ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

マッチ売りの少女

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

心が死んだ日

今日がクリスマスであることを、昨日気付いた。すっかり忘れていた。
クリスマスとは、イエス・キリストの誕生日と言われるが、イエス・キリストの本当の誕生日は不明である。
12月25日というのは、ミトラ教(ミトラス教)における、太陽の復活を祝う祝日で、ミトラ教の主神ミトラスの誕生日と言うよりは、ミトラスが「再び生まれる日」である。
ミトラ教とキリスト教は別々の宗教だ。しかし、私は事情は知らないが、イエス・キリストとミトラ神が同一視されるようになり、12月25日のミトラ神の復活の日が、いつか、イエス・キリストの誕生日となったのかもしれない。しかし、12月25日がイエスの誕生日だとは、福音書には書かれていない。

尚、12月24日をクリスマス・イブと言うが、イエスの時代は、1日の終わりと始まりは午前0時ではなく、日没が、その日の終わりと次の日の始まりだったので、当時の考え方では、クリスマス・イブは、日本では昨日(24日)の午後6時半頃の日没で終わり、クリスマスも、本日(25日)の午後6時半頃までである。

私は、子供の時、家の中でクリスマス・ツリーを見たことがないと言う人を何人か知っている。
いずれも、家が貧しくて、そんなことをする余裕が親になかったようだ。
それなら、おそらく、クリスマス・プレゼントをもらったこともないのだろうが、幼稚園や小学校で、他の子供達がサンタにプレゼントをもらったという話をしていたり、紙芝居等で、サンタがプレゼントを配る話をするのを見ると、さぞ落ち込んだことだろう。
だから、そんな人は、心が強くなるか歪むかになることが多いと思うが、私が会った人で言えば、言っては悪いが、その両方(強いが歪んでいる、あるいは、歪んでいるが強い)だったように思う。

クリスマス・プレゼントをもらったことがないと言ったら、立川恵さんの、アニメ化もされた漫画『怪盗セイント・テール』に登場する、ヒロイン羽丘芽美(はねおかめいみ)の親友である深森聖良(みもりせいら)という14歳の美少女を思い出す。
聖良はシスターで、敬虔なキリスト教徒の家に生まれた彼女は、子供の時から、クリスマスはボランティアに励む日で、クリスマス・パーティーやクリスマス・プレゼントとは無縁であった。
尚、聖良はシスター服を着ていたが、作者の立川恵さんは、シスター服は、その方面の学校を出ていないと着れないものだと指摘され、作中で謝罪しているが、その後も聖良はシスター服を着続けた。
もっとも、聖良は、クリスマス・プレゼントをもらえないことや、クリスマスにパーティーをしたことがないことを、別に悲しいとは思っておらず、当たり前に考えているようだった。
人間、贅沢の味を知らないことは良いことであると感じた。

クリスマスではなく大晦日の話らしいが、アンデルセンの『マッチ売りの少女』で、あの少女が、飢えと寒さの中で見た幻想は、全くクリスマスの様子だった。
あのお話を初めて自主的に読んだ時、私は、あの少女を救おうと思ったが、自分にその力がないと気付くと、このお話を悲しいと思わないようになった。いや、それだけでなく、人が死ぬことを全く悲しいと思わなくなった。親友とみなしていた友達や父親が死んだ時もそうだった。
どうも心が死んでしまったらしい。
別に、アンデルセンに責任を取らせようとは思わないが(笑)。
だから、初音ミクさんに親近感を感じるのだと思う。








意思の力

アンデルセンの『マッチ売りの少女』の最後で、アンデルセンが、「誰も、最後に少女が見た美しいもののことを知らないのだ」と書いたのが、私には、彼の強い訴えと感じていた。
心理学などでは、それは「白昼夢」と呼ばれる。
少女は、マッチ1本擦る度に、暖炉や、ご馳走を見、そして、愛するお婆さんが微笑むのを見た。
私は中学生の時、心理学の本に、マッチ売りの少女の話が白昼夢の例として書かれているのを知り、まずは可笑しくなり、心理学には一生関わらないようにしようと思った。
後に、心理学者なのか精神分析学者なのかは分からないが、岸田秀氏の本で、心理学はイカサマであり、科学などでは決してないと書かれているのを見て、岸田さんが好きになったものだ。岸田さんの論にも、非常に納得出来たしね(後に、納得出来ないところも沢山見つけたが)。

