われる書籍・メディア等のご案内◆
(1)心理療法論(C.G.ユング)
(2)自我と無意識(C.G.ユング)
(3)図解 ヒトのココロがわかるフロイトの話
(4)エスの本 ある女友達への精神分析の手紙(ゲオルク・グロデック)
(5)マルゴ(ウラジーミル・ナボコフ)※『ロリータ』の原型と評される
(6)ロリータ(ウラジーミル・ナボコフ)
(7)ロリータ [Blu-ray]キューブリック監督
(8)残り97%の脳の使い方(苫米地英人)
(9)苫米地式 聴くだけで脳が生まれ変わるCDブック(苫米地英人)

潜在意識の扉を開け、願望を送るには

潜在意識に願望を送り込めば叶うというのが、引き寄せの基本にして全てだ。
ところが、潜在意識に願望を送り込むことは、実際にはなかなか難しい。
その理由は、顕在意識が抵抗することが多いからだ。
たとえば、願望を1憶円としても、「俺にはそんな金はとても無理」と顕在意識が、それを得ることを信じられなかったり、JKの(あるいはもっと若い)彼女が欲しいが、道徳的な抵抗(罪悪感)があったりである。

そこで、うとうとして顕在意識が希薄になった状態の時に願望を送り込んだり、もっと手っ取り早く、催眠術師に頼んで、顕在意識を希薄にすると同時に、願望を潜在意識に送り込んでもらうというのはどうだろう?
あるいは、良心の呵責を持たないサイコパスなら、盗みや詐欺をうまくやることや、JKの彼女を作ることに抵抗がないので、そんな願望を繰り返し潜在意識に送り込めばうまくいくと思うかもしれない。
しかし、いずれもうまくいかない。
顕在意識が希薄になろうが、サイコパスで良心がなかろうが、顕在意識と潜在意識の間に、超自我という検閲官がいるからだ。
超自我とは、絶対的な正義の番人である精神的存在だ。
超自我がなぜ出来たかを説明するのは難しいが、その存在はフロイトが提唱し、ユングも、超自我の存在は認めている。
フロイトは、超自我は、伝統的な道徳観で作られていると言い、ユングは、人類共通の高次元の精神から来ていると考えた。
フロイトが正しいとしても、伝統的な道徳に反する願望は潜在意識に送られないし、ユングが正しければ、高次の正義に反する願いは潜在意識に送られない。
よって、いずれにしても、邪(よこしま)な願望が叶わない(叶い難い)ばかりか、そこそこの願望でも、超自我が「待った」をかけることがよくある。超自我は厳しいのである。

では、超自我の性質を理解し、それを突破するような雰囲気を作ることで、願望を潜在意識に送れば良い。
そのやり方は、なんとなく見当がつくかもしれない。
そうだ。勇壮にやれば良い。
超自我は、ファンファーレが鳴り響くような勇壮な心意気が大好きで、それなら、「検閲合格!」とばかりに、願望を潜在意識に通してしまう。
だから、宗教や自己啓発セミナーで、信者や受講生をハイにすれば、案外に願望は叶うが、そこでは、教団に都合の良い願望や、セミナーの主旨に合った願望しか叶わないようにコントロールされるのである。まあ、ロクな願望ではないだろう(笑)。
だから、宗教団体の会合や、自己啓発セミナーには、決して行ってはならない・・・と言いたい(笑)。
どうすれば、心が勇壮になるかは人それぞれだ。
トランプ大統領の有名な演説には人々を熱狂させる力があるし、音楽でいえば、ウェーバーの『魔弾の射手』の中の『狩人の合唱』を聴けば、非常に心躍るかもしれない。
あるいは、壮大なSFというのは、多くの人の心の振動数を高め、易々と潜在意識への扉を開く力がある。
ただし、単なる興奮や熱狂ではなく、勇壮な・・・勇ましく、美しい目的のために命をかけて挑む姿勢が、ある程度はなくてはならないのである。
超自我は、どこか老雄のようなところがあることは否めない。
ただ、実のところ、真の意味で、最も勇壮な存在は神である。
よって、最近ご紹介している「神実現の呼吸」をやっていれば間違いないように思うが、上のような原理を一応知っておくことは良いことであると思う。
◆神実現の呼吸
(1)呼気と共に「私はこれではない」
(2)吸気と共に「私は誰か?」
(3)呼吸を留め「私は神である」








