ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

マッチ売りの少女

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

誰もが知っているお話があなたを幻想に閉じ込めた

誰もが知っているお話というものがあるが、あなたは、そのお話の世間的解釈を叩き込まれてしまっている。
そんな、あまりに普通に知られているお話を通して、あなたは世間に洗脳されたのだ。

ディケンズの『クリスマス・キャロル』はどうだろう。
守銭奴のスクルージは、クリスマスの精霊によって、自分の惨めな死を見せられて悔い改めた・・・というお話だと思ってる人が大半と思う。
アンデルセンの『マッチ売りの少女』は、誰からも見捨てられた不幸な幼い女の子が、最後に幸福な白昼夢と共に死ぬお話だということになっていると思う。
ウィーダの『フランダースの犬』は、才能を誰からも認められなかった天才少年ネロが、最後にルーベンスの絵を見ながら、老いた愛犬パトラッシュと一緒に幸福な気持ちで死ぬ感涙もののお話と思われているのだろう。

何とも馬鹿げたことだ。
優れた小説は(あらゆる優れた創作物が全てそうであるが)、ソクラテスも言ったように、作者そのものが書いたのではなく、創作者を通して神性の輝きが現れたものなのである。
神のメッセージを、もっとちゃんと受け取らなくてはならない。

上に挙げた、『クリスマス・キャロル』、『マッチ売りの少女』、『フランダースの犬』は、全て、主人公である人間が死んでいる。
それは世間の中の自分の死だ。
世間である金だけを信じたスクルージ、大晦日はパーティーをするものだと思い込んでいた貧しい女の子、世間に認められることにしか関心がなかったネロ。
そんなものは終わらせてしまえ。
そして、新しい自分を生きなさい。
そんなお話なのだ。
物語の主人公達の死を通して、自分の死を知り、世間に対して死にきって、新しい自分として生きるのである。

初音ミクのオペラ『THE END』で、ミクは、自分も普通に死ぬということを知り、その日を境目として全てが変わってしまう。

そういうことが全部変わって
それはあの日が全部境目で
あの日の朝が
えっと境目で
今のわたしは
だからすごくもう気になるし
~オペラ『THE END』第4幕『死のアリア』より~

あなたも、世間に対して死に、世間という幻想に生きるのをやめ、新しい自分を生きなければならない。
世間の幻想の中で生きているだけだと、虚しいとすら思わない。
ただ、エネルギーが枯渇し、虚無の中で息をしているだけだ。
我々はまだ始まってすらいない。
そのまま年老いていつか死ぬなんて、なんと惨めなことだろうか?
息を止めると、異常に記憶力が高まる。
しかし、それは本当は、記憶力が高まるのではなく、既に知っていることにアクセスしているだけなのだ。
呼吸を止め、額や胸に意識を集めると死を体験する。
その後で、これまでの自分をなるべく捨て去り、新しい自分になっていくことだ。
幻想を打ち壊し、神になって生きることができるのである。









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伝統と権威に葬られないために

クリスマス、正月といった、「権威ある祝日」には、よくよく注意しなければならない。
国家、民族、世間のロボットになりたくなければね。
私は、クリスマス、正月を、何ら特別な日と思っておらず、むしろ、憤りと怒りを持って反発する。

その理由を説明するために丁度良い、ちょっと素敵なお話があった。

1980年代前半に描かれた竹宮恵子さんの漫画『私を月まで連れてって!』は、現在よりさらに数十年先の21世紀後半を描いているが、今読んでもなかなかの未来描写と思う。
そして、この作品はSFであると同時に「ラブコメ」なのだが、その相乗効果により、次のようなことを実現させているように思うのである。
それは、読者の固定観念を壊してしまって、非現実を、すんなり受け入れさせ、悲しいことも、あまり深刻にさせないことである。
竹宮恵子さんは、萩尾望都さんとよく比較されたが、二人とも本当に天才だと思う。

