昨夜も書いたが、「なりたいものになるには、時間を注ぐ」ということの重要さは大変なもので、部屋の壁に貼っておく価値がある。
どれほど偉大な格言を沢山知っていたところで、これ(時間を注ぐ)を日々実践しなければ何も出来ないのだからだ。
なりたいものになるためには、出来るだけ多くの時間を注ぐ・・・それだけだ。
最大の時間を注げば、何にでもなれる。
極端に多くの時間を注がなければ、大したものにはなれない。
こう言うと、「いや、大切なのは情熱だ」と言う者が必ずいるはずだ。
全くその通りなのである。
だが、人間は、継続して十分な情熱を注ぐことはできないのだ(どれほどの情熱も冷めるものだ)。
成功した人というのは、熱情を持たず、淡々と時間を注いだ人なのだ。
そして、ある重要なことを知っておくと良い。
人類史上でも偉大な数学者であった岡潔は、時間とは情緒のようなものと断言している。
つまり、時間に物質的な実体はないのだ。
情緒と言ったが、情熱と言っても良いし、根本的には「感情」なのだ。
だから、時間を注げば、情熱を注いだことになる。
限りない時間を注ぐなら、限りない情熱を注いだのと同じなのだ。
理想の人間であり、究極の人間であるが、実は、人間の最も自然な本来の姿である大師は、普通の人から見れば、超人、仙人、神人、あるいは、神そのものに見える。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』を書いた、ベアード.T.スポールディングは、その大師達がいつも何をしているのかというと、1つには、『バガヴァッド・ギーター』をずっと読んでいることを述べていた。
1日かけて『バガヴァッド・ギーター』の僅かな部分を進むのである。そんな読み方をするのだ。
大師達すら、より向上するために時間を惜しみなく注いでいるのである。
だが、それは緩慢な行為ではない。時間の全てを使うということは、心の力の全てを使う激しい行為なのだ。
インドの聖者ラマナ・マハルシに、誰かが、「時々、バガヴァッド・ギーターを読むべきでしょうか?」と尋ねると、マハルシは「いつも読むように」と答えている。
もちろん、バガヴァッド・ギーターを読むことに限定しなくても、大師になるため、神と一体化するため、真我を実現するために出来ることに時間を注げば良いのである。
マハルシは、常に、「私は誰か?」と問え、あるいは、自分に対して、どんな時も、「私」と呼びかけよと教えてもいた。どれでも良い。時間をかけさえすれば。だが、情熱だの気合だのは不要だ。
仙人は、いつも口元に呪文を唱えているのである。
読む本にしても、『バガヴァッド・ギーター』でなくても、『老子』でも『法華経』でも良い。
スポールディングも、聖書は勿論良いと言うが、『バガヴァッド・ギーター』の有利さを認めていた。
『バガヴァッド・ギーター』は、全18章(18のやや長い詩)だが、『老子』が、短い81の詩であるところが面白い。
両者の価値は全く等しいが、教えそのものは『バガヴァッド・ギーター』の方が分かり易く感じるかもしれない。
早い話が、『老子』は、全く分からないかもしれず、実際、そう言う人は多い。
だが、分からなくても良いのである。淡々と、丁寧に繰り返し読めば良い。
『バガヴァッド・ギーター』だって、読んで分かっているつもりでも、実際は『老子』と同じくらい、分かっていないものなのだ。
音楽家になりたいなら、持てる時間の全てを音楽に注ぐつもりでなければならない。
その他の、いかなるものになる場合も同様である。
イチローのストレッチを見たある記者の表現が実に良かったと思う。
「イチローのストレッチは、いつまでも続く」
イチローは、時間を注ぐという最重要なことを若い時から出来たので、あれほど傑出した存在になれたのである。
時間は有限だと言う。
だが、既に述べたが、時間に実体は無いのだ。
つまり、時間というものは存在しないのだ。
百万年の時間も一瞬だし、一瞬も永遠だ。
情緒、情熱、感情が時間を作り出している。
時間を無限に注ぐなら、情熱を、そして、情熱の奥にある神秘な意思の火花を招いたことになる。
シラーが、
歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る
~『歓喜に寄せて』より(Wikipediaより引用)~
と言った(らしい)ように、意思こそが歓喜であり、麗しき霊感であり、天上楽園の乙女である。
おそらく間違いないが、細野晴臣さんが創ったYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の名曲『LOTUS LOVE』は、本質的には全く同じ歌だ。
細野さんが、ベートーヴェンやシラー級の天才かどうかは知らないが、そうなることもあるのだろうし、それは誰にでも言えることである。
初音ミクさんの歌には、アマチュアが創ったにも関わらず、『歓喜に寄せて』に劣らない素晴らしいものが多いのである。
世界的名曲の誉れ高い、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』も、音楽が趣味というだけの職業軍人が、一夜だけ天才になって、一気に創ったものだ。
『LOTUS LOVE』を初音ミクさんが歌ったものを聴くと、全ての真理が明かされるように私は感じたのである。
初音ミクさんは天上楽園の乙女だからである。
自分の全ての時間を注げば、天上楽園の乙女に、ミクさんに触れるのである。ただし、その衣の裾にね(ミクさんの場合は髪かスカートだろう)。
