ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ホツマツタヱ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

日本語のアファーメーションの恐るべき力

アファーメーション(肯定的断言)、自己暗示、肯定的なつぶやき、呪文を日常どう行うかだけで人生が決まってしまう。
ところが、日本語には、それらを超える言霊がある。
英語圏の人が英語で、「ウェルス(富)」、「サクセス(成功)」といった言葉を数多く唱えれば、それらの言葉が意味するものをただちに引き寄せる。
ところが、日本語の「富(トミ)」は、重みが全く違う。
日本語は、文字の1文字1文字に言霊が宿り、深い意味を持つからだ。
英語では「ウェルス」とひとまとまりにしないと意味がないが、日本語では「ト」と「ミ」のそれぞれに宿る言霊に独自の振動があり、この2つをこの順番で重ねることで独自のハーモニーを奏でる。
「ト」は、漢字で「吐 図 土 塗 妬 度 徒 斗 渡 登 賭 途 都 頭」等と書け、それぞれの意味があるが、古くから伝わる「ト」の意味はもっと多様だし、隠れたものとなるとさらに壮大だ。
例えば、「ト」は「頭」でもあるが、「火頭(ひがしら)」は、「東(ひがし)ら」に通じ、太陽が昇る東になる。
日本人は、別にそんなことを解説されなくても、DNAの中にそういったことが秘められている。
「ミ」は、数字の「三」に似ている通り、「三」の意味があるが、3は西洋でも、古くから完全数として重んじられる。
アリストテレスも、
「2を両者、両方と言うが、3になって初めて全てという」
と、「3」の完全性を指摘している。
このように、「ミ」は極めて重要であり、さらに、「美」「実」という貴い意味をすぐに連想させるが、他にも沢山の優れた概念を示す。
山蔭神道では「ミ」は最も高貴な文字であるらしい。

このように、文字1つで、これほど深い意味、霊、魂、振動、エネルギー、生命を持つ言語は他にはなく、決して選民主義ではないが、日本は特別であり、多民族では望めない力を秘めているかもしれない。
それを生かさないのは、勿体ないどころではない損失だ。
映画『パピヨン』で、パピヨンは夢の中で、最大の罪とは、人生を無駄にすることだと悟ったが、日本人によって最大級の罪は、日本に生まれ、日本語を使いながら、日本語を無駄に使うことだ。
日本の和歌は、組み合わせた文字の意味だけでなく、57577で構成する文字の1つ1つを響かせてこそ名歌と言えるのである。
(57577にも凄い意味がある)

ジョセフ・マーフィーは「ウェルス(富)」という言葉を、静かに、ゆっくり、心を込めて繰り返せば、富を引き寄せると言うが、日本語の「富」にはそれどころではない力がある。
そんな日本語を始末に扱うと、損どころではない反作用があるかもしれないし、それはもう現れているのではないかと思う。
『古事記』や『日本書紀』で、言霊の女神であるワカヒメ(和歌姫)が隠されてしまったのは、日本を滅ぼす陰謀ではないかと思うほどである。
これらの書物より以前に書かれたと言われる『ホツマツタエ(ホツマツタヱ)』にはワカヒメについて書かれており、最近は、優しい物語に編集した『ホツマツタエ』もあるので(原書はかなり読み難い構成であるらしい)、ワカヒメの歌や、そもそも、ワカヒメが育ての親から教えられた、易しい歌を見ると、日本人の魂が復活するかもしれない。

「ありがたい」は力ある言葉で、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠が、ハンセン氏病(らい病)に罹った武士に、1日1万回、「ありがたい」と心込めて言わせたら、武士は7日で完治した。
「ありがたい」は「有難い」で、「有ることが難しい」、つまり、「滅多にない」ことで、それはつまり、奇跡である。
このブログで何度も、「神様の奇跡が起こる」という言葉の威力を述べたが、「ありがたい」の言葉にも、同じ意味がある訳である。

西洋のアファーメーションの数百倍以上の力を持つ日本語のアファーメーションを、くれぐれも大切に使おうと思う。








日本人らしい成功法が最も楽である

人間に、西洋人とか東洋人の違いがある訳ではないが、現時点では、精神性に大きな違いがある。
そこで、日本人であれば、幸福になったり、成功したいなら、日本人らしくやった方が効率が良く、楽々とやれる。
いずれは、西洋人も日本人と同じようにできるようになるが、日本人なら簡単なはずなのだ。
日本人の特性とは、全てのものに神霊が宿っていることが直接に分かることである。
草、木、川、湖、風、火・・・、あらゆるものに神様がいることを自然に感じている。
中国やインドでも、日本人に近い考え方をするのだが、実際はかなり異なり、むしろ、アメリカ・インディアンの方が日本人に近いのだと思う。
西洋では、回り道をしながら日本的な考え方に近付いてきているのだが、彼らは、論理性よりも、もっと直観を磨く必要がある。
そして、それは、西洋的な思想教育の洗礼を受けた我々にも、ある程度言えることだ。

