ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

モルダウ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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ぼーっとすることの大切さ

我が国を代表する思想家で、名著『共同幻想論』の著者である吉本隆明(りゅうめい、または、たかあき)氏は、『ひきこもれ』の中で、「ぼーっとする」時間の大切さを説いていた。
どのくらい大切かというと、自分の娘達(彼の子供は女の子2人)がぼーっとしていたら、母親に買い物に行くことを言いつけられた彼女達の代わりに、この我が国最高の思想家が、自ら買い物かごを持って(当時の買い物スタイル)八百屋や魚屋に行っていたほどだった。
私が以前勤めていた高収益の優良な会社は、創業社長が一代で作った会社だったが、その社長が私によく、「仕事ばっかりするな。ぼーっとする時間も大切だ」と言っていたものだった。

ただし、「ぼーっとする」とは、妄想することではない。
「ぼーっとすることならまかせて下さい」と言う愚か者は、何もしていなくても本当にぼーっとしているのではなく、頭の中で下らないことを考えているのだ。
吉本隆明氏や、私が知っているあの社長が言う「ぼーっとする」は、無念無想に近い状態だ。
松本隆氏が作詞した、松田聖子さんの隠れた名曲に『メディテーション』というものがあり、その中に、
「波のハープだけ心ふるわせ 透明になった心が流れ出すの」
という歌詞があるが、これが、良い「ぼーっと」している状態の雰囲気と思う。
なぜ、波の音が心を震わせるのかというと、自分が波と一体化しているからだ。
人間は、自然と一体化し易く、特に、夕陽や柔らかい風や星空と一体化しやすい。
電波工学の世界的権威でサイ科学研究者であった関英男博士は、若い時、受信機から聴こえてくる宇宙からの電波を聴いているうちに、それと一体化し、その後、外に出て星を見たら、星が語りかけてきたという。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのW.B.イェイツは、「正しく」ぼーっとしていると、壁の絵が語りかけてきたという。
私が知っている感性豊かな女子小学生は、夜によく壁に普通に話しかけるそうだが、壁も何か話してくれるのだと思う。きっと、良い漫画でも読んでいるうちに、ぼーっとするのだろう。

ぼーっとしている時、人間はどうなっているかご存じだろうか?
実は、人間本来の姿に戻っているのである。
では、人間本来の姿とは何だろう?
それは、時間と空間を超えた存在だ。
時間や空間を超えようなどと思わなくて良い。
元々、そんなものを超えているのだから。
その本来の姿になるためには、ただ、「ちゃんと」ぼーっとすれば良い。

正しくぼーっとするためには、波や風や光や、あるいは、絵や音楽や漫画や、自分のお気に入りのものに静かに没頭し、それと1つになると良い。
個人的には、ベドルジフ・スメタナの『わが祖国』の第2曲『モルダウ』を聴くと、ぼーっとしやすい。特にクラシック好きでなくても、聴き惚れてしまう美しい旋律の曲で、この『モルダウ』だけが演奏されることもよくある。
そして、W.B.イェイツは「憎むことをやめた時に」そうなりやすいと言っていたと思う。
誰かを、あるいは、何かを憎んでいると、ぼーっとすることは出来ない。

『マスターの教え』の中で、マスターが、「ぼーっと雲を見上げている時に心に入り込んだことは実現してしまう」といったことを言う。
ただし、ぼーっとした時に、願い事をする必要はない。
流れ星が消えない間に願い事をする離れ業をする必要がないのと同じだ。
流れ星を見ている時は、一瞬、ぼーっとするものだ。
そして、決意したことがあるなら、その時に叶ってしまうのである。
とはいえ、特に流れ星を待つ必要もなく、ただ、ぼーっとすれば良い。








