ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

マックス・ギュンター

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

簡単な簡単な超強運の秘訣

松下幸之助さんは、人間、あるいは、経営は運が大切だと言われていたらしいし、豊臣秀吉が、運の良い武将を抜擢したという話もあったと思う。
人間の一生なんて運で決まるようなところがあるし、運のない会社が発展するとは思えないが、会社の運とは社長の運だろう。
そして、運について書かれた本は非常に多く、それらの本は、運が良いと思われる著者が、自分や自分以外の運が良い人について考察し、運の良さの要因や、運が良くなる秘訣について書かれている。

どんな人が運が良いかについて、私には特に、2人の人が印象にある。
1人は、作家で投資家のマックス・ギュンターで、彼は自分も運が良かったのだと思うが、自分以外の強運の持ち主について徹底調査し、『運とつきあう』という本にまとめている。
ギュンターは、成功者が成功したのは全て「たまたま」だと言う。つまり、成功者はみんな、たまたま成功しただけだ。
しかし、その「たまたま」を呼ぶことも出来るのではないかということを、割と控え目に主張している。
この「たまたま」は、もちろん、幸運のことである。
彼の場合、何ごとにおいてもだろうが、運に関しても、調査が客観的で正確で、また、思い込みを避ける知性があるので、その控え目な論がかえって説得力を持っている。
彼が、本の中で取り上げた強運の持ち主に、バーナード・バルーク(1870~1965)という人物がいるが、その名を知る人は、あまり多くはないと思う。
だが、長きに渡って、大統領以上にアメリカ、そして、世界を動かした人物で、つまるところ、米国大統領を動かし続けた男なのだ。
それと共に、投資で空前の成功を収めた人物だ。
大統領も運がないと務まらないが、大統領以上となると尚更だし、投資も、能力と共に、所詮、運が必要だ。実際、バルークより能力が高い専門の投資家が大不況で資産を失う中で、バルークだけが大儲けしたのだ。
そして、本物のノウハウはシンプルだ。
バルークの幸運の秘訣は一言で言い表せる・・・本人が一言で言ったのだ。
その幸運の秘訣は「欲張らない」である。

もう1人は、国際的な大俳優だった丹波哲郎さんだ。
子供の時から生涯、ツキまくっていた人物であるが、彼自身は、自分の幸運を守護霊のおかげと言っていて、それはそれで本人が言うのだから間違いないだろうが、では、なぜ、丹波さんが、それほど守護霊のおかげをもらえたかについても、本人がちゃんと、確信を明確に述べている。
彼が、自分が守護霊によく護られている理由については、小学生の時の通信簿に書かれていた。
丹波さんは、「先生は、俺には褒めるところが何もないので、仕方なく書いたのだろう」と自嘲していたが、実際は重要なことだったわけだ。
それは、成績ではなく、いわゆる「性格欄」とか「所見欄」に書かれていたことで、「丹波君はこだわりがない」みたいなことが書かれていたようだ。
「こだわりがない」とは、簡単なのか難しいのか分からない言葉だが、やはり簡単だ。
「こだわりがない」とは「執着がない」とも言い換えられる。
確かにこれは、難しく言おうと思えば、いくらでも難しく言えるが、要は、こういうことだ。
「好き嫌いを言わない」
これだけだと言って良い。
もちろん、好き嫌いはあるだろうが、それこそ、自分の好き嫌いにこだわらない、執着しないのである。
つまり、好きなものを過度に追い求めようとせず、嫌いなものを過度に遠ざけようとしないのである。
しかし、これって、上のバルークの「欲張らない」と同じことなのだ。

そして、「欲張らない」も、もっと根本的なことが言えるのだ。
それは、「考えない」だ。
考えるから欲張るのだ。
大不況が来て株が大暴落する前でも、他の投資家達は、もっと株価が上がると期待し「欲張って」いたが、バルークは、「今でも十分儲かる」と株を売り払った。
それで、他の投資家達は資産を失ったが、バルークは大きな利益を確保したのだ。
バルークは、確かに欲張らなかったが、他の投資家達のように、「もっと儲けてやる」と考えなかったので、天の声のような直観のまま、さっさと株を売り払ったのだ。

人間、欲張らないことは難しい。
考えないこと・・・想念を起こさないことも難しいが、こちらはやりようがある。
そして、考えなければ欲張りようがない。
そんなわけで、このブログでは、考えない方法、想念を起こさない方法をいろいろ書いているのである。








