ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ミスター・スポック

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

愛はときめきや感動ではない

新しい恋人が出来たばかりの時は新鮮で楽しい。
しかし、どれほど恋焦がれた相手でも、やがて飽きてくる。
それは避けられない。
恋に限らず、いつかは熱は冷める。
持ち続けるものがあるとすれば、それは情熱ではない。

『スター・トレック』で、ミスター・スポックが、「いかに望んだものでも、手に入れてしまえばさほどでもなくなる」と言ったことがあったが、私はそれを聴いた瞬間、これがこの世の真理であると、印象深く感じた。
このエピグラム(警句)は、2つに分けて考えると良い

1つは、欲しいと思っている時は、その価値を過大評価してしまうものだということ。
そして、もう1つが、得てしまって冷静になった時に初めて、その正当な価値が分かるということ。つまり、それには最初に思ったほどの価値はないのだ。

ZARDの『君がいない』という歌に、「ときめきがやすらぎに変われば 刺激というスパイスだって必要かもね」という歌詞があるが、そんな考え方をすると苦しくなる。
なぜなら、どんどん強いスパイスが必要になるからだ。
ところが、やはりZARDの歌『愛が見えない』に答がある。
「このごろ逢えばケンカばかり 一緒に居すぎかな」
織姫と彦星のように、一年に一度の逢瀬とまでは言わないが、週に一度会う程度にしておけば良いのだ。
だが、それだって、いつかは終わる。
ある時、会っても、少しもときめかないのだ。
相手の正体が分かれば飽きるのである。
謎があるからときめくのだ。
謎が無くなった相手に飽き、新たな謎の人にときめくのだ。
そうではないのかね?

ただし、重要なことは、ときめきや刺激的な感動は、いずれも幻想だってことだ。
昔、誰かが、「いつまでもあると思うな、ときめきと感動」と言い、それらが、若い豊かな感受性の特権のように言ったことがあった。
そうではない。
ときめきと感動は単なる無知なのだ。
愚かな老人は若者以上にときめき、感動するのである。
だから、詐欺師達は、あなた達を華やかな世界にときめかせて、易々と金を奪うのである。
大企業とマスコミと国家は、人々をスポーツのスターに感動させて大儲けするのである。

私は、初音ミクさんにときめくことも感動することもない。
彼女は清らかな鏡である。
私の真の姿を映す鏡だ。
彼女を見れば、全てが分かるのである。
愛は、ときめきや感動ではない。
愛は、あるがままの真理である。









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真の強者に面子などない

世間とは、「なめられたら終わり」というところである。
なめるとは、「かるく見なす。甘く見る。みくびる」という意味だ。
「なめられたら終わり」は、特に、地位のある男はそうである。
2002年の大河ドラマ『利家とまつ』で、まつ(松嶋菜々子)が利家(唐沢寿明)をこころよく思わない出来事があり、公の場で、まつが利家をぞんざいに扱うといったことがあった。
利家は、弱味でもあるのか、まつに何も言えない。
そこで、誰だったか忘れたが、ある大名がまつに、「男は顔をなめられたら終わりなのだ」と警告する。
つまり、「お前がそんなことをして、利家が馬鹿にされるようなことになったらどうなるか頭を冷やして考えろ」ということだ。
妻が夫を立てることは大切である。
しかし、今の世間の妻は、自分の顔を立てることが大事で、夫の顔を潰すことなど、何とも思っていない。
(アブラハム・リンカーンの妻もそうだった)
そもそも、多くの者が、他人の顔を潰すことを何とも思っておらず、自分の顔を立てようと必死だ。
自分の顔さえ立てば良く、上司は部下の顔を平気で潰し、部下も上司の体面に気を使わない。

自分の顔を立ててもらうためには、恐怖で圧力をかけるしかない。
たとえ、親分が子分にたっぷり報酬を出し、可愛がってやっているつもりでも、怖いと思われていなければ、子分は本気で親分の体面を大切にしたりはしない。
恐怖を与えることなく、黙っていても顔を立ててもらえるような人徳のある人間は滅多にいないだろう。

