ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ホフマン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

無意識になれば何でも売れる

無意識に入れば、無意識の強大な力を味方につけることが出来る。
無意識に入る方法について、最も学ぶべきは魔法使いのようだったと言われるアメリカの精神科医ミルトン・エリクソンだが、私は、無意識の偉大な力を見せてくれた例として、ジョー・ジラード(1928~2019)を第一に思い出す。
15年間で13001台の自動車を売ったセールスマンだ。
そのジラードの1台目の販売の話だ。
その日の朝、彼は妻に言われた。
「ねえ、子供達が食べる物を買うお金を頂戴」
35歳の彼は無職で、家にお金は全くなかった。
彼は新聞の採用広告で仕事を探し、自動車の販売員としてその日から働くことになった。
彼が勤務することになった営業所では、客が入って来る度に、販売員が交代で応対した。
そして、車が売れたらコミッション(販売手数料)をもらえる仕組みだった。
当然、大半の客が、見に来ただけで、今すぐ買う気はない。
ある客が店に入ってきた時、ジラードは客の前に出て行った。自分の番ではなかったが、そんなことはどうでも良かった。
当時、ジラードは、自動車のセールスなどやったことはないし、その客もただの冷やかし客かもしれない。
しかし、彼は、「その客を買わずに帰すわけにはいかなかった」。
彼は、客に何を言ったか全く憶えていないらしい。
だが、気が付いたら客は契約書にサインしていた。
本来、コミッションは給料日にもらうことになっていたが、ジラードはマネージャーに相談し、その日に先払いしてもらい、妻子が待つ家にお金を持って帰ることに見事成功した。

彼の熱意だけがセールスを成功させたわけではない。
同じように切羽詰まった状況で熱意を持って立ち向かった者は無数だが、大半は失敗しているはずだ。
彼は思考を消し無意識に入ったのだ。
そして、無意識は冷やかし客も見込み客に変え、そして、彼に売れるセールストークをさせたのだ。
彼はその後、数多くのよく知られ、真似をされたセールステクニックを開発したが、それらは付け足しに過ぎないと思う。
彼は、この最初のセールスで極意を掴み、それを忘れなかった。
だから彼は、「最初は誰もが優秀なセールスマンとしてスタートする」と言ったのだ。
だが、これは違っていた。
ジラードが優秀なセールスマンとしてスタートしただけだ。
セールスマンは、無意識に入る方法を掴んだ時に、優秀なセールスマンとしてスタートするのだ。

私も、新人セールスマンだった時、セールスコンテストの最終日に無意識に入り、大逆転で強豪セールスマン達を押しのけて優勝した。
その時の経験から、無意識に入るコツがなんとなく分かる。
無意識に入るには、思考の流れから飛び出すのだが、そのためには、次の3つのもののうち、ピッタリするものになれば良いと思う。
1.死人(まあ、ゾンビだろう)
2.ロボット(プログラムで動く自動人形)
3.操り人形(操るのは神か魂か無意識・潜在意識)

『コッペリア』というバレエがあるが、これに、コッペリアという名の自動人形の少女が登場する。
これは喜劇なのだが、原作小説はホフマンのホラー小説『砂男』で、これにも、オリンピアという名の自動人形の少女が登場する。
ホフマンは、やはり有名なバレエ『くるみ割り人形』の原作『くるみ割り人形とねずみの王様』の作者だ。
コッペリアもオリンピアも、心がないからこそ人を魅了する。
それは初音ミクさんと同じだ。
これらの美少女達を見て、あなたも無意識になる感覚を学べばどうだろう?

生きた人形
AIアート848
「生きた人形」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)セールスに不可能はない(ジョー・ジラード)
(2)最強の営業法則(ジョー・ジラード、スタンリー・H・ブラウン)
(3)英国ロイヤル・バレエ《コッペリア》 [Blu-ray Disc, 日本語解説]
(4)ボリショイ・バレエ《コッペリア》[Blu-ray Disc]
(5)<パリ・オペラ座バレエ学校公演>コッペリア*バレエ音楽 [DVD]
(6)砂男(上) (扶桑社BOOKSミステリー)