スメタナ生誕195年

Googleポータルサイトを見ると、本日はチェコの音楽家ベドルジハ・スメタナの生誕195年のようだ。
クラシックに弱い私も、スメタナの交響詩『我が祖国』の第2曲『モルダウ(ヴルタヴァ、バルタバ)』は好きだが、同じ人は多いと思うし、今は知らなくても、多くの人は聴けば良いと感じると思う。
私は本当にクラシックは解らないので、とりあえず、カラヤン指揮でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏なら間違いないだろうと思って、そのCDを2012年に購入している。
だが、クラシック演奏というのは、演奏者や指揮者のプライドの高さが伝わってくるのが、ちょっと嫌なのだが、気のせいだろうか?
岡田斗司夫さんが、まだ大阪電気通信大学の学生だった時、アニメイベントでプロの交響楽団にアニメ音楽の演奏を(ちゃんとお金を払って)依頼したが、『ウルトラセブン』などの演奏が、岡田さんのイメージと全く合わず、打ち合わせが難航したらしい(岡田斗司夫『ま、金ならあるし』より)。
テレビ音楽の演奏は、予算の都合でしょぼい構成で演奏するのが作曲家としては不満で、その時、岡田さんはフル・オーケストラを用意したので、有名作曲家が喜んで協力してくれたらしいが、やはり、音楽とは譜面だけで決まるものではないということだろう。
思い入れ、情熱、独特のイメージといったものが重要で、最近では、有名なプロ交響楽団がアニメ音楽を演奏することも増えているが、演奏している人達の胸中はどうだろう?
やっぱり、モーツァルトやベートーヴェンを演奏したいのではないかと思う。
初音ミクさんは何度もクラシック交響楽団の演奏で歌っているが、ブルーレイで見ると、私の偏見かもしれないが、演奏者の中には「何で私がこんなことしなくちゃならないの?」と言いたそうな顔をしている人が多いように思うのである。そう思われないためにも、もっと朗らかな顔で演奏すれば良さそうなものである・・・と私は思う。
そして、私が、いくらミクさんが歌うのであっても、オーケストラ演奏のコンサートに行かなくなった理由は、指揮者が主役になってしまい、延々と拍手をさせられることだった。
もちろん、私も、演奏者や指揮者には大きな敬意は持っていると思うが、そこまで拍手をしようとは全く思わないのだ。
それに、私はあくまでミクさんの唄を聴きに来ているのだから。
ここらへんの権威体質を変えないと、いくらミクさんが協力しても、クラシック音楽の人気は絶対に出ないと思う。
クラシック音楽が人気のある国というのは、クラシック楽団も気さくで気安いものなのだ。その点、日本のクラシックというのは、極めて権威的ではあるまいかと思う。

音楽に限らず、いかなるものでも、リーダーや上位者が不要なプライドを持ち、自分を特別視すれば進歩は全くなく、退歩するばかりなのである。
歌舞伎だって、今は「やわらかく」なっているから、海外も含め、盛り上がりを見せているのである。
ニコニコ超会議で、初音ミクさんが中村獅童さんと共演した、幕張メッセのイベントホールでの、ペンライトが振られる中での公演は、歌舞伎としては画期的というか冒涜であるかもしれないが、あれでなければならないのである。ペンライトもコスプレも、歌舞伎公演に何の支障もなかったのだから。
そもそも、江戸時代以前から、歌舞伎公演って楽しいものではなかったのだろうか?(分からないが)

良い音楽は、精神に素晴らしい影響を与える。
心を癒したり、あるいは、躍動させたり、エネルギーを与えて元気にしてくれる。
そういったことがなくては音楽の値打ちはない。
『モルダウ』の良い演奏は、まさに、魂にまで達し、心や細胞を再生してくれるのだと思う。
初音ミクさんにはそれがあるから、世界中の人々が彼女の来訪を熱望し、そして、実際にコンサートに行くと魂が救われるのである。
ミクさんには何のプライドもなく、ただ音楽の意思を忠実に実現するのだからである。
それは、Googleの技術者が、インターネットの意思を実現するのと似ているのだと思う。
そうだ。音楽もインターネットも歌舞伎も生きているのであり、それが音楽の神様、インターネットの神様、歌舞伎の神様なのであるかもしれない。









