ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

プライド

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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ヤキモチとプライド

ジャイアント馬場さんの「あらゆるモメゴトはヤキモチから起こる」という発言が印象に残っている。
ただ、これは、次の発言の、
「私はプロレス界入りしてから全てがうまくいった。だからヤキモチを焼く人がいるのは当然」
という言葉につながるから、こんな表現になったと思われる。

本当は、あらゆるモメゴトはプライドから起こる。
だが、ヤキモチとプライドは、同じものの違う顔だ。

ヤキモチとプライドが同じと言っても、「プライドが大事」と言う人はいても「ヤキモチが大事」と言う人はいない。
プライドがない人に対し、「お前はプライドがないのか」と非難する人はいても、「お前はヤキモチを焼かないのか」と、ヤキモチを焼かないことを責めるような者はいない。
これはどういうことか、実例で言えば分かり易い。
男でも女でも良いが、例えば、恋人の女性が浮気していることが発覚した男性が平気でいたら、「お前にはプライドがないのか?」と言う人はいるが、「ヤキモチを焼けよ」と言う人はいない。なぜいないのかと言うと、言い難いという理由と、浮気はヤキモチ程度の問題ではないからだ。
しかし、本当は、浮気だってヤキモチ程度の問題であり、ヤキモチを焼かなければ、うまく収まる。
同じく、プライドなんてものがなければ、問題は起きない。
地球上で、浮気みたいなものが問題にならない集団(民族レベルであることが多い)は、いくらでもいたし、今もいる。
日本も実は明治時代まではそうだったという説もある。
そんな集団は平和で活気がある。

筒井康隆さんの短編『果てしなき多元宇宙』(角川文庫の『時をかける少女』に収録)で、美しい女子高生の暢子(のぶこ)は、クラスメイトの史郎が彼氏だった。史郎は秀才だった。
暢子が史郎と一緒に学校から帰宅していると、3人の不良男子高校生に絡まれる。
不良達が、史郎を標的にちょっかいを出すと、史郎のこんな状況を見たことがない暢子は心配する。
だが、死老は全く平然としている。
史郎のそんな態度にイライラした不良が史郎を突き飛ばすと、史郎はみっともなく尻もちをつくが、それでも平気な様子だ。
調子が狂った不良達は、史郎に罵声を浴びせながら去っていく。
暢子は、史郎の態度を立派と思う一方、彼氏としては男らしさに欠けるという不満も感じた。

史郎にはプライドがない。
「いや、これこそ本当のプライド」などと言う者がいるからややこしくなる。
やっぱり、史郎にはプライドがなく、それは非常に素晴らしいことだ。
一方、不良達にはプライドがあり、史郎のことを彼氏としてはどうなのと思った暢子にもプライドがある。

「こんなやつは許せないな」と言う時、大抵は正義感から言うのではなく、プライドから言っている。
自分のプライドのために許せないのだ。
史郎はプライドがないので、不良達に対し「こんなやつら許せない」とは思わなかった。
そして、この状況で最善の道「無抵抗」を選んだのである。

史郎は秀才であっても、余計なことは考えないのだ。
本当の秀才は、皆同じである。
秀才も、レベルが高ければ、全く思考しなくなる。
史郎はぐっと耐えたわけではない。顔色を変えず平気だったのは、プライドがないからだ。
プライドは思考から出来ている。
思考しない者にプライドはない。
思考しなければ「われは誇り高き〇〇家の長男である」だの「私は〇〇大学卒業だ」などと自慢したりしない。
イエスが「何を言おうかと考えるな。言うべきことは神が教えてくれる」と言ったように、思考しなければ、言葉も行動も間違えない。
そして、思考しなければ神が味方する。正確には、思考が神の助けを邪魔するのだ。

なかなか分からないかもしれないが、いつまでも分からないと苦しい人生になる。
昔は、ある程度歳を取れば分かったらしいが、今は、プライドの時代、ヤキモチの時代である。
苦しむ人は、老人まで含めて多くなるし、なっている。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)時をかける少女(筒井康隆)
(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)天狗芸術論・猫の妙術 全訳注 (講談社学術文庫)
(4)ヤオイズム(矢追純一)
(5)夜這いの民俗学・夜這いの性愛論(赤松啓介)

ルームメイト
AIアート1984
「ルームメイト」
Kay

プライドは持つべきか捨てるべきか?