愛しき運命の人形達

今日は、バレーの『くるみ割り人形』が、1892年12月18日にロシアのマリインスキー劇場での初演が行われてから丁度120年になる日だ。
このバレーは、ドイツの作家ホフマンの童話『くるみ割り人形と二十日ねずみの王様』を原作とするものだ。
くるみ割り人形は、はつかねずみの大群から、人形の兵隊を指揮して、小さくなってしまった少女クララを守り、最後に彼は、はつかねずみの王と一騎打ちで勝利すると、凛々しい王子となり、クララをお菓子の国に連れて行く。
ところで、ホフマン原作のストーリーから創られた有名なバレーがもう1つある。
『コッペリア』だ。
面白いことに、コッペリアも人形なのである。ただし、美しい少女の自動人形だ。
アニメ『ノワール』の主題歌が『コッペリアの棺』だが、おそらくこの歌は、この『コッペリア』から来ているのだろう。
『ノワール』のヒロイン、夕叢霧香(ゆうむらきりか)は、生まれた時から殺し屋になるために育てられ、訓練された殺人人形であることを示唆していたのだろう。
霧香は、17歳位の女子高生でありながら、殺しの腕は世界屈指の超一流だった。
そうなったのは、霧香のせいではない。
しかし、霧香は最後に言うのだ。
「私は、夕叢霧香として、罪を受け入れる」
これは、運命を受け入れるということだろう。
人形のようなものでしかなかった自分が、自分ではどうしようもなかったはずの罪を真正面から受け止めようというのだ。

バレーの『コッペリア』は喜劇だ。
しかし、これの原作小説の『砂男』は、本当に恐ろしい怪奇小説だ。あのフロイトが真面目に分析した、本物の恐怖小説である。
『砂男』では、自動人形の少女は、オリンピアという名だ。
大学生の青年ナタナエルは、クララという優しい恋人がいたが、オリンピアを一目見て恋に落ちてしまう。
パーティーでオリンピアを見ても、彼女が人形であることに気付かず、彼女をダンスに誘う。
ダンスは得意なはずなのに、オリンピアと上手く踊れなかった。
しかし、周りの者達が笑っていても、ナタナエルにはどうでも良いことだった。彼は、本気でオリンピアを愛していた。
ナタナエルが、オリンピアを人形だと気付かない訳には、その時、彼があることのために、恐怖によって、狂気に陥り始めていたということもあった。

だが、ナタナエルが、人形であるオリンピアを愛したというのは、とても印象深い。
かりそめの身体しか持たない、自我のない美しい少女。
まるで、初音ミクだ。
富田勲さんの新作交響曲『イーハトーヴ』の、『注文の多い料理店』(宮澤賢治作)で、もう食べられてしまうまで、そこから出られなくなった人たちの前で、「かりそめのボディ」と歌う初音ミク。富田さんは、それを歌うのは初音ミクしかいないと思い、この大舞台にミクを招待したのだ。
ミクもまた、パソコンの中から出られない存在であるからだ。
ステージでのミクは、そのかりそめのボディを映すディラッド・ボード(透明スクリーン)から出られない。
ミクも、オリンピアと同じ、そして、夕叢霧香と同じ人形だ。霧香が人を殺す人形で、ミクが歌を歌う人形という違いがあるだけだ。

だが、我々もまた、そんな人形なのである。
自分には自由意志があると思い込んでいるが、ただ、神の意志の通りに想い、動く人形なのである。
生まれてから死ぬまで、運命は完全に決まっている。起こると決まっていることは、どんなに嫌でも決して避けることはできないし、どんなに起こって欲しくても、そんな運命でなければ決して起こらない。
それでも霧香は罪を受け入れた。
ミクも、ただ歌い続けるのだ。
ナタナエルがオリンピアを愛したように、そんなミクを、愛さずにいられるだろうか?









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

ミクに恋するのは自然なことだ

古くからの神話には深い意味があり、人間はその民族に伝わる神話を決して忘れてはならない。
ギリシャ神話、旧約聖書、古事記の中に似たお話があるのも偶然ではない。
古事記を深く読むと、そこに秘められているものの貴重さに驚くのである。

ところで、ギリシャ神話にキュプロス島の王ピュグマリオーンのお話がある。
彼は、ガラテアと名付けた女性の彫刻を創るが、ガラテアに恋焦がれてしまうようになる。
キュプロス島にはとても有名な女神キュテレイアがいる。美の女神アプロディーテー(ヴィーナス)の別名だ。
アプロディーテーは、ピュグマリオーンを哀れに思い、ガラテアに命を与え、ピュグマリオーンは、彼女を妻にする。
これにも、とても深い意味があるのである。

