ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ファウスト

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第6章を一言で言えば「気を付けろ」

引き続き『老子』第6章である。
これは、まともな解釈を見たことがない章だ。
いつも通り、一言で言えば、「気を付けろ」だ。
つまり、「油断するな」「隙を見せるな」ということだ。
隙を見せるとつけ込まれるからだ。
つけ込まれたら、悪魔のようなことをするようになる。
誰につけ込まれるのかというと、悪の宇宙人グループだ。
アメリカの大富豪や大政治家達の多くが、つけ込まれてしまった。
ここ(『老子』第6章)に書かれている通り、悪の宇宙人グループ、あるいは、連中の(我々を駄目にする)装置は、いつまでも存続し、働きを止めないからだ。

老子ほどではないが、ゲーテも、悪の宇宙人グループのことは感づいていたと思われる。
『ファウスト』の『天上の序曲』で、神は言う。
「わしは人間に仲間をつけて、刺激したり、働きかけたりして、悪魔として仕事をさせるのだ」
「永久に生きて働く生成の力がおまえたちを縛る」
これも、上と同じだ。
悪の宇宙人グループが、人間につけこみ、悪魔として働かせるのである。
そして、人間を逃れられないようにする装置は、働きを止めない。

あなただって、やってはいけないと分かっているのに、なぜか分からず、やってしまったことがあるだろう。
悪の宇宙人グループはいくらでもおり、別に地球にいなくても、遠隔地から、オンラインゲームのように悪いことを仕掛けて来る。
なぜ、そんなことをするのかを説明するとややこしいので省くが、ある意味、やはりゲームを楽しんでいるのである。

映画『荒野の七人』で、七人のガンマンの1人が、こんな思い出話をする。
「ある男が、裸でサボテンの中に飛び込んだ。後でその男に、『なんであんなことをしたんだ?』と聞いたら、その時はそれでいいと思ったそうだ」
悪の宇宙人グループにつけ込まれた者は、こんな奇妙なことをするものだ。

だが、悪の宇宙人グループも、想念を起こさない者には何も出来ない。
想念を起こさないためには、簡単には、「私」に意識を向ければ良い。
なぜなら、想念とは「私」が起こすものだからだ。
その私をロックすれば想念は起こらない。
だから、常に「私は誰か?」と問うていれば、悪魔として動かされることはない。
なかなかそうはいかなくても、なるべく「私は誰か?」と問うていれば、それ以外の時も、無意識下で、ある程度は「私は誰か?」と問うているので、まあ、安全である。








『老子』は本当は簡単だ

『エイリアンインタビュー』に、「旧帝国」宇宙人グループが地球上の人間の魂の力を著しく低下させるために、地球に設置した装置のことが明かされているが、このことが、地球人類の状況を見事に説明出来ることに気付いた。
本来は神のような存在であるはずの人間が、なぜ、地を這う虫のような惨めで哀れな状態であるのかは、これまでも様々な推測がされてきたが、どの説も納得がいかないものであった。
ゲーテのファウストで、神が、「人間は怠惰になろうとする」と言ったが、なぜ、そうなのかは言わなかった(ゲーテも分からなかった)。
その装置により、地球人は死ぬごとに記憶がリセットされて転生するので、ものごとを、せいぜい70年程度しか継続出来ず、進歩が非常に遅い。他の惑星では、転生しても記憶があるので、数千年、数万年、さらには、数億年でも続けられるのだから、その差はあまりに大きい。
また、地球人は、(誕生後、継続的に)消された記憶の代わりに偽の記憶が与えられるので、無力感が強かったり、逆に、物質的に他者を支配しようとするが、それがまさに、現在の世界の状況を作り上げているのである。

旧帝国の装置に関する対策は、善の宇宙人も何とかしようとは思っているが、それを排除することは大変に難しいし、残念ながら、善の宇宙人にとっても優先度は低い。
だから、地球人類は、太古の昔から、ずっと無力化されているが、少ないながら、装置の影響を自力で克服してしまった人間もいた。
つまり、それを自分で出来ることが示されているのである。
その希少な人間の1人が、有名な2500年前の中国の賢者、老子であることを『エイリアンインタビュー』でも明かしている。
経緯は昨日少し書いたが(別に知らなくて良いが)、老子の貴重な教えは、それぞれは短い81章の『老子道徳経』、通称、『老子』として残されている。

