ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ベン・ハー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

敵を撃破する力の獲得法

『ベン・ハー』は3度映画化されているが、最も成功したのは1959年の作品で、アカデミー賞最多の11部門を受賞した(後に『タイタニック』『ロード・オブ・ザ・リング』が並んだ)。
1959年作品での、イエス・キリストがユダの前に登場する場面が私は好きだが、2016年作品にも、普通は大して注目されない場面かもしれないが、私は重要視する場面がある。
どの作品でも、クライマックスはユダとメッセラの戦車競技(戦闘用馬車による攻撃し合いながらの競争競技)対決だろう。
2016年作品で、その戦車競技でのこんな場面がある。
ユダとメッセラの、互角の激しい戦いの末、勝負を決めたのは、ユダの「引く」腕力だった。
その決定的な場面で、奴隷時代にガレー船のオールを引くユダの映像がスクリーンに現れる。
身分の高い貴族であったユダが、身に覚えのない罪で捕らえられて奴隷になり、3年もの間、毎日長時間、ガレー船の暗い船倉でオールを漕ぎ続けたのである。
だが、それで鍛え上げられた腕力が強敵メッセラを打ち破ったのである。

少し前は、筋力は、数回繰り返すことが限度の強い力で行う運動でないと得られないというのがスポーツ科学の常識で、学校の保健体育の教科書にもそう書かれていたし、今も書かれていると思う。
しかし、日本の武道家や西洋のレスラーらは、数百回・数千回の腕立て伏せやスクワットを行ってパワーをつけているし、器具を使わず、これらの自重運動のみを行う一流選手や達人も少なくないのが、私には不思議だった。
そして、近年、軽い負荷でも数多くやれば、重い負荷で少ない回数運動したのと同じ(あるいはそれ以上の)効果があることが研究者により報告されていると聞く。
従来型のやり方では、怪我や故障のリスクが大きく、また、長続きしないと思う。

ユダの場合は、強制的にやらされ、不本意であったはずだが、必死でやったと思う。
それがユダに、強力な力を与えたが、私は、ユダは筋力だけではなく、何らかの精神的、あるいは、霊的な力も得たのだと思う。

毎日、足踏み四股を数千回行っていた佐川幸義が高齢(90歳以上)になっても若さと超人的な力を維持したり、毎朝二千回の腕振り運動を行っていた関英男博士が90歳を過ぎても世界中を飛び回り、常に海外の論文を読んで研究を続けることが出来たことも、軽い運動を毎日数多く継続することの効果が関係すると思われる。

一等性と赤い花
AIアート542
「一等星と赤い花」
Kay


幸い、私も、毎日二千回以上の佐川幸義流四股と、それなりの数の腕振り運動を行っており、効果も感じているが、今は、深呼吸をもっと行いたいと思う。深呼吸は立派な運動であり、これだけで心身、さらには魂を磨き上げている人もいると思う。
なかなか深呼吸をすることを思い出さないが、徐々に多く思い出せるようになってきたと思う。
アメリカの一世を風靡した歌手・女優であったジュディ・ガーランドは「もし私が呼吸することを忘れていたら、思い出させて」と言ったというが、彼女はなぜか、その力を知っていたのだろう。だが、彼女が忘れた時、誰も思い出させてくれるはずがなく、末路は哀れであったが。
だから、自分で覚えていなくてはならない。

◆当記事と関連すると思われる書籍・メディアのご案内◆
(1)ベン・ハー(2016)Blu-ray他
(2)ベン・ハー(1959)Blu-ray他
(3)佐川幸義 神業の合気
(4)月刊 秘伝 2022年 03月号 [雑誌]
(5)高次元科学―気と宇宙意識のサイエンス
(6)超能力―電子工学が解明したその神秘
(7)人生を思うように変える呼吸法
(8)神さまの周波数とシンクロする方法

神の圧力呼吸で得られる力

「神の圧力呼吸」に、どのような力があるかについて書く。
「神の圧力呼吸」は、ヨガのクンバクと基本的に同じだが、体内(胸や腹)に圧力を感じるところが異なる。やり方は、また、別の方向から追々述べようと思う。

