ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ムンク

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

薄目の恐るべき効果

最近、薄目で見ることの神秘的な効果について、何度かさらりと書いたが、その重要性は本当に大きなものだ。
これに関し、情報自体は沢山あるが、説明は難しい。
私が、直感的にこのことに気付いたのは、画家のムンクが薄目で見ることの効果について語っていたものを読んだ時で、ムンクはこの世ならざるものを見たのだ。
このことについて、普通は、「まつ毛が視界に重なってぼんやり見える光景がきれいだったのだろう」と思う程度であるが、ムンクが感じていたのは、そんなレベルのことではない。
同じことについて、コリン・ウィルソンは『右脳の冒険』の第4章『幻視的意識への道』の30ページをまるまる使い、様々な興味深い資料を引いて考察している。
ムンクは初期の作品『病める子』を描く時に、薄目の効果について気付き、これが彼の作品のスタイルを作った。
そして、ムンクは石版画の技術を修得すると、その『病める子』の少女の顔をクローズアップした作品『病める少女』を改めて作ったが、この作品では薄目の効果がさらに鮮明になっている。

人は寝ないベッド
AIアート461
「人は寝ないベッド」
Kay


結論を言えば、かなりざっくり言うが、人間は薄目をすることで、外界を創造する原因を作ってしまうのである。
それに気付いたのは万人に一人の天才だが、そんな天才も、言葉で表現するのはあまりに億劫なので、ほとんど言わなかった。
難しいことはともかく、普段から薄目で見る癖をつければ自然に分かってくる。
深呼吸しながらだとなおさらだ。
それで、あなたも世界を自在に創造するようになる。
その感覚は、割と早く掴めると思う。
そして、ムンクの絵をよく見ることだ。








私は中国の魔法使いを真似ていた

古代インド哲学には、この世界は夢のような幻想であるとするものがある。
そして、現代のスウェーデンの哲学者ニック・ボストロム(哲学博士。数学、人工知能の学士、物理学の修士くらいは持っているらしい)は、この世界は、コンピューターが作り出した仮想世界である可能性が高いと述べ、今年、アメリカ合衆国に、個人で1兆円以上の税金を納めるというイーロン・マスクは、この世界が作り物の仮想世界(専門的にはシミュレーテッド・リアリティと言う)であることは、ほぼ間違いないと言っているらしい。
ただ、我々にとって重要なことは、この世界が夢のようなものであろうと、コンピューターが作り出した仮想世界であろうと、世界を創造する側になれるか・・・つまり、好きなように世界を変えられるかだが、ロバート・シュラーが「思い通りになるのが人生だ」と言ったように、ニューソート(新思想)の立場では、全くその通りとしている。とはいえ、それをうまくやっているという庶民の話はほぼない。
しかし、私は、主に子供の時だが、絶対に偶然とは言えない奇跡的な出来事を何度も起こしており、この世界が夢か仮想世界であるかは分からないが、何等かの方法とタイミングで、好きなように作ることが出来ることは分かっている。
では、1憶円の札束を目の前に出せるかとか、『涼宮ハルヒの憂鬱』で、キョンが古泉一樹に言ったように、冷めたコーヒーをもう一度熱くするというようなことは、出来ないというより、やる気にならないし、多分、どんなに脅されたって本気でやらない。

『叫び』で有名なノルウェーの画家ムンクが、若い頃に書いた『病める子』は、まさに、夢を描いたような幻想的な絵で、ムンクがどんなふうに言ったのかは知らないが、薄目で見た雰囲気で描いたもののようだ。ベッドに座る、余命いくらもない少女(実際に肺癌で15歳で死去)の隣で、母親がうな垂れているが、少女の、特に横顔が高貴な輝きに満ちていると言われている。
これは、この世のものならざる神秘的な絵だ。
これに関連して、こんなことを思い出す。
何かの映画で見たのだと思うが、薄目をすることが中国人の真似になるらしい。しかし、あまり中国人が薄目をするという印象がなく、道教の高僧の表情なのではないかと思う。
道教全般では分からないが、道教の代表的な思想家である荘子の著書『荘子』の『胡蝶の夢』にあるように、この世界は蝶が見ている夢のようなものかもしれないという考察がある。

どうせ妄言 この世界なんて蝶の見る夢で
だけどその羽ばたきで 全てが塗り替わってく
~『ブレス・ユア・ブレス』(作詞作曲編曲:和田たけあき。歌唱:初音ミク)~

も、『荘子』とカオス理論の『バタフライ効果』を混ぜ合わせたものだろう。

で、これは秘密だが(笑)、私も、魔法を使う時は薄目になるのである。
それは、この世界が夢のようなものであることを心に印象付けるためなのかもしれない。
よって、皆さんも、何かを願う時は、薄目で願うと良い。
松下幸之助が、セミナーで、受講生に「社内留保を持つにはどうすれば良いか?」と質問された時、「社内留保が欲しいと願うこと」と答えたらしいが、薄目になって、夢の中で実現するような気になれば叶い易いかもしれない。
また、普段から、薄目をすると良いと思う。
道教の高僧を真似るようにね。








