ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

フラッシュダンス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人類数千年の課題

人間は動物としては弱いが、集団を作り、知恵を発達させることで、地球の支配者になった。
だが、集団の大きさと知恵が発達するほど、持つ者と持たざる者の格差が広がり、国家が出来ると、「これで同じ人間?」という疑問を持たざるを得ない大きな差が出来た。
実際、「王様と乞食」では、果たして、同じ人間と見て良いのかと思うが、確かに、同じ人間なのである。
世界中で、「人間は平等である」という概念が優れた人間によって提唱されたが、実質が伴わない。
だが、本当に人類が進歩したと言えるのは、皆が同じとは言わないが、富が再分配され、極端な格差がなくなった時ではないかと思えるのである。

『インデペンデンスデイ』(1996)というアメリカ映画で、宇宙人の攻撃を受けて大打撃を受けたアメリカで、大統領夫人マリリンが乗っていた政府のヘリコプターが墜落し、マリリンは負傷するが、この映画のヒーローの1人である黒人パイロット、スティーブン・ヒラーの恋人である黒人女性ジャスミンに救われる。
ジャスミンが献身的にマリリンの世話をし、親しくなる中で、マリリンは若いジャスミンに、「お仕事は?」と尋ねる。
ジャスミンは「ダンサーです」と答える。
マリリンは明るい顔になり、「クラシックか何か?」と再び尋ねると、ジャスミンは少し寂しそうに笑いながら「裸で踊るの」と言う。
大統領夫人とはいえ、そこまで世間知らずではないマリリンは、それがストリップ・ダンサーを意味すると分からない訳ではない。
マリリンは、哀れむというほどではないし、軽蔑を示したりはしないが、いくらか同情を込めた微笑みを見せ「あら…」とかつぶやく。
だが、ジャスミンは、決して卑屈にならず、明るく「恥じてはいない」と言う。報酬が良く、1人で息子を育てられているからだ。
ファースト・レディとストリップ・ダンサー、相当な格差がある2人だが、この状況では、ある意味、ジャスミンが上位かもしれない。
だが、ジャスミンの優れた人間性により、2人は全く対等だ。
宇宙人に街が破壊されなくても、こうありたいものである。

このシーンを見ていて、私は、『フラッシュダンス』(1983)を思い出す。
アレックスはダンサーを夢見る若い女性であるが、豊かではなく、昼は労働しながら夜にレッスンを続けていた。
この映画の中で、1つのオーディションの場面がある。
沢山のダンサーが、成功を目指して集まってきて、日頃修練している実力を見せようとする。
大勢のテスト生が踊っている中、監督が、「クラシックバレエの経験がない者は降りろ」と言い、沢山のダンサーが落胆しつつ舞台から去る。
だが、その中で、どう見てもクラシックバレエの素養があるとは思えない若い女性ダンサーが踊り続ける。
監督が、それを見て。「君!クラシックバレエの経験は?」と尋ねると、その若いダンサーは明るく笑いながら「ないわ」と言って平然と踊り続ける。
監督が、「降りろ」と命じるが、女性が無視していると、監督は激怒したように「出ていけ!」と怒鳴る。
すると、女性の表情が急変し、泣き出して崩れ落ち、近くの女性がかばった。
私は、それを見て、いろいろ想像したのだ。
きっと、この女性ダンサーは、こういった場面を何度も経験してきたのだ。
そして、ひょっとしたら、彼女は、クラシックバレエもやりたかったのかもしれないが、育った家庭の経済的な事情などで、それが出来なかったのかもしれない。
これらは勝手な想像ではあるが、そんなツキのなさを思うと、私も非常に無念になる。
この女性も、ジャスミンのようにストリップ・ダンサーで生きるしかなくなるかもしれないという想像も起こった。