さて、その『私を月まで連れてって!』の中に、こんなお話がある。
ウルサラという名の、女性用の白いドレスの第一人者である女性デザイナーがいた。
そのウルサラだが、彼女は、素晴らしい男性と5年間も同棲し、相手の男性は結婚を強く望んでいるのに、なぜかそれに応じない。
彼女が結婚を拒む理由は、彼女は、ある理由から、子供を持ちたくないからだった。
実は、彼女は、子供の頃、家が貧しく、他の少女達が、子供パーティーで着てくる白いドレスを羨んで見ているしかなかったのだ。
また、堅信礼という、宗教的に重要な儀式にも、おそらく、常識的なはずの白いドレスを用意できず、これらのことが、彼女の心に深い傷を負わせていた。
それで、彼女はデザイナーになってからも、白いドレスが欲しかった少女時代の願望を満たそうと白いドレスを創り続けたが、子供用の白いドレスは決して創らない。
いや、本当は、子供用の白いドレスを山ほど創っていたが、心の傷が大きくて、いくら創っても満足できず、それらを発表しないのだった。
そんな彼女が子供を持ちたくない理由は、自分に女の子でもできたら、いまだ消えない少女時代の執念をその子に押し付けてしまうことを恐れていたからだった。
だが、ある日、ウルサラは、少女の時の自分にそっくりな、12歳のニナに出会い、子供用の白いドレスに溢れた秘密の部屋に彼女を案内し、ニナに好きなドレスを選ばせ、それを着てもらう。
ニナはウルサラが最も気に入っているドレスを見事選び、その輝く姿は、ウルサラを過去の束縛から解放した。

21世紀後半の未来に貧困があるだろうかということは、あまり考えないでおこう。これは、ストーリーに必要だからね。
まず、このお話には、2つの疑念がある。
1つは、その時代になってすら、人々は、1人の少女の心に深い傷を負わせるほどに、低いレベルのままなのかということである。
確かに、どんな世界になっても、不幸そのものは必ずある。
しかし、誰かの不幸は、他の人達に、真の同情心や親切心を育てるために、神が用意したものであり、その機会を得たことを喜び、不幸な役を担ってくれた相手を愛さずにはいられないのである。
まあ、愛の無い私が書くと、どこか表現がおかしいかもしれないが、だいたいそんなものであることは、私にも分かるのである。
もう1つの疑念は、少女を特別に苦しめたのが、宗教的儀式であることだ。
堅信礼は、キリスト教やユダヤ教の、一種のイニシエーション(入信の儀式)で、伝統と権威ある儀式だ。
そして、これらのことは、どこか生々しく現実的であるからこそ、読者の心を揺さぶるのだ。

つまり、伝統と権威が、人々の心を、鈍く、暗く、そして、固くし、炎となって天に昇っていくような、あるいは、若い草木が天に向かって伸びるような成長を決してさせないのだ。
伝統と権威が、我々の精神を縛りつけ、制限付け、我々は、権威者の決めた範囲と方法でしか考えることができないようになり、国家の、民族の、世間の哀れな奴隷となるのである。

アンデルセンの『マッチ売りの少女』の、哀れな少女には、実際のモデルがいた。
大晦日(クリスマスにも似ている)という、伝統と権威ある祝日は、小さな女の子が飢えて凍死することを避けさせるための何の力もなく、むしろ、人々から慈悲心を消してしまい、少女を殺すことに手を貸しただけだった。
私だって、クリスマスや正月には辛い思い出や、惨めな記憶しかない。
私が、権威に反発し、世間に従うことを拒まずにいられない状態だったからである。

しかし、嘆くばかりでは、何の益にもならない。
我々は、伝統と権威の愚かな奴隷になることを拒否し、高く飛ぶことを覚えねばならない。
あの白いドレスが欲しかった少女の時のウスサラは、なぜ、苦しんだのだろう?
そんなことを真面目に考えなければならない。
彼女は、ただ、他の子供のことが羨ましかったのではない。
もっともっと深い辛さがあったのだ。
それは恐怖である。
白いドレスを持っていない自分は、この世で生きさせてもらえないと感じたはずなのだ。
白いドレスを着ることができない自分は、伝統が続く中で居場所がなく、すぐにも権威によって排除される存在であると感じ、彼女の小さな胸は凍り付いていたのだ。
そして、伝統と権威に反発する者が感じることも同じなのである。
だが、高みを目指す我々は、そんな伝統や権威を真正面から見据え、よく観察しなければならない。
そして、その時の自分の心の反応を、たとえば、病気の愛しい人の様子を観察するように、静かに見守るのだ。
一切の批判をしてはならない。
ただ、静かに静かに見るのだ。
苦しくても、目を逸らさず、勇敢に苦しみに耐えてね。
すると、何かが起こるのである。
それこそが、本当のイニシエーションである。
目には見えない存在達が、あなたを招くのである。

