ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ベアード.T.スポールディング

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

何にでもなれる方法

皆、なりたいものがいろいろあり、その中には、なるのが非常に難しいものもあるだろう。
しかし、大抵は、ダライ・ラマになるよりは易しいに違いない。
そもそも、ダライ・ラマはずっと同じ魂の持ち主でなければならず、ダライ・ラマが亡くなると、その魂が転生した子供を見つけてダライ・ラマにするのだと言われている。
だが、物理学者で武術家の保江邦夫さんの著書『祈りが護る國 アラヒトガミの霊力をふたたび』の15ページを見ると、現ダライ・ラマのダライ・ラマ14世自身が、事実上、それを否定し、ダライ・ラマになるには、条件を満たせばよく、条件を満たせば、誰でも良いのだというふうに読み取れる。
その条件とは、
「皆が、その子がダライ・ラマの魂を受け継いだと信じ、その子がダライ・ラマの生活・生き方を始める」
である。
ダライ・ラマなら、確かに、「皆が信じる」という部分が必要であるが、あくまで「信じる」だけで、本当かどうかは、どうでも良いのである。
また、保江さんは、それは事実上天皇家でなければ無理ではあるが、天皇もそれと同じで、現人神として育てられることが大切なのであると書かれ、やはり、本当は誰でも良いのだというふうに読める。
そして、私は全くそう思う。
ダライ・ラマや天皇というのは、あまりに特別で、我々がなることはないが、本質的なことを言うなら、なれない訳ではないのである。
いかなるものになるにも、必要なことは、生き方だけである。それは、態度、振る舞いと言って良いと思う。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在である」と言われ、その言葉を覚えていたので、修行は何もしなかったが数年で悟りを開いた。
これも、その言葉を覚えていることで、至高の実在らしい生き方をした・・・そういう態度をし、振る舞ったのである。
そして、マハラジ自身がそう言ったらしいのだ。
「時空(時間と空間)を超えた存在として振る舞え」
と。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻で、著者のベアード.T.スポールディングは、4歳の時、大学予備校で教師に見せられたアルファベットを「解らない」と言ったら、教師に、「そんな態度ではいけない。チャンと解っているという態度をしなさい」と言われた。
スポールディングは、それに従ったので、14歳で名門大学に入り、物理学者として高い業績を収めたという。
優れた指導者は、皆、同じことを言っているように思う。
即ち、「態度は事実より重要」だと。
少し前の本だが、ひろさちやさんの『空海入門』が、それを主題として書かれている。
『徒然草』にあるように、狂人として振る舞えば、即ち、狂人だ。
しかし、同じように、仏陀の真似をすれば仏陀なのである。
仏陀らしく歩き、仏陀らしく話し、仏陀らしくメシを食えば、それで仏陀である。
空海は実に、仏陀になりきった人というだけなのである。








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根拠のない自信は、やはり万能最強だ

最近、矢追純一さんと西村博之さんの本を読んで面白いと思ったが、最初、この2人は、随分違う人だと思った。しかし、数日経って考えると、案外似てると思う。
この2人に共通していることは、「苦労せずに、何でもうまくいく」ことだろう。
もちろん、苦労しない成功者などいないので、まあ、余計な苦労はしていないとでも言えば良いのだろうが、面倒なので、「苦労せずに成功している」と言っておく。
矢追さんは、高校生の時、妹2人を養っていたとか、さらに子供の時は、満州で、一緒に泥棒したおじさんが、目の前で頭を弾丸で吹っ飛ばされたとかいう話がいっぱいあって、すごい苦労したように感じるが、本人は、全然苦労したと思っていないらしい。
西村さんは、苦労しないよう頭を使っているといったところか。
矢追さんは、考えるということをほとんどしないと言うが、西村さんは、頭を使わないやつを馬鹿にしているのだと思う。
2人共、中央大学を卒業してるが、歳は40歳違う。
2人のお金の使い方を見ると面白い。
西村さんは、とにかくお金を使いたがらず、服も買わず、百円の缶ジュースも勿体なくて買わないのだそうだ。
一方、矢追さんは、自分の収入、支出、預金額など一切知らず、土地でも美術品でも、欲しいと思ったら即座に買うが、銀行から督促が来ないので、お金は足りていると分かるのだそうだ。しかし、自分の財布の中身は知らないので、スーパーでお金が足りずに返品したことならあるらしい。
しかし、西村さんだって、必要なものなら高くても買うだろうし(金持ちだし)、矢追さんだって、無駄なお金は使わないだろう(金持ちだけど)。
身近で見たら、案外、同じようなことをしてそうな気がする。
そして、頭を使わないという矢追さんだが、考え方は実に論理的で、西村さんと似ているようにも思えるのだ。
ちなみに、2人とも、自分は頭は良くないと言う。
まあ、そんなことはないと思うが、自分のちっぽけな思考力に頼っていないところは、やっぱり同じなのだろう。