腕振り運動で「たまたまうまくいく」を目指す

若いアイドルや女優(男優)を見て、「若い時に、こんな人と付き合いたかった」って思うことはあまりないと思う。
なぜなら、そんなアイドルのような子とは、「今、付き合いたい」と思うからで、これは、男女限らず、30代、40代以上でもそうだろう。
つまり、ほとんどの人は、自分の年齢が自覚出来ないからで、結婚相談所などでも、「間違いなく、モテたことなんて一度もない」と思える30代後半の男性が、二十歳くらいの人気アイドルのようなタイプを希望するといったことは珍しくないらしいが、それは本当のような気がする。
何かで見たが、会社勤めの37歳の独身女性が、社内の42歳の独身男性から交際を求められると激怒し、「なんであんなオッサンと!私が好きなのは新入社員のA君なのに」と言っていたという実話があったらしいが、そんなん普通だろう(笑)。

だが、小学生や中学生の時の芦田愛菜さんを見て、「中学の時、こんな子と付き合いたかった」と思う人は多いと思う。
さすがに、自分が小学生や中学生だったのは、昔のことだと自覚出来るからだ。

そして、現在大人気のアニメ『からかい上手の高木さん』のヒロイン高木さんに対し、まさに、「中学生の時、こんな子と付き合いたかった」「こんな子がいれば・・・」と思う男性は多いと思う。
高木さんは、非常にそう思わせるキャラクターだ。
高木さんは、美少女な上、勉強もスポーツも出来る優等生で、性格も抜群だ。
ただし、「高木さんのような子と付き合いたかった」と言うのは、現実には、そんな子と縁のなかった人だろう(笑)。
また、このアニメでは、高木さんの恋の相手が、西片という、ちっとも冴えない男の子というのも、そんなこと(高木さんのような子と付き合いたかった)をうかつに考えてしまう理由だろう。
自分でも、西片になら負けなかったと思うからだ(笑)。
だが、自分も西片レベル(あるいはそれ以下)と自覚し、さらに、「正直、高木さんと西片では、不釣り合いも甚だしい」と冷静に考える人は、あまり、「中学生の時に高木さんと付き合いたかったなあ」とは思わない。
私なんかがそうで、自分レベルのゴミが(笑)、高木さんのような美少女の優等生と付き合うのは、あまりに荷が重かったと思う。
やはり、高木さんと付き合うなら、自分も最低限は格好良い上、勉強が出来るとか、スポーツ部で活躍するとかがないと辛いだろう。
私など、中学生の時を振り返ると、ダサいこと、恥ずかしいこと、情けないこと、あるいは、悪いことばかりしていて、高木さんに近寄ってもらうだけで鞭打ち、斬首クラスの罪である(笑)。

つまり、高木さんと付き合うなら、現実的には、それなりの地盤がないと無理である。
その地盤が、優等生であるとか、運動部のスターとかであり、他にも、個性的な地盤が考えられるが、とにかく、誰にも称賛されるような地盤が必要なのである。
そして、世の中には、そんな地盤を実際に持っている者もいれば、私のように、そんなものに全く縁のない者もいる。
『からかい上手の高木さん』で、そんな地盤を持った男子が登場しないのは、視聴者に現実を考えさせないという計画的なものだろう。おかげで、自分が中学時代に、クラスに高木さんのような子がいさえすれば、自分もその子と付き合えたかもしれないと妄想し易いのだ(笑)。

では、高木さんと付き合えるような地盤は、どうすれば持てるのだろう。
これはもう、ほとんどが運であり、まあ、親ガチャ(ネットスラング。自分が生まれた親や家庭の優劣)に恵まれていないと難しい。
例外もあるかもしれないが、生まれつきの外見に恵まれず、勉強やスポーツが出来るようになる家庭で育っていないなら、たかが中学生が1人で努力したところで知れている。
高木さんと、クラスの面白いだけの女子…ミナ、ユカリ、サナエ(どうでもいいようなカタカナの名をつけられている)を比べてもそうで、高木さんもまた、天に選ばれし娘だと思う。
実際、私は、小学4年生の時、誰からも愛されるクラス1の美少女と、それと対照的な1人の女子を比べ、「同じ人間なのに、なぜこんなに違うのだろう」と本気で悩んだことをはっきり覚えている。

