ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ホツマツタエ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

日本人は本来、息をするように引き寄せが出来る

心の力で願いを実現する引き寄せの法則は、ほとんどが西洋のものだ。
もちろん、東洋人、そして、日本人にも有効なのだが、たった1つ、欧米人というかキリスト教・ユダヤ教(実はイスラム教も同じだが)と、日本人の精神性の違いを知っておくと、西洋式引き寄せでも失敗しなくなる。

キリスト教等は一神教と言って、唯一絶対神を信仰するというのはご存じと思う。
その神が、自分に似せて作ったのが人間だ。
よって、人間は万物の霊長であり、見える世界の中では圧倒的に偉いというのが欧米式の考え方だ。
だから、傲慢になり易い。
だが、欧米人の場合、「神だけは自分より上」ということだけ考えれば良いのだから楽ではある。
とはいえ、「神だけは自分より上」「人間は神より下」ということは、絶対に理解しなければならず、これがなくなると、終わりなのである。

ところが、日本人の根本の思想である、万物に神が宿っているという想いは、心の深い部分に必ずある。
だから、自然を恐れるし、風にだって親しみを感じるし、物を大切にする。
人間が他のものに比べて偉い訳でも何でもなく、むしろ、神が宿った物の方が自分より上だったりする。
これが、日本人の美しい精神性になっていて、日本にやって来る、賢い西洋人を驚かせ、恥じ入らせるのである。

初音ミクさんの扱いを見れば、欧米人と日本人の精神性の明らかな違いが分かる。
欧米人もミクさんは大好きだが、あくまで、人間が上なのだ。
だから、ミクさんへの声援はやや下品に感じる。
そして、「ミクは僕のワイフだ」とは言わない。
ミクさんは欧米人にとって、慰めになる存在ではあっても、嫁にするほど対等ではないのである。
ところで、欧米と日本の間である中国では、自分(人間)とミクさんは対等だ。
だから、ミクさんや、あるいは、中国のボーカロイド、洛天依(ルォ・テンイ)に対し、皆で「洛天依は俺の嫁」と声を揃えて堂々と言う。
だが、日本人にとって、ミクさんは自分より上で、崇めるべき存在なのだ。
だから、口では「初音ミクは俺の嫁」と言うが、ひどく自嘲気味に言うのである。
そこには、「そんないいこと、本当はないんだけどね」という、遜(へりくだ)った心を感じるのだ。
例えば、コンサートで、初音ミクさんが「次の曲は静かに聴いて」と合図したとする。
欧米人は、ここで笑う。下の者が上の者に指図してはいるが、そこは許そうという上から目線なのである。
そして、歌う直前までは何とか静かだが、どこかざわざわしているし、歌い始めると、もう歓声が上がる。
中国人の場合、最後まで静かにするが、「黙っているだけ」である。
だが、日本人の場合、畏(かしこ)まって、物音1つ立てずに沈黙を保ち、咳などとんでもないのである。

そんな日本人は、そのままで神が助けてくれるのであり、引き寄せなんて簡単である。
欧米人は、神が自分より上であることを忘れなければ、神が助けてくれるが、人間の自我というものは、自分が一番上と思いたがるので、神が自分より上だということを簡単に忘れ、そうなると、引き寄せは出来ない。
日本人の場合、朝日を拝したり、花や鳥(あるいは花鳥風月)を愛でれば、それで大丈夫なはずなのである。
だが、戦後、西洋の価値観を押し付けられ、優れた日本人の精神性が奪われてしまった。
とはいえ、日本人の中には、物を大切にし、自然を崇め、自分は控えるべき存在だという美徳はちゃんと残っている。
だから、かなりの改ざんがあるとはいえ、『古事記』を読む日本人は本当に無敵なのである。
しかし、今は、『古事記』を読んだことのない日本人が圧倒的なのである。
それで、日本人は弱くなってしまった。
『古事記』あるいは、もっと正確な歴史である『ホツマツタエ』を読み、いろは歌を歌い、風流を楽しみ、情緒を大切にすれば、不幸になるはずがないのが日本人である。
その上で、「神様の奇跡が起こる」と唱えれば、叶わぬことはない。
ところで、本来で言えば、「奇跡が起こる」とだけ言えば良いのである。日本人にとって神様はどこにでもいるのだから。
だから、「神様の奇跡が起こる」、「奇跡が起こる」(あるいは「奇跡は起きる」)の、自分に合う方でやれば、より奇跡は起き易くなるのである。