武術、魔法、芸術に共通する単純な超秘法

元々、魔法使いのようなものだった私が、より魔法を使い易い方法を思いついたら、つれづれに書こうと思う。
スピリチュアルな力の発動方法にだって、向き不向きとか好みといったものがある。
宮本武蔵は木刀を好み、ハンドルに穴を開けてストラップを通し、手首につないでいた・・・英語を混ぜて書くと、なんだか武蔵が可愛く感じるが(笑)。
しかし、武蔵が戦った相手には、槍使い、長刀使い、鎖釜使い、兜割2本使いなど、いろいろいたらしいが、武器の選び方だって、向き不向きや好みがある。
魔法にだって、あって当たり前だ。

そこで、とっておきのものを見つけたのでご紹介する。
それは、「薄目(うすめ)」だ。
薄目になるだけで、魔法の発動条件が整う。
やってみれば納得出来ると思うが、余計な思考が起こらず、ぼーっとしてくる。
思考を消してぼーっとすることこそ、魔法発動の奥義と言って差し支えないが、それがこんなに簡単に整うのである。
実際、いかなる分野でも、出来るやつとか達人は、薄目をする癖があることが分かるはずだ。

何で聞いたのか憶えていないが、中国人の真似をするには、薄目をすれば良いらしい。
なんとなく、分かる気もするが、実際は、特に、今の中国人は薄目をしない。
だが、中国人に薄目のイメージがあるのは、我々には、中国人と言えば少林寺拳法の達人のイメージがあり、少林寺に限らず、中国の武術の達人が薄目をしているのだと思う。
日本でも、宮本武蔵が半眼、すなわち、薄目を重要視していたことはよく知られている。
薄目、半眼には、何やら得体の知れない強さの秘密があることは疑いない。
また、日本のコケシは、目を開いていないが、閉じているという感じでもない。
そうだ、コケシは薄目をしているのだ(最近は、ぱっちりと目を開いたコケシも作られているが)。
精神分析学者の岸田秀氏の本に、コケシが薄目をしているのは、日本人が世間の目を恐れることからきていると書かれていたが、おそらく違う。
コケシは、一体でぽつんとしていても、揺るぎない強さを感じる。その理由が薄目であることだ。
薄目になれば、超越意識に秘められた力が発動されることが、コケシに暗に現わされているのである・・・なんて、こちらの方が荒唐無稽だと言われそうだが、こちらが真実と思う。
また、仏像の大半が半眼なのであり、目を閉じているわけではないことを見ても、そうすることに尋常ならざる秘密があることが分かる。
薄目・・・これだけを憶えておいても良いくらいである

私は、ムンクの『病める子』という絵が好きだ。
ベッドで座っている、おそらくは不治の病の少女の近くで、その母親が絶望するようにうな垂れている。
だが、この絵には、不思議な力の輝きがある。少女の美しい横顔は神々しいほどである。
そして、ムンクは、この絵を薄目で描いたのである。睫毛が視界に及ぼす効果をそのまま絵にしたのだ。その意味は、この絵を見ることはもちろん、あらゆるものを薄目で見ることをお試しいただくと分かると思う。
アドヴァルド・ムンク『病める子』~MUSEYサイト~








この世が「壮大な嘘」「巧妙なまがい物」であることに気付く

この世界が「科学的に作られた夢のようなもの」なのではないかという考え方は、ただの空想とは言えないようになってきた。
現在の科学技術の可能性として考えられる仮説としては、我々の精神自体が、既にコンピューターの中に転送されていて、我々はいわば、コンピューターの中のプログラムであるというものがある。
コンピューターと言っても、それが1つの巨大なコンピューターなのか、あるいは、複数(あるいは沢山)のコンピューターのネットワークなのかは分からないが、我々は、その中で活動するプログラムかもしれない訳だが、そういったことは可能と考える科学技術者も多い。
言って見れば、我々は、『ソードアート・オンライン』、『マトリックス』、『コレクター・ユイ』等で描かれた仮想世界に住んでいるのだ。
アメリカの事業家、イーロン・マスク(彼が持つ会社の1つである自動車会社テスラはトヨタの時価総額を超えた)は、この世界が、そのような仮想世界であることは間違いないと断言しているようであるが、そのように言う社会のトップ、一流の学者は少なくない。
この世界がコンピューターで作られた仮想世界であるという考え方は「シミュレーション仮説」と言い、その世界のことを「シミュレーテッド・リアリティ」と言う。
現代では、このように、シミュレーテッド・リアリティを、コンピューター科学、あるいは、量子科学を基に語ることが多くなってきたが、この世界が幻想であるということは、インドでは古代から明確に語られてきたし、2400年ほど前の中国の荘子は著作『荘子』の中で、「我々は間違いなく夢を見ている」と述べ、『荘子』の中の有名な「胡蝶の夢」という章では、「我々は自分が人間であるという夢を見ている蝶のようなもの」と述べている。