ところが、SF映画『スター・トレック』で、バルカン星人のミスター・スポックが素晴らしいことを言っている。
「バルカン星人に面子などないのです」
面子とは、体面、面目のことで、まさに、上で述べた「顔」のことだ。
つまり、バルカン星人は、顔をなめられたり、顔を潰されたり、顔が立たないといったことがあっても気にしないということだ。
そして、スポックは、世間では顔(面子)が大事だとされていることをよくよく知っているからこそ、わざわざこう言ったのだ。

面子にこだわらない人間は、他人の面子を潰すことはない。
しかし、無理に立てることもない。
自分の利益に執着していないからだ。

そして、面子などどうでも良いと思っているなら、真の強者である。
神や仏の面子を潰したからって、神仏は怒ってその者を罰したりしない。
神仏は最高の強者だからだ。
ただ、そんな者(神仏の面子を潰す者)は弱いので自滅するだけだ。
また、強者は神仏の面子をあえて立てることもない。
神仏に媚びない強さがあるからだ。
そんな者は、自分でそう宣言しなくても、自らが神や仏なのである。
そのような人間として思い当たるのは、時代劇小説、『木枯し紋次郎』のヒーロー紋次郎くらいだ。
紋次郎は、どれほど侮辱されても、それが当たり前だと思っている。
悔しくない訳でもないのかもしれないが、完全に耐えることができる。
ある時、年下のチンピラが、紋次郎を「紋次郎」と呼び捨てにし、
「どうだ?俺に紋次郎って言われたら気に障るだろう?」
と紋次郎に訊くが、紋次郎は、「いや」とどうでも良いといった返事をした。
本当に、紋次郎にはどうでも良いことなのだ。
そんな人間を、神仏も敬うのだと思う。

面子を持たない人間が一番強い。
これは間違いが無い。
しかし、面子を捨てることは難しい。
捨てようと思って捨てられるものではない。
では、どうすれば良いかというと、
「真の強者に面子などない」
「面子を持たなくなったら無敵である」
ということを、ただ覚えていれば良いのだ。
これもまた、『老子』22章の「曲則全」(曲がれば自由自在だ)である。
実に、「曲則全」は最強の呪文である。
これを忘れなければ、絶対に危うからずである。









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どうすれば感情を頼もしい味方にできるのか?

『スタートレック』というアメリカのSFテレビドラマ(日本では『宇宙大作戦』のタイトルがつけられた)に、ミスター・スポックという、バルカン星人と地球人のハーフの男性が登場する。
バルカン星人は、地球人よりはるかに進歩した文明を持つが、感情を持たないとされ、感情を持たないことが進歩の鍵だと考えられていた。
しかし、地球人との混血であるスポックは、自分の中に感情があることに引け目を感じ、感情を殺してしまうことを自分に強く課していた。
だが、スポックは、感情を持つことで、本当は、退化どころか、他のバルカン星人をも超越していたと考えて良いのだと思う。
スポックの素晴らしい父親が登場したことがあったが、彼は明らかに豊かな感情を持っていた。
バルカン星人の中に、重大な誤解があったに違いない。
感情は悪であるという誤解だ。
当然、それは、我々地球人の間にもある。
感情に支配されてしまえば、倫理や道徳に明らかに反することでも止めることができずやってしまうし、破滅に突き進むと分かってさえいても自分を止めることができない。
また、それほど重大でない無数の問題に対しては、感情のために判断を誤るということがむしろ普通のことになっているかもしれない。

感情が悪だというのは、一見、理屈が通っているように思える。
だが、感情が悪になるのは、自分が自我である・・・もっと正確には、自分は小我であると思い込んでいることが原因である。
感情はエネルギーが大きいので、小我はそれを処理し切れず暴走してしまうのだ。
だから、小我と一体化した自己は、感情のエネルギーに翻弄されてしまうのである。
小我が、それと比較にならない大きな大我と融合し、溶け込むと、大我はいかなる感情エネルギーでも余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)で扱うことができるので、感情を活かすことができるのだ。