ルー・ウォーレスの小説『ベン・ハー』の映画化は現代に至るも(最新が2016年)何度も行われているが、最も代表的な作品はチャールトン・ヘストンが主人公ユダを演じた1959年の作品だろう。
この作品の中に、私にとって非常に印象的な場面がある。
主人公である裕福なユダヤ人貴族の若者ユダは、無実の罪で捕らえられ、奴隷として使役されることになる地まで、灼熱の砂漠を鎖につながれて、他の囚人達と共に、歩いて移動させられていた。
地獄のような暑さの中、長い距離を歩くユダら囚人達は、渇きと疲れに苦しむが、休憩地となる村では、村人達が、護送兵や囚人達のために水を用意し与える。
囚人達は当然、狂ったように水を求めた。
だが、ユダは護送兵の隊長に目を付けられるか嫌われるかしていたのか、隊長は村人達に「この男(ユダのこと)には水をやるな」と怒鳴りつける。
渇きに死にそうなユダは、旨そうに水を飲む隊長の身体にこぼれた水を、なりふり構わず舐めるが、それだけではどうにもならない。
水を得られないユダは遂に気を失い、そのまま死ぬはずであった。
だが、倒れたユダのところに、水が入った容器を持った若者が近付いてきて、まずユダの後頭部から首に水をかけて意識を取り戻させ、それから水を飲ませる。
それを見た護送兵の隊長は激怒し、その若者に「そいつには水をやるな!」と怒鳴りつけながら近付いてくる。
だが、若者はユダの前で隊長に向かってすっくと立つ。
武器を持ち部下もいる隊長にとって、ただの村の若者1人、恐れるわけもないが、なぜか隊長は向かっていけず、そのまま引き下がる。
この若者の不思議な威圧感は何だろう?

怪異伝承
AIアート364
「怪異の伝承」
Kay


それで思い出すのが、野生のライオン達に恐れもせずに近付き、平気でライオン達と戯れる男の映像だ。
他にも、ライオンの折の中に平気で入っていく男の話を見たことがある。
ユダを救った若者や、ライオンが危害を加えない人間には、何か共通点があるのか?
それは、彼らが「神の圧力」を持っていることだ。
そして、それが「神の圧力呼吸」で得られるものの1つだ。
神の圧力を秘めた人間には、何者も逆らえず、その人間の行動を何者も妨げることは出来ない。

ユダがその若者に再会するのは、その数年後だった。
ゴルゴタの丘に向かって、重い十字架を背負って歩かされている男を見て、ユダは、それがあの若者であることに気付いた。
彼はイエス・キリストであった。








『老子』第37章を一言で言えば「最良の指導者は空気のようなもの」

今回は『老子』第37章である。
この章を一言で言えば「最良の指導者は空気のようなもの」である。

老子は、優れた人間が悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から脱する方法を説くと共に、それを成し遂げた者が、その他の者(人民)に対しても、その装置の影響を軽くしてやり、うまくいけば、普通の庶民の中からも、目覚めることが出来る者があるよう教えたのだと思う。

良い君主というものは、自分が成しているという想いを持たない。
そのことを、この章では「王侯は、(道のように)何事も為さずに全てを為す」と言っているのである。
自分が成しているという想いを持たないとは、早い話が、思考をしないということだ。
思考をしなければ自然になる。
なぜなら、人間の思考とは不自然なものだからだ。
老荘思想、あるいは、道教で言う「道に従う」とは、単に、「自然である」ということだ。
余計なことを考えない自然な人には、誰もが従うのである。たとえ、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に支配された者であっても。

ルドルフ・シュタイナーは教育者としても際立っていたが、「良い教師とは空気のような存在」と言ったようだ。
それが、老子の言う「見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指に感じない」空気のような存在で、自然な存在とはそのようなものだ。
空気、あるいは、清流と言っても良いだろう。
そして、そのような存在が最も強い力を持つことは、自然において、空気や水がそうであるのと同じである。