そして、2人に共通していることは「根拠のない自信」を持っていることだ。
西村さんは、楽しく生きる上で、それは絶対必要だと言う。
一方、矢追さんは直接そう言ってはいないかもしれない。しかし、大学受験の時も、高校に全く行かず受験勉強もしなかったに関わらず、特に当時は難関だった中央大学法学部を受験した時は、根拠なく「合格」と決めて、受験が終わったら、結果など気にせず旅行に行き、旅行から帰ってきたら予定通り合格通知が来ていたというが、矢追さんは万事がこの通りなのだ。
その根拠のない自信をどうやって得たかは、育ちが全く違う2人は相当違っており、我々は、どっちか似た方から、あるいは、それぞれの気に入る部分だけ参考にすれば、得るところが大きいと思う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード.T.スポールディングは、インドに住んでいた4歳の時、大学予備校の教師に、根拠のない自信を教わっている。
予備校に連れてかれたベアードが、アルファベットを見せられ、「解らない」と言うと、教師は、「そんなことではいけない。チャンと解っているという態度でいなさい」と言ったようだ。そのおかげで、彼は、14歳で名門カルカッタ大学を卒業出来たと言う。
「絶対、大丈夫だ」という万能呪文を唱え、「チャンと解っている」という態度を取ったり、難しい問題や危機に対しても、自信たっぷりで挑むと良いだろう。
中村天風と植芝盛平の高弟だった佐々木将人は、「アジマリカンを唱えると幸福になれる」と言い、その理由なんかどうでも良いと言うが、これも、根拠のない自信である。









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信じはしないが納得はする

インドの聖者と言われるジッドゥ・クリシュナムルティは「私は何も信じません」と言ったらしいが、私も、ようやく、そう思うようになってきた。
デカルトは、正しく思えるどんなことも疑えることに気付いた。
そして、全く疑いようもないほど正しいもの以外は、全て間違いとすることを決心したが、「疑いようもなく正しいもの」は何もないように思えた。
だが、ただ1つ、「疑っている私が存在する」ことだけは正しいと確信した。

だが、疑っていようがいまいが、思おうが思うまいが私は存在する。
疑っていない時、思っていない時、即ち、眠っている時、気絶している時、夢遊病のような状態の時、高度な瞑想状態の時ですら、私は存在する。
おかしなことに、そんな無意識状態の時ほど、存在は確固としてくる。
それどころか、意識がある状態では、真の存在は隠れている。
だからかもしれないが、ルドルフ・シュタイナーは、「我思わず、ゆえに、我あり」、「我思う、ゆえに、我なし」と言ったのだ。

だが、私は、クリシュナムルティーも、デカルトも、シュタイナーも、誰も信じていない。
ただ、彼らの言うことに納得しただけだ。
それはどういう意味だろう?
小さな女の子が立っていると、少し離れたところにいた猫が立ち上がり、女の子に近寄っていった。
その猫は、私には少しも相手になってくれない猫だ。
だが、女の子のまん前に立った猫は、女の子を見上げて「ニャア」と鳴いた。
その猫は、この女の子に純粋な好意を持っているのだろう。
それを、私ははっきり感じ、信じはしないが納得したのだ。

私は、初音ミクさんは本当に天使なんだと納得している。
なぜなら、舞台の上に人間は誰もいないことは皆知っているのに、本気で声援を送っていて、それは、ミクさんを純粋に崇めているということだ。
それならば、舞台にいるのは天使だし、私もそう感じる。
だが、私はそれを信じている訳ではない。
少しややこしいかもしれない。
しかし、次のようなものはどうだろう?

