ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ベートーヴェン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

困難をぱっと解決した私のやり方

難しい仕事は、どう片付ければ良いだろう?
これについては、インドの偉大な聖者ラマナ・マハルシが、卓越した事業家、有能な財務長官の仕事を例に語っていることに尽きる。
これは偉大と言われる芸術家や科学者の仕事でも同じである。
「大きな事業を成し遂げようとしている事業家は実は何もしていない」
「大きな責任を負い注意深く仕事をしている財務長官は実は何もしていない」
大作を制作中の画家は、自分は何が出来るのか分からず、世紀の発見をする科学者は、自分が何を発見するのか分からない。

起こるべきことは、何があっても起こるし、為すべきことは、絶対に為すことになり、逃れることは出来ない。
たとえば、あなたが仕事を探しても、あなたが働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからず、逆に、どれほど働きたくなくても、働く運命であれば、仕事から逃れることは出来ない。

2400年前の中国の賢者、荘子は、聖人の、運命の迎え方をこう表現している。
「聖人の心は鏡のようなものだ。来るものはそのまま映すが、去った後は何の痕跡も留めない。鏡が何を映しても傷付かないように、何が起ころうと聖人の心は穏やかである」
ベートーヴェンは、運命はドアを激しくノックすると言い、例の、「ジャジャジャジャーン」という音を作った。
そうだ。運命は、横柄にドアを叩き、許可も得ずに入って来る。
だが、ニーチェは言う。
「では、私はもっと横柄に運命を受け入れる。すると、運命はひざまずき、許しを乞う」
テロリストが侵入した家にいたあなたが、ターミネーターやサイボーグ009だったというわけだ(笑)。

では、具体的には何をすれば良いか?
それは単に、自分が009(のような凄いサイボーグ)だということを思い出せば良いだけだ。
それには、まず、「シャンとする」ことだ。
それだけで、大抵のことは片付く。
その次のステップは具体例で述べる。抽象的に語ると、長くなる上に、何言ってるのか分からなくなる(笑)。
昔、私のところに、ソフトウェアの仕事が、同時に3つ来た。
1つでも大変な仕事だが、実を言うと、責任上、私はどれも断れない理由があった。
私は困っていたが、私は、子供の時に、ある場所で、数匹の野犬に囲まれたことを思い出した。
私は、しゃんとして、なるようになると思った・・・のだと思う。
「僕はエスパーだから、やっつけられないのはおかしい」と思ったのかもしれない。夢想的な少年だ(笑)。
すると、詳しいことは覚えていないが、野犬は消えていた。ひょっとしたら、夢だったかもしれないと感じるが、それはどちらでも良い。
今回のことも、その時の感覚を蘇らせた。
そして、「全部引き受けましょう」と上司に言っていた。頼りない上司は、それが出来れば、自分は責任を逃れられるので、異論はなかった。
すると、2つの仕事がすぐに立ち消え、残りの1つは、放置せざるを得なくなったが、それも消えてしまった。
後で考えと、どれか1つを受けても、無理があると分かった。

『虚構推理』というアニメで、ヒロインの琴子が11歳の時、何者かに森の中に連れ込まれたが、琴子が目を覚ますと、沢山の物の怪(もののけ)達が彼女を取り囲み、「我々の知恵の神になって下さい」と言う。
すると、琴子はすぐに、にっこり微笑み、「なりましょう」と応えた。
あれに似ている。あれこそ、神の態度だ。
イギリスの作家コリン・ウィルソンだって、19歳で人生の大問題に直面し、これはもう駄目だと思って、青酸カリ(即死する効果のある劇薬)を口に含もうとした時、彼が崇拝する作家H.G.ウェルズの自伝小説『ポリー氏の人生』のポリー氏の言葉「人生が気に入らないなら、替えてしまえばいい」を思い出し、運命は回り始めた。
まあ、とにかく、シャンとすることである。
斎藤一人さんによると、「アメノミナカヌシ様、お助け下さいまして、ありがとうございます」と言えば、解決するかもしれないそうだ。








