ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ホーキング

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

偉人と凡人の差は僅かで、偉人がちょっぴり劣るだけ

私は、スティーヴン・ホーキングの昔の著書『ホーキング、宇宙を語る』の序文にあった話を印象深く覚えている。
大昔に読んだので、曖昧な記憶だが、こんな感じだった。

イギリスの数学者で哲学者であるバートラント・ラッセル(アリストテレス以来の大論理学者とも言われているらしい)が、一般人相手に科学の啓蒙のための講演を行っていた。
(ホーキングは、「ラッセルだったと思うが」と書いていたかもしれない)
地球が丸くて、自転しながら、太陽を中心に回っていることを、図で示しながら話していた。
すると、会場にいたお婆さんが、世界は亀の背中の上であると抗議してきた。
そこでラッセルは、そのお婆さんに、「では、その亀の下は何でしょうか?」と尋ねた。
ラッセルは、やり込めたつもりだったが、お婆さんは、
「まあ、お若いのにオツムのよろしいこと。でも、よろしくって?亀の下は、ずーっと亀なのよ」
と返した。
ラッセルの渋い顔が浮かぶようだ・・・あ、これはホーキングが述べていたのではなく、私の想像だ。

世界最高の頭脳ラッセル(偉大な数学者でありながらノーベル文学賞も受賞)と、教養のない田舎のお婆さん・・・同じ人間でありながら、なんという違いか!
昨夜も取り上げた大槻義彦さん(有名な超常現象否定論者の科学者)なら、このお婆さんは仕方がないとしても、子供達に迷信を教える訳にはいかないと躍起になるだろう。
だが、アインシュタインならどうだろう?
お婆さんに、その亀について熱心に質問し、一緒に、偉大なる亀さんを賛美するような気がするのだ。
この私は、もちろん、世界は亀の背中の上だと考えており、亀さんを心から崇め、感謝し、そして、日頃のお役目を労(ねぎら)いたいのである。
「亀さん、ありがとう!」ってね。

ホーキングは、未来の人から見れば、地動説を知っている我々と、このお婆さんも大差はないと思うと述べていたと思う。
しかし、それでは、いまひとつだ。
私は、そのお婆さんとラッセル、そして、そのお婆さんとホーキングは大差ないと言いたいし、ラッセルやホーキングは、このお婆さんに対して、それほど劣らないと言いたいのだ。
ホーキングは、立派なことを言っているようでありながら、暗に、ラッセルや自分は、無教養で迷信深い人達より上と思っているに違いないのだ。

『灼眼のシャナ』のアニメで、こんな話があったのが参考になる。
尚、私は、小説の『灼眼のシャナ』は、最後の方が面白くなかったので、最終2~3巻ほどは読んでいないので、小説の方がどうなっているのかは知らない。
サブラクという敵がいた。
敵とは、「紅世の徒(ぐぜのともがら)」という、紅世という異世界から来た魔法の力を持つ者達である。
紅世の徒の中でも、サブラクの強さは桁外れで、ヒロインで最強レベルの戦士であるシャナや、シャナに優るとも劣らない仲間達が束になってかかっても手強い・・・というか、手も足も出ない。
ところで、シャナ達がサブラクと戦うことになるずっと前に、メアという名の紅世の徒がシャナの前に現れ、シャナに倒されているのだが、シャナは、メアが自分の前に、わざわざ姿を現したことを不思議に思う。なぜなら、メアは弱過ぎ、ほとんど相手にならずにシャナに一瞬で討滅されてしまったからだ。
メアは可愛い少女の姿をしていたので、もっと長生きして欲しかったと思う視聴者もいたと思うが・・・
ところが、サブラクは、そのメアにぞっこんであった(惚れていた)らしい。
このロリコン!・・・、いや、そんなことはどうでも良い。
そして、サブラクは、メアが自分のところから消えてしまったことに無念さのようなものを感じているようだったし、メアがなぜ去ったのかも分からない。
だが、それは当然のことだった。
紅世の徒の中でも最強クラスのサブラクと、最弱クラスのメアなのだ。
サブラクは強過ぎた。
だが、そのサブラクの前に、「祭礼の蛇」坂井悠二が現れる。
かつては平凡な高校生で、それこそ、メアにだって一瞬で消されるはずのひ弱な存在でしかなかった坂井悠二だったが、今は違う。
サブラクは悠二を見て、初めて恐怖というものを感じる。
そして、これが、メアが自分に対して感じていたものであると気付く。
さらに、サブラクは深い悟りを得る。
これほどの存在の前では、自分とメアの差など、ないに等しいと。
サブラクは静かに滅した。
その悠二に堂々1人で挑んだシャナは大したものである(しかも、見事にキツい一発を喰らわした)。

東大で理学博士の学位を得、高い評価を得た科学者である大槻教授と、オカルトを信じる学のない人。
神や天使どころか、本当に賢い人間から見ても、その両者に何の違いもなく、せいぜい、大槻教授の方が、ほんのちょっぴり下だと思われるだけかもしれない。
大差があるのは、初音ミクさんと私である。
その差は、「祭礼の蛇」坂井悠二に対する、ニア・イコールのサブラクとメアどころではない。
よって、私はミクさんをひたすら崇める。
別にふざけていたり、妄想している訳ではなく、それが心が無である存在の偉大さなのである。
人間の能力はIQで決まるが、それが人間の値打ちを決める訳ではない。
ただ、至高者に向かう意思を持つかどうかは大きな意味を持つのである。









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テクノロジや情報に対し受け身でいるだけなら退化する一方である

大正14年(1925年)に、小酒井不木が『歴史的探偵小説の興味』で、過去の時代を舞台に書いた探偵小説がなぜ面白いかについて、面白いことを書いていた。
それは、大体、
「科学が発達した現代と違い、その時代の探偵は原始的な手段で事件を解決しなければならない。その中で、知恵と工夫で見事に事件を解決するところが嬉しい」
というものである。
小酒井は推理作家、SF作家であると共に、一級の医学者で、ニューヨーク、パリ、ロンドンなどに長期滞在していたので見聞も広いが、当時の世界を、人類が科学技術を極める少し手前の状態のように感じていたところが、まず面白いと思う。
他にも、昭和20年代に書かれたある本に、「現代は、科学技術が発達して何もかも便利になったが、その分、人間性が失われた」と述べられていた。
また、岡本太郎が1950年頃に書いた『今日の芸術』では、「現代の情報社会は世界を狭いものにした」とか、「レジャー産業が発達し、人々は受け身の楽しみに慣れてしまって創造性がない」などといったことを述べている。

つまり、いつの時代も、人間は、現代の世の中が、「過去とは違う進歩した文明社会」と思うものなのである。
それは、産業革命以前ですらそうなのかもしれない。
2400年前の『荘子』にも、井戸から桶を何度も引き上げる老人を見て、若い者が、今は滑車を使った便利なものがあって、そんなにがんばらなくて良いと言うと、その老人は「文明にかぶれると人間は駄目になる」と若者を戒める話がある。

ところが、物理学者のスティーヴン・ホーキングは、「未来の人から見れば、現代人も、世界が亀の背中の上にあると信じているような昔の人(あるいは時代遅れな迷信家)も、全く差はないだろう」と述べていたが、さすがホーキングである。

ところで、最初の小酒井の話に戻るが、「過去の不自由な時代に知恵と工夫で問題を解決するのが愉快」というのも、確かにその通りだと思う。
しかし、科学技術という、物質的な面では多少の進歩はあるにしても、実は、その分、後の時代の人間の方が衰えた部分もあるということが、上の荘子や岡本太郎の話から感じられるかもしれない。
それは、直観、想像力といったものである。
いや、小酒井の「科学が足りない分、知恵と工夫でがんばった」という言葉から、逆に考えると、現代人は科学の恩恵を得た分、知恵と創意工夫がなくなったと考えることもできるのである。

あるいは、もしかしたら、イエス・キリストが起こした数々の奇跡は、その時代(西暦30年頃)も奇跡であったが、それより数百年以上前には普通のことだったかもしれない。
荘子は、物質の背後にある実相を認識していた古代人は偉大な知恵を持っていたに違いないと言う。
アリストテレス以降、人類は全てを物質的に考えるようになり、いつしか人類は、見えるものだけを信じるようになったことは確かだろう。
それで、サン・テグジュペリが『星の王子様』で、「本当に大切なものは目に見えない」などと、わざわざ言わなければならなくなり、そんなあたり前のことを「名言だ」などと有り難がる始末なのである。

我々は、ネットとSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で世界中の人と結び付く時代になったと思っているかもしれないが、過去の人は、直観やあるいは「肌で」世界を、もっと鋭く、もっと深く認識していたのかもしれない。
まるでサルのマスターベーションのごとく、スマートフォンをずっとせわしなく指でこすりまわしていても、薄っぺらな交流しかできず、テクノロジや情報に対して受け身でいるだけなら、明らかに退化する一方であることは一目瞭然である。
ネットとSNSの本当に良い、画期的なところは、これまでは一部の人間の特権であった、情報の受発信・・・特に、発信を誰でもできるようになったことである。
そのメリットを活用するには、共感力と創造力が必要である。
これらがなければ、進歩はかえってその人に危ういものになるのである。









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自分がデクノボウだとは認めたくないものだ

我々は王様でもなければ英雄でもない。
プリンセスでもなければ銀幕のスターでもない。
いつかキリストやブッダになることも決してない。
そんなことは分かっていると言いつつ、王様のように振舞える誰かを探しているのだ。
「あいつに比べれば、俺は大したものだ」
と言いたいかもしれない。
しかし、それは大誤解だ。
同じ学校や会社にいるという時点で、全く「あいつ」と同等だ。
人間は、自分の中の欠点しか他人の中に見つけられない。
つまり、気に食わないとか、つまらないやつと思った時点で、そいつと自分は、間違いなく対等なのだ。
そして、相手が反撃してこないなら、実際は間違いなく自分が劣っているのだ。

世界は亀の背中の上だと主張するおばあさんより我々は賢く進歩しているだろうか?
スティーヴン・ホーキングは、未来の人から見れば、いずれも大差ないと述べた。彼が、自分もそんな者だと思っていることを願う。実際、その通りだろうから。
別に、未来の人から見るまでもなく、太陽が地球の周りを回っているとか、地球は平べったいと思っている人より私は賢くない。地球が丸く、太陽の周りを回っているなんて、単に教科書を鵜呑みにしただけで、自分で何も確かめた訳じゃあない。それなのに、さも自分で分かったような顔をする私よりは、見たままを素直に信じて、太陽が我々の周りを回っていると言う人の方がむしろ好ましいかもしれない。

だが、我々は、自分が王様や英雄や、一角の人間であると見なしているのだ。
しかし、実際はそうではないという事実を突きつけられていつも苦しんでいるのだ。
宮沢賢治が、個人的な手記である『雨にもまけず』で、「みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず」といった人間になりたいと言ったが、実際はそうは思っていなかった。
つまり、彼も、我々同様、「デクノボウなどと呼ばれたくないし、思われたくもない。誉められ賞賛されたい。苦にされるほど嫉妬されたい」と思っていたのだと思う。
しかし、彼は、同時に、そんな自分が嫌だったのだ。
そんな自分を激しく自己否定したのが、「みんなにデクノボウと呼ばれ・・・」だったのだと思う。
デクノボウと呼ばれて満足する者でなければ、決して怒らないことは出来ないし、他人の母の稲の束を負うことも出来ない。

私も、世界は亀の背中の上だと言い、その周りを太陽を始め、天球全体が回っていると信じている馬鹿だと思われたいと思う。
こんな自分が存在する価値はないし、どういった扱いを受けようが構わないに違いない。
鷹は、自分がネズミだと思っている限り、最も無能なネズミだ。
しかし、自分が優秀なネズミだと見なしている限り、自分が本当は鷹であることに気付かない。
鷹であれば、喧嘩をしたり、訴訟を起こしているネズミに、「つまらないからやめろ」とも言えるだろう。
だが、それでも彼は、自分がネズミだと思っているのだ。