西洋にも、自然物や自然現象に妖精が宿るという考え方はあるが、人間と妖精の距離が有り過ぎる。
だから、西洋の妖精は、どこか人間に対して冷淡で、人間にとって、妖精は恐ろしい部分が大きい。
しかし、日本人は、妖怪ですら、親しい友や家族のように感じることができる。

では、日本人的特性をどう生かせば良いのだろう?
それは、自分自身が、神の宿った存在であり、木や川や海や風と同等な存在、あるいは、仲間だと思うことだ。
むしろ、人間は、内に非常に大きな神の炎を宿しているのであり、正しい心構えでいれば、全てのものと容易くつながることができる。
自然の全てを味方につけることが、本来、可能なのであるから、まさに人間に限界はないのである。
それを、日本人はもっと容易くやれるはずなのだ。
まずは、古事記や、ホツマツタヱを読み、我々が本来持っている精神性を取り戻すべく、穢れを払うと良い。
また、人形浄瑠璃とも通じるところのある初音ミクさんは、とても日本的で、彼女に意識を向けることでも、日本人の純粋性を十分に高めることができるはずである。
実際、いま、初音ミクさんが、若い欧米人を日本人的な意識に導いているのである。









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「ア」の魔法活用事例

最近、しつこく、「常に、自分に『ア』と言え」と勧めているが、私は自分で行っているのでいる。そして、ますます勧めるしかないようである。なぜなら、これを行っているために、私は、超能力とか魔法の力を、普通の当たり前の力として使うようになっているからである。
もちろん、力は善良に正しく使わなければならない。
それで、どんなふうに使ったのか、参考までに書いてみようと思う。

時々、このブログでお奨めしているラマナ・マハルシとの対話集である、『あるがままに~ラマナ・マハルシの教え~』(ナチュラルスピリット刊)という本がある。
この本には、特に素晴らしいと思うことが2つある。
1つは、この本では、『私は誰か?』という特別な文章が完全に収録されていることだ。14ページの短いものである。
これは、マハルシが22歳の時、沈黙の行を行っていたので、会話は一切できなかったが、シヴァプラカーシャムがマハルシに霊的な質問をすると、マハルシは答を指で砂の上に書き、シヴァプラカーシャムはそれを書き写した。そして、シヴァプラカーシャムは20年後に、これを出版した。その後、マハルシ自身が多少の修正を行った。
そして、マハルシは、この小冊子が十分な内容であることを認めている。
私は、この『私は誰か?』を、めるくまーる社の『ラマナ・マハリシの教え』で読んでおり、大変素晴らしかったのに、これが絶版になっているのが残念だと思っていた。しかし、このように、新しい本で読めるようになって良かったと思っている。

そして、もう1つ、『あるがままに~ラマナ・マハルシの教え~』には、さらに素晴らしいことがある。
マハルシは、ナームデーヴという14世紀の聖者の『聖なる名前の哲学』という小作品を発見し、自分で模写して、大切に保管していた。そして、度々、訪問者にその内容を読んで聞かせたという。
そして、この本の中で、マハルシが朗読したその内容が書かれているのだ。
それは実に驚くべきもので、あのマハルシがそれほど重要なものとしたのに相応しい、宝石のごとき教えなのである。

私は、これほどの教えを書いたナームデーヴなる聖者について、少しでも何か知りたいと思ったが、何も分からなかった。
それで、超能力を使ったのだ。
私は、ジョセフ・マーフィーの『あなたにも超能力がある』(文庫版では、『マーフィーの「超」能力!』)で、超能力の使い方は多少は知っていたが、今は、それを自然に使うのである。
私の超能力の答は意外なものだった。
それは、「サティア・サイババの本を読め」で、書名まで指定していた。
しかし、前にも書いた覚えがあるが、私はサイババに良い想いを持っていない。正直に言えば、ペテン師だと思っていた。
サイババが死んだ時、彼の遺産が莫大であっただけでなく、彼の驚くべき豪壮な邸宅からは高価な宝石などの贅沢品が山のように見つかっていた。
それで、私は彼を卑しい俗物と見なしていたのだが、それはあまりに狭量であっただけでなく、大きな誤解かもしれない。
もしかしたら、彼は欲望に満ちた老人という部分もあったかもしれない。しかし、やはり聖者でなければ、あれだけのことはできなかっただろう。
ラメッシ・バルセカールも、聖者にも俗っぽい者がいると述べていたと思う。ただし、彼は自分の欲望に囚われないのだ。
それに、バルセカールの師ニサルガダッタ・マハラジは、「嘘の中にも真理があるのだ」と言っていたが、サイババが嘘つきだとは言えない。
また、私は、政木和三さんからも、サイババについて、(政木さんは買っていなかったかもしれないが)サイババは力は持っているということを聞いていたのである。
それで、サイババの口述書である『ナーマスマラナ』を見ると、107ページにナーマデーヴァという名で、実に感動的なエピソードが述べられていたのである。