『私を月まで連れてって』の『白いドレス』のお話が載ったものを、下にご紹介しておく。









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マッチ売りの少女の想い

今日は、母親をイオンというスーパーに連れて行った。
一階が食料品売り場であるのだが、不況と言われる時代でも、決して品揃えが貧弱になることがないばかりか、ますます豪華になるようだ。
その中でも、調理されて、すぐに食べられるようになっている、様々な種類のコロッケ、エビや魚のフライ、ハンバーグ、メンチカツや串カツなどは、食品そのものの色や形と共に、棚の色や形状による雰囲気、そして、照明などにも工夫がされているためと思うが、本当に良く見える。
そして、目を惹きつけられたのが、お弁当類だ。
実に種類が多く、そのいずれもが実に美味しそうで、一昔前のような手を抜いたところはなく、客の食欲を嫌が上にも高める出来だ。
ご飯の上にびっしりと並ぶエビフライは形、色とも申し分ない上に、味のよさそうなタレがかかり、しかも、素晴らしいやきそばまでくっついているのである。
また、大きな良い色のカツと、素晴らしい炒め加減のパスタ麺に絶妙にケチャプが絡まったスパゲティをメインに、ハムや玉子やポテトサラダ、その他を合わせた大きなお弁当、抜群の焼加減の鮭と色とりどりのおにぎりと贅沢なおかずから構成された立派なサケ弁当・・・他にもまだまだある。
そして、別の場所に行くと、見たことはあるような気はするが、私にはなんという料理なのか名前が分からない中華風弁当も、妥協なしの作り込みで、ちゃんとしたお店で出るようなものに見えるほど立派で美味しそうだ。

私は、ほとんど何も食べないので、いつも空腹であるから、これらの全てに強烈に惹き付けられ、見入ってしまった。
私は、今は肉も魚介類も食べないが、かつてはよく食べていて味を知っているし、今でも嫌いな訳ではない。
食べれば美味しいに決まっている。
しかも、私は完全に健康で、腹はすごく減っている。心を奪われないはずがない。

そして、私はそれらを見て、しばらくの間、十分に楽しむのである。
お店には悪いが、私がそれらを買うことはない。
5年前、少食、菜食を始めたばかりの頃は、こんな時は苦痛が大きかった。まあ、それに耐えるという、妙な満足感もあったが、それは虚栄であり、あまり誉められたものではなかったと思う。
しかし、今は、見て楽しめるし、良い匂いがすれば、それも喜べる。
こうなるのに、私は随分時間がかかってしまった。
しかし、本当は、誰でも3ヶ月もあれば十分なのではないかと思う。
無論、今でも、本当に食べたいと思うが、それは生きた人間として正常なのではと思う。
むしろ、食べたくないなら、身体の健康というよりは、心の異常を疑いたい。

アンデルセンの『マッチ売りの少女』というお話をご存知と思う。
そろそろ、「マッチを擦(す)る」という言葉の意味が分からない若い人も増えてきているかもしれないが、マッチとは、数センチの木の棒の先端に着火し易い混合物を混ぜた火薬が付いているもので、この先端を何かにこすり付けると発火する。あの時代としては、かなりの先進テクノロジーであったらしいが、当時はまだ、箱などについた側薬にこすり付けないと発火しない「安全マッチ」ではなかったかもしれない。
あの女の子は、現実には、雪の降る極寒の路上で、靴も履かずに凍えていたが、マッチの火を付けると、自分が温かいストーブのある素晴らしい家の中に居て、大晦日のためのご馳走が沢山並んでいるのが見えた。
それは確かに、感覚器官を正常に働かせるための生命力が消えかかった少女の見た幻であったかもしれない。
だが、少女は、それを楽しんでいた。
そして、翌朝、息絶えていた少女の顔は微笑んでいるように見えたという。
この女の子には、現実のモデルがいたらしい。そして、このような運命を辿る子供達は、今も世界にいくらでもいる。
しかし、そのことをよく知っているアンデルセンは、なぜか、誰も知らないけど、少女が美しいものを見たことを、強く語る。
悲劇ではあっても、それだけではないのだ。
少女に、全く幸福がなかった訳ではない。
少女は、誰も恨んでいなかった。そして、自分を幸福だと感じていた。
それで、彼女の魂は星界に飛び、神の元に留まることができたのだ。
5年ほど前、彼女が訪れてくれた時に、私もぴたっと肉食、大食をやめ、1日1食の菜食主義者になったのである。