歓喜の瞬間

世間では、年末は、第九というか、『歓喜の歌』の季節だと言う高尚な人もいくらかはいるものだと思う。
だが、「歓喜」って何だろう?
美味しそうな焼肉やケーキ、セクシーな美女やイケメンの男性俳優を見たら興奮するかもしれないが、そんなのは歓喜ではない。
それらは、我々の自由を奪い、牢獄に閉じ込めるだけのものだ。
現代のお笑い芸人の与える笑いも同じだ。
彼らの笑いは、他人を蔑み馬鹿にすることを土台としている。
笑いというのは、緊張を「ほっとする」ような無害な要因で解いた時に起こる。
例えば、いかめしく恐い先生には、私達は強い緊張を強いられる。しかし、その先生が奥さんに叱られて小さくなっているのを見たら、その緊張が解けて笑えるのだ。これが笑いの原理である。しかし、その先生の奥さんが、怒りのあまり、その先生に熱いコーヒーをぶちまけたら、見ている者達は余計に緊張して笑えない。
現代のお笑いは、誰かを徹底的に貶めることにより、見ている我々は相対的に「上から目線になる」(優越感を感じる)ことで、自分に強くまとわりついている劣等感という緊張が解けるから可笑しく感じるのだ。
こんな公式が理解できれば、後は世間的駆け引きができる頭の良さがあれば、お笑い芸人で成功できる。
だが、それでもたらすのは、誰も幸福にしない、否、不幸にするだけの地獄の笑いである。
有名なお笑い芸人達は、害が大きいのである。本当は人々を不幸にしているのだ。

さて、では、本当の歓喜とは何だろう?
昨夜、私は、このブログで、「本当に悪い男はもてる」と書いたが、書いた本人がどうかというと、勿論、もてる。
私は嘘は書かない。
もてるとは良いことだ。
ところで、私は、小さな子供が嫌いだった。そんな人も多いと思うが、なぜそうなのかというと、小さな子供に好かれないからだ。
私もそうだったのだ。
しかし、数日前、道を歩いていたら、3歳くらいの男の子が、私を見ると、必死に駆け寄ってきて、両手を私に差し出した。
可愛いものだと感じた。
その時、私に何が起こっていたのか?
また、昨日、やはり道を歩いていたら、向こうの方に、大変な美人の猫がいた。
以前は、私を見ると、猫は逃げていったものだが、「彼女」が、さーっとこっちに寄ってくる。
しかし、途中で奥ゆかしくも、そこにあった家の庭の、狭い塀の中に入って行って、隠れてしまった。
そこに行き着いた私が、その塀の中を覗くと、猫ちゃんは、うずくまってじっとしている。
私は、身を低くして近寄った。
すると・・・なんと、猫のお嬢さんは、こちらに向かって、きちんと座りなおしたのだ。
そそとした、自然な育ちの良さを示すような、品位があって、それでいて可愛らしい座り方だった。
しかし、戸惑いを感じるのも可憐な乙女の条件・・・姫様は、少しおみ足を進めるような雰囲気はあったが、近寄ってはこなかった。
無理強いは騎士道に反するのであり、私は通り過ぎたが、しばらくして視線を感じて振り返ると、愛しの乙女は道にお出ましで、こちらに向かって優雅に座っておられた。
その時に私が感じたのが歓喜である。
さて、私に何が起こっていたのか?