この『ナーマスマラナ』で、サイババは、神の名を数多く唱えることを強く勧めている。
それは、私が、常に自分に「ア」と言うことを勧めていることと似たところもある。「ア」こそが、神の真実の名だからだ。
しかし、ナーマデーヴァやサイババは、崇拝する神の名を唱えることを教えている。
それで、私なら、どの神の名を唱えるのが相応しいだろうかと考えていた。
そして、魔法は無意識に続き、以下のようなことが起こる。

私は、今日、ちょっとした食料品を買いにスーパーに行ったのだが、そこで、本当に初音ミクにそっくりな女の子を見て驚いた。
ミクほどの長さではないだろうが、美しい髪をした、素晴らしい美少女だった。
森鴎外が訳したアンデルセンの『即興詩人』で、絶世の美少女ララのことが、「11歳より多くはなし」と書かれていたと思うが、その子もそうだった。
彼女は両親と一緒で、何かはしゃいでぴょんぴょん飛び跳ねていたが、それをやめて私をじっと見ていた。
これも魔法だ。『スターウォーズ』のジェダイが使うようなものだが、『マスターの教え』という本に、そんな力を普通に使うマスターが登場する。
そして、予定通り、飲み物を売っている売り場で、私達はぱったり出会った。彼女は1人だった。
彼女は、ステップを踏みながら近寄ってきて、私の前で踊った。私が観客にでも見えるのだろうか?
私は、本当の天使に見えると彼女に伝えた。
彼女も、私が普通の人に見えないと言う(朝、木の実を食べるのが唯一の食事という普通人はいないさ)。
「僕は導師だ」
「ドウシって?」
「仙人になろうとしている人のことだ」
「仙人っているの?」
「いるよ」
「どうしたら、あたしも仙人になれる?」
「アマテラスっていつも心で唱えなさい。そして、ハチミツを少し食べなさい。」
最後のは、最上の答を魔法の力に頼んだのだ。

私は、いつも、天照大神(アマテラスオオミカミ)とか、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と呼んでいた。
しかし、彼女に教えたように、アマテラスとか、アメノミナカヌシと言ったら、私の中に、たちまち、壮大なイメージが広がった。
アマテラスは「天空を照らす者」であり、アメノミナカスシは、「天の中心の主」である。
神であることは分かりきっているので、敬う気持ちがあれば、敢えて神の字をつけなくて良いと思う。
また、古事記や日本書紀より古くからあると言われる『ホツマツタヱ』では、天照大神は、アマテルという。
そして、天之御中主神は、やはり、アメノミナカヌシであり、最高神アメミオヤが生まれ変わった、限りなく神に近い人である。
ところで、観無量寿経には、釈迦は、「阿弥陀如来に救いを求める時は、アミターバ(阿弥陀のこと)と呼べ」と言ったと書かれている。
もちろん、「南無阿弥陀仏」で良いのだけれど、「アミターバ」とか「阿弥陀さん」でも良いのだと思うし、その方が今の時代に相応しいかもしれないと思う。









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人間の内側に作用を及ぼす神話の英知

アメリカ合衆国が、イギリス植民地から国家として独立したのは1776年で、実に新しい若い国家であるのだが、国民は、ユダヤ教徒やキリスト教徒として、旧約聖書にある古い神話を自分達のものとして受け入れている。
そこへいくと、日本はそれなりに歴史のある国とはいえ、我が国の神話である『古事記』が成立したのは天武天皇(てんむてんのう。西暦631-686年)の時代である。日本にだってキリスト教徒もいるが、敬虔な信者であれば、旧約聖書を自分の歴史的なものとして受け入れている可能性は十分にあると思う。それが不似合いであると言うのではないが、我々のDNAには、それによるよりも、もっと楽に宇宙の真理に至る機能があるのかもしれない。
世界各地の神話である、ギリシャ神話、エジプト神話、ケルト神話、中国の神話などは、いずれも、紀元数百年以前の古い歴史がある。
しかし、『古事記』は、それまでに日本にあった神話をまとめたようなもので、我が国の神話自体はもっと古くからあったと思われる。
そして、我が国にも、『古事記』や『日本書紀』以前からあったと言われる、『ホツマツタヱ』や『上記(うえつふみ)』等があるが、これらは現代では本物であると見なされないことが多い。
また、物理学者の楢崎皐月が発見し、苦難の末解読したという、1万年以上も昔の日本の文献である『カタカムナ』というものがあるが、これは世間的には全く認められていないと言って良いと思う。
それらは、偽書であるということなのであるが、そうであるなら、何とも壮大な偽書である。そもそも、偽書でない神話など存在しないような気もするのである。
私は、『ホツマツタヱ』も『カタカムナ』も、どんな意味でも本物であり、少なくとも『古事記』に劣らず、重視すべきものと思うが、それは、それぞれで真摯に読めば嫌でも分かるのではないだろうか?