改めて言うと、高い地盤を持っているのは「たまたま」なのである。
特に子供の時はほぼ完全にそうだが、実は、大人になっても、それほど変わらない。
誠実な成功者は皆、「私が成功したのはたまたま」と正直に言うのである。
なら、たまたまでうまくいくしかない。
作家で投資家のマックス・ギュンターという人が『運とつきあう』という本で、その「たまたま」を手に入れるための現実的な方法を考察し、なかなか面白かったが、それでうまくいくのは難しいと思う。
それで言えば、2400年前の中国の賢者、荘子のアドバイスに従う方が良い。
そのアドバイスを簡単に言うと、「何も考えず、なりゆきにまかせろ」だ。
長く言えば、「思慮分別、是非好悪を捨て、一切の作為を捨てよ」である。
『荘子』を読んで、「なるほど!」と納得することは出来るかもしれない。
しかし、そのようなこと、実際には出来ない。
つまり、我々はどうしても、考えてしまうし、是非を立てたがるし、好き嫌いがある。
余計なことも沢山してしまう。
それでは、「たまたま」うまくいくことはない。
しかし、少なくとも、荘子のアドバイスに従える確実な方法ならある。
それは、腕振り運動を、毎日、なるべく多く、淡々とやることだ。
腕振り運動こそ、思慮分別、是非好悪、そして、作為を捨てるための最上の方法なのである。

尚、私は英語の勉強がてら、北米版の『からかい上手の高木さん(Teasing Master Takagi-San)』のblu-rayを購入して見ている。
英語の高木さんの声もなかなか萌える。日本の普通のblu-rayプレーヤーで再生出来ると思う。
正直、安い(笑)。
もちろん、日本語音声でも再生出来、英語字幕は消せる。








幸運はこんな心にやって来る

ナチスに迫害された生活や、強制収容所での実話を綴った書物として最も有名なものが、『アンネの日記』と『夜と霧』だと思う。
『アンネの日記』は14歳の普通の少女が書いたものだが、文学的でありながらしっかりとした内容と共に、あの状況で、明るさや道徳心を含めた、かなりの平常心を保っていることに驚く。
『夜と霧』は、オーストリアの精神科医で心理学者であるヴィクトール・フランクルが回想して書いたもので、彼が、地獄と言うに相応しい絶望的な状況の中で生き抜きながら、人間の心を失わずにいてくれたことで、私も、少しは人間を信頼しても良いような気になるのである。

ところで、一頃、アンニという名の、アンネ・フランクと同じ位の歳の少女が、やはり、アンネと似た状況の中で書いた『アンニの日記』が話題になったことがあった。
『アンニの日記』の文学的な価値は『アンネの日記』に劣らないとも言われ、やがて、『アンネの日記』同様、世界的ベストセラーになると言われたが、今では、ただひっそりと保管されているだけであるようだ。
これは、別に驚くに値せず、実を言えば、さらに別の、似た状況の中で書かれた、価値の高い日記や手記は、案外に多いのである。
『アンネの日記』の価値を全く疑うものではないが、やはり、これが脚光を浴びたのは、タイミングだったのである。
『禅とオートバイ修理技術』というベストセラーエッセイを書いたロバート・パーシングが述べていたが、自分の本がヒットしたのは、全くのタイミングで、本来は出版すら難しかったし、お情けで出版してくれた出版社も全く期待していなかったという。
それでいえば、『ハリーポッター』シリーズだって、どこの出版社も見向きもせず、そのまま埋もれたはずが、作者のJ.K.ローリングがたまたま原稿を持ち込んだ出版社の編集者の8歳の娘が、たまたまその原稿を読み、「続きを読みたい」と言ったことが出版のきっかけだった。
パーシングは、『アンクル・トムの小屋』だって、全く世に出なかった可能性の方が高いと言い、ひょっとしたら、これがヒットしたのも偶然中の偶然、つまり、奇跡だったかもしれない。
米津玄師さんだって、もう10年早く生まれてしまっていたら、あるいは、初音ミクさんがいてくれなかったら、もしかしたら、あの素晴らしい音楽の才能を世に示すことが出来たかどうか分からない。

世の中に、天才は案外沢山いるが、そのほとんどは世に出ないまま終わるのだと思う。
いや、そうではなく、実は誰もが天才なのだが、才能を発揮し、それを世に示すチャンスは、情報社会になって増えてきたとはいえ、やはり稀なことなのかもしれない。
作家で投資家であるマックス・ギュンターが『運とつきあう』で書いていたように、正直な成功者は皆、「自分が成功したのはたまたま」と言うのである。