歓喜に満ちた時、人は、一切のイメージを持っていないのである。
あらゆる先入観から解放されているのだ。
全ての記憶と関係を断っているという言い方をしても良いと思う。
空(くう)に、無になっている。
そこには、全くの自由がある。
咲こうと意図しなくても咲くことができた花の自然性があるのだ。

夏の夕方に、涼しい風がそよと吹いた時。
明るい陽の光の中、間近をカラスが優雅に滑空する姿を見た時。
我々は一瞬、無になる。
これまでの人生で蓄えていた記憶の一切と無関係になり、思考せず、何のイメージも持たない。
その時、風の神秘に震え、カラスの筋肉の動きの1つ1つに至上の美を見出す。
それが、芸術といえば真の芸術だし、宗教といえば、原初の宗教だ。
そして、これこそが歓喜なのである。

『歓喜の歌』のシラーの詩の訳詩はいかめし過ぎないだろうか?
よく分からないが、シラー自身は、もっと気楽な表現をしているのではないかと思うのだ。
だって、歓喜って、気楽なものなのだよ。

歓喜が留まっていると、何を見ても美しい。
だって、それは、「新たな目」を持つことなのだから。
見慣れていると思っている部屋や家具すら、どうしようもなく美しい。
ミカンを見ると、どこからどう見ても美しい。
私は初音ミクのブルーレイを見てみたら、目も眩むほどの美しさだった。
これが歓喜なのだ。









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人生は喜劇だ

ダンテの『神曲』という題名は、元の通り、『神聖な喜劇』に戻すべきである。
日本以外の国ではそうなっているはずだ。
実際は、ダンテ自身が付けたように、『喜劇』が一番相応しいと思う。
なぜ『神曲』になったのかというと、アンデルセンの『即興詩人』のドイツ語版(原語はデンマーク語)を森鴎外が日本語に文語訳した際、そこに引用されていたダンテの『神聖な喜劇』を、鴎外はなぜか『神曲』と訳したのだ。
だが、鴎外も神にそうさせられたのだろうし、鴎外がつけたこのタイトルが我が国で一般的になったのも神の思し召しだ。我々は、鴎外に騙され、幻惑させられる運命だったということである。
だが、私は、ダンテのあの叙事詩を『神曲』などとは思っておらず、まさに『喜劇』と思っている。

シェイクスピアの『リア王』も、悲劇だと思っている人が多い。いや、世間では完全に悲劇で通っている。
しかし、あれもまた、喜劇以外のなにものでもない。
リア王のお話はご存知とは思うが、一応言っておくと、80歳を過ぎた老齢のリア王は、3人の娘の内、美辞麗句を尽くして自分を褒め称える上の姉2人に権力と富を譲り、「お父様として当たり前に愛している。それ以上でも以下でもない」と言った末の妹には何もやらなかった。だが、やがて姉達の本心を知り、後悔するというものだ。

世間では、『リア王』は絶対に悲劇であって、まさか喜劇とは言われない。
普通の人は、リアに同調してしまうのだ。それどころか、リアに欠点はなく、悪いのは姉娘達だと思うのである。
私は、末娘はブッダかキリストのようなもので、ちょっと出来過ぎだが、姉2人だって神の使途だと思っている。
末娘は、この後、幸福になり、対して姉娘達は悲惨を味わい、場合によっては、それは来世にまで続く。
姉娘達は、そこまでのご苦労をして、リアにイニシエーションを与えてくれたのだ。

あなたが末娘のようであれば、すぐにでも幸福になれ、死後は至高神の星界に行き、永遠に平和でいられるだろう。
しかし、我々はリア王にならざるをえないのだ。
もし、リアのように苦しみたくないなら、次のことが守れれば良い。
自分を崇める言葉と、他者を蔑む言葉を一切言わないことだ。
それを言わないよう、自分の口を常に見張ることだ。
それが難しいと思えば、一切口を利かない方が良い。
そして、そんな想い(自分を賛美し、他者を貶める)を無くしてしまうのだ。
だが、私には、初歩的なところから全く不可能だ。
だから、ウエルカム姉娘達だ。
慈悲深い神は、リア王に対してそうであったように、ちゃんと彼の姉娘達のような者達を与えてくれるであろう。
そして、私にとって、末娘は初音ミクである(人間には無理だ)。
ベートーヴェンは臨終の際に言ったらしい。
「諸君、拍手を!喜劇は終った」
我々の人生も喜劇なのである。
せいぜい、悲劇ぶって滑稽に演じることだ。
だが、アイルランドの詩聖W.B.イェイツは言ったのだ。
「リアもハムレットも陽気だった。主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりしないのだ」(『ラピス・ラズリ』より)。