雨を降らせることが出来れば何でも出来る

昨日に続き、チン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』から、面白いお話を取り上げるが、今回は、一番最初の一番面白いお話だ。
カール・グスタフ・ユングが「奇跡」について語る時、好んで引用した話らしいが、なるほどと思う。
このブログでも、昔から何度も引用したお話で、奇跡の起こし方を端的に説明しているが、今の世界に必要なことだ。
お話としては簡単なものだ。
「5年も続く干ばつに苦しむ村に、有名なレインメーカー(雨乞師)が呼ばれた。雨乞師はテントを張るとそこに4日こもった。すると5日目に雨が降った。何をしたのかと問われたレインメーカーは答えた。私は何もしていない。この村は神の意思に沿っていない。私は4日の間、神の意思に身をまかせた」
ニンチュウは、レインメーカーのような奇跡は誰でも出来ると言う。
要は、神の意思に身をまかせれば良いのだ。

今の世界も日本も、神の意思に沿っていない。ある意味、世界的な干ばつ状態で、日本もまさにそうだろう。
このままでは、皆、死ぬことになる。
だが、レインメーカーのようであれば、その個人は安全だ。そして、そんな人が多くなれば、日本に恵みの雨が降るだろう。
しかし、今のままでは全く駄目だ。

神の意思に沿っていない個人は、身体の具合が悪かったり、お金がなかったりする。
神の意思に沿っていない家庭は、夫婦関係は悪く、子供の健康や精神状態に異常が起こる。

神の意思に沿うとはどういうことかというと、あのレインメーカーがテントの中で4日間、どう過ごしていたか考えれば分かる。
きっと、本当は、レインメーカーは、テントの中にいる必要もなかったと思うが、レインメーカーは、神の意思に沿っていない人々を見たくなかったのだろう。
雨が降らなかったら、レインメーカーは恥をかくでは済まない。それが仕事なのだから、評判を落とし依頼が来なくなる。それは困るのである。
だが、レインメーカーは、それを含め、一切、神にまかせたのだ。
完全にまかせ切った時に雨が降ったのである。
笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯らし紋次郎』で、主人公の流れ者の渡世人(博打打ち)である紋次郎は、さりげなく書かれているが、おそろしく運が良い。
紋次郎の秘訣は「死ぬ時がくれば死ぬまででござんす」と本気で思っていることだ。これが、紋次郎は全く意識していないが、神の意思に沿うことである。
イエス・キリストは、本当は、「アーメン」と言うように教えただけだと思う。
「アーメン」とは、「同意する」といった意味で、要は、神の意思に同意するということだ。
釈迦や、その後継者と言われる龍樹は、つまるところ、念仏を唱えよといったことを教えたのだと思う。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に全部まかせるといった意味だ。
だが、今の仏教やキリスト教の下でそれをやろうとしたら、神や仏の意思からどんどん離れて行ってしまう危険がある。
「大丈夫」とか「なんとかなる」という言葉は、「アーメン」や「南無阿弥陀仏」と同じである。
私は、「なんとかなる」と思いながら何も期待しないでいたら、本当に奇跡が起こり、極めて良い想いをした。
しかし、それに味をしめ(笑)、期待満々で「なんとかなる」と唱えたら、全く駄目というわけではなかったが、残念賞程度のことしかなかった。
つまり、そういうことである。
レインメーカーも、雨が降って称賛されるか、降らずに罵倒されて追い出され、これまで築き上げてきた信用を失くすか、そんなことは忘れ、神にまかせたのである。








