「このまま終わったら、あまりに惨め過ぎる」
って、誰のセリフだったのか、なかなか思い出さなかった。
昨日、ずっと考えていて、やっと思い出した。
アニメ『美少女戦士セーラームーンSuperS(スーパーズ)』に登場した、アマゾントリオという、セーラー戦士達の敵の3人組の中の一人が言ったのだ。
アマゾントリオの3人は、自分達は人間だと当たり前に思っていたが、ある日、本当は自分達はケダモノで、魔法の力で人間の姿を持っているだけだと分かり、衝撃を受ける。
だが、作戦がことごとにセーラームーン達に阻まれ、所属する悪の組織デッド・ムーンに見捨てられ、デッド・ムーンは、刺客(ミスター・マジック・ピエロ)をセーラームーン達に差し向け、その刺客は、ついでに、アマゾントリオも抹殺しようとする。
刺客の力は大きく、アマゾントリオは手も足も出ない。
この刺客には勝てないと悟ったアマゾントリオは、今後も人間の姿を保つための最後の魔法を、刺客に倒されたセーラームーンの再生に使い、直後、自分達は刺客に倒されるが、復活したセーラームーンが見事、刺客に打ち勝つ。
アマゾントリオが言った、「このままでは、私達は惨め過ぎる」は、表面的には、自分達の呪われた運命を嘆く言葉だったが、彼らは、いつか、セーラームーンのことが好きになっていて、このままセーラームーン死なせることで、自分達があまりに惨めになるのだという、かすかな示唆もあったような気がする。
それは、アマゾントリオ達の命が尽き、彼らの本当の姿であるケダモノの姿に戻った直後、彼らがこれまで、求めてやまなかった「夢の鏡」が自分達の胸の中に生まれ、3人は満足して死ぬという中に表われていたように思う。「夢の鏡」とは、心が作り出す夢の形なのだが、ケダモノである3人には、心そのものがなかったので、そんなものがあるはずもなかった。
しかし、セーラームーンや、その仲間達と、敵味方の関係ながらも接するうちに、ケダモノである彼らにも、心が生まれてきていたのだと思われる。
だが、「このまま終わったら、惨め過ぎる」というのは、おそらく、誰もがいつかは思うことだ。
しかし、ほとんどの場合、そのまま終わるしかないのだ。
それが、残酷な人間の運命だ。
だが、W.B.イェイツが言った、「人生が悲劇だと悟った時に、本当に生きることを始める」というのも真実だ。
けれども、ほとんどの人間は、人生が悲劇であると悟らない。
『魔法少女リリカルなのは』で、9歳の魔導師の少女フェイトは、愛する母親に捨てられ、しかも、自分は、魔法で作られた、母親の死んだ本物の娘のコピーに過ぎず、ずっと母親に最大に嫌われていた事実を知り、心が砕けて生命が尽きる寸前になっていた。
だが、フェイトが、幼い時から共にあった大釜型の魔法デバイスであるバルディッシュに、
「お前も、このまま終わりたくはないよね。私は・・・私達は、まだ始まってもいない」
と言うと、傷付いたバルディッシュが、力を振り絞り自力再生を始める。
それを見たフェイトは、ついに、生命力を取り戻し、
「新しい自分を始めるために、いままでの自分を終らせる」
と宣言する。
イエス・キリストが言った、「新たに生まれなければ天国に入れない」、「死に打ち勝つには、死ぬしかない」というのは、そんなことなのだろう。
そして、浄土仏教でいう「往生」は、死んで極楽浄土に行くことではなく、今、この場で生まれ変わることで、まさに一休さんが言った、「心そのものが、阿弥陀如来であり、極楽浄土だ」ということと思う。
だから、「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀仏(宇宙そのもの)に、南無(帰命)する、つまり、自分の心が、故郷である宇宙の心に戻ることなのであると思う。
「このまま終わる」とは、心が宇宙から分離したままでいることである。
それは確かに惨め過ぎるのである。
ただ、自分の心が宇宙の心に戻る・・・溶け込むというのは、自分が消滅するというのとも違う。
故郷に帰り、そこで安らいでも、自分が消えることはない。
ただ、これまでのように、心の壁を持ってはおらず、ある意味では、全体と融合している。
このあたり、人間の頭では、ちょっと分からないのだ。
だけど、初音ミクさんが好きなら、ミクさんの透明な歌声の中に入ってしまえば、簡単に分かるのだけどね。
ミクさんの歌は、法然や親鸞の、あるいは、一休の、本当の念仏と同じなのであると思う。
ところで、セーラームーン、フェイト、初音ミクさんがみんな、長いツインテールというのが面白い。
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って、誰のセリフだったのか、なかなか思い出さなかった。