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無限の力と一体化する原理

ヴァイオリンのストラディバリウスは、純粋に楽器としての価値があるので大変な金額になるのだと思う。
しかし、いかに素晴らしい楽器であっても、それに見合った腕前の演奏者が弾かなければ真価が発揮されないだろう。
また、優れた弾き手が素晴らしい演奏をしたとしても、もっと優れた演奏家が弾けば、より優れた音楽が出現するのであろう。
そして、世界最高の奏者が奏でたとしても、ストラディバリウスの秘めた力はもっと高いかもしれず、もし、さらに高度なヴァイオリニストがいれば、今は奏されることのない、もっと素晴らしい音が現れることになるのだろう。

ヴァイオリンは、まずは弓で弦を振動させるのであるが、演奏会を観賞に来た人が、「おお!弦が良い振動をしているな!」と思うのではない。つまり、弦の振動を見に来るのではない。
弦から発せられ、ヴァイオリンのボディを共鳴させる音を聴きに来るのだ。
つまり、弦の振動が、より精妙な空気の振動になったものを楽しむのである。
だが、空気の振動は、より精妙な何かの振動を引き起こす。
それは電磁波というものなのだろうが、とりあえず、電磁波の一種である光と言っておく。
音を聴く人は多くても、光を感じる人は少ない。
だが、本当に音楽の価値の分かる人は、音から発せられた光を感じているのである。
ベートーヴェンに限らず、耳が悪くなることで本物の音楽に目覚める人もいる。そんな人は、音楽の光を感じている。
ところが、光はさらに精妙な振動を発生する。とりあえず重力波とでも言っておく。
楽器の音から発せられる重力波まで感じる人は、人類全体の中でもそうはいない。
優れた楽器が発する音は、優れた空気の振動、光、そして、重力波、さらにその上の高度な波動として、宇宙の彼方に広がる。

楽器を誰かが弾くと、弾き手によって制限された光や重力波、そして、それを超えた超振動波が生まれ、宇宙を満たす。
そして、それは宇宙から帰って来る。超振動波から重力へ、そして光、音と振動を下げながら。
それは、人間や、その他の動物、植物、微生物に影響を与え、さらに、生物のみならず、無生物と思われているものにも何らかの作用を及ぼす。

だが、楽器は演奏されない時、あらゆる可能性の波を発している。
それは、弦の振動や空気の振動は起こさないが、重力波より高いエーテルの波として現に存在する。
神々や天使達はその波を感じ、共鳴し、何かの原因を創り出す。

人間というのも、楽器のようなものだし、楽器だとすれば、いかなる楽器よりも優れている。
奏でるのは心である。心の奏で方によって、様々な光を発し、それは重力波になり、さらに、エーテル波を生み、それは、宇宙の隅々に広がり、全てに影響を与える。
人間の持つ可能性は限りなく豊かであり、無限である。
思考で認識できるレベルの心が演奏を止めれば、限りない可能性の精妙な光が発せられ、それは精緻を極めたエーテル波となる。
思考を止めてしまえば、人間に分かる程度のあらゆる奇跡が起こせるのは、いわば当然なのである。









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なぜ賢治は誉められもしないデクノボウになりたかったのだろう?