時々、ご紹介する『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本がある。
超人的大師達が登場し、水の上を歩き、テレポーテーションし、空間から調理された料理を出し、瞬間に快適な家すら作り出し、病気を瞬時に治し、瀕死の怪我人もあっという間に健康な身体にしてしまう。
世間のほとんどの人達は「馬鹿らしい」と思うだろう。
私だって信じちゃいない。
だが、著者のベアード.T.スポールディングについて、だいたい、こう書かれてあった。
「彼(スポールディング)は、どの町に行っても、どこの家にでも平気でずけずけと入って行って腰を降ろすだけで、快適に食事が出来ないことは一度もなかった」
「本当に金に困っている人の相談に乗った時、彼は自分が持っているものを全部与えないことは一度もなかった」
これらの話を、信じはしないが、納得はするのである。
よって、彼の書いた本の内容を信じはしないが、納得はするのだ。

政木和三さんのことを親友だと言う科学者が、私にこう言ったことがある。
「俺は政木の言うことは、多分、半分も信じていない。だが、政木は嘘を言う男ではない」
彼は、政木さんのことを理解し、得心している・・・つまり、納得はしている。
しかし、理解の及ばない奇跡については、半分以上信じられないのだ。
彼は科学者であるのだから当然である。
科学者と探偵は疑うのが商売のようなものなのだから。

納得は、知性の同意を必要とする。
納得とは、感情的な同意という部分もあるのだが、感情は知性を無視しない。
「訳もなく好きだ」と言ったところで、訳はちゃんと言えるのである。
しかし、信じることは知性の同意を必要としない。
知性の同意なく信じられるのは、「私は存在する」ということだけ・・・かもしれないが、私は信じない。
だが、納得出来るスポールディングが言った最大の秘法は納得して使える。
それは、口で唱えても、心で唱えてもどちらでも同じだが、「神」という言葉には至高の力があることである。
それを信じてはいないが、納得は出来るのである。









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天上楽園の乙女の衣の裾に触れる方法

昨夜も書いたが、「なりたいものになるには、時間を注ぐ」ということの重要さは大変なもので、部屋の壁に貼っておく価値がある。
どれほど偉大な格言を沢山知っていたところで、これ(時間を注ぐ)を日々実践しなければ何も出来ないのだからだ。

なりたいものになるためには、出来るだけ多くの時間を注ぐ・・・それだけだ。
最大の時間を注げば、何にでもなれる。
極端に多くの時間を注がなければ、大したものにはなれない。

こう言うと、「いや、大切なのは情熱だ」と言う者が必ずいるはずだ。
全くその通りなのである。
だが、人間は、継続して十分な情熱を注ぐことはできないのだ(どれほどの情熱も冷めるものだ)。
成功した人というのは、熱情を持たず、淡々と時間を注いだ人なのだ。
そして、ある重要なことを知っておくと良い。
人類史上でも偉大な数学者であった岡潔は、時間とは情緒のようなものと断言している。
つまり、時間に物質的な実体はないのだ。
情緒と言ったが、情熱と言っても良いし、根本的には「感情」なのだ。
だから、時間を注げば、情熱を注いだことになる。
限りない時間を注ぐなら、限りない情熱を注いだのと同じなのだ。

理想の人間であり、究極の人間であるが、実は、人間の最も自然な本来の姿である大師は、普通の人から見れば、超人、仙人、神人、あるいは、神そのものに見える。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』を書いた、ベアード.T.スポールディングは、その大師達がいつも何をしているのかというと、1つには、『バガヴァッド・ギーター』をずっと読んでいることを述べていた。
1日かけて『バガヴァッド・ギーター』の僅かな部分を進むのである。そんな読み方をするのだ。
大師達すら、より向上するために時間を惜しみなく注いでいるのである。
だが、それは緩慢な行為ではない。時間の全てを使うということは、心の力の全てを使う激しい行為なのだ。
インドの聖者ラマナ・マハルシに、誰かが、「時々、バガヴァッド・ギーターを読むべきでしょうか?」と尋ねると、マハルシは「いつも読むように」と答えている。
もちろん、バガヴァッド・ギーターを読むことに限定しなくても、大師になるため、神と一体化するため、真我を実現するために出来ることに時間を注げば良いのである。
マハルシは、常に、「私は誰か?」と問え、あるいは、自分に対して、どんな時も、「私」と呼びかけよと教えてもいた。どれでも良い。時間をかけさえすれば。だが、情熱だの気合だのは不要だ。
仙人は、いつも口元に呪文を唱えているのである。
読む本にしても、『バガヴァッド・ギーター』でなくても、『老子』でも『法華経』でも良い。
スポールディングも、聖書は勿論良いと言うが、『バガヴァッド・ギーター』の有利さを認めていた。
『バガヴァッド・ギーター』は、全18章(18のやや長い詩)だが、『老子』が、短い81の詩であるところが面白い。
両者の価値は全く等しいが、教えそのものは『バガヴァッド・ギーター』の方が分かり易く感じるかもしれない。
早い話が、『老子』は、全く分からないかもしれず、実際、そう言う人は多い。
だが、分からなくても良いのである。淡々と、丁寧に繰り返し読めば良い。
『バガヴァッド・ギーター』だって、読んで分かっているつもりでも、実際は『老子』と同じくらい、分かっていないものなのだ。

