ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

モロー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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無意識が描いた絵画

1人の人間が世界を支配する力の大きさは、その人が、無意識をどこまで解放するかで決まる。
無意識の一部が、瞬間的に出てくるだけでも、奇跡のようなことが起こることがある。
では、どうすれば、無意識が解放されるかというと、意識(自我)が消えることによってだ。
しかし、例えば、酒を飲んで「意識が消えるほど」酔っぱらっても、全く超人になるわけではない。
同様に、興奮した人間に鎮静剤を打ち、意識を弱くしたら天才になったなんて話も、あまり聞いたことはない(あることはあるのだが)。
また、諜報機関や、場合によっては警察が使うという自白剤という特殊な薬物を注射された人間も、自我意識は弱くなるが、むしろ、心身の能力は著しく低下する。

確かに、芸術家には、覚醒剤の使用により無意識を表出させることで、優れた創造性を発揮する者もいるのだが、覚醒剤が良好な効果を見せることはむしろ稀で、大抵は酷いことになる。
サルトルでさえ、覚醒剤を試してみたら、ロクでもないことにしか、ならなかったという。

一方で、こんな注目すべき話がある。
ルドルフ・シュタイナーが、心神喪失した後のニーチェに会った時、ニーチェは確かに、通常の知的能力を失っていたが、シュタイナーは、ニーチェの偉大な英知を感じ深い感慨に襲われたと言う。
それは、シュタイナーの認識違いや妄想だったのだろうか?
そうではない。もし、信じることが出来るなら、シュタイナーは高次元を知覚する能力を持っており、ニーチェの霊的英知が輝いているのを見たのだ。
とはいえ、人間は、直観的な確信が持てない限り、何も信じることは出来ないので、この話を無闇に信じるわけにはいかないが、疑わない方が可能性は広がる。

話がややこしくならないうちに、正解を述べなくてはなるまい。
簡単に言えば、自我意識が隠れただけでは、相変わらず凡人なのだ。
酒を飲んだり、失神したり、眠ったり、麻薬でラリっていても、すぐに自我意識は戻ってくる。そんな者は、高い能力を発揮することはない。
確かに、危機一髪の時に異常な能力を発揮する、いわゆる「火事場の馬鹿力」といった場合もある。
この場合は、自我が隠れたのではなく、自我の周波数が変わったのだ。
そして、自我の周波数を変えるのは、生命体の力だ。
たとえて言えばだが、周波数が変わらない自我は、「隠れても臭い」のである。
だが、周波数が変わってしまえば、無臭か、あるいは、香しいものになる。まあ、あくまでたとえだが。
ニーチェは、自我の周波数が高くなり過ぎて、脳の、化学的・電気的な機能に適応出来なかったのである。
まあ、それは特殊な作用の結果であり、我々がそんな状態になることはない。
そこで、我々は、自我の周波数を高め、自我と共存しながら無意識を解放すれば良い。
そのためには、腕振り運動を、自分が振っているという自覚のない、限りなく静かで自然な状態でやれるよう、日々励むのが、最も易しい方法なのだと思う。
ついでに言えば、優れた芸術作品は全て、度合いはあるが、芸術家が無意識状態の時に描かれている。
そんな作品は沢山あるが、例えば、ギュスターヴ・モローの『ヘーラクレースと水蛇(ヒュドラー)』は、完全無意識状態で描かれたものだ(特に、線画の習作の方が良いのだが)。
モローの作品は、特に無意識を感じるが、それは、彼が、画家が名声を掴むための場所であるサロンを拒否したことに関係するのだと思う。








夜空の星と瞳の関係

人が眠っている様子を見る機会は、昔の時代に比べて少なくなっていると思う。
人が本当に無防備な状態で寝ている姿はなかなか面白いし、何かに気付くことも多いのに残念なことである。
電車の中で本当に熟睡してイビキを立てている者も稀に見るかもしれないが、それはむしろあまり見たくないというだけでなく、そんな者は細胞が緊張しており、自分の家で寝ている時とは違うのである。

岡本太郎の『今日の芸術』に書かれているが、西洋で女性の裸体画が多いのは、西洋の家では、部屋に鍵をかけてしまえば、侵入される恐れがほとんどないので、冷房がなかった時代では、女性でも、部屋に鍵をかけて裸になっていたからだという。
一方、日本の、ふすま1枚隔てた部屋ではそんなことはできないから、日本でヌード画は不自然であり、文化風習の異なる西洋の絵の真似をするなという主張であったと思う。
フランスに長く留学し、フランスの大学で民俗学や哲学を学び、そこにいた多くの外国人と交流し、そして、あらゆる国の美女、美少女達と同棲していた岡本太郎が言うのだから、説得力もあるというものである。
それで言えば、確かに、西洋の絵には、ヌード画だけでなく、人が眠っている絵にも印象的なものが多い。
フランスのモローの『夜(ナイト)』は、夜の女神自身が眠っているという、考えてみればおかしなものだが、それで通ってしまうし、文句なく神秘的な素晴らしい絵である。
モローに限らず、西洋の絵画では、目を伏せた人物は、眠っているように感じるものが多いと思う。

眠ってる人の姿を見るのは良いことであり、重要なことに気付かされる。
それは何かというと、自我、あるいは、心が身体と共にない人間の姿である。
そこに、神秘性や崇高さがある。
心を持たない人間には、言い様のない美しさがある。
ある意味、眠っている姿は人間の理想である。
だから、人が無防備に眠っている姿は、見ている者に安らぎを与える。
年を取るにつれて、心が身体にからみつく度合いが大きくなり、眠っていてすら、心と関わりを持つようになってしまう。
そんな寝顔は美しくないのだが、そんな人でも、疲れ果てて、心を完全に放棄して眠っている時、「つきものが取れた」ように、安らかな顔になっている。
我々は、美しい寝顔をしていること、そして、日中でも、そのような顔をすることが、 願うべき理想であり、それを、天使や神になった者と言うのである。

どこかの民族には、人は眠ると、目がその人から離れて空に浮かび、星になるというお話があるようだ。
お伽噺のようなものだが、どこか「本気で」心惹かれるところがあるのではないだろうか?
眠っている人の魂は、星のように崇高で、まるで神々のように、下界を静かに見下ろしているのだから。
リルケの『夢』第7夜(青空文庫で無料で読める)には、「都会では、人々は心配が多くて眠れなかったり、夜更かしをするので星が少ない」と書かれているが、それを笑う気にはなれない。
夜空の星を見上げていると、星達が話しかけてくるようだったり、その慈愛に満ちた眼差しに見つめられているように感じるかもしれない。
そして、心が洗われ、生まれ変わり、不思議な活力を得る。
崇高な人物の眼差しは、まさにそんな星のようである。
心を星の世界に解き放って眠っている者、あるいは、つとめを終えて永久の眠りについた者を見て、我々は人としての真の有り様を知り、自ら星になろうと思うのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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