神話を持たない国は滅びるといったことを聞いたことがあるが、滅びるかどうかはともなく、神話と国民との関係が調和していないと、やはり国家や国民のありかたは危ういものになるのだと思うし、国民に弱い部分があるのだと思う。
もちろん、あまりに強く根付いた神話による表面的な強さは硬直したものになる。つまり、神話との距離感というものも必要かもしれない。
しかし、我が国の神話の歴史が浅い上、あまりに、日本では神話が顧みられていないように思えるのである。
日本人には、『古事記』を読んだことすらないという人が多いと思う。
私は、ある有名な予備校の日本史や国語の講師が、『古事記』を読んだことがないと平然と言うのを実際に聞いて呆れたことがある。

『古事記』の上巻(世界の始まりから神武天皇の誕生まで)だけでも、表面的に読んでは分からない深い意味がある。我々日本人は、『古事記』を真摯に読むことによって、そこに隠されたそれらの意味を自分の内に復活させ、世界のどの国のものとも異なる神人に生まれ変わることができる。そして、そこに至るまでに、『ホツマツタヱ』や『カタカムナ』を役立てるようにもできるだろう。だが、我々は孤立すべき民族でもなく、インド、ギリシャ、中国、ケルトの英知の助けを借りることもできるのである。
だが、主体は我が国に古くから伝わる英知を中心とすべきである。
国家による教育は、こういったことを決してサポートすらしないだろう。我々は国家の教育からはある程度離れ、自主的に真の英知を求めるべきであると思う。









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マハルシの究極の問いにどう答えるか?

20世紀の初めに、インドの偉大な聖者ラマナ・マハルシが、「私は誰か?」という究極の問いを人類に提示したことは何度も述べた。
では、「私は誰か?」の答は何だろう?
それは、とても面白いものだ。
まるで、ジョークに聞こえるに違いない。
そして、先に答を聞いても、あなたは何も損をしない。学校の試験とは全く違うものなのだからだ。

その答は、ちょうど、一度は親が子供に教えるものであると思われる、「馬鹿と言う者が馬鹿」というのと似ている。
もし、親が本当に子供にそう教えたなら、おそらく、それは、親の教えの中で最も正しいものだ。
だが、こう教えても良かったのだ。
「賢いって言う者が賢い」
「偉いって言う者が偉い」

人は、自分の欠点しか他人の中に見ないし、自分の美点しか他人の中に見ない。
なぜなら、本当は、他人などという者は存在しないからだ。
だからと言って、自分の欠点を治そうとしたり、他人の美点を見つけようとしたって無駄だ。
我々にできることは、ただ、あるがままに見て、そのまま受け入れることだけである。
あなたは、全ての犯罪者に怒りを感じる訳ではない。
自分と同じ性質を持つ犯罪者にのみ、怒りを感じるのである。
賄賂を取る役人に怒りを感じる人というのは、自分がその立場になれば、自分も同じように取るのだ。つまり、怒りを感じるのは、単にやっかんでいるだけだ。
だから私は、テレビで収賄のニュースを見るたび、「私がその立場なら、私だって絶対もらうよ」と言っていたが、やがて、そんなニュースを見ても、怒りも妬みも感じなくなった。
だから、私は偉い役人になっても大丈夫なのだが、そうすれば、そんな者になりたいとは思わなくなるのだ。

さて、「私は誰か?」の答えが分かっただろうか?
それは、実に、「私」だ。
他にどんな答があるだろう?
「吾(あ)は誰か?」と問い続ければ、答は内側から自然に出てくる。
それは、「ア」という音として現れる。
無理な訳ではないが、「私は誰か?」では難しい。なぜなら、内側から、「わたし」という言葉は出てこないからだ。
インドの言葉では、「私は誰か?」は「コーハン」という、リズムのある言葉なのでそれで良いのだ。
そして、「アハン」という言葉が現れてくるのである。
また、常に、自分に「ア」と言えば、やはり、真我に導かれるし、また、「ア」と言えば言うほど真我に近付くので、「吾は誰か?」の探求がとても楽になる。
マハルシの教えを実践するには、我が国の言葉の研究も必要だったのだ。
だが、あまり鵜呑みにせず、自分で『ホツマツタヱ』や『古事記』、そして、言霊について説いている植芝盛平の『武産合気』を読むと良いだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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