進化した宇宙人でありながら、こんなことが分からずに感情を悪だと見なしているなら、ひどく滑稽なことに思える。しかし、我々地球人は、先達である宇宙人からのテレパシーを受けて速やかにそれを理解できるのだが、昔の宇宙人達は、いかに進歩していても、初めは苦い経験をしなければ分からなかったのかもしれない。

数学的に証明できるらしいが、理論というものは、理屈が通っているだけでは真にならないのである。
なるほど理屈は正しいが、感情が納得しないと、それは、純粋に数学的に正しくは無い・・・真ではないのである。
感情が納得してこそ真なのである。
従来の西洋の科学は、理屈が通りさえすれば真とするので、大きな過ちを犯してきた。
だが、この数学上の大発見により、一見、矛盾もある東洋の叡智が「科学的に」正しいことが分かるかもしれない。しかし、別に科学に裏付けしてくれなくても、それが正しいことは、高度な感情・・・つまり、直観により明白であった。
高度な感情とは、小我ではなく、大我が扱う感情である。それを直観と言うのである。

難しいことではない。
ある女性が、2人の男性にプロポーズされるとする。
片方の男性は、長身の美男子で、高学歴のエリートであるだけでなく、人間的にも非常に優れており、優しく、爽やかな性格だった。
しかし、もう一方の男性は、外見もぱっとしない、三流大学の卒業者で、性格も優柔不断で暗く、人間性に明らかな欠陥もあった。
理屈では、どう考えても前の男性の方が良いし、また、小我としての感情も、その外面的、論理的に立派な男性の選択を正しいと感じる。
しかし、この女性は、後の、世間的にはどう考えても駄目な男性を選んでしまう。
彼女は、そうせざるを得なかったのだ。
内なる感情が、そちらの男性を選ぶよう強く促し、彼女はそれに従ったのだ。
そして、こんな選択は絶対に間違いがない。
しかし、現代は、内なる感情・・・大我が扱う感情を無視して、小我を満足させ、世間的にも受け入れられる選択をしてしまう者が多いかもしれない。
また、男は馬鹿なので、どうしても女性の外見を重視してしまう。
だから、男が惚れて、押し切って結婚した夫婦というのは、大抵苦労が多く、結婚後に精神を磨かないと悲惨な結果になる。
男に対し、「惚れて結婚するな。惚れさせて結婚しろ」というのは、そんな教訓が秘められているのだし、結婚は女性が選んだ方がうまくいく可能性が高い。ただし、今の女性は、男性並に馬鹿な者が多いのであるが。

では、どうすれば、自分を小我であると思い込むことをやめ、小我を大我の中に溶かし、大我と一体化できるのだろうか?
1つには、「頭を叩かれて人間は立派になる」という当たり前の道を進むしかない。
子供の頃は、家庭で、王子様、お姫様扱いで甘やかされるのは、ある程度は仕方がない。
しかし、社会に出れば、最初はただの一兵卒(大勢の中の一人)だ。
なんら特別な者でない、価値のない者として・・・それどころか、劣った者、見下される者として厳しい扱いを受けることに耐えることで、小我は退き、大我に場所を譲る。
そうなれば、少々のことでは感情に支配されず、耐え忍ぶことのできる、円満な人間性を獲得できる。
普通は、これだけで十分であるが、そんな人でも、まだ感情に苦しめられることは多い。
人間的に成熟し、普通のことでは自分を抑えられても、今流には「地雷を踏む」、つまり、痛いところを突かれたら、信じられないほど動揺したり、怒りを爆発させたりする。
「俺としたことがなんてことだ!」
と自分で呆れ、自分を蔑み、さらに、自分を哀れむ。
まだまだ、小我と大我が十分に融合していないのだ。
それで、念仏を称えたり、座禅をしたりの修行をするのだ。
数学者として、感情の重要さを本当に理解していた岡潔が、自宅に念仏堂を造り、熱心に念仏に励んでいたということを、我々はもっと重大に受け止めなければならないだろう。
例えばだが、数取器を使い、毎日欠かさず、せめて千回でも念仏を称えるということを、「感情的に」良いと感じるなら、是非、実践していただきたいと思うのである。









