大昔から人間は、他人に対し、「謙虚であれ!」と言い続けてきたと思う。
彼らの言う意味は、「俺の言うことを聞け!」である。
そこまでは、まあ良いかもしれない。
しかし、相手が自分の言葉に従うかどうかは分からないし、それは、「俺」が決めることじゃあない。
もし、相手が従うべきで、そうでないと腹を立てるなら、言ってる方がちっとも謙虚でないのである。
謙虚であれば、良い結果を見るだろう。
だが、謙虚とは何だろう?
それは、一切文句を言わないことだ。
何が起ころうと、決してだ。
つまり、黙って耐えることなのだ。
『バガヴァッド・ギーター』において、アルジュナ王子は、親しい友や、尊敬する師、敬愛する叔父や愛すべき従兄弟達と戦って殺すことは耐えられず、それくらいなら自分が死ぬと言った。アルジュナは全く謙虚でなかった。
クリシュナは、アルジュナに、お前は戦わねばならないことを、あの手この手で、何度も繰り返し聞かせた。
敵は既に神に殺されている。お前は運命のままに戦えと。
言い換えれば、「一切文句を言うな」「黙って耐えろ」と言うことだ。
全ては神が決めたことなのだからだ。
クリシュナが転生した存在がイエス・キリストだと言われることがよくある。ルドルフ・シュタイナーもそう言っていたかもしれない。
よく分からないが、私も、両者は近い存在だと思う。
あるいは、釈迦もクリシュナであると言われる。
イエスは、「いかなることも、神の意思でなければ起こらない」と言った。
そして、決して思い煩うなと言い、また、最後まで耐え忍ぶ者は救われると教えた。
つまり、一切は神の行うことであるのだから、文句を言ってはならないし、黙って耐えるしかないのだ。
『ホメーロス讃歌』の中の、『デーメーテールへの讃歌』で、大富豪ケレオスの4人の美しい娘の中でも一番の美少女であるカッリディケーは、
「神々の下したもうことは、いくら重荷と嘆こうとも、耐えるのが私たち人間の務め。神々は人間にはるかに勝るものなのですから」
と明快に述べた。(『四つのギリシャ神話(岩波文庫)』21Pより引用)
中国の賢者、荘子は、著書『荘子』の中で、一貫して、「なりゆきにまかせよ。作為しても仕方がない。起こることを起こるままにまかせる者には鬼神も道を譲る」と述べている。
釈迦は、「行為はあっても行為者はいない」と、さらに深い真理を述べた。
アルジュナ王子は、多分、クリシュナの教えを理解しなかった。しかし、アルジュナは戦ったのだ。
クリシュナは、アルジュナの心を少しでも安らかにしてやりたくて教えたのかもしれないと思う。
神であるクリシュナは、アルジュナに理解できないことくらい、初めから分かっていたはずなのだから。
だが、アルジュナは何もしていない。釈迦が言った通り、行為者はいないのだ。
ロボットが人の操縦通りに、あるいは、そのコンピュータに人がプログラムした通りにしか動けないように、アルジュナは、ただ神の定めた運命通りに行為しただけである。
『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニは、「人の幸いのためなら何でもやる。この身を百回焼かれても構わない」と言い、カムパネルラはそれに全く同意した。カンパネルラは、愛するジョバンニを苦しめる級友ザネリを救うためにすら、わが身をなげうったのだ。
だが、私は、ジョバンニやカムパネルラのようには、神にプログラムされなかったかもしれない。
ならば、残念ではあっても、一切の文句を言わず、黙って耐え、自分の務めを果たすしかない。
神のストーリーを完成させるためであるなら、ジャバンニやカムパネルラの邪魔をするかもしれないし、イエスを裏切ったユダの役を果たすかもしれない。
だが、W.B.イェイツが『ラピス・ラズリ』で述べた通り、「主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりはしない」のである。
役者は謙虚でなければ良い舞台にならない。作家に対して自分の役柄を要求することは不遜で傲慢だ。
我々も、神に対して傲慢であってはならないのである。
美しき乙女カッリディケーが軽やかに言った、
「神々の下したもうことは、いくら重荷と嘆こうとも、耐えるのが私たち人間の務め。神々は人間にはるかに勝るものなのですから」
は、全ての人間が記憶すべき言葉である。
だが、これを承服できない人間に対しては、神はこう警告したので、ソクラテスや徳川家康のように、そちらを憶えておいても良いだろう。それは、
「身の程を知れ」
である。
私なら、貧しい老人ソクラテスや、たぬきおやじ家康ではなく、花の乙女カッリディケーの言葉に従いたいものと思うが、どうもその反対が必要なようである。美少女に縁がなくても、文句を言わず、黙って耐えるしかない。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
彼らの言う意味は、「俺の言うことを聞け!」である。
そこまでは、まあ良いかもしれない。
しかし、相手が自分の言葉に従うかどうかは分からないし、それは、「俺」が決めることじゃあない。
もし、相手が従うべきで、そうでないと腹を立てるなら、言ってる方がちっとも謙虚でないのである。
謙虚であれば、良い結果を見るだろう。
だが、謙虚とは何だろう?