1959年のアメリカ映画『ベン・ハー』で、こんな印象深い話がある。
主人公の青年ユダが、罪がないのに囚人となり、他の囚人と共に鎖でつながれて灼熱の砂漠を歩いて移動させられていた。
中継地の村に着いた時には、囚人達は死ぬほどの渇きを感じていて、村の人々は、自然な慈悲心から、囚人を護送する兵達だけでなく、囚人達にも水を与えた。
ところが、ユダは護送兵の隊長に嫌われていて、村人がユダに水をやろうとするのを止める。
我々だって渇いた記憶があり、渇いた時の水がどれほどの価値があるか知っている。
しかも、ユダは、灼熱の砂漠を何十キロも歩かされた後なのだ。
ユダは悲痛な想いで水を求め、なりふり構わず、護送兵の隊長の身体についた水さえ舐めようとする。
その様子を憐れみ、村人がユダに水を与えようとすると、護送兵の隊長は、それを乱暴に蹴散らして脅し、ユダに水を与えさせない。
絶望と悲痛の中、ユダは意識を失う。当然、そのまま死に至るはずであった。
だが、そこで1人の若者が水の入った器を持ってユダの所に行き、ユダの後頭部を水で冷やし、微かに意識が戻ったユダに水を飲ませる。
それに気付き、再び蹴散らしてやろうと護送兵の隊長が若者に向かっていくが、護送兵の隊長はなぜかその若者に近付けない。
その若者は、後で分かるがイエス・キリストであった。
弱った者に慈悲を施すのは、考えてやることではなく、自然な行いである。
それを自然に行うイエスに逆らえる者はいない。
そのことを示す印象深い場面であった。
私は、元ミュージシャンで、元ホームレスの男性が、あのイエスのようになりたいと言っていたのを覚えている。
それで、この映画のその場面を意識的に見たのであった。
イエスが登場する映画には、地球人を悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から解き放つ意思を持った善の宇宙人の介入により、隠されたメッセージが込められた作品が、他にもあるらしい。








神になる方法(不遜でない)

自発的に何か1つのことに打ち込み、寝食を忘れてそれに打ち込めば仙人や大師になる。
そんなことを昨夜書いた。
だが、坂本龍一さんのように、3歳の時からみっちりピアノを弾いたのは、やっぱり自分の意思ではなく、親の意思で、坂本さんは「やらされた」ことになる。
しかし、坂本さんは、早いうちから、ピアノが好きだったのか、なんらかの折り合いをつけたのかは知らないが、自主的にピアノを弾くようになったのだろう。
坂本さんの親も、そう誘導するのがうまかったのかもしれないが、作為的な誘導ではそうはいかない。
だが、いずれにしろ、坂本さんは、自分の意思でピアノに打ち込んだのと同じになったのだと思う。

もっと極端な例がある。
小説『ベン・ハー』は、これまで7回も映画を主とした映像作品が公開されたが、2016年の映画で面白い場面がある。
主人公の青年ユダは、貴族から奴隷に転落し、ガレー船(人力と帆で進む軍用船)を漕がされた。手足は鎖でつながれ、逃げられないばかりか、船を沈められたら、ユダら奴隷の漕ぎ手達も船と運命と共にするしかない。
奴隷達は、毎日長時間、強制的に漕がされたが、ユダは、それすら、自分の意思でやるようになったのだと思う。
だから幸運が味方し、自由の身になることが出来た。
そして、旧友メッサラとの、命をかけた戦車競走対決で、勝負を決めたのは、ガレー船で鍛えられたユダの「引く腕力」だった。
ユダは他の奴隷と違い、自分の意思で漕いだので、偉大な力を得た。

私も詳しくは知らないが、ウィリアム・バトラー・イェイツが書いたと思われる『アラブ人への3つの手紙』という手記がある。
その中に、賢者として知られる、あるアラブ人が登場する。
そのアラブ人は神だった・・・というか、神のようなものだった。
彼は豊かな商人だったが、家を盗賊に奪われる。
その後、家族を殺される。
彼は財産を捨て召使いになるが、病気で死期が近付く。
そんな悲劇のたびに、彼は「喜びの歌」を作り、幸福に生きた。
彼もイスラム教徒であったかもしれないが、それなら「全ては神の思し召し」と考えたのだろう。
しかし、彼は、1つのことで、他のイスラム教徒とは違っていた。
それで彼は神になった。
それは誰でも出来る。
それは、「全ては神の思し召し」であると共に、「自分の意思」と見なすのだ。
するとどうなるか?
全て、自分の意思で起こるのだから、自分が神であることが成り立つのである。