サイコパスなどの精神的欠陥人間が成功することもあるし、それはそれで、何らかの意味はあるのかもしれない。
だが、道徳心を持った人間が、結局はうまくいくし、そうでない人間が成功しても、そう遠くなく破綻し、普通の人より哀れな状況に落ちる。
これは、理屈で考えてもそうなると思うが、直観的に誰もが分かることである。
もちろん、見かけの道徳心のことではない。
最初に述べた、『夜と霧』の著者フランクルが、こんな印象深いエピソードを記している。
彼と共に、ナチス強制収容所で酷い虐待を受けながら、共に、奇跡的に生きて帰れた男と道を歩いていた時のことだ。
作物を栽培している畑があったので、フランクルがそれを迂回しようとすると、その男は、このまま進むと言う。
もちろん、そんなことをしたら、畑を荒らし、作物を傷付けてしまう。
そんなことは、子供でも分かる。
しかし、その男は、自分達は、大変な理不尽を味わったのだから、当然、そうする権利があるのだと主張する。
フランクルは、決して、この男に人格的な欠陥があるとは述べなかった。
精神科医・心理学者であるフランクルには、この男の気持ちが理解出来るのである。
踏みにじられてきた人間の中には、他者を虐げることで気持ちを晴らしたい衝動を感じる者がいる。
だが、そんな気持ちを支配出来る人間に幸運はやって来る。
幸運は、流行の引き寄せの本に書かれているようなテクニックで掴めるものではない。
自分の世界を創造するのは心であり、幸運は、それを受けるに相応しい心にもたらされることは確かだと思う。








成功した人達のその後

アファーメーション(肯定的断言)等、成功法則で願いを叶えた人の後日談なんて、全く聞いたことがないと思う。
何度か書いた話だが、ホームレスの男性が「神様の奇跡が起こる」と1日中唱えていたら、宝くじで1憶円当たり、さらに続けていたら、ローマ法王に謁見し、それでも続けていたら、また、1憶円当たった。
この話は、著名な教育学者の七田眞氏の本(超「右脳」開運法)に書かれていて、七田氏は絶対に実話であることを保証している。
しかし、このホームレスのその後のことはどこにも書いていない。
このホームレスだけではない。
ジョセフ・マーフィーの成功法則や、少し前に流行ったロンダ・バーンの『ザ・シークレット』で成功した人々も同じだ。
「成功事例」なんてものは沢山報告されているが、「その後」となると、もう全く分からない。
まあ、『ザ・シークレット』の方は著名な人物が大勢登場していて、その後も活躍している人もいるが、どうなったか分からない人も多い。
そして、昔から、成功法則の教材販売やセミナーを主催する側として大儲けした人の中には、悲惨なことになってしまった人が多いし、彼らの教えで成功した一般人も、ほとんど良い結果になっていないと思う。
あるいは、表向きは成功し続けているように見える有名人も、実際は、離婚したり、家族に見捨てられたり、トラブルが多かったり、難病や奇病にかかって苦しい余生を送る人も沢山いる。
そんな悪い例は、本人はもちろん、利害関係のある関係者も隠すはずだが、それでも、情報が洩れてしまっていることもある。
その「関係者」が怖いので、あえて名前は挙げないが。

つまり、うまくいった後の心構えも大切だということだ。
欲をかいたら大失敗するし、守りに入っても、浪費癖がついてしまっていたり、なぜか損失が発生し、やがてじり貧になる。
あるいは、儲かることは儲かり続けるが、そのお金を使って楽しむことが全く出来ないという人もいる。

逆境にある若いうちはエネルギーがあるので、成功法則通りにやれば、決意と熱意があれば必ず成功する。
うまくいかないとしたら、残念ながらだらしないところがあるのだと思う。
だが、ダイエットと同じで、いったん駄目になり始めたら、坂道を転げ落ちるように、転落の勢いが止まらない。
だから、成功する時だって、無理なく、自然にやることが大切だ。
「神様の奇跡が起こる」と1日1万回唱えることが無理なく自然に行えるならそれで良いが、執念でやると、何かは起こるだろうが、後が大変かもしれない。
それは、当然、予測出来ることだ。
心に不安や恐怖がありながら、うまくいってしまうと、大抵、悲惨を味わう。