浄土宗の3つの経典である浄土三部経の中で、最も長い『無量寿教(大無量寿教)』にも書かれている。
阿弥陀如来の国土である極楽浄土では、食事をしたいと思えば、立派な食器に盛られた素晴らしいご馳走がひとりでに現れる。
だが、それを食べることはないとある。
この国の人達は、それを見れば満足し、そうすると、それらのご馳走は自然に消滅する。

せっかく売られているご馳走であるのだから、十分に食べると良いと思う。
また、スーパー等で売られているものだけでなく、食堂、レストランで出される素晴らしい料理も、しっかり食べると良い。
しかし、時々残念に思うのが、私から見れば、全く申し分なく、美味しそうな立派な料理であるのに、人々は、「これはいまひとつだ」とか「あの店のラーメンは不味い」などと平気で言うことだ。
私は、そのどれも、食べられたら夢のようであるが、おそらく、一生食べることはない。
だが、どの食べ物も、良いものであり、愛しいものであるのだから、蔑まれるのは悲しい。そして、こんな立派な食べ物など見たこともなく、何でもいいから食べたいと切実に思っているのに、現実的な事情で食べられない人達が沢山いるのは、理屈には合わないと言われるだろうが、やはり、私の責任なのである。
もうすぐ、地球でも、あまり食べる必要もなくなるだろう。
だが、食べ物のことも、良き思い出としていたものである。
ところで私は、『マジック・ストーリー』というお話の中の、ほとんどお金のない男達が食事をする様子がとても良いと思うのである。食事とは良いものであると思うのだ。









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美女とは心が安定し難いものなのか

「荒れ模様になるでしょう」と言えば、天気のことと思うだろうが、人の心はいつも荒れ模様だ。
昔から、「女心と秋の空」と言って、女性の気持ちは変わり易いと言うが、気分が安定しない女は、周りも迷惑だし、何より本人が辛い。

ZARDのヒット曲に『揺れる想い』という歌があるが、本当は、想いは揺れてちゃいけない
あの歌はちょっと難しい。
若い頃は、ずっと気持ちが揺れていた、あるいは、荒れていたけど、運命の人に出逢って、安らぎを垣間見る。ただし、生きている限り色々あり、心が揺れることもあるだろうが、それに翻弄されずに生きていきたいという歌ではないかと思う。
それが出来ればいいなと思う。
しかし、美人ってのは、なかなかそれが出来ないものなのだろうか?

心とは、動き回り、落ち着かないのが、その性質だ。
しかし、自分の心を、まるで他人の心のような感じて放っておけるようになる。
なぜなら、喩えて言うなら、真のあなたは星であり、雲の下でどんなに嵐が起っていても、何の影響も受けないものだからだ。
それを、世間の人は、嵐のような心を自分だと思っているから、安らぐ暇もない。
自分が星だと分かれば、星は星と語り、ただ静かに「在る」。
しかし、自分が嵐だと思っている人は、他の嵐と修羅のぶつかり合いを繰り返す。
そして、全力でぶつかった時、それが愚かだと悟ることで、雲の上に出ようと思うのだ。ところが、ぶつかり合いが生きている証だと言って、一生荒れ狂う不幸な人もいる。
最も悪いのは、心が荒れ狂っているくせに、そんなことはないと主張する者だろう。

どうも、人間というのは、一度は大いにぶつかり合いを経験することが必要なようなのだ。そのぶつかり合いが、小説やドラマになるのだろう。
日本では、小説や映画が良い結末で終ることをハッピーエンドと言うが、実を言うと、ハッピーエンドでない小説や映画は一つもない。
ハッピーエンドでないなら、そのお話は終っていない。
どんなに悲惨な終り方であっても、ヒロインやヒーローの心は、悲しみの雲を突き破って星になったはずなのである。