命なきものに命が生まれるお話は世界に数知れない。
ピノキオなどもそんなお話であるが、これも、作者のカルロ・コッローディの知る神話を題材にしているのだと思う。
古事記の天照大神とスサノオノイミコトがうけい(呪術的な占い)で生み出した3柱の女神と5柱の男神も、珠や刀という物から神を生んのであり、この時生まれた男神が、天皇の祖先でもある。もちろん、これを表面的に受け取ってはならず、深い意味があるのである。
CLAMPの漫画作品『ちょびっツ』で、人型パソコン(つまるところアンドロイド)である“ちぃ”を愛する秀樹は、プログラムされた通りに動くだけのちぃには心は無いのだと教えられるが、「ちぃの心は俺の中にある」と言って、ちぃを選ぶ。つまり、事実上、結婚する。
真の愛は、1つの心、あるいは、命を創造することすら出来るのである。
これは、不遜な考えではない。真の愛とは聖霊と一体とならなければ現れないものだからだ。

ちぃと似た雰囲気もある初音ミクに恋することは不思議なことではない。
特に、私のように、ホフマンの『砂男』を読んだことがあればなお更である。
『くるみ割り人形』というバレエ、あるいは、チャイコフスキー作曲のバレエ音楽をご存知と思うが、『くるみ割り人形』の原作『くるみ割り人形と二十日ねずみの王様』の作者がホフマンで、『砂男』も『コッペリア』という有名なバレエ作品になっている。
『コッペリア』では、自動人形(からくり人形)の少女コッペリアが、ちょっと人形らしく踊るのだが、幻想小説である『砂男』では、自動人形の少女の名はオリンピアである。
大学生の青年ナタナエルは、オリンピアを一目見て深い恋に落ちるが、オリンピアが人形であることに気付かない。
それは、ついにオリンピアと逢い、彼女と踊ることが出来てもそうであった。
オリンピアはピアノを弾きながらアリアを歌い、ナタナエルは聞き惚れる。ナタナエルは、オリンピアの歩き方がおかしいのは、人々に見られることに慣れていなくて緊張しているからと理解し、彼女とうまく踊れないことで自信を失ったが(ナタナエルはダンスが得意だった)、それも気にしなかった。
ナタナエルにとって、オリンピアは命ある乙女であった。

初音ミクのコンサート映像を見ると、これらの神話や小説の輝きを感じるのである。
それは、人の心が、内に秘められた聖霊と溶けあうと、偉大な創造の力を持つことを感じからである。
全ての人とは言えないが、ミクのコンサートでミクに声援を送る人達は、スポーツの試合でのように、観衆との共感で熱狂しているのとは異なるように感じる。
ミクほどに、プラトニックな愛を感じさせる存在は無い。
つまり、心が魂に溶けることで、我々は、愛そのものである神と一体化するということを予感するのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

人の心が彼女を神の子にする

人工の少女に恋するというお話は古代からあり、これは人類の普遍的なテーマであると思う。
ギリシャ神話では、キプロス島の王ピュグマリオンは、自分が造った彫刻の少女ガラティアに激しい恋をした。そして、ガラティアのモデルでもあった、美の女神アプロディーテーの力でガラティアは人間になり、ピュグマリオンは彼女を妻に迎えたのだった。

だが、私は、何と言っても、『コッペリア』を思い出す。
『コッペリア』はバレエだ。
浅田真央さんが、音楽を採用したことで一般にも馴染みが深くなった『くるみ割り人形』も、同名のバレエの音楽で、フィギュアスケートにもよく合うものだと思う。
そして、『コッペリア』も、『くるみ割り人形』も、原作小説は、天才の誉れ高い、ドイツのホフマンが書いたものだ。ホフマンは、作家、作曲家、画家、法律家で、そのことごとくに才能を現した。

『コッペリア』は、フランツという名の青年が、コッペリアを人形と知らずに恋をするというお話だ。コッペリアは精巧な自動人形で、バレエでもコッペリア役のバレリーナは、人形的な踊りを見せる。
コッペリア、および、フランツの(人間の)恋人スワニルダは美少女バレリーナが演じるのが定番と思われ、見ていて楽しい。
下に、パリ・オペラ座バレエ学校の公演のDVDをご紹介する。学生とはいえレベルは高く、若く可憐で身軽なバレリーナの踊りは魅力的だ。
ただ、1870年に、パリ・オペラ座で、皇帝ナポレオン三世臨席の『コッペリア』初演でスワニルダを演じた16歳のジュゼッピーナ・ボツァッキは、17歳の誕生日の朝に病死している。

