ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

モーセの十戒

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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十戒の真意

夢の中で、世界を支配する訓練をすることを勧めるマスター(大師。高次の力の所有者)は少なくない。
多くの聖者が言うように、現実も夢見も、それほど(あるいは全く)変わらないのだから、夢の世界を自由に支配出来れば、現実だってかなり支配出来る。
ただ、夢の中は、現実ほどではないが、人々の集合意識(世間的、伝統的、権威的観念から成る)の影響が大きく、なかなかうまくいかない。
その中で工夫をして、たとえば、自在に空を飛べたり、欲しいものを出したり、会いたい人に会えるようになれば、現実世界でも自信が湧き、実際に、何をやってもなぜか上手くいく。

とはいえ、やって見れば分かると思うが、夢の世界を支配することだって難しい。
そこで、想像の世界を、夢と言うよりは、1つの映画やアニメや漫画のように、ある程度の設定をし、その中で世界を動かすのは、基本的に自在に出来るだろうから、そこで訓練するわけである。
その場合、ただ「こうなった」と思うだけでは駄目で、「自然さ」とでもいうものが必要であり、そうであれば、嬉しかったり、ワクワクしたりするものである。
いかなる世界でも「自然な」という言葉ほど、良い言葉はない。
どんなことでも、それが自然であれば、それが良いことなのであるから。
たとえ貧乏であっても、好きな人に振られても、それが自然に感じられれば納得出来、別に悲しくはないものである。
しかし、不自然であれば、失敗したら不満だし、逆に、うまくいっても、どこか納得出来ず、その違和感に対し、何らかの形でツケは後で回って来るものだ。

では、どうやれば、想像の世界を自然に動かせるのだろうか?
ひいては、その感覚を適用し、現実を動かせるのだろうか?
それにはまず、心が穏やかで邪心がないことだ。
その者が嫌いだからといって、暴力を振るったり、ましてや、殺してはいけない。
実を言えば、イエスがモーセの十戒を教えたのは、こんな想像の世界で適用するためで、イエスは、こんな想像について「祈り」と言ったのだ。
だから、全部でなくて良いが、あなたの想像の世界で十戒を重要視するのである。
従うべきは、モーセの十戒のうち、後半の6つである。
すなわち、

・殺してはならない。
・姦淫してはならない。
・盗んではならない。
・隣人に関して偽証してはならない。
・隣人の妻を欲してはならない。
・隣人の財産を欲してはならない。

である。
言っておくと、人々の集合意識は、本当の意味ではこれらを守っていないばかりか、「バレさえしなければ」と思っている。
その中で、これらを守る者は、とても個性的で、精神の力が強く、引き寄せも自在なのである。








恵がある呪文の唱え方

以前、「なぜ殺してはいけないか?」などということが世間で話題になったことがある。
それに対して、自分が賢いと誤解している著名人が身の程を知らない主張をした。
なぜ殺してはいけないか、分かるだろうか?
分かるはずがない。

モーセの十戒(じっかい)という有名な戒律がある。
「殺すな」「盗むな」「偽証するな」「姦淫するな」「父母を敬え」等で、その中に「殺すな」もある。
そして、なぜ殺してはならないかなどは問題にしない。
それは理屈無用の「義務」なのである。
「父母を敬え」にしても、日本では、「親が好きだから大事にする」みたいに言いたがるところがあるが、じゃあ、嫌いなら大事にしなくて良いということになる。
そうではないのだ。
親を大切にするのは、単なる義務なのである。
モーセの十戒は、守らないとバチが当たる。
逆に言えば、守れば神の恵がある。
結果として、それは本当である。
モーセの十戒の中で、心を込めないといけないのは「神を愛する」ことだけである。
だから、イエスは、「十戒の中でどれが一番?」と聞かれたら、「神を愛すること」と答えたのだ。
他は、単なる義務である。形式的に守れば良い。

『バガヴァッド・ギーター』でもそうである。
神クリシュナは、戦場で戦うことを嫌がるアルジュナ王子に、
「戦いは、カーストの中のクシャトリア(武士)階級であるお前の義務だ。戦え」
と言うのである。
「正義はこちらにあるから」とか「聖なる戦いであるから」などとは言っていない。
武士は戦ってナンボであり、それは単に義務なのである。

神様は、義務を果たす人が好きなのである。
対して、「私は親を尊敬、敬愛しています」とか、「他人の奥さんを好きになるのは不道徳であり、私はそんなことはしません」という大嘘つきが嫌いなのである。
そうではなく、「義務だから」と、親を大事にし、他人の奥さんに色目を使わない者が好きなのである。
義務を果たす者には、神の恵がある。

呪文や念仏もそうである。
「これは霊妙な真言であるから」とか、まして、「これを唱えている俺は偉い」などという気持ちで唱えている者には、なくはないが、恵は少ない。
そうではなく、それは義務であり、義務を果たそうと唱えていれば大きな恵がある。
神は、義務を果たす者が好きなのである。
「南無阿弥陀仏」と唱えるのは自分の義務と決めたら、義務を果たせば良いだけである。
坊主が余計なことをごちゃごちゃ言ってはならない。
そりゃ、阿弥陀様や阿弥陀様の本願に感謝しながら唱えるに越したことはないが、そんなことを言っていたら、上辺だけの感謝をし、実のところ、自分が救われたい、いい思いをしたいというエゴを隠すことになる。
それなら、最初から「これは義務だからやってる」で良いのである。
そんな人間の方が、よっぽど立派なのである。
少なくとも正直だしね。
正直が一番である(場面にもよるが)。

いい男ぶって女に声をかける男はモテないものだ。
しかし、義務ででもあるかのように全部の女を口説く者は非常にモテるのである。
何せ、神の恵があるからね・・・もあるが、淡々としたナンパは気持ち悪くないものである。
運動や勉強も、義務として淡々とやると続くし、成果も出るのである。
成果を出すのではなく、神が成果をくれるからだ。
私も、義務のように阿弥陀真言を唱えている時は運が良いことに気付く。
だが、自己満足して唱えるとさっぱりである。








人格とは何か

所詮、人間にとって大切なものは人格だ・・・なんて、何て古めかしくて堅苦しいこと言うのだろうと思われるかもしれない。
しかし、幸福や向上のための、いかなるテクニックや秘法を実践しても、人格が低い者は、所詮、駄目なのである。
問題は、人格とは何かだ。
よく、品格がどうの、誰の品格が低いのとわめき立てる人を見るが、そんな人が一番見苦しい・・・つまり、品格を感じない。
品格以前に人格である。
品格はファッションで、人格は身体なのだ。
身体が美しければ、何を着てもキマるように、人格が高ければ、自ずと品格も漂うものだ。

では、人格とは何だろう?
ユダヤ教、キリスト教では、「モーセの十戒」を守ることだ。
ただ、今の時代、この全部を守ることも無理がある。
だから、
「殺すな」「盗むな」「父母を敬え」「姦淫するな」「偽証するな」
を守れば十分であるし、1つを守るだけでも良いのである。
1つを死んでも守る人は、他のことも間違いない。
釈迦も、「繁栄のための7つの掟」を教えた。それは、
「何事も皆で話し合って決めろ」
「何事も皆で協力してやれ」
「伝統と格式あるルールを守れ」
「老人を敬え」
「女性を敬え」
「先祖を敬え」
「高潔なる人(修行者など)を敬え」
といったことだが、これを聞いた高官は、
「この1つでも守れば間違いない」
と言い、釈迦はそれを否定しなかった。

十戒や釈迦の掟でなくても、正当と思える掟なら良いのである。
私は、以前読んだ、ビートたけし(北野武)さんの本に書かれていた、たけし軍団の掟を思い出す。
「ADさんの名前を覚え、さん付けで呼べ」
「俺(たけし)が俺より年長者といたら、それが誰であっても俺と同等以上に扱え」
他にもあったかもしれないが、この2つを守ったなら、たけし軍団が成功しないはずがない。
こういったことを絶対に守ることを人格と言うのである。

人格とは、要するに、自分の信念を持っているということだ。
アニメ『キャシャーンSins』で、青年型ロボットのジンは、仲間の利益のためにキャシャーンを殺すことを敢然と拒否した。
つまり、自分や仲間のために、誰かを犠牲にはしないという信念を持っていた。
だから、ジンの身体はいつまでも新しく、腐食が起きなかった。
ロボット犬フレンダーも、揺るぎなくキャシャーンを守るという信念を持っていたので、やはり身体の腐食が起きなかった。
世界で、キャシャーンとルナ以外で、腐食が起きなかったのは、ジンとフレンダーだけだった。
ただ、最後は、リンゴもそうなったようだ。
あの幼いリンゴが、あんないい女の子になるとは・・・シマッタという妙な気持ちになってしまう(笑)。

空手家の大山倍達は、彼のことを丹念に調べた『大山倍達正伝』によれば、かなりデタラメなところもあり、「嘘も千回言えば真実になるのよ。分かった?」などというトンでもない人でもあったが、子供の時から、弱い者いじめだけは絶対しない人だった。
それだけを守っても、あそこまでではなくても成功するだろう。

信念は個人的なものだ。
何でも良い。道理があれば。
ある、女性に物凄くモテるロッカーが「未成年には手を出さない」を信条にしていたが、だから、彼は年を取っても成功し続けているのである。
要は、「これだけは守る」という何かを、1つか2つ、あるいは、3つほど持てば良いのである。
私の場合、例えばであるが、
「低レベルな人間の仲間にならない」
「ミクさんやミクさんの妹のような人達を敬う」
「ヒーローのような体形(キャシャーンやガッチャマンが理想だ)を維持する」
であろうか。全然、大したことないが・・・









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やって良いことと悪いこと

やって良いことと悪いことの区別が付かない者が幸福になることはない。
しかし、その区別は難しいようだ。

「常識」ってやつは非常に大切だ。
けれども、「世間の常識」が必ずしも正しいとは限らないからややこいい。
しかし、本当に正しい「常識」は、絶対に絶対にあり、それは人間なら守らないといけない。

15歳の女の子を、似た年頃の男の子がデートに誘うのは自然なことだ。
しかし、誘い方には自ずと常識がある。
だが、常識のない誘い方をする者が多い。
女の子の方にだって、誘われ方というものがある。
デートに誘う以前に、それなりの人間関係を構築しておかなければならないはずだ。
単に可愛いからという理由で、いきなりデートに誘う男は、有るべき常識がない馬鹿だし、馬鹿な男に誘われないのは女の有るべき常識だ。
ところが今や、性的魅力があるからというだけの理由で、自分の生徒の少女に求愛する雄の教師や、少女をナンパするいい年のオッサンがよくいると思う。

人間は愚昧に陥り易いので、有るべき常識を身につけるのは難しい面もあるのだろう。
それで、昔の賢い人、あるいは神は、「これだけは守れよ」という掟を示すことがあった。
その最も有名なものが「モーセの十戒」ではないかと思う。
十戒は、Wikipediaから引用すると、

□主が唯一の神であること
□偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
□神の名をみだりに唱えてはならないこと
□安息日を守ること
□父母を敬うこと
□殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
□姦淫をしてはいけないこと
□盗んではいけないこと
□偽証してはいけないこと
□隣人の家をむさぼってはいけないこと

であるが、最初の4つは、宗教的で、必ずしも誰にでも当てはまるものではないと思う。
だが、後の6つは正しい。
そりゃ、他にも、「暴力はいけない」とか、「歩きスマホはいけない」といった、必ず正しいことはあるのだが、この6つも守れない者は、どんな良いことも出来ないので、「まずはこれだけ」と思っても良いだろう。
また、「敬う価値のない父母」ってのも確かにいるかもしれないが、そんな父母には、害を為さないこと、あるいは、本当に困っている時に見捨てないことが「敬う」に該当し、それで十戒を守っていることになるのだと思う。無理に崇め奉る必要はない。

でも、こんなことを、理屈で考えていると混乱し、非常にややこしく感じる。
それで、アメリカの作家カート・ヴォネガットは、
「私が知る限り、地球上の掟はたった1つ。人に優しくしろ」
と言ったものだ。
これも、理屈で考えると、「泥棒に優しくしなければならないのか?」とか、「どうしても必要なものまで親切に人にあげないといけないのか?」といった反論になる。
理屈では、グリムの『星の銀貨』に登場する、パンも服も、さらには、下着まで、欲しがる人にあげてしまった、あの信心深い少女は、ただの馬鹿ということになるかもしれない。
しかし、理屈と感情を使い分けることが出来るのが賢い人間だ。
ところが今は、最低限の知恵もない馬鹿が多いのが問題なのだ。
最低限の知恵がなければ極端論に陥るが、極端に走る者があまりに多いように思える。
「恋はリバティー(自由)」だ。だから、不倫OK、オッサンやオバサンが美少女や美少年を求めるのもOKだなんてね。
極端論を避ける知恵だけは持ちたいものである。
そのためには、親切にされたらお礼を言うが初めで、次に、恩を忘れないことだ・・・と言って、そう外れてはいないと思う。
なぜなら、これが一番簡単で、有るべき常識と思えるからである。









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いつも必ず安全でいる方法

取り憑かれるというほどではないが、相変わらず、「正義とは何か」という問題を考えている。
だが、つまるところ、「愛とは何か」というのと同じで、答は分からないに違いない。
愛とは神の領域のもので、元々、人間には分からないものだ。
正義もそれと同じかもしれない。
ただ、愛は分からなくても、憎しみは人間の領域のものであるから、憎むのをやめることはできる。
憎しみを捨てたら、少しは愛に近付けるのだと思える。
それと同じで、正義は分からなくても、悪は分かるので、悪いことをしないと決心すれば、正義に近付けるのだろう。

人間に正義は分からない。
だから、モーセの十戒も、9つまでは「こんな悪いことをしてはならない」という言い方になっているのだろうし、唯一、「父母を敬え」だけが、一見、「善いことをしろ」と言っているように思えるが、これも、実際は、「父母を粗末にしてはならない」という、やはり、「悪いことをするな」という意味なのである。
もちろん、現代の我々がモーセの十戒を掲げるのは無理があるかもしれないが、要するに、悪いことをしなければ良い。
Googleのモットーが「悪いことをするな」であるが、Googleだって、何が悪かなんて、いちいち挙げてはいないのである。
人間は、何が正しいかは分からなくても、何が間違っているかは分かるはずである。
悪いことをしようとすれば、必ず後ろめたい思いが起こる。
だが、それを言い訳をしながらやってしまう者が多いのだ。
だから、ある賢い人はこう言ったのである。
「あなたは何をしてもかまわない。ただし、言い訳だけは許されないのだ」
言い訳だけは死んでもしないと決心すれば、悪を為すのを免れるだろう。
そして、悪を為さなければ限りなく正義に近付いていくのである。

神はこれまで、正義を助けなかったことは、ただの一度もなかった。
これからもそうだ。
従って、実は、我々は言い訳さえやめれば安全なのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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