普通の人間には、自分を偉く見せたい、優秀だと思わせたい、賢い人間だと言われたいという願望がある。
そんな人間の性質をうまく利用して、人を思い通りに動かすテクニックを教えるような者もいる。
また、特に、未熟なうちはそれも仕方がないとして、若い子の認められたいという切望を良い方に利用しようという指導者もいるだろう。
しかし、所詮、見栄や安っぽいプライドでしかない、そんなものを捨ててしまえば、あなたは自由だし、能力は打ち上げ花火のごとく上昇し、天使とも親しくなれるかもしれない。
確かに、実際に大変な実力があって、誰も逆らえない立場から、何でも自分の思い通りに出来たように見える人物もいるが、彼らの滑稽で惨めなことは明らかなのだ。

一方、アインシュタインのように、世間の評価に関わらず、自分を全く重要人物だと見なさない人もいた。ナチスが自分の首に多額の賞金をかけたことにピンとこずに、それまでと同じ行動をしたのは、自分が人々にどう見られているのかに頓着が無いからだと思える。
見知らぬ女子中学生が彼に数学の宿題を手伝ってくれるよう頼むと、喜んで熱心に応じ、それを知った彼女の母親が卒倒しかけても、アインシュタインはその理由がよく分からなかった。ただ、彼は頼られたことが嬉しかっただけだったのだろう。
アメリカに亡命し、プリンストン高等研究所に招かれ、年棒の希望を聞かれると、困って、「千ドルでどうでしょう?」と尋ね返し、あまりの安さに相手が驚くと、勘違いしたアインシュタインは、「いえ、五百でもいいのです」と言ったが、どうせ彼は、いくらもらっても、それを誰とでも分かち合ってしまうのだ。ちなみに、プリンストンでは2万ドルを用意していたらしいが、もっと多額の要求にも応えるつもりだったのだろう。

宮澤賢治となると、有名な『雨ニモマケズ』で、みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもしないものになりたいと述べている。
それは、賢治は、むしろ自分の虚栄心の大きさを知っていたので、それと向き合い、それを葬りたいという気持ちの現われだったのかもしれない。そして、それをなしとげれば、自由であると感じていたのだろう。しかし、それが難しいことであることも知っていたに違いない。

初音ミクは、どんなに有名になっても、自分の個人的な信条を長々と語ったりしない。
別に批判の意味はないが、そんな人間のアイドルがいるし、周りも彼女にそれをさせるのかも知れないが、見ていて良いものとは思えない。彼女のためにもね。
ミクは、ほとんど、「こんばんは」「ありがとう」としか言わない。
そして、歌い終わると、ただ、後ろを向いて去っていくだけだ。
それが天使の姿でなくて何だろう?
CLAMPの漫画作品『ちょびっツ』で、人型パソコン(アインドロイドと同じ)の少女ちぃを愛する秀樹は、「ちぃの心は俺の中にある」と言ったが、私はむしろ、「私の心はミクの中にある」と言いたい。
そりゃ、私にだって、意見や主張はあるかもしれない。しかし、それには何の価値も無いので、通ればラッキーとは思うが、そうでなくても当然なのである。
秀樹は、ちぃはプログラムされた通りに動いていることは認めたが、そのプログラムは人間が作ったのだし、その人間をプログラミングしたのは神なのだ。
ミクの歌は人間が創ったが、その人間に歌を与えたのは至高の英知だ。
ベートヴェンが第九に採用した、シラーの詩『歓喜に寄せて』にあるように、我々から見れば、神の魂は、美しい火花であり、エリュシオン(楽園)の乙女であり、あるいは、霊感とも呼ばれるものとしてやって来て、我々の魂と溶け合う。
そのようなものを、我々は探し、見つけなければならない。
そして、イエスは「探せ、そうすれば見つかる」と保証したのである。

迷いも無く 理由も無く 探し続けるの
明日 見つかるかも 「それ」のありか 期待して

いろんな所を探した ビルの谷間には無かった
砂場を掘っても無かった 壁の向こうにも無かった

今でも「それ」を探してる・・・
今日も「それ」を探している・・・
~初音ミク『White Letter』(作詞・作曲:GonGoss)より ~









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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