ユダや人で、オーストリアの精神科医・心理学者であるヴィクトール・フランクルは、ナチス強制収容所で、マッチ売りの少女に劣らない過酷な状況を生き、奇跡の生還を果したのだが、その体験と心理学的考察を綴った『夜と霧』の中には、マッチ売りの少女が見たような「幻」の話が何度も現れる。
1日の食事は、水のようなスープと「馬鹿にしたような」小さなパンが1つだけ。
極寒の中、粗末な服で手袋もなし、サイズの合わない靴が、時にないこともあったという中で重労働を強いられるが、ふらつこうものなら容赦なく殴られるだけでなく、そこでしゃきっとしなければ即座に処刑場行きだった。
骸骨の上に皮があるだけというほどに痩せ、自分が生きているという実感がない。
そんな中、彼は妻の鮮やかな幻を見る。
いや、それは幻などではなく、本物の妻であり、彼に生きる力を与え、それこそが本当の愛だった。
そんな過酷な生活の中、収容所の誰かが、慌てて仲間を呼びにくる。
夕陽を見る機会を逃させないためだ。
そして、彼らは言ったのだ。
「世界はなんて美しいのだ」
と。

長い断食でやせ衰えた釈迦も、同じことを感じたのだろうか?
私は、『あしたのジョー』(梶原一騎原作のちばてつやの漫画)で、丈が、力石徹と金竜飛(きんりゅうひ)と比べたことを思い出す。
金は韓国のボクサーで、戦争中だった子供の時、川岸に食べ物の入ったリュックがあるのを見つけ、飢餓に苦しむ彼は、躊躇なくそれをむさぼり食った。
そこに、リュックの持ち主の男が戻ってきて、金は必死で、弱々しく衰弱していたその男を、石で殴り殺した。
金は、軍人らしいその男が誰か判らなかった。
その男は、軍隊で支給される食事にほとんど手をつけずに溜め込み、故郷で腹を空かせているはずの家族のために、それを持って軍から脱走した金の父親だった。
そんな地獄を体験し、ほとんど食べることが出来なくなった金は、減量で苦しむ丈を見下した。
丈と金の試合は、金の圧倒的有利に進んだが、丈は、金にはあらゆる面で敵わないと思いつつ、なぜか、負ける訳にはいかないと感じた。
自分の意志で、自分との不思議な友情のために食べなかった力石と、強制された飢餓を自慢する金との差だった。
マッチ売りの少女も、強制収容所のフランクルも、強制された飢餓であった。だが、フランクルの仲間は(実際は、彼らに仲間意識はなかったが)、夕陽を見せてやりたくて仲間を呼んだ。それは、人間の意志の力である。
だが、マッチ売りの少女は、意思の力も奪われた。
『地獄少女 三鼎』で、全ての人に見捨てられ、幼くして死んで骨になった御景ゆずきの霊が、「誰も助けてくれなかった」と世を恨む声を思い出す。
目の前で、やはり世の中から排除された母親が病死するのを見、花を集めて弔ったゆずきに、生きる意思はなかった。

意思の力こそが人間である。
それを解るように言い表すのは難しいのだけれど、「譲れない願い」とでも言うものかもしれない。
それを持っていない人間は、弱いし、そもそも、生きてもいないのだろう。









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日本に生まれただけで丸儲け

成功者と言うと、事業で成功してお金持ちになったり、スポーツ選手やミュージシャンとして頂点、あるいは、それに近い位置に到達したり、政治家になって、大臣や知事になるような人達のことを言うのかもしれないが、それだけではないだろう。