こんなことを考えたことはないだろうか?
世間ではよく、「プライドを持て」「自尊心が大切」と言い、自分がそう言われた人も多いと思う。
一方、プライドや自尊心が高過ぎる者が駄目であることはもちろんだが、本物の聖者達は皆、「プライドを捨てよ」「自尊心を捨てよ」と言う。
いや、俗人だって賢い人は「プライドや自尊心なんて下らないものは捨てた方がいい」と言う。
異論はあるだろうが、「プライド」と「自尊心」は同じものとして「プライド」で統一する。
そこで、どちらが(「プライドを持つこと」と「プライドを捨てること」)良いのだろうか?

どちらが正しいのかと言うと簡単で、プライドを捨てる方が正しい。
こう言うと、当然、反論がある。
つまり、どうしてもプライドは必要な、やはり大切なものだと言いたいのである。
プライドが必要に思えることは分かる。
なぜか?
プライドを持たないと、マイナスのプライドを持ってしまうからだ。
つまり「俺は偉い」「俺は優れている」「俺は世界で1つだけの花だ」というプラスのプライドに対し、「俺は卑しい」「俺は劣っている」「俺はどこにでもいる、いなくていい雑草」というマイナスのプライドがあるが、プラスかマイナスかだけで、どちらもプライドだ。

ちょうど、空気や水に対し「空気はすごく大切だ。崇め奉らないといけない」と言うのも、「水なんてどこにでもある。価値のないものだ」と言うのも、共におかしいようなものだ。
人も空気や水のようなもので、大切ではあるが、一部の空気が「俺は他の空気より優れている」と主張したりはしない。
「アルプスの空気である俺は絶品。東京の空気とは違う」と言ったら、そのアルプスの空気は愚か者だ。含まれているものや、存在する場所が違うだけで、全く同じ空気である。
しかし、世間では「お前たちはアルプスの空気であるというプライドを持て」と言うのである。

教師や政治家が腐っている・・・つまり、連中が、普通の人では考えられない異常な思考を持ったり、不道徳な行いをするのは、「先生」と呼ばれるからだ。
「先生」という空気は、他の空気より偉いと思ってしまう・・・つまり、プラスのプライドを持つことで歪むのである。
これは、人から蔑まれる仕事をしている者が、マイナスのプライドを持って歪むのと同じだ。
教師や政治家の質がどんどん落ちているのは、彼らを「先生」と呼ぶことが多くなっているからで、彼らを「先生」と呼ぶのを禁止すると、たちまち、教師や政治家の質は上がる。

世の中には、非常に頭が良く、学問を積み、実績も上げることで「先生」と呼ばれる人もいる。
しかし、「先生」と呼ばれることに慣れると、たちまち腐ってしまう。
最近、ネットでよく、ある実績ある老齢の科学者を見るが、彼を見ると、一瞬で「こいつ腐っている」と分かる。
彼をT氏とすると、T氏は自分の話の中で「〇〇さんが、『T先生、これをやって下さいよ』と言うのですよ」といった感じで、自分が「先生」と呼ばれることを当然のように思っている。
そんな人間には注意した方が良い。
そんな人間がまともであるはずがなく、実際、T氏はおそろしく醜悪なことをしている。
T氏は、自分では謙虚を装っているが、一目で高慢の塊だと分かるのである。

霊的な話の中で、神は大海であり、人間は大海の中の一滴の水であると言われることがある。
一滴の水とはいえ、大海と同じ水である。
ルドルフ・シュタイナーも同じことを本に書いている。
すると凡人は、「俺は一滴の水なんて嫌だ。大海と同じ価値があるんだ」と言いたがる。
そういう人を、世間ではプライドが高い人と言う。
一方、「俺は一滴の水に過ぎない。いなくていい存在だ」と言う者もいる。
そういう人を、世間ではプライドが低い人と言う。
一滴の水のプライド(プラスもマイナスも)があるうちは引き寄せも出来ない。