日本語のアファーメーションの恐るべき力

アファーメーション(肯定的断言)、自己暗示、肯定的なつぶやき、呪文を日常どう行うかだけで人生が決まってしまう。
ところが、日本語には、それらを超える言霊がある。
英語圏の人が英語で、「ウェルス(富)」、「サクセス(成功)」といった言葉を数多く唱えれば、それらの言葉が意味するものをただちに引き寄せる。
ところが、日本語の「富(トミ)」は、重みが全く違う。
日本語は、文字の1文字1文字に言霊が宿り、深い意味を持つからだ。
英語では「ウェルス」とひとまとまりにしないと意味がないが、日本語では「ト」と「ミ」のそれぞれに宿る言霊に独自の振動があり、この2つをこの順番で重ねることで独自のハーモニーを奏でる。
「ト」は、漢字で「吐 図 土 塗 妬 度 徒 斗 渡 登 賭 途 都 頭」等と書け、それぞれの意味があるが、古くから伝わる「ト」の意味はもっと多様だし、隠れたものとなるとさらに壮大だ。
例えば、「ト」は「頭」でもあるが、「火頭(ひがしら)」は、「東(ひがし)ら」に通じ、太陽が昇る東になる。
日本人は、別にそんなことを解説されなくても、DNAの中にそういったことが秘められている。
「ミ」は、数字の「三」に似ている通り、「三」の意味があるが、3は西洋でも、古くから完全数として重んじられる。
アリストテレスも、
「2を両者、両方と言うが、3になって初めて全てという」
と、「3」の完全性を指摘している。
このように、「ミ」は極めて重要であり、さらに、「美」「実」という貴い意味をすぐに連想させるが、他にも沢山の優れた概念を示す。
山蔭神道では「ミ」は最も高貴な文字であるらしい。

このように、文字1つで、これほど深い意味、霊、魂、振動、エネルギー、生命を持つ言語は他にはなく、決して選民主義ではないが、日本は特別であり、多民族では望めない力を秘めているかもしれない。
それを生かさないのは、勿体ないどころではない損失だ。
映画『パピヨン』で、パピヨンは夢の中で、最大の罪とは、人生を無駄にすることだと悟ったが、日本人によって最大級の罪は、日本に生まれ、日本語を使いながら、日本語を無駄に使うことだ。
日本の和歌は、組み合わせた文字の意味だけでなく、57577で構成する文字の1つ1つを響かせてこそ名歌と言えるのである。
(57577にも凄い意味がある)

ジョセフ・マーフィーは「ウェルス(富)」という言葉を、静かに、ゆっくり、心を込めて繰り返せば、富を引き寄せると言うが、日本語の「富」にはそれどころではない力がある。
そんな日本語を始末に扱うと、損どころではない反作用があるかもしれないし、それはもう現れているのではないかと思う。
『古事記』や『日本書紀』で、言霊の女神であるワカヒメ(和歌姫)が隠されてしまったのは、日本を滅ぼす陰謀ではないかと思うほどである。
これらの書物より以前に書かれたと言われる『ホツマツタエ(ホツマツタヱ)』にはワカヒメについて書かれており、最近は、優しい物語に編集した『ホツマツタエ』もあるので(原書はかなり読み難い構成であるらしい)、ワカヒメの歌や、そもそも、ワカヒメが育ての親から教えられた、易しい歌を見ると、日本人の魂が復活するかもしれない。

「ありがたい」は力ある言葉で、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠が、ハンセン氏病(らい病)に罹った武士に、1日1万回、「ありがたい」と心込めて言わせたら、武士は7日で完治した。
「ありがたい」は「有難い」で、「有ることが難しい」、つまり、「滅多にない」ことで、それはつまり、奇跡である。
このブログで何度も、「神様の奇跡が起こる」という言葉の威力を述べたが、「ありがたい」の言葉にも、同じ意味がある訳である。

西洋のアファーメーションの数百倍以上の力を持つ日本語のアファーメーションを、くれぐれも大切に使おうと思う。








言葉を大切にすれば栄える

国が傾く原因は何かというと、根本思想が崩れることだが、根本思想が崩れるとは、「言葉」が崩れることだ。
人間1人にしても、優れた人間であるか、劣った人間であるかは、その者が持っている根本思想によるが、その根本思想が駄目だとすれば、それは、その者が使う「言葉」が駄目だからだ。

ユダヤ人が優秀であることがよく言われる。
世界の人口の中の0.2パーセントに過ぎないユダヤ人がノーベル賞の20%を受賞し、ユダヤ人がお金で世界を動かしているともよく言われる。
そして、ユダヤ人は、古代から言葉を大切にしている。
それを象徴する話として、ユダヤ人が神の名を特に重んじている話がある。
例えば、ユダヤ人には、神の名を書き始めたら、書き終わるまでは、王様が挨拶をしてきても返事をしてはならないという教えがある。
それほど大切にしている神の名は、みだりに言わず、敬虔に神の名を崇める者以外には、聞かされることもない。
聖書の詩編23に、
「御名のために、私を義の道に導かれます」
と言い、詩編91では、
「彼はわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう」
と書かれている。