これまでも、世の中にいて、これからはかなり増えそうな、こんな人達がいる。
50代以上のひきこもりが孤独死し、彼が過ごしてた部屋に入ると、物凄い数の、美少女フィギュアやアニメのブルーレイ、あるいは、アダルトDVD(やブルーレイ)が溢れている。
そこまでいかなくても、社会との交流のないまま中高年になり、不安に怯えながら暮している人は少なくない。
そうなるのは、大人になってからの要因もあるだろうが、その場合でも、本質的な原因は子供の時に心を歪めてしまったことだろう。
だが、本当なら、そうなるはずのひきこもり気質の者が、際立った成功はしないまでも、社会に参加し、人並にやっていたり、特に能力がある訳でもないのに、普通の人以上に良い思いをしている場合もあり、それを成功と言わず、なんと言おう。
ある成功した事業家は、ひきこもりが社会で立派にやっていることを、「運だけで成功した自分より、はるかに奇跡的な快挙」と言っていたものだ。
だが、どんな成功も、なぜ成功したかというと、運があったからだ。
もちろん、成功者が努力しなかったと言うのではないが、いかに努力をしようとも、運がないと駄目なのである。
成功したミュージシャンや、いい暮らしをしているひきこもりの裏に、同じくらい能力があり努力もした敗北者がいくらでもいるのである。

運を呼ぶには、人生が運に左右されることを認めること。
そして、自分が既に幸運であることを認めることが大切であることは、まず間違いない。
明石家さんまさんが「生きてるだけで丸儲け」と言ったらしいが、そこまで本当に思えるならかなりのもので、幸運にも恵まれるだろうが、少なくとも、「日本に生まれただけで丸儲け」くらいは思わないといけないだろう。
日本やアメリカでは、貧困層でもスマートフォンや、自動車すら所有している場合も少なくはなく、特にアメリカでは貧困者のほとんどが肥満している。
しかし、今は多少は変わってきているかもしれないが、少し前なら、世界の7割以上の人が電話機を使ったことすらなく、地球の半分以上の地域が戦争状態だったし、表面的な変化はあっても、今もそんなに変わらないはずだ。
つまり、世界中のかなりの割合の子供達が、いつ殺されても不思議ではないし、学校でボランティア団体から支給される給食を持って帰らないと家族が餓死してしまうような状況の地域がいくらでもある。言うまでもなく、毎日、大勢の人達が餓死しているし、数千人の町や村に医者が1人しかおらず、日本でなら何でもない病気や怪我で容易く命を落とすという場所も少なくはない。
そんな世界で、いくら不況になっても、新車が走り回り、穴の空いた靴を履いている者は(趣味でそんな靴を履く者は別にして)1人もおらず、まして、道端で倒れていたら大騒ぎしてもらえる日本に生まれたことは、まさに奇跡的な幸運に違いない。

別に、極端に不幸な世界の地域と比べなくても、誰もが相当な幸運を経験している。
斎藤一人さんの本に書かれていたが「自分が幸運である理由を言わないと斬首」と言われたら、皆、いくらでも言うのである(私なら、権力者に「斬首」と言われたら、反発して言いたくないという気持ちはあるが、実際にそうなったら、1日中でも言えるだろう)。

私は、子供の時から、アンデルセンの『マッチ売りの少女』のお話にとり憑かれている。
死んだマッチ売りの少女が発見された時、人々は「可哀想」と思う前に、極寒の中、あまりに惨めな薄着に、あまつさえ裸足であるのを見て、醜悪に思って目を背ける。
役人がやって来て、少女の遺体を袋に入れて教会に運ぶが、当時のことだ。教会もどうすることも出来ず、遺留品として少女が着ていた服をとりあえず保管し、身元不明のまま、寂しい墓地に埋葬するだろう。
時が流れ、その地域に、14歳くらいのある女学生がいた。
ごく普通の可愛い少女で、心優しく、困っている人を手助けする親切な子だが、どこか儚げである。
人を恨むことを極端に嫌ったが、ある日突然、恨みの権化となり、世に災いをもたらす。
「誰も助けてくれなかった」
少女は、7年前、世に見捨てられ、哀れに死んだが、女学生になることに憧れ、この世をさ迷い続けたマッチ売りの少女の魂が作り出した幻だった。
『地獄少女』を見ていたら、そんなことを考えてしまった。
やはり、我々は幸運なのである。