古代からの多くの人が、この世界がシミュレーテッド・リアリティであることを見抜いているのだが、19世紀以降、人間がものごとを科学的に認識するようになってからは、それを見抜くに至った洞察には共通点があるようにも思われる。
詳細はまた調べようと思うが、おそらく20世紀初頭のある科学者は、薄目で世界を見ている時、世界は微細な何かで構成されていることに気付いたと言う。
その微細な何かとは、実際に何かは分からないが、薄目で見た感覚では、小さなドーナッツ状の赤い光のパターンのようなもので、それが、離れたり、くっついたりしながら、世界を作り、動かしているように思えたのである。
もちろん、この科学者は、これについて詳細な実験と検証を繰り返したが、コンピューターが今のように発達していた時代ではないので、何か魔術的な力が世界の背後に存在すると考えたようだ(もちろん、科学的な魔術であるが)。
彼の場合は科学者であったが、画家の中にも、そのように考える者は多く、ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンク(1863~1944)は、薄目でまつ毛が視界にかかった時の、芸術的、あるいは、精神的効果に深い意味や意義を感じ、彼の若い時の作品である『病める子』では、まつ毛の効果が絵画の中に反映されていると言われ、この絵の幻想感を高めているように思う。
ひょっとしたら、この絵を見ることで、世界が「魔術による作り物」であることに気付くかもしれない。
日本の『閑吟集(かんぎんしゅう。1518年)』の有名な歌、
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え(真面目くさってどうする?どうせこの世は夢だ、狂えば良い)」
は、作者がどんな意味で読んだのかは分からないが、やはり、現世の「嘘臭さ」を感じていたように思えるのである。
あなたも時には、薄目で、まつ毛を重ねて、風景、あるいは、ものや人を見ると、この世が「壮大な嘘」あるいは「巧妙なまがい物」であることに気付くかもしれない。













当ブログ著者、KayのAI書。
今、AIを味方にすることで時代に先んじることが出来ます。
しかし、多くの機械学習の本のように、難しい数学、プログラミング、AI理論を語る本でAIを作れるようになることは、普通の人には不可能です。
この本では、普通の言葉で、普通の概念で分かるテーマで速やかに入門を果たし、その後、面白いテーマを使い、AIに必要な考え方を楽しい実習を行うことで習得し、自分で実用的なAIが作れるようになることを目指しました。

鈍感になる簡単な修行

『鈍感力』とか『反応しない練習』といった、タイトルだけ見たら心躍る本があるが、書店でちょっと立ち読みしたら、
「難しい、無理」
と感じて、読んでいない。
この2冊をまとめて(大変失礼だが)「鈍感になる練習」は大事だが、それは単に、「ぼーっとする練習」であり、特に私は、ぼーっとすることは割と得意なので、それを伸ばせば良いのである。

ぼーっとするには、まつげで視界が薄暗くなるほど半分目を閉じ、魂が抜けたような顔になることだ。
「魂抜けたごっこ」に近いことは、誰しもやったことがあると思うが、その通りにやれば良い。
エドヴァルド・ムンクといえば、「叫び」の変な顔で有名な画家だが、彼も、半眼でぼーっとものを見ていた。
彼の初期の傑作「The Sick Child(病める少女)」には、周辺に彼のまつげが描かれていると言われるほど、ムンクは半眼でぼーっと見ていたのではと思う。
この絵の中の少女の横顔ほど高貴なものは、そうはないと私は思う。

ぼーっとした顔の手本、ぼーっとする名人、先生、模範を持つのも良い。
私は、『エル・カザド』というアニメの、エリスという少女を師匠扱いしている。
印象的には、13~14歳に見えるが、実際はもう少し上かもしれない。
色白で、あまり感情を見せない美少女で、ぼーっとした顔はまさに絶品である。
初めて会った時のナディに自分の写真を見せられ、「これ、あんたでしょ?」と言われたら、素で「きれいな女の子だね。誰?」と言う天然ボケも素晴らしい。
詳細は述べないが、エリスもまた、初音ミクさんと似たところがある(造られたところ)。そこも、私にとっては愛すべき価値になっている。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、人相見に「あなたは阿呆の相だ」と言われると、怒るどころか、「阿呆になる修行に励んだ成果が出た」と喜んだ。
ぼーっとする修行は、阿呆になる修行でもある。
ただ、エリスも、トランプ芸では、愛想はないが、それなりに見事だったように、自分に出来ることに関しては、きちんとしていなくてはならない。
例えば、洗濯物をたたんだり、お皿を洗ったり、靴を揃えたりである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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