こういう問題を、言葉で、理屈で、説法で解決しようとしたら、ますます迷うばかりだ。
淡々と、深呼吸、腕振り運動、足踏み四股をすることで(マントラや念仏を唱えるとかお経や祝詞を上げるのでも良いが)、プライドの元である思考を消せば良く、それが一番簡単な方法である。
プライドが消えるまで根気よくやる必要がある。
それなら、実益を兼ねた深呼吸、腕振り運動、足踏み四股をお奨めするのである。
理屈をさらっと流したければ、『荘子』にうまく書かれている。

降りてくる月
AIアート549
「降りてくる月」
Kay


社会で頭を叩かれた人間が立派になることが多かった。
しかし、今はパワハラと言われるので、若い未熟な者が叩かれることがなくなり、若い未熟な者がプライドを増大させることが多くなった。
なぜ、頭を叩かれる・・・良くない部分は当然あるが、人格を否定される扱いをされると立派になるのか?
それは、頭で考えることの無力さを思い知り、無駄に頭を使わなくなるからだ。
頭は、使うべき場所で使えばよく、それはごく簡単なことだけだ。
だが、簡単なことをおろそかにして、考えても仕方がないことを考えたがる愚か者が増えているのである。
天下国家を論じるより、周囲の人の迷惑を考えるべきなのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)荘子〈1〉 (中公クラシックス)
(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)中国の思想(12) 荘子(改訂版) (徳間文庫)
(4)神秘学概論 (ルドルフ・シュタイナー)
(5)神さまの周波数とシンクロする方法(志賀一雅)
(6)人生を思うように変える呼吸法
(7)新装版 ヤオイズム あなたは本当に生きているか

プライドや面子を笑い飛ばせる人間になるには

「プライドが傷つけられた」とか「面子を潰された」などと言っているうちは引き寄せは出来ない。
アニメなどでチンピラやそれと同等の人間が、「きさま、俺を馬鹿にしてるのか?」と怒りに顔を歪める場面がよくあるが、そんなことを言うのは下等な人間で、下等な人間が良い引き寄せを行うなんて話は全くない。

「そんなの(プライドが傷付く等)聖人君子でもない限り、誰でもあるんじゃないのか?」とか、「僕は修行が足りないので、やっぱりプライドが傷付くことがある」などと言いたいかもしれないが、これは人格の問題ではなく、偏見とか洗脳の問題である。

「自分を誇りに思う」とか「君を誇りに思っている」といったセリフもよく聞くような気がするが、その度、私は詐欺現場を見るような気がする。
実際、詐欺だ。
「剣士の誇りを忘れたか」とか「医者の誇りを忘れたのか」というのも無茶苦茶な話である。
持つべきは誇りではなく責任だ。奉仕すべき責任である。
それなしに誇りなんてものを持つから変な医者、変な政治家が多いのである。

『スタートレック』という映画の中で、カーク退任の後、宇宙船USSエンタープライズの船長を務めていたミスター・スポックは、ある重要な事件が起こった際、カークに「あなたが船長になって下さい」と言うが、カークは躊躇する様子を見せる。スポックの立場を気遣ったのだ。
しかし、スポックは言う。
「バルカン星人に面子というものはないのです」
なるほど、確かにバルカン星人は優秀である。

まあ、実際は、今の時代はまだ面子が必要な場合もある。
それは、自分が集団を代表している場合で、実際は自分の面子ではなく、集団の面子が重要な場合だ。
とはいえ、これも本当は面子の問題ではないのだが、集団を統率するための権威とか貫禄みたいなものが必要で、これが面子と結び付けられるのである。
だが、本当に尊敬されたり信頼される人間とは面子とかプライドのない人間だ。