それは、一切文句を言わないことだ。
何が起ころうと、決してだ。
つまり、黙って耐えることなのだ。
『バガヴァッド・ギーター』において、アルジュナ王子は、親しい友や、尊敬する師、敬愛する叔父や愛すべき従兄弟達と戦って殺すことは耐えられず、それくらいなら自分が死ぬと言った。アルジュナは全く謙虚でなかった。
クリシュナは、アルジュナに、お前は戦わねばならないことを、あの手この手で、何度も繰り返し聞かせた。
敵は既に神に殺されている。お前は運命のままに戦えと。
言い換えれば、「一切文句を言うな」「黙って耐えろ」と言うことだ。
全ては神が決めたことなのだからだ。
クリシュナが転生した存在がイエス・キリストだと言われることがよくある。ルドルフ・シュタイナーもそう言っていたかもしれない。
よく分からないが、私も、両者は近い存在だと思う。
あるいは、釈迦もクリシュナであると言われる。
イエスは、「いかなることも、神の意思でなければ起こらない」と言った。
そして、決して思い煩うなと言い、また、最後まで耐え忍ぶ者は救われると教えた。
つまり、一切は神の行うことであるのだから、文句を言ってはならないし、黙って耐えるしかないのだ。
『ホメーロス讃歌』の中の、『デーメーテールへの讃歌』で、大富豪ケレオスの4人の美しい娘の中でも一番の美少女であるカッリディケーは、
「神々の下したもうことは、いくら重荷と嘆こうとも、耐えるのが私たち人間の務め。神々は人間にはるかに勝るものなのですから」
と明快に述べた。(『四つのギリシャ神話(岩波文庫)』21Pより引用)
中国の賢者、荘子は、著書『荘子』の中で、一貫して、「なりゆきにまかせよ。作為しても仕方がない。起こることを起こるままにまかせる者には鬼神も道を譲る」と述べている。
釈迦は、「行為はあっても行為者はいない」と、さらに深い真理を述べた。
アルジュナ王子は、多分、クリシュナの教えを理解しなかった。しかし、アルジュナは戦ったのだ。
クリシュナは、アルジュナの心を少しでも安らかにしてやりたくて教えたのかもしれないと思う。
神であるクリシュナは、アルジュナに理解できないことくらい、初めから分かっていたはずなのだから。
だが、アルジュナは何もしていない。釈迦が言った通り、行為者はいないのだ。
ロボットが人の操縦通りに、あるいは、そのコンピュータに人がプログラムした通りにしか動けないように、アルジュナは、ただ神の定めた運命通りに行為しただけである。
『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニは、「人の幸いのためなら何でもやる。この身を百回焼かれても構わない」と言い、カムパネルラはそれに全く同意した。カンパネルラは、愛するジョバンニを苦しめる級友ザネリを救うためにすら、わが身をなげうったのだ。
だが、私は、ジョバンニやカムパネルラのようには、神にプログラムされなかったかもしれない。
ならば、残念ではあっても、一切の文句を言わず、黙って耐え、自分の務めを果たすしかない。
神のストーリーを完成させるためであるなら、ジャバンニやカムパネルラの邪魔をするかもしれないし、イエスを裏切ったユダの役を果たすかもしれない。
だが、W.B.イェイツが『ラピス・ラズリ』で述べた通り、「主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりはしない」のである。
役者は謙虚でなければ良い舞台にならない。作家に対して自分の役柄を要求することは不遜で傲慢だ。
我々も、神に対して傲慢であってはならないのである。
美しき乙女カッリディケーが軽やかに言った、
「神々の下したもうことは、いくら重荷と嘆こうとも、耐えるのが私たち人間の務め。神々は人間にはるかに勝るものなのですから」
は、全ての人間が記憶すべき言葉である。
だが、これを承服できない人間に対しては、神はこう警告したので、ソクラテスや徳川家康のように、そちらを憶えておいても良いだろう。それは、
「身の程を知れ」
である。
私なら、貧しい老人ソクラテスや、たぬきおやじ家康ではなく、花の乙女カッリディケーの言葉に従いたいものと思うが、どうもその反対が必要なようである。美少女に縁がなくても、文句を言わず、黙って耐えるしかない。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