だが、それほど心配する必要もない。
事業家、投資家としても知られる作家のマックス・ギュンターは『運とつきあう』の中で、彼が最高の投資家と思う人物に、投資の秘訣を聞いた話がある。
それは簡単でありながら確かなこと、「欲張らないことさ」であった。
一度はうまくいって駄目になる人も、一度もうまくいかない人も、皆、欲張りなのだ。
端からうまくいかない人は、言い訳するし、泣き言を言うし、文句が多いが、これは、やっぱり欲張りだからだ。
だから、まず、心がある程度は静かであるよう、円熟することが大切である。
若くても幸福な人は心が静かだし、年寄でも不幸な人は心が荒れているものだ。
それで言えば、最近、ここでもよく書いている「存在の感覚」に馴染むことが何よりと思う。








真の秘訣

有り難い、力のある呪文、真言、祝詞などは確かにあるが、それを知っている者だけが得をして、知らない者には恵が与えられないというようなことなどない。
理不尽なのは荒んだ人の世のことであり、神仏の世界に、そんなことがあるはずがない。
知っておくべき言葉としては、「神様」とか「仏様」で十分で、もし、「弁天様」「大黒様」「恵比須様」「阿弥陀様」「観音様」「お不動様」など、住んでいる村やら、家系に伝わる神仏の名があれば、その名を唱えれば良い。
そういったものを知らなくてさえ、昔から日本人は太陽を「お天道様」と言って神聖視し、お天道様に見られて恥ずかしくない行動を心がけたのである。
むしろ、キリスト教やイスラム教のような形式がなかったことで、日本人は、自然の中に神秘を感じ、理想的な信仰心が培われたのである。
だから、明治以前に日本を訪れた外国人が、信仰を持たないはずの日本人の美徳に驚かされることがあった。
例えば、外国では花を買うのは金持ちと決まっていたが、日本では庶民が花を買うのが普通だった。
また、岡本太郎によれば、西洋では、家が大きく、別に金持ちでなくても、個室があって部屋には鍵がかかったので、暑い季節には女性は自然に部屋で裸で過ごしたが、それを普通見ることは出来ないということから、女性の裸体画が流行し、現代に到っている。
しかし、日本では、昔は銭湯は混浴が普通だったし、人目がある家の外で女性が裸で水浴するのも当たり前だったことが、西洋人を驚愕させた。
これも、こそこそ隠れなくても、お天道様の下では健康的だという(銭湯も明るい時間のみ営業されていた)、ある種の信仰心と思える。

だが、西洋思想の影響が強い明治政府になってから、日本人は煩いに襲われることが多くなった。
そんな中で、意識的な信仰・・・呪文、真言、祈りといったもので、本当に庶民に力を与えたのは念仏だった。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える者の中に、外国では滅多に見られないような聖人が、農民、職人、商人といった庶民の中に「ゴロゴロ」出て来たのだ。
そんな、主に念仏を唱える庶民の聖人を「妙好人(みょうこうじん)」と呼ぶ。
妙好人の研究をした学者はかなりいるが、皆、難しいことばかり言ったり書いたりするだけで、あまり本質は掴んでいないかもしれない。
因幡の権左(いなばのごんざ)という妙好人はよく知られていて、彼もまた全くただの農民であったが、おそらく偉大な聖者だった。
権左が町に出て、それなりの額の金を得て村に帰る時、あきらかに金目当ての男がついてきたが、それに気付いていも権左は少しも恐れず、その男に近付き「金が欲しいならやるよ」と親し気に話しかけ、強盗する気だった男は何も出来なかった。
権左の畑から芋が掘り返されて盗まれると、権左は畑に鍬を置いておくようになった。素手で芋を掘って怪我をしてはいけないという配慮からだった。
家から金が盗まれ、盗んだ者が誰か分かり切っていても気にせず、相手が改心して返しに来ても、平然としたままで、別に返す必要はないと言う。
アインシュタインもそんなところがあって、乞われれば誰にでも金を与え、妻に怒られても、「誰も伊達や酔狂で物乞いなどしない」と平気だった。
ただ、アインシュタインは宗教上の偏見があることを自分で認めており、心に影があった。

著名な投資家でもあった作家マックス・ギュンターは、彼が最強と考える投資家に秘訣を聞いたら、そのスーパー投資家はこう言ったそうだ。
「欲張らないことだよ」
これが、あらゆることに通じる肝心なことで、秘訣というよりは、親に教わるべき基本中の基本である。
だが、我々は余計なことばかり教えられ、一番大切なことは誰も教えてくれないのだ。
欲張らず、大自然の中に感じる神を崇めれば、まあ、恐れることは何もない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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