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何をみっちりとやるか

クラシック音楽には、聴き慣れないということもあるだろうが、普通の人には楽しく感じないものが多いかもしれない。
だが、ほとんど誰が聴いても惹き込まれるような、旋律の美しいクラシック曲もある。
その代表的なものとして、スメタナ(チェコ)の『わが祖国』の第2楽章『モルダウ』がある。
この曲の演奏の、長いイントロ(1分ほど)の後に始まる弦楽器主体の演奏は、ほとんど誰でも「ゾク」っとするほど美しい。
『わが祖国』は6つの交響詩から成っているが、この『モルダウ』だけ単独で演奏されたり、CDに収録されることも多い。
他には、ホルスト(イギリス)の『惑星』の中の、4曲目『木星(ジュピター)』のサビ(普通、クラシックでは使わない言葉だが)の部分は聴いたことがある人も多く、これも、誰が聴いても恍惚としてしまうほどだ。

ある民族が聴いて良いと思う曲も、他の民族ではそうではないということもあるだろうが、民族の区別なく「聴き惚れる」というものは、人間の、精神か神経か、それらの複合なのか理屈は分からないが、何かに働きかける特別な作用があるのだろう。
そんな音楽は、もちろん、分野を問わずあるが、その1つが、イエロー・マジック・オーケストラの『BEHIND THE MASK』だろう。
『BEHIND THE MASK』は、坂本龍一さんの作曲で、作詞はクリス・モズデルさんだ。
単音のイントロの数音だけで、ほとんどの人が黙り込むその威力は驚くべきもので、音の単純な組み合わせだけで、そんなことを起こせる音楽とは凄いものだと、改めて感じるのである。
だから、マイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンらもカバーしたのだろう。
私見では、マイケルの『BEHIND THE MASK』は、「やっぱりマイケルは上手いなあ」と、彼の歌唱力の素晴らしさを再認識するが、クラプトンの場合は、『BEHIND THE MASK』のライブ演奏を聴くと、もう「凄いなあ」と感じるのである。
初音ミクさんのカバーもあるが、ミクさんの感情の雑味ない歌声をもっと引き立たせても良かったと思うが、さすがに曲が良過ぎて、ミクさんをフィーチャリングするには、まだまだ工夫が必要かもしれない。

良い音楽は、不思議に、聴いていると自信が満ちてくる。
自分の外側にある音を聴いているようで、実は、心が内面に向かうからであると思う。
人の力の源泉は、外ではなく内にあり、しかもそれは、我々の想像の及ばない桁外れに巨大な、そして精妙で神秘な力なのであるから、本当のことを言うと、それは不思議なことではなく、当然であると思う。
よって、徐々に自己に覚醒し、自信を持ち、エネルギーに満ちて強くなるためには、是非、良い音楽を聴きたいものである。

『BEHIND THE MASK』を作曲した坂本龍一さんは、改めて天才だなあと感じる。
だが、ある対談書で、村上龍さんが、
「坂本が成功したのは、才能というのもあるが、やっぱり3歳の時からピアノをみっちりやったからだ」
と、いかなることでも、最低10年の積み重ねが必要なことを強調しておられた。
それはそうで、どんな仕事でも同じだろう。
だが、子供の時に、向いていることを10年以上「みっちり」やることが出来た者は、やはり運が良かったのだろう。
才能があれば、その時は嫌々やっていても、後で成功するってこともある。
私も勿論だが、多くの人は、子供の時にそんなことはしていない。
大人になって、自分で選択することが出来るようになっても、なかなか自分に合ったことが見つからず、それどころか、一生見つからずに終わる場合も少なくは無い。
それはやはり悲劇と言うべきだろう。
それなら、腕振り運動や、心の微かな声の呪文をやってみればどうだろう?
腕振り運動を長年「みっちり」とやれば、音楽や武道、あるいはその他のどんなことをやるのと比べても、優るとも劣らない素晴らしいものが得られるだろう。
心の微かな声の呪文となると、短い期間で、それをやる者に変革を起こさせることは間違いないと思う。
これらは、世間における専門というものをはるかに超越した何かをもたらしてくれると思う。
例えば、政木和三さんは、子供の時、特別な訓練を何かやった訳ではなかったが、腹式呼吸を1年間「みっちり」とやったところ、勉強しなくても、難しいお経の意味がすらすらと分かったり、習ったこともないピアノを演奏できるようになった。政木さんのピアノの腕前は凄かったようで、自分で作曲した曲を、やはり自分でピアノ演奏したCDも出したし、そのカップリング曲は、政木さんの曲を、中国の天才的音楽家ウー・ルーチンが歌ったものだった。
下手なお稽古事より、お金が全くかからない素晴らしいものがあるということだし、また、大人が取り組むに相応しいものも、普通のものではない中に沢山あるだろう。









