人間は動物としては弱いが、集団を作り、知恵を発達させることで、地球の支配者になった。
だが、集団の大きさと知恵が発達するほど、持つ者と持たざる者の格差が広がり、国家が出来ると、「これで同じ人間?」という疑問を持たざるを得ない大きな差が出来た。
実際、「王様と乞食」では、果たして、同じ人間と見て良いのかと思うが、確かに、同じ人間なのである。
世界中で、「人間は平等である」という概念が優れた人間によって提唱されたが、実質が伴わない。
だが、本当に人類が進歩したと言えるのは、皆が同じとは言わないが、富が再分配され、極端な格差がなくなった時ではないかと思えるのである。
『インデペンデンスデイ』(1996)というアメリカ映画で、宇宙人の攻撃を受けて大打撃を受けたアメリカで、大統領夫人マリリンが乗っていた政府のヘリコプターが墜落し、マリリンは負傷するが、この映画のヒーローの1人である黒人パイロット、スティーブン・ヒラーの恋人である黒人女性ジャスミンに救われる。
ジャスミンが献身的にマリリンの世話をし、親しくなる中で、マリリンは若いジャスミンに、「お仕事は?」と尋ねる。
ジャスミンは「ダンサーです」と答える。
マリリンは明るい顔になり、「クラシックか何か?」と再び尋ねると、ジャスミンは少し寂しそうに笑いながら「裸で踊るの」と言う。
大統領夫人とはいえ、そこまで世間知らずではないマリリンは、それがストリップ・ダンサーを意味すると分からない訳ではない。
マリリンは、哀れむというほどではないし、軽蔑を示したりはしないが、いくらか同情を込めた微笑みを見せ「あら…」とかつぶやく。
だが、ジャスミンは、決して卑屈にならず、明るく「恥じてはいない」と言う。報酬が良く、1人で息子を育てられているからだ。
ファースト・レディとストリップ・ダンサー、相当な格差がある2人だが、この状況では、ある意味、ジャスミンが上位かもしれない。
だが、ジャスミンの優れた人間性により、2人は全く対等だ。
宇宙人に街が破壊されなくても、こうありたいものである。
このシーンを見ていて、私は、『フラッシュダンス』(1983)を思い出す。
アレックスはダンサーを夢見る若い女性であるが、豊かではなく、昼は労働しながら夜にレッスンを続けていた。
この映画の中で、1つのオーディションの場面がある。
沢山のダンサーが、成功を目指して集まってきて、日頃修練している実力を見せようとする。
大勢のテスト生が踊っている中、監督が、「クラシックバレエの経験がない者は降りろ」と言い、沢山のダンサーが落胆しつつ舞台から去る。
だが、その中で、どう見てもクラシックバレエの素養があるとは思えない若い女性ダンサーが踊り続ける。
監督が、それを見て。「君!クラシックバレエの経験は?」と尋ねると、その若いダンサーは明るく笑いながら「ないわ」と言って平然と踊り続ける。
監督が、「降りろ」と命じるが、女性が無視していると、監督は激怒したように「出ていけ!」と怒鳴る。
すると、女性の表情が急変し、泣き出して崩れ落ち、近くの女性がかばった。
私は、それを見て、いろいろ想像したのだ。
きっと、この女性ダンサーは、こういった場面を何度も経験してきたのだ。
そして、ひょっとしたら、彼女は、クラシックバレエもやりたかったのかもしれないが、育った家庭の経済的な事情などで、それが出来なかったのかもしれない。
これらは勝手な想像ではあるが、そんなツキのなさを思うと、私も非常に無念になる。
この女性も、ジャスミンのようにストリップ・ダンサーで生きるしかなくなるかもしれないという想像も起こった。
日本の映画『さびしんぼう』(1985)で、高校生の百合子は、ピアニストを夢見ていたが、家にピアノがなく、放課後、音楽室のピアノで練習するしかなく、それだけではピアニストにはなれないことを自覚しながらも、諦めずに熱心に練習していた。
だが、百合子の家庭に問題が起こり、百合子は学校に来なく(来れなく)なる。
美しい彼女に好意を寄せるヒロユキが訪ねていくと、おかしな着物を着た百合子は、魚屋で魚を買おうとしていたが、一匹買うお金がなく、半分売ってくれないかと魚屋の奥さんに頼んでいた。
百合子は明るくヒロユキに対応したが、家には来ないで言う。「恥ずかしいから」と。
別れ際、百合子は。「私のもう1つの顔を見ないで」と言う。
彼女の悲惨な状況が推測された。
持てる者は、決して、富の再分配を望まない・・・つまり、持っているものを手放さない。
世界の富の90パーセント以上を2パーセントの者が握っている。
こんな状況が変わらない限り、進歩した宇宙人は地球人類を仲間として迎えることはないのではと思う。
つまり、宇宙人となかなか出会えないのは、こんなことが原因であると考えられる。