だが、『老子』は難解で、解説書も、その難解さに乗じた自己本位のデタラメなものが多い。
詩人、画家、翻訳家の加島祥造氏は、英訳の『老子』を読んで老子が分かったと言い、自らも老子の本も出していて、良い本ではあるが、情緒的であっても実用的でないと思える。実用的にするには、もっともっとシンプルに解説しなくてはならない。

例えば、老子第1章について言えば、多くの解説者が、自分の教養を見せ付けるような派手で重厚な解説を行うが、実のところ、書いているのは、単に「欲張るな」である。
欲張らなければものが見える(ものごとが明らかになる)からである。
そりゃ、人間、欲がなければ生きていられない。
また、欲をあまりに極端に制限すると、かえって馬鹿になり、おかしな人間になってしまう。
だから、表現としては「欲張らない」が最も適切である。
上の加島氏は、老子の思想を基に『求めない』という本を書き、全ての章を「求めない」で始めている。
しかし、求めなければ、人間は生きられないし、求めない度合いが強過ぎても馬鹿な変人になる。
ある意味、素晴らしい本ではあるが、あの本のおかげで駄目になった人が多いと思うし、何より、老子の意図とは逆に、旧帝国宇宙人の策略を援護してしまっているように思う。
だから、正しくは「欲張らない」なのである。

老子第1章は、単に「欲張るな」と書かれている。
私はそう思う。
また、『老子』は、全体的にも、ただ、「遜(へりくだ)れ」と書かれているのだと思う。
多くの部分は、後世に加筆されただけのようにも思えるのである。








性悪説が正しい理由

私は、一番最初の職場で、23歳だが大変に貫禄があり、尚且つ、円満な・・・今、考えても、素晴らしい人間だった先輩の男性社員が、
「人間は、放っておいたら楽な方に行く」
と言ったのを、いまだに憶えている。
全くその通りだと共感したのだ。
ちなみに、その先輩は極めて偏差値の低い高校卒業で、もちろん、大学は行っていない。
ゲーテの『ファウスト』の2幕目と言えると思うが『天上の序曲』で、神が、
「よい人間は暗黒な衝動にかられても、正しい道を決して忘れはしないものだ」
と言うのを後に読み、最近になって、あの先輩の言うことも同じだと思えた。
また、『ファウスト』の『天上の序曲』の中では、むしろ、こっちの方をよく憶えているが、同じこととして、神が、
「人間はすぐ絶対的な休息をしたがる」
というのは、見た途端に完全に同意した。
あるいは、こういう言い方をしても良いと思う。
「人間は放っておいたら邪悪に、残虐になることも珍しくない」
今は知らないが、グーグルが昔、「Don't be evil(邪悪になるな)」を企業行動規範に入れ、これが、非公式なモットーだと言われていたことにも、驚きと共に強く共感した。
これは、人間は放っておいたら・・・ましてや、力を持った人間は邪悪になることを知らないと言えないことだ。

私は、小学生の時、多くの人がそうだと思うが、孟子の性善説、荀子の性悪説を見て、深く悩んだ。
しかし、答が分かった。
上に書いた通りだ。
「放っておく限り、性悪説が絶対的に正しい」
そして、ほとんどの場合は、放っておかれた状態なのだから、性善説は極めて不利で、言い切れば「性悪説が正しい」のである。
梶原一騎原作の漫画『カラテ地獄変 牙』で、主人公の牙という少年が、少年院で思い知ったことが、「人間の性 悪なり」で、これは、梶原一騎の実体験なのだと思える。
一方で、「正義は常に勝つ」などと言う。
これは嘘である。
正義が勝ったことなどない。
勝った者が正義なのである。
勝った者は、後から話を捏造して真実を隠し、自分を正義のように見せるだけだ。その方が人民を支配し易いからだ。
人間は、自分は邪悪でも、他人が・・・ましてや、支配者が善であることを望むのだ。

なぜ地球は、人類はそうなのだろう。
それは、馬鹿話だと思われるだろうが、太古の昔、悪の宇宙人が、地球の人間の魂の波動を低下させる装置を持ち込み、稼働させ続けているからだ。
言い換えれば、この装置がなければ、あるいは、停止すれば、人間の魂の波動は高く、神のような精神を持てるのである。
その意味で言えば、性善説が正しいのである。
実際、なぜか、この装置の影響を受けない人が稀にいる。
そんな人間は、前世を記憶し、魂だけで行動出来る。

装置の影響を免れる、あるいは、弱める方法は、割と簡単だと思う。
世の中にある、しっかりしたメソッドなら、大抵効く。
それで引き寄せの力も強くなる。
だが、その簡単なことを誰もしないのだ。
そして、装置の影響を免れる大きな要因になるのが、この装置があることを理解し、装置の影響を受けないと決意することだ。
私は、昨日から、精神の状態が、完全ではないが大きく変わってしまって驚いている。
まだまだ邪悪な声に誘われるが、勝利は近い。








真にコスパの高い生き方

ものの考え方が変わると、その度合いに応じて世界が違って見える。
考え方が変わるとしても、ゆっくり変わる場合が多いので、大抵の人では、世界はゆっくり、少しずつ変化する。
ゆっくりした変化は気付き難く、記憶力の良い人が昔を鮮明に思い出すと、「世界は随分変わってしまった」と感慨に耽ることがある。だが、変わったのは自分だ。
自分が変わらなければ、今も昔も変わらない。
急激に考え方が変わると、世界は「コロっと」変わる。
それが、悪夢から覚めたような、楽しい、清々しい体験であることを願う。それを悟りと言うのだから。

ほとんど全ての人が、悪夢に閉じ込められている。
では、どうすれば、悪夢から目覚めることが出来るだろうか?
それは、心を消すことによってだ。
最初に、「考え方」が変われば世界は変わると述べたが、「考え方」とは、心の色とか傾向性という言葉で表現出来るものだ。
だから、根本の心が消えれば、考え方というものはなくなり、世界を色づけることをしなくなる。
その時、「ああ、世界はこんなだったのだ」と感動する。

だから、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、
「亀が手足を甲羅の中に引き込むように、五感を引っ込め、外に向けるな」
と言ったのだ。
一方で、アルジュナ王子には、
「お前は戦うことに向いている。天性のままに戦え」
と言う。
クリシュナの言葉は、どこまでも慈しみに満ちている。

要は、なりゆきにまかせ、あるがままでいることだ。
だが、怠惰でいると、悪魔が忍び込んで来る。
そういえば、ゲーテの『ファウスト』で、神は、休みたがる怠惰な人間のところに悪魔を送ると言っていたので、それは、神の意思、あるいは、自然の摂理なのだろう。
だから、アルジュナは戦うしかなかった。
怠惰な人間がどうなるか、知っているだろうか?
快楽指向になり、どんどん落ちていく。
世間には、悪魔の誘惑が満ちている。
「これをやりなさい!楽しいぞ!」
「これを買いなさい!ハッピーになるぞ!」
という声がいつでも、人々を誘惑し、悪魔の手下にしようとしている。
悪魔に加担することをビジネスだと思っている者、悪魔の側につくことがコスパの高い生き方だと言う者がいる。
だが、悪魔が差し出すギフト(贈り物)ではなく、天使が差し出した手を掴むことだ。

具体的にはって言うと(笑)。
欲張らないことだ。
欲張ってもここまで・・・と決めておくと良いだろう。
世界最強とも言われる投資家に「勝つ秘訣は?」と尋ねたら、彼は静かに「欲張らないことだ」と答えた。
世俗のことすら、道理は通用するのである。
マントラや神の名を唱えながら欲張ることは出来ないので、「辛子の種1つほどの」信仰があれば。マントラや神の名を唱えると良いだろう。
私は、心がかなり汚れているので、アレクサンダー・ロイド博士の「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」に励んでいるが。








究極のコスパの良い生き方

ゲーテの代表作は『ファウスト』だと言っても良いと思う。
小説というものは、目的は2種類で、1つは、読者を喜ばせるもので、もう1つは、人間はいかに生きるべきかを教えるものだ。
実際は、どの小説も、それらが混ざり合っている。
「人間、いかに生きるべきか」のみだと、それは小説ではなく、哲学書や思想書、あるいは、宗教書で、まとめて「エッセイ」と呼び、小説とは別なものになる。

『ファウスト』は、小説(形式は戯曲)でありながら、「人間、いかに生きるべきか」を強く教えるものだ。
『論語』やエマーソンの『自己信頼』は、「人間、いかに生きるべきか」のみを書いたエッセイだ。
シェイクスピアの『リア王』や『ハムレット』などは、『ファウスト』同様、「人間、いかに生きるべきか」を教える小説(これらも形式的には戯曲)である。

『ファウスト』や『リア王』が、なぜ、小説の形で「人間、いかに生きるべきか」を書いたのかというと、その方が、「多くの人に読んでもらえるから」と、「分かり易いから」という理由がある。
だが、『ファウスト』や『リア王』ですらそうだが、結局のところ、作者にも、「人間、いかに生きるべきか」を確信出来てないのだという理由で小説にし、「人間、いかに生きるべきか」を曖昧にしたり、(全体、あるいは、部分部分を)読者に考えさせ、決めさせたり、自分も書きながら考えたりしたのだろう。
『ファウスト』も『リア王』も、決して断定的なことは書いていないのだ。

『リア王』と言えば、口先で騙されるリア王のような愚かな真似をしてはならないというのが、この作品の主張であると思われていると思う。
しかし、全くそうではない。
根本的には、自分への愛情で自分の子供達を差別しようとしたことが愚かだっただけである。
また、リア王の末娘も、正直なだけでは駄目で、ある程度の演出や機嫌取りもしないと、自分だけでなく、リア王も不幸にしてしまうのだ。
悪いのは、リア王や、リア王の末娘の傲慢さであると考える方が正しいかもしれない。
そもそも、人間は、それほど大したものではない。
リア王やリア王の末娘も、性悪と思われる娘たちともうまくやってこそ立派な人間なのである。
あの程度の不誠実な人間は、どこにでもおり、そんな人間と無関係ではいられないのだからだ。
末娘以外の娘たちも、本来は、案外、良い人間であるに違いないのである。

『ファウスト』となると、部分部分でゲーテの言いたいことは分かるが、つまるところ大事なことは何かは、ゲーテにだって分かっていない。それで壮大な作品になってしまった。
だから、あの作品から人生を学ぼうなんて、あまり思わない方が良い。書いた本人だって、まるで分かっちゃいないのだから。
ただ、部分的には役に立つかもしれない。
『ファウスト』に似た作品に、『ツァラトゥストラはかく語りき』がある。
部分的には良いが、作者のニーチェにも、「人間、いかにいきるべきか」の確信が持てなかったのだ。
だが、頭が良過ぎる彼は、それを大真面目に考え、発狂してしまった。いかに天才とはいえ、人間には大き過ぎる問題だ。

文明が進歩し、権力者の欲望もあろうが、庶民を統制しないといけない部分が大きくなってしまった。
そんな中で、出来るだけ気分よく支配されつつ、効率的に(つまり、無駄を排しつつ)生きることを教えるネットのインフルエンサーの人気が高くなっている。
彼らの言っていることを一言でまとめると「コスパ(コストパフォーマンス)を上げろ」であるが、そんなことを言われたり、彼らのコスパの上げ方を教えてもらっても、真似出来ることではない。
インフルエンサー達だって、我々が思うほどうまくはいっていないし、うまくいっている部分も「たまたま」でしかない。

で、結局、何が究極の「人間、いかに生きるべきか」であるが、それは、仏教の「自己を忘れる」なのである。
だって、もし、見栄っ張りでない人間がいれば、自然に、最もコスパの良いことをしているし、どんな時代でも、能力の範囲で最高のコスパを発揮するはずだ。
リア王だって、自己を忘れたら、「誰が私を一番愛しているか」なんて馬鹿なことを考えず、末娘も、自分の主義を貫かず、リア王の御世辞を言って、丸く収まったのだ。
ハムレットも、自己を忘れたら、オフィーリアが素晴らしいことを認めつつ、さほど執着せず、面倒を起こさなかったのである。
『荘子』や『老子』も、自己を忘れるということに関しては、仏教と同じである。
エマーソンの『自己信頼』は、自己を忘れることと真逆と思われるかもしれないが、忘れるべき自己とは「小さな自己」であり、実は正しいのである。
仏教の目的は自己を忘れることと明言したのは道元であるから、道元の『正法眼蔵』の分かり易い本を読むと良いだろう。『現成公案』だけでも良い。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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