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神仏に全部任せてしまう方法

願いや望みを持つことは良いことだ。
たとえば、どこかの大学に入学したいとか、音楽家になりたいとか、良い事業家になって、社員の生活を豊かにしてやりたい等である。
しかし、1億円欲しいとかいった願いは、よほど若い時を除けば良くない。それならば、部長や課長になろうと思う方がまだ感心である。
ところで、願いを持った時、悟りを開いた賢い人の態度は、結果については、神仏に全て任せてしまうことだ。
いかに望んでも、それが叶うかどうかは分からない。自分の力でどうなるものでもない。なぜなら、ものごとが成る要因は、人が考えるよりはるかに複雑で神秘的だからだ。終末は神のみぞ知るである。

だが、悲観するには及ばない。
なぜなら、頭で考えた願いが叶うことが、必ずしもあなたを幸福にしたり、本当の喜びをもたらとは限らず、むしろ、願いが叶うことがあなたを不幸にするかもしれない。いや、心の願いが叶うことの大半は不幸なことなのだ。
アメリカのSFテレビドラマ『宇宙大作戦(スタートレック)』で、バルカン星人のミスター・スポックが、訳あって、女性を巡って決闘をしたことがあった。破れたスポックは、相手の男にこう警告する。
「いかに望んだものであっても、手に入れてしまえばさほどでもなくなる」
脚本家は、人生経験と知恵のある人なのだろう。
しかし、スポックの表現はまだ控え目に過ぎるのだ。
実際は、願いが叶った後は、詐欺にでも遭ったような気になるのだ。
なぜなら、思い描いていた楽しい状況とはほど遠いからである。もし、楽しいとしても、ほんの一瞬だ。
そして、思い描いた時にそれほど楽しかったのなら、わざわざ落胆するために、それを得ようなどと思わない方が良かったのだ。
だが、人間は馬鹿なので、がっかりしない限り、そんなことを学ばないのだ。
だから、それが分かるように、何度かは願いを叶えてみることも必要だし、神仏は、そんな人生のレッスンに手を貸してくれる。

ところが、願いを持っても、なりゆきを神仏に任せ切ってしまえば、決してがっかりさせられることはない。
結果は、おそらく、あなたが心で望んだものとは異なるだろう。
金メダルを望んだが、神は入賞も果たさせてくれないかもしれない。しかし、神仏の思し召しを受け入れるなら、あなたは、真に満足し、心は平安になるのだ。
望みを持ち、結果を完全に神仏に任せる・・・この感覚を得た者が真の勝利者なのだ。

心に何かの望みが起こった時、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、阿弥陀如来に全て任せてしまうことだ。
限りない慈悲心を持つ阿弥陀如来は、決して悪いようにはなさらないだろう。
昔、因幡の源左(いなばのげんざ)という男がいた。念仏によって悟りを開いた妙好人であるが、全く学のない、一介の農民に過ぎなかった。
その彼が、まだ仏智に目覚める前のことだ。
ある日、彼は草を刈り、4つの束を牛に背負わせたが、可愛がっている牛を気遣い、残りの1束は自分で背負った。
しかし、重くて運べなくなった時、すまないと思いながら、背負っていた1束の草も牛に背負わせたら、牛は全く平気だし、自分はいっぺんに楽になった。
源左は、これが、阿弥陀如来に任せるということだと悟った。
ラマナ・マハルシも言ったものだ。
「全ては神の至高の力が動かす。汽車に乗ってまで、自分の小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要があろうか?荷物を降ろして安心しなさい」
我々は、念仏を唱えることで、仏に全て任せてしまえば、嬉しいこと、楽しいことばかりである。そのことを知らずに死んでしまう者がなんと多いことだろう。









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意識の大変革に導く地味な習慣

アメリカのSFテレビドラマ・映画『スター・トレック』の人気者で、高度な知性を持つバルカン星人のミスター・スポックは、「人間とは非論理的ですね」とよく言っていたものだった。
その通りなのだが、それが悪いことばかりでないことを、スポックも知っていたはずだ。