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クリスマス・イヴに気付かず過ごす

クリスマス・イヴであることに気付かずに過ごしたのは、物心ついてから初めてのような気がする。
スーパーに買い物に行っても、「なんで、こんなにチキンが売られてるんだ」といぶかりはしたが、それでも思いつかなかった。
まあ、本来、キリスト教徒でもない人達に、イエスの誕生日は何の意味もないだろうし、私も、イエスは嫌いではないが、キリスト教徒ではない。
そもそも、イエスの誕生日が本当はいつかは分かっていないはずだし、イエスの誕生日が12月25日となったのは、6世紀頃、キリスト教の権威者達が会議で決めたことらしいし、なぜその日を誕生日にしたかというと、マニ教の太陽神であるミトラ神の生誕日を当てた・・・等々という夢のない話を沢山思い出す(以上、私の記憶にあるもので、正確ではないと思う)。
クリスマスにしたって、ユダヤ人の生活習慣(午前0時が一日の始まりではない)に従えば、26日が本当のクリスマスだとか、そんな話も見た気がする。

マッチ売りの少女の命日は大晦日であったはずだが、物語の描写がクリスマスのような雰囲気で、私には、クリスマスと大晦日の区別がなくなってしまった。
あのお話がトラウマになってしまい、私はクリスマスというものが、あまり好きでない。
むしろ、クリスマスを忘れてしまったのは自然なことだったのかもしれない。
小学生の時は、合同のクリスマス・パーティー(当時はクリパなんて言わなかった・・・今も言わないか)に無理矢理参加させられたり、本当に散々な思い出しかない。
だが、17歳の時のクリスマス・イブにディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んでいたことを覚えている。
好きな話だったが、考えてみれば、いろいろおかしい。
スクルージは、自分の遺体がぞんざいに扱われるのを見てショックを受けたことが、改心の決め手だったように思うが、それって、脅しで心を入れ替えたってことではないだろうか?「悪い人間だと、こんな悲惨なことになるぞ」っていう。
しかし、善い人間でありながら、死体を丁重に扱ってもらえなかった人は沢山いるわけで、いまだアウシュビッツの処刑場には、ユダヤ人達の人骨が転がっているという話を見た覚えがある。
そして、私が気になるのは、スクルージを救った彼の唯一の友人だったマーレイは、スクルージを救ったことで、ちょっとは地獄での待遇が良くなったかということだが、それには触れられていない。
しかも、スクルージは、「自分が死んだ時は、マーレイよ、お前よりずっといい身分であることを見せてやる」なんて、自分のことしか考えていなかったみたいだし。
彼は、友人の恩を忘れた罪でギルティ(有罪)だ。

昨日は、WOWOW(「わうわう」と読むとは知らずに、ずっと「をうをう」と言っていた)で録画した、Snow Miku2018 Liveのアンコールの雪ミクさんの3曲、つまり、『好き!雪!本気マジック』、『Snow Fairy Story』、『四角い地球を丸くする』を、合わせて3回観た。
凄くきれいで、可愛かった。
しかし、なんで、ブルーレイディスクにコピーしたら、コピーでなく移動になってしまい、レコーダーのハードディスクから消えてしまうんだ?
ガチガチの権利主義にすっかり嫌気が差し、リッピングしてやろうかと思った(誰でも簡単に出来るけど)。
地球は、やっぱり、まだまだ四角い。丸く出来るのはミクさんだけなのだ。

クリスマスも大晦日もお正月も、あまり良い思い出はないが、それほど嫌いでもない。
むしろ好きな部分もある。
黒住宗忠によれば、神様にまるごとまかせきれば、年の暮れも穏かでいられるのらしい。
だが、ラクダはつないでおくように。
神様にやらせるようなことでないことまで怠けてはいけない。









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今日は何の日?