相手の心に入り込むには

「魂の声」に従っていれば間違いない。
「魂の声」と同じことを「心の声」と言う者もいて、それでも別に良いのだが、問題もある。つまり、心理学や精神分析学では、心は自我のことを指すが、自我の声に従うことは最悪だ。
具体的に言うと、

・十分食べたのに、もっと食べたいと思った時、「食べろ」と言うのが心(自我)の声、「我慢しろ」と言うのが魂の声。
・教師が生徒を脅して猥褻なことをしたいと思った時、「やっちまえ」と言うのが心(自我)の声、「やってはならない」と言うのが魂の声。
・誰も見ていないので、ズルをしたら得をする時、「構うもんか。やっちゃえ」と言うのが心(自我)の声、「すべきでない」と言うのが魂の声。

だ。
それなら、魂の声とは、実際は何だろう?
「所詮、知識や経験が脳内で熟成されて出来た思考パターン」という考え方があり、これはフロイト的と言え、「魂の声」といったものを、フロイトは「超自我」と名付けた。
一方、「全人類、万物、あるいは、神につながる精神」みたいなものを魂と呼ぶ考え方もあり、こちらはユング的と言える。
もっと簡単に言えば、「魂はない」と言うのがフロイトで、「魂はある」と言うのがユングだと考えて良いと思う。
フロイトもユングも、自分の方が正しいということを、いろんな言い方で主張するが、傾向として、フロイトは権威的で、ユングは神秘的だった。
どっちが正しいとも言えないと思う。

まあ、「魂の声」は間違いがないのだから、超自我だろうが、霊だろうが構わないと言えば構わない。
これをはっきりさせようと思ったら、霊的な意味での魂が存在するかしないかという問題になるが、これは分からないと言うしかない。
短絡的な理屈で、魂はあるとか、魂はないと言う者が多いが、そんな者は思考が浅く、きっとIQも低い。

「世界=漫画」理論で言えば、個々の心は作者の心の一部であり、個々の魂は作者の魂に通じる道だ。
ただ、この世界という漫画の作者は、我々を超えており、その精神構造がどうなっているのかは分からない。
だから、例えば、作者は魂だけの存在かもしれず、作者においては、「心=魂」となるのかもしれない。
そして、我々はいつでも、作者の心につながることが出来、それが魂の声を聞くことだ。

我々だって、漫画や小説を書いていたら、登場人物の心が、作者である自分の心の中に入り込んで来ることを感じる。
それと似たことが、我々と、この世界という漫画(別に小説でも良いが)の作者との関係についても言えるのである。

私は、ある優秀な国際コンサルタントから、交渉のコツとは、相手の心の中に入り込むことであると言われたことがある。
自分の心も、交渉相手の心も、この世界という漫画の作者の心の一部であるのだから、要は、作者の心の中に入り込めば良いのである。
具体的に、どうやれば相手の心に入り込めるのかというと、これを言うのは難しい。
しかし、相手の心に入り込めないようになる方法なら簡単だ。相手を嫌えば良いのである。
つまり、嫌っている限り、相手の心に入り込めず、相手を動かせない。
とはいえ、「好きになったフリ」をしたって全然駄目である。
出来ることと言えば、嫌うのを止めること・・・相手の嫌いな点について考えるのを止めることだ。

幼児が、自分の右手の指を使って家族ごっこをしている。
親指がお父さんで、人差し指がお母さん、中指がお兄さんで、薬指がお姉さん、小指が赤ちゃんだ。
その幼児は、お父さんやお母さん、あるいは、お兄さん、お姉さん、赤ちゃんの役割を切り替えながら一人五役で会話する。
この時、お姉さんがお父さんを嫌うと、お姉さんとお父さんの心に断絶が生まれ、距離が出来たように感じるが、嫌うことをやめると距離が縮まる。
我々がやっていることもこれと同じで、お父さんやお姉さんは、自分が幼児の右手の指だということが分からないのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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