持たざる者は、呪文の力を試し、争いなく、富の再配分、平等性が実現出来ればと思う。
だが、集団の大きさと知恵が発達するほど、持つ者と持たざる者の格差が広がり、国家が出来ると、「これで同じ人間?」という疑問を持たざるを得ない大きな差が出来た。
実際、「王様と乞食」では、果たして、同じ人間と見て良いのかと思うが、確かに、同じ人間なのである。
世界中で、「人間は平等である」という概念が優れた人間によって提唱されたが、実質が伴わない。
だが、本当に人類が進歩したと言えるのは、皆が同じとは言わないが、富が再分配され、極端な格差がなくなった時ではないかと思えるのである。
『インデペンデンスデイ』(1996)というアメリカ映画で、宇宙人の攻撃を受けて大打撃を受けたアメリカで、大統領夫人マリリンが乗っていた政府のヘリコプターが墜落し、マリリンは負傷するが、この映画のヒーローの1人である黒人パイロット、スティーブン・ヒラーの恋人である黒人女性ジャスミンに救われる。
ジャスミンが献身的にマリリンの世話をし、親しくなる中で、マリリンは若いジャスミンに、「お仕事は?」と尋ねる。
ジャスミンは「ダンサーです」と答える。
マリリンは明るい顔になり、「クラシックか何か?」と再び尋ねると、ジャスミンは少し寂しそうに笑いながら「裸で踊るの」と言う。
大統領夫人とはいえ、そこまで世間知らずではないマリリンは、それがストリップ・ダンサーを意味すると分からない訳ではない。
マリリンは、哀れむというほどではないし、軽蔑を示したりはしないが、いくらか同情を込めた微笑みを見せ「あら…」とかつぶやく。
だが、ジャスミンは、決して卑屈にならず、明るく「恥じてはいない」と言う。報酬が良く、1人で息子を育てられているからだ。
ファースト・レディとストリップ・ダンサー、相当な格差がある2人だが、この状況では、ある意味、ジャスミンが上位かもしれない。
だが、ジャスミンの優れた人間性により、2人は全く対等だ。
宇宙人に街が破壊されなくても、こうありたいものである。
このシーンを見ていて、私は、『フラッシュダンス』(1983)を思い出す。
アレックスはダンサーを夢見る若い女性であるが、豊かではなく、昼は労働しながら夜にレッスンを続けていた。
この映画の中で、1つのオーディションの場面がある。
沢山のダンサーが、成功を目指して集まってきて、日頃修練している実力を見せようとする。
大勢のテスト生が踊っている中、監督が、「クラシックバレエの経験がない者は降りろ」と言い、沢山のダンサーが落胆しつつ舞台から去る。
だが、その中で、どう見てもクラシックバレエの素養があるとは思えない若い女性ダンサーが踊り続ける。
監督が、それを見て。「君!クラシックバレエの経験は?」と尋ねると、その若いダンサーは明るく笑いながら「ないわ」と言って平然と踊り続ける。
監督が、「降りろ」と命じるが、女性が無視していると、監督は激怒したように「出ていけ!」と怒鳴る。
すると、女性の表情が急変し、泣き出して崩れ落ち、近くの女性がかばった。
私は、それを見て、いろいろ想像したのだ。
きっと、この女性ダンサーは、こういった場面を何度も経験してきたのだ。
そして、ひょっとしたら、彼女は、クラシックバレエもやりたかったのかもしれないが、育った家庭の経済的な事情などで、それが出来なかったのかもしれない。
これらは勝手な想像ではあるが、そんなツキのなさを思うと、私も非常に無念になる。
この女性も、ジャスミンのようにストリップ・ダンサーで生きるしかなくなるかもしれないという想像も起こった。
日本の映画『さびしんぼう』(1985)で、高校生の百合子は、ピアニストを夢見ていたが、家にピアノがなく、放課後、音楽室のピアノで練習するしかなく、それだけではピアニストにはなれないことを自覚しながらも、諦めずに熱心に練習していた。
だが、百合子の家庭に問題が起こり、百合子は学校に来なく(来れなく)なる。
美しい彼女に好意を寄せるヒロユキが訪ねていくと、おかしな着物を着た百合子は、魚屋で魚を買おうとしていたが、一匹買うお金がなく、半分売ってくれないかと魚屋の奥さんに頼んでいた。
百合子は明るくヒロユキに対応したが、家には来ないで言う。「恥ずかしいから」と。
別れ際、百合子は。「私のもう1つの顔を見ないで」と言う。
彼女の悲惨な状況が推測された。
持てる者は、決して、富の再分配を望まない・・・つまり、持っているものを手放さない。
世界の富の90パーセント以上を2パーセントの者が握っている。
こんな状況が変わらない限り、進歩した宇宙人は地球人類を仲間として迎えることはないのではと思う。
つまり、宇宙人となかなか出会えないのは、こんなことが原因であると考えられる。
持たざる者は、呪文の力を試し、争いなく、富の再配分、平等性が実現出来ればと思う。