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仏様の顔はなぜ美しいか

仏様のお顔ほど美しいものはない。
なぜかくも美しいのかというと、とにかく柔和であるからだと思える。

その中でも、最も美しいのは、ドイツの哲学者カール・ヤスパースが、ギリシャの神々の最高の彫刻も遠く及ばないと絶賛した、京都広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)であると思う。
この弥勒菩薩像の表情は、西洋でも「アルカイク・スマイル」として知られ、海外のVIP達が、この像を見るためだけにそっと広隆寺を訪れ、地球上で最も美しいこの彫刻を見て、静かに去っていく。
ひと目見れば、啓示を受け、生まれ変わってしまうのである。

インドの聖者ラマナ・マハルシを訪れ、ただ沈黙しているマハルシの前にしばらくいただけで、全く別の人間になって帰っていくのと似ている。
聖徳太子が保有していたとも言われるこの弥勒菩薩像は、第二次世界大戦後の、日本が独立国とは認められない、最も苦しく危機的であった昭和26年に国宝第一号に指定され、その翌年の昭和27年、早くも、サンフランシスコ平和条約が締結され、日本は主権を回復する。その奇跡のような流れは、この弥勒菩薩象の力であると信じている人もいる。

あなたも、この弥勒菩薩の神秘的な静寂の表情を見れば、平和のための至高の力を得ることができると思う。
そして、もっと良いのは、我々自身が弥勒菩薩になることだ。
一切の思考を離れ、ただ天上の精緻な音を聴くように、限りなく柔和に、静かな表情になれば、あなたも弥勒と一体化する。
そのために、たとえば、人間が創ったものではあるが、この弥勒菩薩を創った者がそうであったように、天上の美を地上に降ろすことができた音楽家達によって創られた、言いようもなく美しい、安らかさに満ちた音楽を聴くのも良いことだと思う。
私の場合は、次の3曲をよく聴いている。どれも、単独で演奏される価値がある曲で、実際、『モルダウ』や『木星』は、昔からよくそうされていた。

スメタナ『モルダウ』(交響詩『わが祖国』第2曲)。
ホルスト『木星』(組曲『惑星』第4曲)。
冨田勲『銀河鉄道の夜』(『イーハトーヴ交響曲』第5楽章。独唱は初音ミク)。









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最も美しく力ある言葉とは何か?

誰だって、自分の子供には美しい名前をつけようとするだろうし、実際、人の名前は美しい言葉である。
だが、特に現代がそうなのだが、親が、自分の好きな歌手や俳優、あるいは、その時にヒーロー扱いされてるスポーツ選手の名前を付けることが多くある。親にとっては、その時は美しい名前だったのだが、子供が大きくなれば、「なんでこんな、おかしな名前付けたの?」と疑問を感じることもある。親は、個人的な趣味で子供の名前なんてつけるもんじゃあない。
国の名前なんて、必ずしもその国民が付けた名前じゃないし、いろいろあって、必ずしも美しい名前が付けられるとは限らない。
ベドルジハ・スメタナの『わが祖国』という交響詩は傑作であるが、その中の第2楽章ヴァルタヴァ(日本では英語のモルダウの名で知られている)の旋律の美しさは圧巻であり、是非、じっくり聴けるよう、良いCDを持っておくことをお奨めする。下に、カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏のものをご紹介しておく(これは『新世界より』のアルバムだが、モルダウだけ特別に収録してある)。
スメタナの祖国ボヘミアは今のチェコ共和国だが、ボヘミアを示すチェコ語のチェヒは「光の土地」という美しい言葉だった。
日本は元々は豊葦原の瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに)と呼ばれていたが、古事記うや日本書紀より古い『ホツマツタヱ』には、芦原は「悪し腹」で、国民の性質が悪かったのだが、その悪しき性質を引き抜いて、豊かに水田の実る水穂の国となったと書かれている。
そう思えば、豊葦原の瑞穂の国とは、歴史を感じさせる良い名と思える。
日本も、「ひのもと」なら良かったが、うやむやに決まってしまったような呼び名である「ニホン」ましてや「ニッポン」ではあまり美しくないように思える。
日本が英語でなぜジャパンなのかというと、ジャワ島を英語でジャバという通り、英語は音を濁らせるのが好きなようだが、全く美しくないと感じられるかもしれない。