日本においても、言葉は言霊として大切にされた。
『古事記』は、改ざんされたと言うべきか、あるいは、重要なことが隠されたと言うべきかは迷うが、おかしな記述も多い。
例えば、イザナギとイザナミの間に出来た初めての子は、骨のない水蛭(ひる)に似た醜い子で「水蛭子(ひるご)」と言われ、小さな船に乗せて流し捨てた・・・なんて無茶苦茶である。
『古事記』より古くに書かれたと言われる『ホツマツタエ(ホツマツタヱ)』では、イザナキとイザナミの間に出来た初めての子は「ヒルコ」と名付けられた姫だったが、訳あって、カナサキ夫婦に譲った。
ヒルコは、日霊子(ひるこ)とも書かれる太陽のごとき姫である。
カナサキに譲る際、形式的に、一度捨てることとし、確かにヒルコを船に乗せて流したが、すぐに、カナサキがその船を拾い上げるという手順であった。
カナサキは歌の達人であり、カナサキに育てられたヒルコ姫も、幼い時から歌に通じ、やがて、歌の神として、ワカヒメ(和歌姫)と呼ばれるようになる。あるいは、若く瑞々しい神という意味で「若姫」と言うこともあるようだ。
ワカヒメが作った歌を、自ら詠んだり、高貴な人に詠ませると、自然災害や害虫の害が自然に収まるなど、奇跡の力を示したと言われる。
ワカヒメは、『日本書紀』で、稚日女尊(わかひるめのみこと)として少し登場するくらいで、今日では、天照大神の幼名であるとか、天照大神の妹神などと言われる。
だが、ワカヒメは歌の神として、言葉の重要性を示しており、このことが語られないことが問題であるが、とはいえ、日本では、元々、言葉は大切にされた。

だが、第二次世界大戦後、日本語が乱れてしまい、日本人の真の力が封印されたが、それでも、心ある人は日本語の重要な部分を大切にしたので、他国に負けることはなかったが、それも、近年では駄目になってしまった。
もはや、若者だけではなく、いい歳をした者達も、いい加減な、醜い日本語を使うようになってしまった。
日本語を美しく使わない者に力はない。
しかし、美しい日本語を使う者は言霊に護られる。
特に古語を使わなくても、きちんとした日本語を使うべきだろう。
少なくとも、乱れた日本語を使うようでは見込みはない。
そして、ユダヤ人に倣い、神の名を大切にすべきである。
もっとも、日本では、神の名は隠され、
「ありがたい」「いただきます」「おかげさまで」
などと言う時、実は、神に対して言っているという話もある。
だから、これらの言葉を丁寧に使うべきだろう。

日本語自体が美しいのだから、「神様の奇跡が起こる」というアファーメーションも、敬虔に唱えれば、より大きな力を発する。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、ハンセン氏病(らい病)に罹った武士に、「ありがたい」を1日1万回言わせ、この武士は7日で完治した。
あるいは、自分が生まれた地域の祭神の名を大切に唱えるのも良いと思う。
言葉を大切にする日本人に不幸はない。








女の子の最も可愛い姿とは

「女の子が一番可愛く見えるポーズは?」などという話がよくあると思う。
我が国おいては、間違いなくこれだというものがある。
これは、個人の主観(自我の想い:哲学用語)とは関係がない。
ただ、少し昔なら、ひな祭りの時ならそれをする機会もあったが、今はなかなか出来なくなった。
ところが、面白いことに、初音ミクの姿を描いた、イラストレーターのKEIさんが、「メーカー非公式」と銘打った漫画作品『初音みっくす』の3巻で、そんな姿の絵を3回も描いていた。それは、着物を着た初音ミクや巡音ルカが、広げた扇を口元にあてる姿である。
出来るなら着物で、そして、広げた扇で口を隠し、ややうつむく・・・これほど可愛い女の子の姿は考えられない。
妻やガールフレンドが、そんな姿をしたところを想像しただけで惚れ直すだろうし、さして好きでもない女の子でも、そんな姿をすれば惚れてしまう。