日本の映画『さびしんぼう』(1985)で、高校生の百合子は、ピアニストを夢見ていたが、家にピアノがなく、放課後、音楽室のピアノで練習するしかなく、それだけではピアニストにはなれないことを自覚しながらも、諦めずに熱心に練習していた。
だが、百合子の家庭に問題が起こり、百合子は学校に来なく(来れなく)なる。
美しい彼女に好意を寄せるヒロユキが訪ねていくと、おかしな着物を着た百合子は、魚屋で魚を買おうとしていたが、一匹買うお金がなく、半分売ってくれないかと魚屋の奥さんに頼んでいた。
百合子は明るくヒロユキに対応したが、家には来ないで言う。「恥ずかしいから」と。
別れ際、百合子は。「私のもう1つの顔を見ないで」と言う。
彼女の悲惨な状況が推測された。

持てる者は、決して、富の再分配を望まない・・・つまり、持っているものを手放さない。
世界の富の90パーセント以上を2パーセントの者が握っている。
こんな状況が変わらない限り、進歩した宇宙人は地球人類を仲間として迎えることはないのではと思う。
つまり、宇宙人となかなか出会えないのは、こんなことが原因であると考えられる。
持たざる者は、呪文の力を試し、争いなく、富の再配分、平等性が実現出来ればと思う。








偽物は穢れない

西尾維新さんの小説、あるいは、アニメの「物語シリーズ」の中の『偽物語』で、詐欺師の貝木泥舟(かいき でいしゅう)が大学の時に出したという問題が気に入ってしまった。
それは、
「本物と、本物そっくりの偽物では、どちらが値打ちがあるか?」
だ。
貝木の仲間の2人はそれぞれ、
「本物に価値がある」
「等価値」
という答だったが、貝木は、
「圧倒的に偽物に価値がある」
だった。
私は、やはり圧倒的に貝木に賛成だが、それは、それが真理であると言うより「そうあって欲しい」という願いも入っているのかもしれない。
ところで、貝木がそう思うのは、偽物には、「本物になろうという意思があるだけ、本物より本物だ」からだそうだが、それはそれで賛成だ。
私は、「意思」こそ最大のものだと思っているからね。
しかし、それとは別に、私には偽物が好きという妙な感情がある。
それは、
「たとえ本物以上になっても、偽物には、どこか後ろめたさや引け目がある」
からだと思う。
その後ろめたさや引け目が、穢れを免れさせる・・・早い話が美しいのだ。
引け目があるから、「グノーティ・サウトン(身の程を知れ)」という神託に従うことが自ずと出来るのである。

初音ミクさんは偽者のシンガーであるボーカロイドだし、レイシアは偽者のヒューマンであるヒューマノイドだ。
「ロイド」とは「~のようなもの」という意味で、つまり、偽物だということだ。
だが、ミクさんは本物のシンガー以上の価値があり、レイシアは本物の人間以上の価値がある。

アインシュタインや宮本武蔵も偽物だった。
アインシュタインは、大学は卒業していたが、大学で勉強していないし(講義には出ず、試験も一夜漬け専門)、博士でも教授でもなく、一頃までは特許局の職員だった(後に博士や教授になり、駄目になったが)。
宮本武蔵も、流派を築いたと言えば聞こえは良いが、早い話が我流であり、櫂(かい。舟をこぐ道具)で佐々木小次郎と戦って勝つという、本物の剣士なら絶対しないことをやっている。
映画『フラッシュダンス』のアレックスは、クラシックバレエをやったこともなければ、キャバレーで怪しいダンスを見せる偽者だった。だから良いのである。
伊藤穣一さんは大学の学位を持たず、専門もなく、昔はシカゴでMCをやっていた偽者の研究者だから最高の研究者なのである。

偽物を目指そうではないか?
本物などクソクラエである。
私も、偽物のプログラマー、武道家、哲学者でありたい。
本物のプログラマーはJavaを使うが偽物はVBAを使い、本物の武道家は流派の教えに従い正々堂々の戦いをするが偽者は我流で、どんな卑怯な手を使ってでも勝つ。
本物の哲学者は哲学という学問に通じているが偽者は学問の哲学など全く知らぬというより、知ってたまるかである。









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お里は変えられない

通した見たことは無いが、『フラッシュダンス』という1983年のアメリカの映画で、たまたま見た部分が非常に印象的だった。
大きな規模のダンサーのオーディションの場面で、大勢の応募者達が舞台上で一緒に踊っているのを、プロデューサーらしい男が見ていたが、その男が不意に、「クラシックバレーの経験の無い者は降りて」と命じる。かなりの数のダンサーが残念そうな表情で舞台から去る。
ところがしばらしくて、そのプロデューサーらしい男が、1人の女性ダンサーに「○○番(女性のゼッケン番号)!クラシックバレーの経験は?」と問う。彼女の踊りを見れば、そんな基礎が無いことが一目瞭然であったのだろう。しかし、彼女は、明るい笑顔で、「ないわ!」と答えて、平気な風で踊り続ける。諦めるつもりはないようだ。男は、厳しい口調で「降りろ!」と命じる。そして、彼女は泣き崩れる。彼女は、これまで何度も、そんなことがあったのではなかったかと思う。
この映画自体が、名門のダンサー養成所への入学を目指す女性が、恵まれない境遇で独学でダンスをやってきたが、他の受験者達はやはりクラシックバレーの経験者ばかりで、彼女は自信を無くしていたといったものだったと思う。昼間は溶接工として働く彼女の実践の場は、舞台発表会ではなく、夜のバーだった。
バレーやピアノなんてのは、自分の意志で始めたというよりは、親にやらされるものであるし、経済的にそこそこ余裕のある親でなければ難しいかもしれない。
『さびしんぼう』という映画で、百合子という女子高校生は、毎日放課後、音楽室で熱心にピアノの練習をしていた。彼女は本当はピアニストになりたいのかもしれないが、家が貧しく、正式なレッスンも受けられなければ、家にピアノもなく、放課後に2時間程度練習する程度では、とても駄目だと分かってはいたが、それでも練習を続けていた。しかも、彼女は、家庭の事情で学校もやめてしまう。
太田裕美さんの『しあわせ未満』という歌で、「ついている奴、いない奴、男はいつも2通り」という詩があるが、別に男に限らない。
それが、自分の責任ではない、幼い頃のことであれば悔やみ切れないというものだろう。

初音ミクの今年の3月のコンサートでは、これまでのコンサートではなかったと思うが、『Tell Your World』や『タイムリミット』の曲で、ミクがクラシックバレーのような踊りを見せた。やはり優雅で美しいものだと思ったが、こんなことでも、上に述べた、条件に恵まれない、運のない者のことを思い出し、ちょっと憂鬱になってしまうのだ。
特に、ミクは権威や伝統とは無縁であって欲しいからね。

だが、アルベルト・アインシュタインは、英才教育とは全く無縁の人であるだけでなく、学校には全く馴染まず、生涯、学校教育を批判していた。
また、大学には行ったが、講義に出たことは無く、卒業のための試験は自分から創造力を奪ったと述べたこともあった。
彼は、人類の偉人であるばかりでなく、運が無かった者の希望の星でもあるのだろう。

自分がついていないと思った時の対処法には色々あるだろう。
世間で一般的なのは、もっと恵まれていない者のことを考えるというものだ。
最近はどうか知らないが、昔なら、子供の頃、親や教師に、「学校にも行けない子も沢山いるのよ」「ご飯も食べられない子のことを考えなさい」と言われたことが一度や二度はあったものだ。ただ、その場合、子供達は、言っている親や教師を見て、説得力の無さを感じ、むしろ、逆効果にしかならなかったはずだ。
そうでなくても、下を見て満足するというのは最悪の方法だ。
正しいやり方は、どんな状況であろうと、そうなるべくしてそうなったのだということを認めることだ。
どんな運命であれ、それは避けられない運命であったことを受け入れることである。
運命を自分で変えられると思う傲慢さが不幸の原因であり、狭量、不寛容にもなることを、人間はなかなか認めない。
受容性があれば、たまたま運がよくて恵まれていても、思いあがることもなく、他を見下すこともない。それが自分の力ではないと知っているからだ。
人類が受容性を友とした時、不幸や悲惨は無くなり、病気も老化もなくなるだろう。
上でとりあげた『さびしんぼう』で、百合子は、最悪の状況かもしれなかったが、不幸には見えなかった。そして、美しい彼女に憧れ続けたヒロキも、状況は変えられないながら、彼女を愛することだけで満足した。この作品を黒澤明が絶賛したとも聞くが、そんなところも評価したのなら良いと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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