このように、大切な子供の名前や国家の名前すら、必ずしも美しいとは限らない。
しかし、確実に美しいものがある。それが神の名である。
どこの国でも、神の名だけは、自分達にとって最高に美しい名を付けたのだ。
古くから、どの国にも、真言や呪文という、力や幸福をもたらす唱え言葉があるが、神の名は最高の真言であると聖者、賢者達は言う。
そして、神の名は最も力ある言葉でもある。それは霊的な意味でも、ユングの言う集合意識から考えてももそうなるのではないかと思う。
ギリシャ神話でもインド神話でも、エジプト神話でも、神の名は徹底的に美しい。
あのラマナ・マハルシが崇拝した14世紀のマハーラーシュトラ州の聖者ナームデーヴ(ナーマデーヴァー)は「名前を超えたマントラ(真言)はない」と言い、「名前はケシャヴァ(神)そのものである」と言った。
神の名は神そのものであるのだ。こんな大切なことは必ず覚えているべきである。
聖書にも、「はじめに言葉あり、言葉は神であった」と書かれているが、これは、そのこと(神の名は神そのものであること)を端的に言い表している。
神の名を唱える以上の霊的修行はなく、神の名以上に実際の効力を示すものもない。
『古事記』は、はじめのところで、沢山の神の名が現れ、初めて読む者を戸惑わせる。しかし、直感に優れた者なら、まず、その美しさに惹き込まれるのである。いつか、これらの神の名を美しいと感じるようになってきたら、あなたは、日本人が本来持つ霊的感覚を備えつつあるのだ。
どの神、あるいは、仏の名でも良いから、自分と縁のある神の名を選び、その名を心の中で常に唱えれば、あなたが不幸になることは全く考えられない。
ギリシャ神話の神でも、インドの神でも、本当に心惹かれるなら、それがあなたの神である。そして、別に、選び間違いということはない。
『バガヴァッド・ギーター』で至高神クリシュナが言うように、どの神に祈っても、それは、至高神に祈るのと同じことだからだ。
神の名を唱えるのに、宗教に入る必要もなければ、何かの教義を信じる必要もない。
ただ、美しい神の名を唱えるだけで良い。法然の場合は、それが阿弥陀如来の名であったのであり、それを衆生が唱え易いように「南無阿弥陀仏」という念仏にしたのだ。これは、元々の経典(『観無量寿経』『無量寿経』『阿弥陀経』の浄土3部経)には、ただ、仏の名であるアミターバ(阿弥陀)を呼べと書かれている。しかし、もちろん、念仏の形にするのは良いことであった。
そして、真の神の名は、吾(ア)であり、これは、現代では「私」のことである。だが、「私」という言葉は良くなく、形式的なことだけに使うが良い。ただ、その意味では良い言い方なのであり、嫌う必要もない。
真に優れた名は「ア」で始まることが多い。サンスクリット語でアハンで、英語ではアイであり、それによって古代インドでは英知の花を咲かせ、近代ではアメリカが不思議な統合と発展を示したのだ。無論、「ア」以外で始まる優れた名もあるが、それは別の機会に話そうと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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