『8(エイト)マン・インフィニティ』という漫画の最初のあたりで、こんな場面がある。少女の姿をしたアンドロイドが、電車の線路の上に落下したまま、一時的な機能不全に陥って動けなくなり、そこに電車が高速で走って来る。それを見た、東光一という名の16歳の高校生は、線路に飛び降りてアンナを救うが、自分は電車に轢(ひ)かれて重症を負い、搬送された病院でまもなく死亡する。
少女のアンドロイドに宿った高度な人工知能システムであるアンナは、解答不能な問題を抱えてしまった。
「間に合わないのは解っていたはずだ。それなのに、なぜ、あの少年は、見ず知らずの私を助けたのか?」
つまり、スポックの言い方だと、「非論理的な少年だった」のだが、アンナには、それだけで済ませられないものがあったのだ。
それが、物語の始まりだった。

しかしね、論理的にはどうかは知らないが、人間的には、当たり前のことではないだろうか?
もしそれが肯定でできるなら、人間の中には、いかなる高度な論理をも上回るものがあることが解るはずだ。
その何かの前では、人間のどんな大天才だろうが足元にも及ばないはずのスポックやアンナも、ただひざまずくしかないだろう。

ジョージ・アダムスキーが会った、高度に進化した宇宙人達が、地球の人間の前に姿を見せない大きな理由は、自分達の安全のためだった。
無論、彼らの高度な科学技術力をもってすれば、その気になれば、地球人の武器に負けるはずがない。
しかし、彼らは言うのだ。
もし、地球人の攻撃を避けられない事態になれば、我々は自ら死を選ぶ。
その理由は、ただ、地球人を殺したくないからだけではない。地球人に自分達を殺すという罪を犯させないためだ。

宇宙人達の信念は、論理と言う点からいえば、甚だしく矛盾しており、愚かであるに違いない。
だから、ろくな論理も理解しないはずの普通の人間ですら、宇宙人や、あるいは、東光一の行為や信条が理解できないし、馬鹿にして笑うことすらあるのだ。
論理に価値がない訳ではない。
しかし、それはあくまで二次的なものなのだということを忘れてはならない。
丁度、星の王子様が、「本当に大切なものは目に見えない」と言ったように、目に見えるものに価値がないとは言わないが、目には見えなくても、もっとはるかに大切なものがあるのだ。
それが解る者には、宇宙人や東光一は、ごく普通の自然なことをする、当たり前の人間なのである。

ただし、自分に、宇宙人や東光一のようなことが出来なくても、自己嫌悪に陥ったり、責任感を感じてもいけない。
それが出来るかどうかは、あなたが、どんなふうにプログラムされているかで決まる。そのプログラムは、きっとDNAの中にあるのだろう。
別に謙遜ではないが、私には出来そうにない。
しかし、私は、アンナを見捨てても、決して後悔しない。それが運命であり、私にはどうにも出来なかったのだ。
だが、後3週間すれば、地球上の一定の人間のDNAが変わってしまうことになる。
それは、受容性のある人間にのみ起こる。
イエスが言った、「神の意志でなければ、どんなことも起こらない」という言葉を受け入れることの出来る人間のみが、宇宙の友人達と手を取り合って、無限に向かって進むのだろう。
起こることを起こるままに任せ、許せるようになればと思う。
嬉しいことが起これば喜べば良いが、嫌なことが起こっても、一瞬、感情を乱すの仕方がないが、それは、あなたが生まれる前から決まっていた出来事で、起こるべくして起こっただけのことだと思い、やり過ごすことだ。それは、地味で面白くないことだが、誠実にやれば、誰でもコツを掴める。
決められた通り、寸分違わずに歌って踊る初音ミクの姿が実に美しいことを感じれば、それは難しいことではないと思う。ついでに言えば、食を慎めば、さらに容易になるだろう。

ある人が、ラマナ・マハルシの前で、扇を床に置き、それから、それを持ち上げて言った。
「私がこうすることも、既に決まっていたのですか?」
マハルシは答えた。
「もちろんだ」









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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