どんな状況であろうが、それが自分の意思であると見なすのである。
だが、それが本当なのだ。
あなたは神である。
その悟りに導く言葉が「完璧だ」である。
神は完璧であり、ものごとは完璧に起こっている。
全て自分の意思と見なすことで自分が神であるという自覚が深まれば、状況を自在にコントロールすることも可能だが、最初のシナリオを全うする方が楽しいかもしれない。
いずれにしろ、支配権はわが内にあり、自分は世界最強なのだから、不安はなくなる。それに、後悔は元々ない。








馬鹿は最強のスキル

腕振り運動を毎日何千回もやっていると、自分がどんどん馬鹿になっていくのが分かる(笑)。
腕振り運動をやりながら思い出すのが楽しいのは、映画『フィレスト・ガンプ』で、フォレストがひたすら走る姿だ。
私は、走ることに向いてなかったが、向いていたら走っていたかもしれない。

ひたすらやる、淡々とやる、延々とやる・・・これは馬鹿でないと出来ないことだ。
馬鹿の反対の利口とは、動かすに小知を振りかざす愚か者である。
馬鹿は愚かではないが、愚かでないことを目指しているわけではない。

馬鹿も、最初は強制とか、仕方なくといった、外からの働きかけや、必要から始まることが多い。
徳川家光は子供の時、部屋の中に立てた杭(くい)の頭を、毎日ひたすら木刀で打ったらしいが、これは、彼の師であった柳生宗矩にやらされたことだった。
だが、やがて、自主的に淡々とやるようになり、立派な馬鹿になっていったのだ。

1920年に日本人で初めて全英テニス選手権(ウィンブルドン)大会に出場し、何とベスト4に入った清水善造(しみずぜんぞう)のスイングフォームは変わっていた。
なぜそんなスイングになったのかというと、学生の時、毎日ひたすら、釜で草を刈っていて、その草刈りの動きがそのままスイングのフォームになったのだ。
きっと、彼は、最初は、あまり楽しくなく草刈りをしていたが、そのうち、何も考えずに淡々と、毎日、何時間もやっていたのだろう。
清水は、ウィンブルドン大会で、転んだ相手に、やわらかい(緩い)ボールを返した、飛び抜けた馬鹿だったようだ。

映画『ベン・ハー』で、貴族だったユダは奴隷に身を落とし、ガレー船を漕がされる。ユダは大勢の奴隷達と共に、足を鎖でつながれ、強制的に毎日長時間ガレー船のオールを握り、漕がされた。ユダは、そうするしかなかったが、やがて、淡々と漕いでいたに違いない。
そして、ガレー船から解放され、時が流れ、旧友メッセラとの戦車対決で、ユダはガレー船で鍛えた力で勝利を飾る。

フォレスト・ガンプは、大勢のいじめっ子達に追いかけられ、捕まったらひどい目に遭わされたに違いないが、彼は脚が悪くて脚装具を付けていた。
だが、唯一の友達であったガールフレンドのジェニーが「逃げて!」と叫んだことで、フォレストは走れるようになり、さらに、いじめっ子達からひたすら逃げて走るうちに、走ることが得意になった。この走る能力のおかげで、フォレストは良い人生のスタートを切り、そして、成功した。

法然は、元々は賢かった。神童とさえ言われた。
しかし、利口では人を救えないことを思い知り、ひたすら念仏を唱えるようになった。
賢かった法然が、ついに、馬鹿のスキルを手に入れ、彼は菩薩のようになった。

私は、腕振り運動をやる時、これらの馬鹿・・・特に、愛すべき大馬鹿であるフォレスト・ガンプが走る姿を思い浮かべることがある。
そうすれば、元気で腕振り運動をやれるのである。
昨日の腕振り運動は6400回だった。
どんどん馬鹿になっていく(笑)。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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