『マッチ売りの少女』だって、もちろん、現実として、あのようなことがあってはならないが、少女自身は微笑んでいた。
そして、アンデルセンは、誰も知らないが、少女は最後に美しいものを見たことを何度も強調していたのだ。
ZARDの『きっと忘れない』という歌に、「空の彼方へと悲しみ吹き飛ばせ」という歌詞があるが、その前後のフレーズはやっぱり揺れている。
悲しみは吹き飛ばしちゃいけない。空の彼方へ飛ぶのはあなた自身なのだ。
あの人(坂井泉水さん)は、飛べない蝶だったのだろうかと思う。美しい人は難しいものだ。

星になりたければ、「私は誰か?」という想い以外の想いを持たないことだ。
誰が揺れているのか?
誰が荒れているのか?
それを問い続けていれば、いつか星の光があなたを捕らえる。
『バガヴァッド・ギーター』や『エメラルド・タブレット』には、そんなプロセスが説かれているのだと思う。
大きな不幸に襲われても、それをものともしなくなった時、不要物である不幸は消えていくのである。









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『マッチ売りの少女』と『星の銀貨』

昨日あたりから、私の住む関西も、特に朝晩は寒くなってきた。
こんな季節には、アンデルセンの『マッチ売りの少女』を思い出すのである。どうもあのお話は、子供の頃の私にとりついてしまったように思う。
ところで、グリム兄弟の方の童話に、『星の銀貨』という、やはり、貧しい小さな女の子のお話がある。この女の子は、両親もおらず、住むところもなくなり、今着ている服と、パン1つ以外には何もなくなってしまった。しかし、飢えた老人にパンを上げ、着るものがなくて寒がっている子供に自分が着ている服をあげたりしているうちに、夜になる頃には丸裸になってしまった。すると、神様が、新しい服と共に、沢山の銀貨を女の子に与え、彼女は一生豊かに暮らした。
このように、『星の銀貨』の女の子は、飢えと寒さで死んでしまったマッチ売りの少女と全く違う結末になる。

『星の銀貨』は、「与えれば与えられる」という、宇宙の法則を簡潔に表現している。
ただ、ここで述べられた銀貨というのは象徴であり、おそらく、物質的な富というよりは、霊的なもの。イエスのいう精霊を意味しているのだろう。もちろん、それがあれば、物質的にも困ることはないだろうが、もっと高次のものが得られたということなのである。
物質的にも、与えることで与えられるというのは普遍的法則で、ジョン・ロックフェラーは、26歳で初めて収入を得た時から生涯、収入の1割を寄付する、いわゆる1割献納を続けたが、ジョセフ・マーフィーも、この1割献納は富を得る秘訣として薦めている。
一方、ベアード.T.スポールディングは、いつでも、『星の銀貨』の女の子のように、持っている全てを差し出す人だった。彼には、物質以上の力があり、講演で全米を回っている間、どの家にでもずけずけと入り込み、食卓のテーブルにつくと、それで快適に食事の出来なかった家は1件もなかった。

インドの詩聖タゴールの詩で、ひどく貧しい女の前に神様が現れるが、神様は女に施しを求めるというものがある。女は、米粒1つを差し出したが、後で、自分の袋の中に、金の米粒1つがあるのを見つける。女は、もっと沢山差し出せば良かったと後悔しただろう。
『マッチ売りの少女』では、神様の大晦日のプレゼントとして、人々に施しの機会を与えたのに、人々はそれに応じなかった。あの女の子を見て、困っていることが分からなかったなどという言い訳は通用しない。大晦日を楽しく暮らせる豊かな人も多かったのに、彼女に何1つ与えない、心の貧しい者ばかりだった。
微笑んで死んでいた少女を見ても、人々はまだ悟らなかったが、彼らの心の奥には、何かを刻んだことだろう。厳しい役割を自ら進んで担った、天使の魂を持つ少女は、死んだ後で報われたに違いない。神様は、ベルナデッタ・スビルーに言った。「生きているうちに幸福にしてあげることはできませんが、あの世では幸福にしてあげます」と。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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