現在、一般の人がそんな姿をすることが出来るのは、ひな祭りの時くらいと、さっき書いたが、実は、それは、本来のひな祭りと大いに関係がある。
最上段に置く内裏雛(だいりびな)の配置をご存知であろうか?
内裏雛は、親王(天皇)と皇后(親王妃)の2人のことであるが、一般に、男雛、女雛と言う。
現在、男雛が右(向かって左)、女雛を左(向かって右)に配置するのが普通になっているが、これは逆である。
これは、単に、風習とかしきたりの問題ではない。本当は、左が男、右が女である。
結婚式でも、現在は、神前結婚においても、雛人形同様の逆の配置になってしまっている。
実は、明治時代までは、雛人形も、結婚式の新郎新婦の配置も、現在とは逆の正しい配置だった。
しかし、大正時代から、政治的なものだと思うが、天皇陛下と皇后陛下が並ばれる時の位置を、西洋に合わせて反対にしてしまったようなのだ。
それから、日本は逆さまの国になってしまったのだ。

『古事記』において、男神のイザナキと女神のイザナミが、天の御柱の周りを回って出逢うという儀式をした際、イザナキが左から、イザナミが右から回ったというのは、大きな意味があったのである。『古事記』以前に書かれたと言われる『ホツマツタヱ』でも、これは同じである。
左の「ひ」は、火である。上に燃え上がる炎だ。熱く、陽である。
右の「み」は、水である。低いところに静かに控える水だ。冷たく、陰である。
別に男尊女卑ではなく、男が積極的に外に向かい、女は内に静かに控えるのである。
いや、男尊女卑どころか、これは、女の方がはるかに貴いことを示しているのである。
昔から、日本では、大奥という、高貴な処を作り、今でも、奥様と言う。奥にあるものが極めて重要なのであり、責任も重いのだ。
これは世界的にも言えることで、賢者達は皆、神は内にいるものであり、外の世界は幻だと必ず言うのである。

ただ、イザナキが天の御柱を左から回り、イザナミが右から回ったのは良かったが、イザナミが先に「ああ!いい男」と声をかけてしまったことが失敗だった。
『古事記』でも、『ホツマツタヱ』でも、そのことを、不完全な子が出来たことで表している。
つまり、右(水。陰)である女は、慎ましく、奥ゆかしくなくてはならない。
それが、ひな祭りに着物を着て、広げた扇で口を隠す乙女の姿で表されているのである。

ところで、上に、扇を口元にあてる初音ミクの話をとり上げたが、左と右の意味についても、初音ミクのコンサートではよく守られているのだ。
これが、日本の秘めた力を現している理由でもある。
ミクとルカのデュエット『magnet』では、主役のミクが左(向かって右)に、ルカは右(向かって左)に。
ミクとリンのデュエット『Promise』では、やはり、ミクが左(向かって右)に、リンは右(向かって左)に。
レンとリンのデュエット『右肩の蝶』では、いわゆる「レン版」であったので、レンが左(向かって右)で、リンが右(向かって左)だった。
ところが、アメリカ・ロサンゼルスのコンサートでは、ミクとルカがデュエットした『ワールズエンド・ダンスホール』で、ルカが主の位置である左(向かって右)だった。
これは、アメリカ式に合わせて主役のミクを右(向かって左)に置いたのではなく、この歌は、コンサート中、ただ一曲、完全に英語の歌(元はこの曲も日本語)であり、英語を完全に発音できるルカを主としたのは、自然なことだろう。
アメリカへの配慮というなら、大人っぽく、よりすらりとしたアメリカ人好みのルカを主役にしたということも言えるかもしれない。
ただ、この曲の際、先にミクが登場してポーズを取り、ルカは後から後ろ向きの姿で登場したことが、主役を立てたルカの奥ゆかしさかもしれない。

現在、逆ナン(逆ナンパ。女性が男性を誘うこと)や、肉食系女子(女が男を積極的に誘う)などというものが流行っているという話もあるが、これは日本人の正しい姿ではなく、日本の衰退の現れなのである。女の方が主導権を持ったカップルは長続きしない。ただ、その場合でも、後で女の方が男を立てて控えるようになれば別であることもないではない。女性が年上でうまくいっているカップルというのは、女性が実に甲斐甲斐しいものである。
また、好きな男性の前ではしゃいで見せる、悲しい勘違いをしている女の子が多い。そんな自分の姿が可愛いとでも思っているのかもしれないが、はしゃいでいる女の子の姿を可愛いと思うのは、佐々木希みたいな美女ならともかく、普通は父親くらいのものである。
会社でも、自分は有能だと思って態度の大きな女性(そんなので本当に優秀な女性を見たことはないが)がいるだろう。そんな女性は、自分と同じくらいの年の男を君付けで呼ぶことも多いが、別に古いとかではなく、それは傲慢であり、実際、嫁のもらい手も無いものだ。