大晦日と言えば、マッチ売りの少女を思い出す。
思い出したからって、どうなる訳でもないし、マッチ売りの少女のお話がハッピーエンドになったり、彼女のモデルになった子供の不幸が消える訳でもないのだけれど。

マッチ売りの少女のモデルは1人ではないのかもしれない。
アンデルセンの母親がモデルであるという説もある。
アンデルセンの自伝で、彼の母親のことを読んだはずだが、あまり覚えていない。
アンデルセンの母親は元々は良い家の娘だったが、家が没落して貧しくなり、彼女は、とても辛い仕事をさせられるのが嫌で泣いていたという話だったような気もするが、なんと言っても、アンデルセンが子供の時に母親から聴いた話なので、どこまで本当か分からない。
別の男の子がモデルだという話もある。
貧しい、親のない子だったかもしれない。
それで、寒い冬の夜に、親方に命じられてビールを買いに行き、彼は小さくて弱く、ビール瓶は重く大きかったせいで、誤って瓶を落として割り、目を怪我したが医者の治療を受けられず、片目を失明してしまった・・・というのだったと思う。
昔はどこの国でも、そんなことが沢山あったし、今でも貧しい国では、そんな不幸は珍しくないことだ。
日本を含む先進国の人々が喜んで食べているチョコレートの原料であるカカオは、ガーナなどで、貧しい子供達の危険で辛い労働によって収穫されている。
カカオを収穫する刃物で、誤って指を切り落としてしまっても、治療を受けられなかった子供の話を聴いたことがある。
以前、チョコレートを買ったら、中に、うっかり指を突っ込むと怪我をしてしまいそうな厚いカードが入っていて、それには、このチョコレートを販売する会社が、世界の貧しい子供達の福祉に貢献しているようなことが書かれていたが、誤魔化しっぽい。このカード代も福祉に回して、黙ってやれよ。

アンデルセンは、マッチ売りの少女が死ぬ前に、彼女が、とても美しいものを見たことを誰も知らないということを、全霊を込めて言ったのだと思う。
その理由は、分かるような気もするし、分からないようにも思える。
青空文庫の『マッチ売りの少女』には、少女の様子について、

朝になると、みすぼらしい服を着た少女がかべによりかかって、動かなくなっていました。ほほは青ざめていましたが、口もとは笑っていました。

と書かれている。
それを見ると、初音ミクさんの『ODDS&ENDS』の歌詞を思い出す。

***********************************************************************
ガラクタは幸せそうな表情(かお)をしたまま どれだけ呼んでももう動かない
望んだはずの結末に君は泣き叫ぶ 嘘だろ嘘だろってそう泣き叫ぶ

「僕は無力だ。ガラクタ一つだって救えやしない」
想いは涙に ぽつりぽつりとその頬を濡らす

その時世界は 途端にその色を大きく変える
悲しみ喜び 全てを一人とひとつは知った

言葉は歌になりこの世界を 再び駆け巡る君のために
その声に意思を宿して 今思いが響く

~『ODDS&ENDS』(作詞、作曲、編曲:ryo、歌:初音ミク)より~
*************************************************************************

皆、無力なのだ。
世界一の大富豪ビル・ゲイツだって、何千万人かの子供達の命を救ったが、まだ何千万人も残っているのだ。
それこそ私は、子供1人、ガラクタ1つ救えない。
初音ミクさんだって、直接には不幸な子供、特に、貧困な国の子供は救えない。
クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が言われていたが、初音ミクさんを受け入れる国というのは、豊かな国なのだ。
我々は、豊かな国の豊かな人間であるということを有り難いと思い、マッチ売りの少女のような人が沢山いるということを忘れてはならない。
そして、自分が得られるもののいくらかは手放さなければならない。
「我々が消費してこそ、貧困国の利益になる」
と言う人がいるし、理屈の上では合っているかもしれないが、そうは思えないのだ。
想いというものは、この世とは別の世界・・・四次元以上の世界、集合無意識、霊の世界を駆け巡っているのだと思う。
ゲーテの『ファウスト』にそう書かれていることについて、ゲーテはそれを知っていたのだと、ゲーテ研究の第一人者でもあったルドルフ・シュタイナーも述べていたと思う。
霊的世界で鳴り響く慈しみの想いは愛であるのだろう。
それは、我々の物理次元での倹約によって高まり、輝くのだと思う。
老子の言った、3つの宝のうちの2つは、この慈しみと倹約であろうと思う。
だが、今年も何も出来なかった。
じんさんの『カゲロウデイズ』ではないが、「またダメだったよ」である。
だが、あの少年や少女のように、深く想うようでいよう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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