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神がいると分かる時とは

イギリスの物理学者スティーブン・ホーキングは、神は存在しないと言ったらしい。
ただ、言葉で言ったことというものは、どんな状況で、どんな意味で述べたのかに配慮しないと、発言した本人の意図とずれていたり、正反対に理解しかねない。
まして、日本のマスコミのように、発言の一部を切り出して、発言者の意図が全く分からないようにすれば、聞く者は、曲解や誤解をするのは当たり前である。
ただ、今回は、マスコミによる大衆思想の操作がテーマではない。

よって、ホーキングが、神はいないと述べた意図を知った上でなければ、それについて検討、考察、批判は出来ないのだが、私はホーキングではないので、それは不可能だ。
あえて一言述べると、ホーキングは余計なことを言うべきでなかった。彼には何らかの意図や信念はあったのだろうが、それは誤解を生むだけで何の役にも立たないのだ。

そのような訳で、ホーキング個人については考えず、一般論として述べよう。
優れた科学者や技術者、あるいは、芸術家やビジネスマンであっても、自分の仕事が大きく発展する時には、素晴らしいアイディアがあることが分かるはずだ。
それがたとえ、他人のアイディアであっても、それを聞いた時に、あなたは、はっとしたとか、ゾクっとしたとか、「それだ!」と言って手を叩いたりしたのだ。
そして、こんなことを言うかもしれない。
「こんな素晴らしいアイディアを思いつくなんて、俺は何て頭が良いんだ」
しかし、もしそれが本当に良いアイディアであれば、それは考えた末に論理的に出てきたものではなく、不意に浮かんだ直感であることが分かるはずだ。
その直感を、神から来たものであると思うか、いや、あくまで、自分の頭の中で起こった個人的なものであると考えるかによって、神を信じるかどうかは決まるのだろう。

ただ、その時は素晴らしいアイディアだと思っても、後で、それが下らない思いつきであったことが分かることもある。
だが、本当の直感は、それを得た時に、思考が根こそぎ奪われ、心は深い静寂と敬虔さに満たされるものだ。そして、失望させられることは決してない。
偉大な科学者や哲学者や芸術家は、人類にとっても重要な仕事をした際、必ずそんな本物の直感を感じていたはずであり、それは、しばしば、啓示とか天啓と言われる。
しかし、彼らほどの人間でも、その、霊感に満たされた至福の時のことを忘れてしまうのだ。
そして言うのだ。「神はいない」と。

大きな悩み事があったり、人生の道に迷った時、大きな自然に触れたくなるものだろう。
山に登ったり、大きな滝を見ていると、迷いが消え、道が見えて来る。
その時に得る答は常に正しく、後で後悔することはない。
それが果たして、自分の頭の中の計算であったりするのだろうか?
「その通りだ。雄大な自然に接して、頭がすっきりし、本来の計算能力を取り戻したから、良い答が出たのだ」
と言う人もいるだろう。
だが、そんな人は、やがて大きく行き詰るのだ。
それを何度も繰り返し、幾たびも繰り返し頭を打つ経験をするうちに、ようやく、自然を支配するある力に対して謙虚になる。
しかし、その時はもはや、不幸のどん底であるかもしれない。
たとえそうであっても、最後に神に出逢えれば幸福であろう。
けれども、そんなに苦労をしなくても、最初から身の程をわきまえていれば良かったのではないか?
だから慈悲深き神は、デルポイの巫女に直感という形で神託を与え、それを神殿の入り口に刻ませて誰でも見れるようにし、人々に無用な苦悩を与えまいとしたのだ。
その第一が、「身の程を知れ」である。
デルポイを知るはずもない徳川家康も、天下を取る秘訣は、「身の程を知る」ことであると言ったのだ。
ただ、天下を取るとは、大統領や総理大臣になったり、国家間、あるいは企業間の戦争に勝利することではない。
ただ、魂が解放されることである。









