「給料分の仕事はしろ」と、世の中ではよく言われる。
ところが、「給料分の仕事をしているサラリーマンは、ほとんどいない」とも言われるが、それが本当かというと、嘘である。
私は、サラリーマンを見ていて、驚くと言うよりは異様に感じるのは、サラリーマンが皆、給料以上の仕事をしているということだ。
ところが、彼らに能力は全くない。馬鹿と言って差し支えない。しかし、給料分どころではない働きはちゃんとしている。
この意味が分かるだろうか?
つまり、サラリーマンというのは、機械なのである。
自動車や電子レンジや水洗便所が値段分の働きを十分にするのと同じだ。
サラリーマンになる人間が、どうやって機械化されたかというと、学校教育であり、学校教育で機械化が完全にならなかった者は、会社が完全に機械化する。企業が社員教育を行うというのは、こういう意味である。
しかし、会社でも機械化教育が失敗した人間は捨てられる。
電子レンジだって、新品で購入したのに不調で、修理や調整が効かなければ、新品に交換するのと同じで、サラリーマンも、機械として使いものにならなければ捨てて、別の人間を採用する。
ただ、近年では、一度雇ったサリーマンを解雇することが難しいので、十分に機械化された人間を採用し、また、会社での機械化教育も万全にするのである。

ところが稀に、機械としては役に立たないのに、会社の中に存在し続けるサラリーマンがいる。
有名な評論家であった竹村健一は昔、「窓際族のすすめ」として、そんなサラリーマンになることを勧めた。
当時はバブル経済の時代だから、会社もそんなことが出来たという意見もあるが、いくらバブル経済だからといって、どの会社も儲かっていたわけではなく、実際は、それほど儲からなかったり、苦しい会社も多かったのである。
そして、今はもちろんだが、バブル経済期だって、ほとんどの会社は窓際族を会社から追い出そうとしていたのである。
仕事をせずに、快適な窓際族で居続ける者を「会社貴族」とでも呼ぼう。
サラリーマン時代の竹村健一や、私が度々取り上げる、大俳優の丹波哲郎のサラリーマン時代が会社貴族だった。
そして、私も、サラリーマン時代は会社貴族で、趣味として楽しめるものを除けば、仕事は全くしなかった。
ほとんどの会社では、会社貴族が発生することを防ぐため、社員に「日報」という、今日、何をしたかの報告書を書かせ、それを上司がチェックするというルーチンが行われる。
会社貴族は、でっち上げの日報を書くのがうまい。
私の場合は、全社員の中で、私一人、日報を書かなかったこともあった。
日報を無理に書かされるようになったら、辞めるか、それらしい日報を書いた。
今のリモートワーク時代は、仕事をしない社員はバレるというが、そんなのは偽会社貴族、下級会社貴族だけである。

ところが、世の中には、機械化サラリーマンがいないのに、大儲けしている会社がある。
いや、機械化サラリーマンがいないから儲かるのである。
そして、会社が機械化サラリーマンで儲けた時代は終わり、機械化されていない社員で儲ける時代である。
そんな儲かる会社では、「ホウレンソウ」(報告、連絡、相談)は行われないし、禁止していることもある。
「ホウレンソウ」などと言っている会社は、「北斗の拳」式には、「もう潰れている」。
「ホウレンソウ」などというものがない会社では、社長も報告を受けないので、社長が知らない間に支店が増えていて、儲かって仕方がないということが起こる。
だから、プロの会社貴族は、来るべき時代の働き手であるのだから、重要であり、胸を張って生きると良い。

では、どうすれば会社貴族になれるのか?
機械化サラリーマンになることを拒否すれば良いのである。
そんな者の多くは、会社にいる必要はないと言って独立することが多い。
しかし、会社貴族として存在すれば、案外に、その会社の滅亡を防げるのである。
私も、会社を倒産から救ったことが何度もあり、私が去った後で滅んだ会社(あるいは部署)もあった。
そして、貴族と言うからには。貴族らしい高貴な心を持たないといけない。
貴族は気紛れではあるが、野卑(下品で卑しい)な気紛れではなく、高貴な気紛れでなくてはならない。
叡智や高貴を目指さねばならないが、こう言ったら、機械化された者達は馬鹿にするだろうし、実際、馬鹿にされるしかたない似非貴族も多い。
あるいは「念仏を唱えさえすればいいのですね」という、憐れな機械的思考を少しも抜けさせていない者もいるだろう。
結局、エマーソンも勧めた方法としては、本物の貴族に相応しい人間になり切ることである。早い話が真似だ。
エマーソンは「英雄の物語を読む時は、それは自分について書かれたものだと思え」と述べていた。
私の場合は、ちょっと古いが、やはり、丹波哲郎さんやUFO研究家の矢追純一さんに倣った。
あるいは、荘子や黒住宗忠である。
探せば、相応しい人が沢山いるはずである。