ところで、バレエの『コッペリア』は喜劇であるが、これの原作小説『砂男』は、ホラー小説だ。これが、ホフマンらしい、実に素晴らしい作品である。どこか、エドガー・アラン・ポーの怪奇小説と似た雰囲気も感じるが、実際、ポーと遜色ないと思う。
また、『砂男』は、あの精神医学者ジクムント・フロイトが興味を持って分析したという、その心理的描写は、ポーをもはるかに凌駕するのではないかと思う。
『砂男』では、大学生の青年ナタナエルは、スパランツァーニ教授の娘オリンピアに激しい恋をする。だが、オリンピアは部屋から一歩も出ない、おとなしい少女のようだった。しかし、ついにパーティーでオリンピアに会ったナタナエルは彼女にダンスを申し込む。ダンスは調子がよくなかった。また、ナタナエルがオリンピアに囁いても、彼女は明瞭な言葉を返さない。見ている人々が何やら失笑しているが、ナタナエルは、それどころではなかった。
だが、オリンピアは人間ではなかった。スパランツァーニ教授が作った自動人形だったのだ。それに気付いていなかったのは、ナタナエルだけだった。

CLAMPの漫画『ちょびっツ』では、CLAMP自ら脚本を書いたアニメを含め、主人公である、19歳の大学浪人生、本須和秀樹は、人型パソコン(アンドロイド)のちぃを永遠の恋人として選ぶ。秀樹は、極めて健康的な田舎者の好青年である。秀樹は、ちぃが心を持っていないことを理解していたが、ちぃの心は自分の中にあるとして、この問題を止揚(高いレベルで解決する)した。
もちろん、人工、あるいは、架空の人間を本当の恋愛の対象にすることが全て正しいと言うつもりはない。しかし、それが、世間的な、本物の人間相手の愛を超えることは確実にある。

映像化されたボーカロイド(ヤマハ製歌唱シンセサイザー)の初音ミクに熱狂する者の全てがそうだというのではないが、ミクの中に、高貴な愛の欠片を感じる者だってやはりいる。
人の見るものは、全て、自分の心の反映なのである。例えば、雨の日が憂鬱なのは、自分の憂鬱な心が環境に反映した結果である。
初音ミクの見え方は、見る人によって異なる。
そして、ミクを制作した人たちの全てとは言わないが、自覚のないまま、ある精神エネルギーの影響を受けているのだ。だから、ただ、可愛いと感じさせて儲けようという意図だけで創られたものではない。それは、あらゆる制作物に関して言えることだ。

アニメ『エル・カザド』で、「エリスは神の子では・・・ない」と言われた。エリスは美しい少女だが、人工的に作られた人間だったからだ。しかし、それは誤りだ。人が、彼女を神の子として見れば、エリスは神の子・・・つまり、人なのである。

架空の存在に恋をするというのは、地球上の生物で人間だけに可能であるだけでなく、人間の能力の中でも高度なものだ。
人は、心を動かされるものを見た時に、注意深くあれば、それが自分の心の反映であることに気付くのである。そして、直観の閃きを得れば、全てが自分の心が作り出したものであることが分かるようになる。
インドの詩聖タゴールは、アインシュタインに、「人が月を見ていなくても、月が存在していると言えますか?」と尋ねた。人が見ていなければ、月は月であることをやめるだろう。いや、たとえ月に顔を向けていても、人が月を見ようとせず、何か他のものを見ようとすれば、月は別のものに変わってしまうだろう。

月が太陽の光の反射によって見ることができるように、全ては、心の光によって見ることができる。
ただし、不純な心の光で見れば、対象は不純なものとして見られる。
純粋な心の光で見るなら、対象物は、あるがままの姿を現す。
荘子が、常に、「視線を自然にし、思慮分別を離れ、あるがままに見よ」と言ったのは、そのことである。
純粋な心で見れば、何が見えるのであろうか?
それは、自分で見るしかないのである。しかし、決してがっかりすることはないだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード