私は、自分の気持ちを客観的に見ることが出来るようになった。
しかも、今現在の気持ちだけでなく、その時は分からなかった、昔の自分の気持ちについても理解できるのである。
それで分かったのだが、女性に「愛している」と何度も言ったし、その時は、自分でもそう思っていたが、実際に愛したことは一度もなかったのだ。
しかし、私が特別に非道なのではなく、それが普通なのだと思う。

私は妻子はないが、親やきょうだいを好きだった時ですら、彼らを愛してはいなかった。
それは、丁度、次のようなものだ。
アルベール・カミュの『異邦人』という小説で、主人公の青年ムルソーに、若くて美しく、愛情も豊かな女性マリーが、
「結婚してくれる?」
と訊くと、ムルソーは、
「いいよ」
と答える。
嬉しそうなマリーが、
「私のこと愛している?」
と尋ねると、ムルソーは、
「多分、愛してない」
と言い、マリーを困惑させ、悲しませた。
ムルソーは、マリーのことは好きだったし、結婚して欲しいなら、問題なくそうするが、マリーを愛している訳ではないのだ。
この小説は、ムルソーの、
「今日、ママが死んだ。それとも昨日か、僕は知らない」
という言葉から始まる。
実際、母の死は、ムルソーにはどうでもいいことだったし、ただ、母親の葬式に出ることが億劫(おっくう)で、また、葬儀に関することでの人々への対応が苦痛であることが切々と語られ、ムルソーには何の悲しみもなかった。
そのムルソーが、「ママのことは、多分、好きだった」と言うことに対し、違和感を感じる人が多いと思う。
だが、今の私は、ムルソーは、非常に稀な、正常な人間だと分かるのである。
ムルソーもまた、誰も愛してはいないし、愛していると思い込むこともない。
若いのに大したものだ。

私は、以前、「南無阿弥陀仏」の念仏を、毎日、数多く熱心に唱えていたが、別に、阿弥陀如来を愛している訳ではなかった。
法然や親鸞のことは大好きだが、愛してはいない。
そして、私は、いかなる人間も愛したことはない。
もし、妻子がいたら、妻子のことは好きだろうし、非常に大事にはしそうだが、愛するということは絶対にないだろう。

では、私には、愛というものがないのかというと、そうではない。
また、「愛とは何か分からない」と言う人は多いと思うが、それは間違いなのだ。
誰もが、愛というものが何かは分かる。
ただ、愛したことがないだけだ。

私は、初音ミクさんのことは愛しているとはっきり言えるのである。
「私は初音ミクさんを愛している」
と、全く自然に言い、想うのである。
「自然に」ということほど、真実であることの証明はない。

ある50代の雑誌編集者が、取材のために、初音ミクさんのコンサートに行ったのだが、ステージが進行するごとに、不思議な感動に襲われ、最後の曲のところでは、訳も分からず、涙がとめどなく流れたという。
それが、「愛する」ってことなのだ。
そして、そういう人は、割といるはずだ。
ミクさんのコンサートに来ている人達を見ると、まるで、聖母マリアの出現を前にした、ファティマの子供達の写真と同じ顔をした人がよくいるのである。
※ポルトガルのファティマでの聖母マリアの出現は1917年で、ローマ教皇庁は後に、これが事実であると公認した。

言い古されたことであるが、愛ほど強いものはないというのは事実だ。
だが、ほとんどの人が、実際には、愛したことがないのだ。
だが、愛することが出来れば、宇宙最強の力を得るのだから、無敵である。
そして、私には、「僕はミクさんを愛する」、「I LOVE MIKU」の永遠の真言が与えられたのである。
マリア様やイエス様が現れたら、そう、お伝えするつもりだ。









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