「わが校の生徒であるという誇りを持って」だの「わが社の社員であるという誇りを忘れず」だのといった誇りは生ごみと同じである。
そんなもの持ってたら臭くて仕方がない。
そもそも、「わが校の誇り」と言う場合、それは自校が他校より優れているのだという差別思想から来ているが、差別主義者はIQが低いことが研究でも分かっていると思う。
だから、「わが校の誇りを持て」と言うのは「わが校の教師、生徒はIQが低くあるべき」と言っているようなものである。

「子供には自尊心を持たせてやらないといけない」とか言うが、子供に必要なものは安心である。
これは経済的なことではなく、自分の実体が聖なるエネルギーであると知ることで、俗な言い方をすれば「自分の居場所がある」と言うことだ。
聖なるエネルギーは貴重な存在であるからだ。

今の輝き
AIアート386
「今の輝き」
Kay


自分が無限の聖なるエネルギーである魂だということを悟るには、釈迦やイエスのように瞑想したり、イニシエーションを受けたり、ラマナ・マハルシのように「私は誰か?」と問う方法など、いろいろある。
だが、最も簡単な方法は深呼吸である。
そして、つまるところ、釈迦もイエスもラマナ・マハルシも深呼吸で悟りを開いたのだと思えるのだ。
なぜなら、深呼吸こそ、聖なるエネルギーを動かす方法であるからだ。
「よかった・ありがとう呼吸」や「神の圧力呼吸」、あるいは、自分のお気に入りの優れた呼吸法をたゆまず行うことで、プライドや面子を笑い飛ばし、さらには、それらを、遠くで吹き飛ばされる塵のように感じるようになるだろう。
それを解放と言うのである。








神が力を与える者

考えるべきことを考え、考えても仕方がないことを考えないのが賢い人間だ。
自分が背が低いことを考えても背が伸びるわけではないし、自分が大学を出ていないことをいくら考えても高卒である事実は変わらない。
だが、考えても仕方がないことを考えると、シークレットシューズを履いて背を実際より高く見せたり、学歴を偽って、高卒なのに大卒、それも、名門大学卒だと詐称する恥知らずもいる。
つまり、考えても仕方がないことでも、劣等感に関することに関しては、どうしても考えてしまうことが多く、それでロクなことにならないのだ。
劣等感のために失敗した人、失脚した人、大切なものを失った人は、あまりに多いのである。

劣等感は、チャチなプライドから起こるが、このチャチなプライドが人間最大の欠点の1つで、これを克服すれば、その人間の力は驚くほど大きくなる。
そこで、「賢い人間」ではなく、「強い人間」に学ぶべきなのである。
「賢い人間」より「強い人間」の方が優れている。
そして、「賢い人間」は、考えても仕方がないことを考えないが、「強い人間」は、気にしても仕方がないことを気にしないのだ。

背が低いことに関して言えば、賢い人は、そんなことを考えても仕方がないから、「自分の身長が5cm高かったら」といったことは考えない。
だが、「じゃあ、5cmのシークレットシューズを履けば良い」となるかもしれない。
だが、強い人間は、自分が背が低いことは気にしないので、シークレットシューズを履こうなんて思わない。
そして、自分が背が低いことを気にしない人間は、背が高いこと以上に魅力的なのである。
私が知る、最もモテる男は、身長が160cmもないのである。

考えても仕方がないことを考えない者は賢く、ものごとを効率的に進める可能性が高いが、気にしても仕方がないことを気にしない者は無敵だ。
野村克也さんという、野球の名監督を覚えている人はまだ多いと思うが、彼は、名監督になる前は、プレーヤーとしても名捕手だった。
その名捕手だった野村さんは、捕手をしている時、バッターによく囁(ささや)きかけていたようだ。
「あれ、今日のお前、重心が右に偏ってないか」「右に引っ張れって指示が出てるんだろ?お前には無理だよ」
野村さんの囁きの効果は抜群で、調子を崩すバッターも多かった。
プロの捕手の実力には、こういったことも含まれるのだ。
ところが、それに全く引っかからなかったのが、長嶋茂雄だったらしい。
長嶋さんは、「気にしない」男なのだ。
「重心が右に傾いてるよ」と言われたら、「そう?ありがとー」と言いながら、実は全く聞いていないので、普通にバッティングしてしまうのだ。