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どれほど偉大な格言を沢山知っていたところで、これ(時間を注ぐ)を日々実践しなければ何も出来ないのだからだ。
なりたいものになるためには、出来るだけ多くの時間を注ぐ・・・それだけだ。
最大の時間を注げば、何にでもなれる。
極端に多くの時間を注がなければ、大したものにはなれない。
こう言うと、「いや、大切なのは情熱だ」と言う者が必ずいるはずだ。
全くその通りなのである。
だが、人間は、継続して十分な情熱を注ぐことはできないのだ(どれほどの情熱も冷めるものだ)。
成功した人というのは、熱情を持たず、淡々と時間を注いだ人なのだ。
そして、ある重要なことを知っておくと良い。
人類史上でも偉大な数学者であった岡潔は、時間とは情緒のようなものと断言している。
つまり、時間に物質的な実体はないのだ。
情緒と言ったが、情熱と言っても良いし、根本的には「感情」なのだ。
だから、時間を注げば、情熱を注いだことになる。
限りない時間を注ぐなら、限りない情熱を注いだのと同じなのだ。
理想の人間であり、究極の人間であるが、実は、人間の最も自然な本来の姿である大師は、普通の人から見れば、超人、仙人、神人、あるいは、神そのものに見える。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』を書いた、ベアード.T.スポールディングは、その大師達がいつも何をしているのかというと、1つには、『バガヴァッド・ギーター』をずっと読んでいることを述べていた。
1日かけて『バガヴァッド・ギーター』の僅かな部分を進むのである。そんな読み方をするのだ。
大師達すら、より向上するために時間を惜しみなく注いでいるのである。
だが、それは緩慢な行為ではない。時間の全てを使うということは、心の力の全てを使う激しい行為なのだ。
インドの聖者ラマナ・マハルシに、誰かが、「時々、バガヴァッド・ギーターを読むべきでしょうか?」と尋ねると、マハルシは「いつも読むように」と答えている。
もちろん、バガヴァッド・ギーターを読むことに限定しなくても、大師になるため、神と一体化するため、真我を実現するために出来ることに時間を注げば良いのである。
マハルシは、常に、「私は誰か?」と問え、あるいは、自分に対して、どんな時も、「私」と呼びかけよと教えてもいた。どれでも良い。時間をかけさえすれば。だが、情熱だの気合だのは不要だ。
仙人は、いつも口元に呪文を唱えているのである。
読む本にしても、『バガヴァッド・ギーター』でなくても、『老子』でも『法華経』でも良い。
スポールディングも、聖書は勿論良いと言うが、『バガヴァッド・ギーター』の有利さを認めていた。
『バガヴァッド・ギーター』は、全18章(18のやや長い詩)だが、『老子』が、短い81の詩であるところが面白い。
両者の価値は全く等しいが、教えそのものは『バガヴァッド・ギーター』の方が分かり易く感じるかもしれない。
早い話が、『老子』は、全く分からないかもしれず、実際、そう言う人は多い。
だが、分からなくても良いのである。淡々と、丁寧に繰り返し読めば良い。
『バガヴァッド・ギーター』だって、読んで分かっているつもりでも、実際は『老子』と同じくらい、分かっていないものなのだ。
音楽家になりたいなら、持てる時間の全てを音楽に注ぐつもりでなければならない。
その他の、いかなるものになる場合も同様である。
イチローのストレッチを見たある記者の表現が実に良かったと思う。
「イチローのストレッチは、いつまでも続く」
イチローは、時間を注ぐという最重要なことを若い時から出来たので、あれほど傑出した存在になれたのである。
時間は有限だと言う。
だが、既に述べたが、時間に実体は無いのだ。
つまり、時間というものは存在しないのだ。
百万年の時間も一瞬だし、一瞬も永遠だ。
情緒、情熱、感情が時間を作り出している。
時間を無限に注ぐなら、情熱を、そして、情熱の奥にある神秘な意思の火花を招いたことになる。
シラーが、
歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る
~『歓喜に寄せて』より(Wikipediaより引用)~
と言った(らしい)ように、意思こそが歓喜であり、麗しき霊感であり、天上楽園の乙女である。
おそらく間違いないが、細野晴臣さんが創ったYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の名曲『LOTUS LOVE』は、本質的には全く同じ歌だ。
細野さんが、ベートーヴェンやシラー級の天才かどうかは知らないが、そうなることもあるのだろうし、それは誰にでも言えることである。
初音ミクさんの歌には、アマチュアが創ったにも関わらず、『歓喜に寄せて』に劣らない素晴らしいものが多いのである。
世界的名曲の誉れ高い、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』も、音楽が趣味というだけの職業軍人が、一夜だけ天才になって、一気に創ったものだ。
『LOTUS LOVE』を初音ミクさんが歌ったものを聴くと、全ての真理が明かされるように私は感じたのである。
初音ミクさんは天上楽園の乙女だからである。
自分の全ての時間を注げば、天上楽園の乙女に、ミクさんに触れるのである。ただし、その衣の裾にね(ミクさんの場合は髪かスカートだろう)。
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