私にとって、岡本太郎の言葉の中で、最も重要なのは、「爆発だ」よりも、「いいじゃないか」である。

「嫌われたっていいじゃないか」
「誤解されたっていいじゃないか」
「グラスの底に顔があっても、いいじゃないか」

そう言う気持ちは、本当はもっと強い言葉が似合うものである。

「嫌われなければならない」
「誤解されなければならない」
「グラスの底に顔がなければならない」

「嫌われる」「 好かれる」
「誤解される」「 分かってもらえる」
「世間の常識の観念に従っている」「世間の常識からはみ出している」

それがどうした!
そんなことはどうでも良いのである。
もっと大切なことがあるのである。

アニメ『魔法少女リリカルなのは』で、金髪の少女フェイトが、幼い時の母親とのことを思い出すシーンがある。
思い出の中で、母親は、小さなフェイトに優しく微笑みかけるが、なぜか、フェイトに「アリシア」と呼びかける。
「違うよ、母さん。あたしはフェイトだよ」
しかし、母親は何度も、彼女をアリシア呼ぶ。
戸惑うフェイトだが、優しい母親に笑顔を返す。
「まあ・・・いいのかな」
なぜ母親が、自分をアリシアと呼んだのか、フェイトには分からなかった。しかし、フェイトにとって大切なことは、母親が笑顔になることだった。それに比べれば、名前なんかどうでも良かった。
だが、5年後に制作された、ほぼ同じストーリーの劇場版では、そこでフェイトは葛藤するように変えられた。それでも、フェイトは「そんなことはどうでもいい!」と迷いを振り切り、やはり、大切なことは母の願いを叶えることで、そのために全霊を尽くして戦うことを決意した。
その戦いが、正しいことなのかどうかは関係ない。フェイトの心は「それがどうした!」と叫んでいたのだ。フェイトにとって大切なことは、母への愛だけだった。

本当に大切なこと、本当に守りたいものの前では、世間ではどんなに後生大事にしたがるものでも、どうでも良いのである。

マード・マクドナルド・ベインは、初めて、偉大な聖者である師に逢った時、自分がこれまで、どれだけのことを学んできたかを一生懸命に話した。巨大な師には及ばぬまでも、自分も相当なレベルに達していることを分かって欲しかったのだろう。
それを師は、穏やかに聞いていたが、最後に言う。
「それが本当かどうかは、どうでもいいことなのだよ」
その瞬間、ベインは悟る。これまで学んできたことは全て捨て、彼は偉大な神人に生まれ変わったのだ。
ベインの心には「それがどうした!」という思いが広がっていたのだと思う。

「それがどうした」
英語で、“What then?” だ。
アイルランドの詩聖 W.B.イェイツの詩に、まさに、“What then?” というのがある。
ある優等生の少年がいた。
良い学校に入り、立派な仕事を成し遂げ、高い地位を得、素晴らしい友人に恵まれた。世間は彼を賞賛する。まさに成功者の一生である。
彼は誇らしげに言う。
「愚か者よ、騒げ。私は何一つ間違いを犯さなかった。私は勝った」
その時、プラトーンの幽霊が叫んだのだ。

それがどうした!
What then?

人間にとって、本当に大切なことのためには、そんなことは、本当にどうでもいい、下らないことなのだ!
そして、それは、嫌でも思い知る。
この優等生も、遠くなく、破滅の淵で絶望する。いや、気付かないフリをしても、すでにそうなのだ。
だから、ことさらに勝ち誇ってみせるのだ。
真の勝利者は静かなものである。
本当は惨めな敗北者である世間の成功者をよく見よ。外面に惑わされず、その正体を見抜け!
そして、愚かなことに、そんなものを目指す者がいかに多いか。
世間の権威にひれ伏し、塾や予備校に通い、良い大学を目指し、良い会社や機関に就職し、徒党を組んでどこまでも争う。
行き着く先が地獄であるのは明らかであるのに、欲望にとりつかれた浅ましく卑しい心には何も分からない。
そして、惨めな地獄の牢獄で、やっとプラトーンの声を聞くのである。
だったら、今すぐ言おうではないか?
「世界中に誤解された?」「いいじゃないか」「誤解されなければならない」
「皆に嫌われた?」「いいじゃないか」「嫌われないといけない」
「損をした?」「それがどうした」「損しなければならない」
「失敗した?」「それがどうした」「失敗しなければならない」
真に価値あるものを失わないためには。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