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彼女は存在しているだけでいい

英国の著名な物理学者スティーヴン・ホーキングは、神はいないと言ったそうだ。
もし神がいるなら、その証拠があるはずとでも考えたのだろうか?
例えば、太陽が存在することは、視覚に頼らなくても、熱や光、あるいは、引力からその存在が証明できる。
では、神が存在するなら、どんなことからその存在が証明できるのかと考えたのではないかと思う。

多分、ホーキングの考え方はそうだろう。彼は、宗教と科学の違いは、権威と観察の違いだと言ったのだからね。
しかし、宗教だって観察するし、科学こそ権威にまみれた世界だ。この両者に違いがあるとは思えない。例えば、NLP(神経言語プログラミング)の創始者リチャード・バンドラーも著書にそう書いていた。

神の存在を疑う人々は、もし、神が存在するなら、神が何をしてくれるのかを聞きたいのだろうと思う。しかし、なぜ、神様が何かしないといけないのだろう?

神が何かすると言うなら、どんなことをするのだろうか?
恵みを与えること?
救うこと?
奇跡を起こすこと?

これがおかしな考え方であることを、喩えでお話しよう。

『神無月の巫女』というアニメで、ソウマという16歳の少年が、呪いで石になってしまう場面がある。彼は、愛する姫子(16歳)を守って戦うことで、敵の呪いを受け、そういう結果になることは分かっていたのだった。
そして、姫子は、ソウマの気持ちにも応えなかった。彼女は、別の人(女の子だが)への愛を選んだのだ。
硬く冷たい石になってしまったソウマの前に、兄のツバサが現れ、哀れな弟に尋ねる。
「これで満足か?ソウマ」
身動きでない身体になった上、好きな女の子からも愛も得られなかったソウマを蔑むような声だった。
しかし、ソウマは心で答える。
「ああ」
曇りのない、明るい思念だ。
「なぜだ?」
ツバサの声は険しい。
だが、ソウマは穏やかに答える。
「姫子が生きている」

別に、ソウマは、姫子を守れたことに満足しているというのではない。
もしそうなら、それは自己満足でしかない。自己満足なら、完全に心が晴れたりはしない。
では、何がそんなに嬉しいのだろう?
姫子は、自分ではなく、千歌音(ちかね)を選んだというのに。
しかし、姫子に愛される必要はない。
なぜか?姫子は、ソウマにとって、愛そのものだからだ。愛そのものである姫子が愛する必要はないのである。

神の場合も同じことだ。
恵みそのものである神が、恵みを与える必要はない。
救いそのものである神が、救う必要はない。
奇跡そのものである神が、奇跡を起こす必要はない。

姫子が愛そうが、愛すまいが、ソウマにはどうでも良かったという話から、このことが推測できれば良いことと思う。
もし、あなたに好きな人がいれば、そのように考えると良い。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、愛は神の領域なので人には分からないと言ったが、何のことはない。ちゃんと分かるのである。

もし、あなたが男性であって、好きな女性がいたとして、彼女から何かしてもらわないと満足しないだろうか?
あるいは、彼女に性的な行為をしなければ満足しないだろうか?あるいは、彼女が、別の男性と性的行為をすれば悲しいだろうか?
もしそうであれば、それは愛ではない。
彼女がただ存在するだけで満足であれば、あなたは、彼女の姿をとった神を見ているのである。神は存在することが至上の美徳なのである。そして、その働きは人の与り知らぬことである。

愛されようとして、金や物や身体を与えても、愛されることは決してないだろう。
愛する人がいれば、その存在だけに満足し、後は、なりゆきに任せることだ。何かをすることが自然であれば、そうせざるを得ないが、自然でない行いは慎まなければならない。
人は、思うがままに結ばれたり別れたりはできない。だが、大きな力に従っていれば、がっかりすることもないだろう。

神は存在するし、イエスは存在する。クリシュナも存在するし、天照大神も存在し、阿弥陀如来も存在する。
全ては自己の内に存在する。
無限の英知と力が、我が内にあり、我々はそれと1つであるのだ。
在ることが至福なのである。それを多くの人々は逃してしまっているのだ。ホーキングも例外ではないのだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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