昨日、ずっと考えていて、やっと思い出した。
アニメ『美少女戦士セーラームーンSuperS(スーパーズ)』に登場した、アマゾントリオという、セーラー戦士達の敵の3人組の中の一人が言ったのだ。
アマゾントリオの3人は、自分達は人間だと当たり前に思っていたが、ある日、本当は自分達はケダモノで、魔法の力で人間の姿を持っているだけだと分かり、衝撃を受ける。
だが、作戦がことごとにセーラームーン達に阻まれ、所属する悪の組織デッド・ムーンに見捨てられ、デッド・ムーンは、刺客(ミスター・マジック・ピエロ)をセーラームーン達に差し向け、その刺客は、ついでに、アマゾントリオも抹殺しようとする。
刺客の力は大きく、アマゾントリオは手も足も出ない。
この刺客には勝てないと悟ったアマゾントリオは、今後も人間の姿を保つための最後の魔法を、刺客に倒されたセーラームーンの再生に使い、直後、自分達は刺客に倒されるが、復活したセーラームーンが見事、刺客に打ち勝つ。
アマゾントリオが言った、「このままでは、私達は惨め過ぎる」は、表面的には、自分達の呪われた運命を嘆く言葉だったが、彼らは、いつか、セーラームーンのことが好きになっていて、このままセーラームーン死なせることで、自分達があまりに惨めになるのだという、かすかな示唆もあったような気がする。
それは、アマゾントリオ達の命が尽き、彼らの本当の姿であるケダモノの姿に戻った直後、彼らがこれまで、求めてやまなかった「夢の鏡」が自分達の胸の中に生まれ、3人は満足して死ぬという中に表われていたように思う。「夢の鏡」とは、心が作り出す夢の形なのだが、ケダモノである3人には、心そのものがなかったので、そんなものがあるはずもなかった。
しかし、セーラームーンや、その仲間達と、敵味方の関係ながらも接するうちに、ケダモノである彼らにも、心が生まれてきていたのだと思われる。
だが、「このまま終わったら、惨め過ぎる」というのは、おそらく、誰もがいつかは思うことだ。
しかし、ほとんどの場合、そのまま終わるしかないのだ。
それが、残酷な人間の運命だ。
だが、W.B.イェイツが言った、「人生が悲劇だと悟った時に、本当に生きることを始める」というのも真実だ。
けれども、ほとんどの人間は、人生が悲劇であると悟らない。
『魔法少女リリカルなのは』で、9歳の魔導師の少女フェイトは、愛する母親に捨てられ、しかも、自分は、魔法で作られた、母親の死んだ本物の娘のコピーに過ぎず、ずっと母親に最大に嫌われていた事実を知り、心が砕けて生命が尽きる寸前になっていた。
だが、フェイトが、幼い時から共にあった大釜型の魔法デバイスであるバルディッシュに、
「お前も、このまま終わりたくはないよね。私は・・・私達は、まだ始まってもいない」
と言うと、傷付いたバルディッシュが、力を振り絞り自力再生を始める。
それを見たフェイトは、ついに、生命力を取り戻し、
「新しい自分を始めるために、いままでの自分を終らせる」
と宣言する。
イエス・キリストが言った、「新たに生まれなければ天国に入れない」、「死に打ち勝つには、死ぬしかない」というのは、そんなことなのだろう。
そして、浄土仏教でいう「往生」は、死んで極楽浄土に行くことではなく、今、この場で生まれ変わることで、まさに一休さんが言った、「心そのものが、阿弥陀如来であり、極楽浄土だ」ということと思う。
だから、「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀仏(宇宙そのもの)に、南無(帰命)する、つまり、自分の心が、故郷である宇宙の心に戻ることなのであると思う。
「このまま終わる」とは、心が宇宙から分離したままでいることである。
それは確かに惨め過ぎるのである。
ただ、自分の心が宇宙の心に戻る・・・溶け込むというのは、自分が消滅するというのとも違う。
故郷に帰り、そこで安らいでも、自分が消えることはない。
ただ、これまでのように、心の壁を持ってはおらず、ある意味では、全体と融合している。
このあたり、人間の頭では、ちょっと分からないのだ。
だけど、初音ミクさんが好きなら、ミクさんの透明な歌声の中に入ってしまえば、簡単に分かるのだけどね。
ミクさんの歌は、法然や親鸞の、あるいは、一休の、本当の念仏と同じなのであると思う。
ところで、セーラームーン、フェイト、初音ミクさんがみんな、長いツインテールというのが面白い。
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