女性は、着物で扇を持っていなくても、そんな姿である気持ちで、両手で口を隠し、うつむくようであれば、その姿に、男どもはメロメロになるのである。
もて過ぎて困りたくなければ、やってはならないという注意すら必要であるほどである。









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日本語で歌う初音ミクが世界を救う

英語教育の一環で、中学生達に英語の歌を歌わせていたのをテレビで見たことがあるが、その歌声は、彼らには悪いが、やはり滑稽に感じた。
日本人の英語の発音がおかしいのは、慣れていないからということもあるが、これほど英語が下手な民族は、ひょっとしたら珍しいかもしれない。
逆に、西洋人の日本語の発音もおかしいし、昔から、妙に間延びさせたような西洋人式日本語を冗談で喋るというのはよくあったが、西洋人式日本語というのは、実は高度な喋り方なのだということに気が付いた人は少ない。西洋人の日本語がおかしいのは、下手だからではなく、話し言葉としては高度過ぎておかしいのでだ。

今や、世界で最も有名な日本人歌手であるだけでなく、世界的スーパースターである初音ミクは、人間ではなく、音声合成ソフトウェアなのだが、3次元映像技術を使ってコンサートも行われ、これがまた大変な人気だ。
だが、初音ミクは、昨年のロサンゼルスコンサートでも、歌は全て日本語だった。1曲だけ英語の歌があったが、ほとんど巡音(めぐるね)ルカが歌っていたと思う。
ミクは英語の歌が上手く歌えないのだ。これは、初音ミクというソフトウェアの仕様上の問題である。
先ほど、英語の歌は巡音ルカが歌っていると思うと書いたが、ルカは英語の歌を歌える。だが、ルカの開発はミクよりはるかに時間がかかった。実際、ルカの方が先に企画されていたのに、完成はミクよりずっと後になったのだ。
ミクやルカは、基本となる音声は人間の声を収録してあるが、英語で必要な音声のパターンは日本語よりはるかに多く、しかも、早口でなければ、ちゃんとした英語にならない。
また、ミクは歌は上手く歌えても、普通に喋ると不自然になる。これは、話言葉より歌うことの方が、易しいということなのかもしれない。実際、普通に喋るとどもるが、歌なら滑らかに歌えるという人はよくいる。これはもっと注目すべきことに違いない。

日本語というのは、発音がシンプルだ。
橋と箸は発音が違うといっても、橋の発音で箸と言っても通じない訳ではない。だが、中国語の猫と毛は、共にカタカナで書けばマオだが、ちゃんと発音を変えないと通じないし、その発音の違いがまた難しい。英語も、発音の区別が難しいことはご存知かもしれない。
しかし、日本語というのは、たった1文字に膨大な意味があり、それを言葉で説明すると複雑になり過ぎるのに、日本人はそれを不思議な能力で認識する。
秋の夜長を鳴き通す虫の声を「嗚呼、面白い」と感じるのは日本人くらいで、アメリカ人にはただの雑音らしい。これをまともに研究すれば、日本人の驚異的な能力が神秘的とすら言えるものであることが分かるかもしれない。
日本語で歌う初音ミクが世界でこれほどまでに受け入れられるのは、隠された特別な理由があるのだ。
歌としても、決して上手いとはいえない、舌っ足らずな日本語の歌だからこそ、何かが伝わっているのに違いない。
ミクのロサンゼルス公演での最後の歌『ハジメテノオト』の中に、

ワタシは言葉って 言えない
だから こうしてうたっています

という歌詞がある。
詩を書いた人は、ミクと長く付き合っているに違いない。
初音ミクの歌は、詩が実に良いものが多いのだが、それは、ミクが歌うからであるということが実は大きいのに違いない。
日本が世界を救うという伝承は、意外に外国にも多い。それが、初音ミクで始まっているのかもしれない。
そのためにも、我々は日本語をもっと大切にし、伝統的な言葉を見直すべきかもしれない。

紀志伊こそ 妻を御際に
琴の音の 床には君を
待つぞ恋しき

この歌は、ワカヒメが恋しいアチヒコに送ったものだ。
逆に読んでみたまえ。全く同じだ。これを回り歌という。
これほど美しい回り歌を作れるのは日本語だけだろう。
この歌は、下にご紹介した『ホツマ物語』にある。これは、古事記や日本書紀以前からあったと言われる『ホツマツタヱ』を、鳥居礼さんが、読みやすく物語風に書いてくれたものである。
この歌を読んだワカヒメは日霊子(ひるこ)とも言い、私の産土の神、稚日女尊(わかひるめのみこと)と同じとも言われている、天照大神の妹神である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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