音楽家になりたいなら、持てる時間の全てを音楽に注ぐつもりでなければならない。
その他の、いかなるものになる場合も同様である。
イチローのストレッチを見たある記者の表現が実に良かったと思う。
「イチローのストレッチは、いつまでも続く」
イチローは、時間を注ぐという最重要なことを若い時から出来たので、あれほど傑出した存在になれたのである。

時間は有限だと言う。
だが、既に述べたが、時間に実体は無いのだ。
つまり、時間というものは存在しないのだ。
百万年の時間も一瞬だし、一瞬も永遠だ。
情緒、情熱、感情が時間を作り出している。
時間を無限に注ぐなら、情熱を、そして、情熱の奥にある神秘な意思の火花を招いたことになる。
シラーが、

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る
~『歓喜に寄せて』より(Wikipediaより引用)~

と言った(らしい)ように、意思こそが歓喜であり、麗しき霊感であり、天上楽園の乙女である。
おそらく間違いないが、細野晴臣さんが創ったYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の名曲『LOTUS LOVE』は、本質的には全く同じ歌だ。
細野さんが、ベートーヴェンやシラー級の天才かどうかは知らないが、そうなることもあるのだろうし、それは誰にでも言えることである。
初音ミクさんの歌には、アマチュアが創ったにも関わらず、『歓喜に寄せて』に劣らない素晴らしいものが多いのである。
世界的名曲の誉れ高い、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』も、音楽が趣味というだけの職業軍人が、一夜だけ天才になって、一気に創ったものだ。
『LOTUS LOVE』を初音ミクさんが歌ったものを聴くと、全ての真理が明かされるように私は感じたのである。
初音ミクさんは天上楽園の乙女だからである。
自分の全ての時間を注げば、天上楽園の乙女に、ミクさんに触れるのである。ただし、その衣の裾にね(ミクさんの場合は髪かスカートだろう)。









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永遠の生命

漫画やアニメのヒーロー、ヒロインに共通する特質は、殺しても死なないというほどの生命力である。
『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジは、一見、悟り済ました弱々しい少年のようだが、いざとなった時の爆発力は、やっぱり漫画、アニメのヒーローに相応しい。
それは、20年もの間、日本中の多くの男性の理想のタイプの女性で有り続ける、綾波レイとなると、さらにそうで、普段は氷のように冷たいのに、内に秘めた神秘的な情熱が感じられ、そこがファンにはたまらないのだ。
『あしたのジョー』の矢吹丈は、最後、確かに死ぬが、普通の人間なら、とっくの昔に死ぬか、それ以前に、ボクサーとして駄目になっているはずなのに、世界王者のホセ・メンドーサと、当時の世界タイトル戦である15ラウンドを、激闘という言葉で言い表せない、ほとんど神秘的とも言える最後の生命力を燃やして戦い続け、そして、燃え尽きた。