背が低いとか、顔が悪いといった、気にしても仕方がないことは気にしなくて良いが、気にすべきことは気にしなければならない。
私は以前、ある場所で、長髪の50代か60代と思える男をよく見たが、その歳で髪が多いのは結構なことだが、白髪混じりのその髪を伸ばし放題にしているのは、若者ならひょっとしたら似合うのかもしれないが、この中年過ぎの男がやると、不潔でおぞましく感じるのは、私だけではないだろう。こんなところは、気にすべきであるに違いない。
会社においては、特に、地位が上に行くほど気にすべきことは増える。
だが、多くの愚かな者は、気にすべきことを気にせず、気にすべきでないことを気にするのである。
気にすべきでないことは、さっきも述べた通り、劣等感から起こるプライドに関することである。

「格好悪いかもしれないが、人に迷惑をかけるわけではないので、気にしないでおこう」
だが、格好悪いことを気にしない者ほど格好良い者はいないのである。
逆に、劣等感に負けて格好を過度に気にし、見栄を張る者ほど格好悪い者はいないのは分かると思う。

「人の目なんか気にするな」は、だいたい正しいのだが、人の目を気にしなければならないこともある。
だから、「格好悪いことなんか気にするな」と思うと良い。
『スタートレック』で、ミスター・スポックが「バルカン星人には面子(メンツ)はないのです」と言うのに痺れたことがある。
「面子なんか気にしない」
そう思う者は無敵である。なぜなら、神は、面子を捨てた分の数倍の力を与えるからである。








真のプライドとは

悟りを開かない限り、人間は自我に支配される。それは避けられない。
そして、ほとんどの人は、一生、悟りを開かない。
それなら、人に負けない何か、自慢できる何かを持っていなければ、楽しくないし、精神は安定しない。
そんな現実も、無視してはいけない。
だから、何にプライドを持つかということは、すごく大事なことなのだ。
プライドが高過ぎるのはもちろん良くないが、プライドを持ちたい気持ちを無視してもいけない。
そこで、プライドについて、もっと真面目に考えてみる。

美人とか長身というのは、一応はプライドになり得る。
しかし、パパが社長とか、ブランドもののバッグを持っているとかいうのは、プライドにならない。
なぜだろう?
美人というは、それはそれで、やっぱり実力なのだ。
しかし、親や恋人、あるいは、友人が偉いとか、乗っている車や持ち物が素晴らしいというのは、自分の力ではないのだ。
だから、そんなものをプライドにしようとしても、所詮、虚勢になってしまうのだ。

次に、時間が流れ行くことに注意しなければならない。
金メダルを取ったとか、百人殺したなんてのは、プライドにしちゃいけない。
なぜなら、それは過去のことであり、時が経つごとにリアリティが弱まるからだ。
記憶の鮮烈さが薄れ、色褪せてくると共に不安になる。
すると、周囲に自分がいかに凄かったを話し、感心してもらわないと気が済まない。
若い頃に栄誉を得た老人がやたら自慢話をするのはそのためだ。
いずれにしても、それらは、所詮、過去のことであり、今の自分に本当のプライドを持たせてなどくれない。
だから、どれほど立派なことをやりとげたとしても、終わったらすぐに忘れるべきである。

美人であることは素晴らしいことだ。
ただ、いつまでもそれをプライドにしていると、衰えていく容貌への不安が起こり、やっぱり、周りから承認を得ようと躍起になる。
それは、年を取って、美しくなくなっても続く、哀れな足掻きである。
だから、若い時に美人だった者ほど、年を取ると惨めになり易いのである。
全ては変化する。その変化を受け入れることが出来ないようなプライドは、早めに捨てなければならない。
そして、早く、一生もののプライドを見つけることだ。
時が経てば経つほど、磨かれ、輝く何かをプライドにすれば、その人の人生は楽しいものになる。
だが、そのようなものを持つ者は、滅多にいないのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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