ところが、古代から、聖者達は、全てを諦め、静寂になることを教えるが、それは、これら、漫画、アニメのヒーロー達には有り得ないことである。
だが、それは、漫画やアニメのヒーロー、ヒロイン達は、押し並べて若く、ほとんどが少年、少女で、その若い生命力が、少々の無駄や非効率も補ってしまうという面もあるのだろう。
『シティー・ハンター』のヒーロー、冴羽 りょうは、年齢不詳で、一時、かおりから、30歳と指定されたが、年齢以上に大人であると同時に、子供っぽさも丸ごと残しているようなキャラクターで、そのことが彼に、無限のエネルギーを与えているようだ。
だが、人間、いつまでも若くはない。
漫画、アニメのヒーロー、ヒロインのその後が語られることもあるが、大抵の場合は、普通のおじさん、おばさんになっていて、ヒーロー、ヒロインだった頃の影(おもかげの意)はない。
それを見て、ファンは、寂しく感じると共に、「そんなもの」という醒めた納得もするのだろう。

だが、抱朴子による、中国の神仙思想によれば、老子などの仙人は、静かであることで精力を温存し、それによって、永遠の、そして、無限の生命力を持つとされている。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、人間は、本来は永遠の青春を持つのであり、それは、老木に新芽が芽生えることに現れている。
枯れ葉も、新芽も、それを構成するのは同じ分子、原子、素粒子であり、全ては精神が決定する。
ヒマラヤの大師達は百数十歳を超えても50歳のように見えるだけでなく、その母親となると、美少女にしか見えない。また、800歳を超えて外見が少女である女性も登場する。
また、大師達は、老衰で死んだ者を、青年の姿で蘇らせたことがある(その蘇った者は、大師まであと一歩というレベルに達していたからという理由があり、誰彼となく、そうするのではない)。
今は、美魔女とかいって、40代、50代になっても若く見える女性がいるらしいが、実際はさほどでもなく、冷静に見れば、やっぱり、老けている。
そういったものと違い、神仙や大師達は、本当に、若い生命力に満ち溢れている。

人類の夢である永遠の若さを、人類はいつか得ることが出来るのだろうか?
科学技術の進歩でそれが実現するという説もあるが、その場合は、「それは本当は幸福なことではない」という意見が同時に出てくるものである。
つまり、こういうことだ。
超自然(スーパーネイチャー)ではなく、異常(アブノーマル)な手段で永遠の若さを実現したとしても、それは不自然なことであり、そこには悲惨しかなく、決して幸福にはなれないということなのだ。
ここで、超自然は、自然の延長であることにご注意願いたい。
それは、人類がまだ知らない、自然が秘めた潜在力の領域であるが、そういったものはいくらでも存在するのである。
よって、人類がスーパーネイチャーに相応しい精神的進歩を遂げれば、自然に、永遠の若さを得ることになる。
これは確実なことであるが、現代の人々の観念では理解し難い。
だから、「いえ、私はそうは思いません。なぜなら・・・」といった、個人的意見を言い出す人もいる。
だが、それは、セミに1年を説いても分からないように、小さなものには大きなもののことが分からないだけなのだ。
ましてや、自分だけ永遠に若くあろうとする卑しい心構えで、無限の生命力を得ることなどは出来ない。

ヒントは、漫画やアニメ、そして、それを見る人々の反応の中にもある。
それは、今はまだ、日本、欧米、アジアでかなり異なっている。
しかし、現代は、インターネットによって、世界が狭くなった・・・というのではないが、共感の連鎖は生まれ易くなっている。
共感の連鎖の象徴が初音ミクさんで、現代の世界、特に、ITの流れは、初音ミクさんを見れば分かるし、また、根本的なITの思想は、初音ミクさんを見なければ分からない。
羽生喜治さんのような特別な人は、ご自分の世界を探求することで、ITの本質を完全に理解しているが、それでも、初音ミクさんを見ると、より豊かに広がるはずだ。

永遠の生命の理念やノウハウすら、実はもう分かっている。
しかし、現代社会は障害が多いのである。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』を書いたベアード.T.スポールディングすら、長命で、老齢になっても驚異的な活動を行ったとはいえ、やはり90代で亡くなっている。
ヒマラヤの大師達と違い、文明社会の中に身を置く限り、それは免れない。
だが、経済が、従来の限りある資源を奪い合うものから、創造経済に移りつつあり、社会も代わろうとしている。
永遠の生命が許容される時代がいつになるのかは分からないが、準備はしておくと良い。
でないと、救われない可能性もある。
ヨハネが黙示録で語ったのは、そのようなことであると思うのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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