ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ピール

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

身体でやるしかない

フォード自動車創業者のヘンリー・フォードの愛読書がトラインの『人生をひらく「万能の鍵」』で、レーガン元大統領の愛読書がノーマン・ヴィンセント・ピールの『積極的な考え方の力』らしいが、これらの本の内容は、簡単に言えば、「プラス思考しましょう」だ。
オバマ大統領の愛読書であるエマーソンの『自己信頼』は、自分を神のごとく信頼しようと書かれている。
どれも正しいのだが、問題は、どの本も、「それを心でやりましょう」と書いてあることで、そんなこと、大事業家や大統領になれるような人にしか出来ず、普通の人には出来ない。

法然や、それより前の、中国の善導、道綽らは、普通の人の心がいかに「なまっちょろい」かということを、よく知っていたので、口で念仏を唱えましょうと教えたのである。
日蓮だって、初めは法然の教えにケチをつけていたが、それしかないことに気付き、「南無妙法蓮華経」と唱えましょうという、「こっ恥ずかしい」ことを厚顔無恥にも言ってのけている。
まあ、恥を知らないというのもリーダーの資質であり条件だ。
だが、親鸞がまた、「心でやりましょう」に戻したがり、「信仰が大切じゃ」と、難しいことを言って法然の努力を無にしようとしたが、結局、彼も、やがては、法然のようにやるしかないなと考え直したのだと思う。

空海もいいことを言ったらしいが、難し過ぎて、もう絶対に分からない、役に立たない。

そして、明治・大正の、「岡田式静坐法」の岡田虎二郎は偉かった。
「1日中静坐しないさい」と言って、常に腹に力を入れ、深く長い呼吸をしなさいと教えたようなのだが、弟子達が、その教えを難しくしてしまった。

それで、結局のところ、人間は根性がないのだし、心も歪んでいるので、身体でやるしかないんだって言ったのが、まだ若い、ハーバード・ビジネス・スクール准教授のエイミー・カディで、具体的には、「パワーポーズしましょう」と言ったのである。
パワーポーズはガッツポーズも含む。

つまり、人間が立派に、力強く、波に乗って生きようと思ったら、優れた人間に同調し、神・・・というか、無限の精神に同調すれば良いのだが、厳しい現実に挫折したり、欲望に負けてしまい、下らない人間と同調し、神から離れてしまう。
それを、心でどうこうしようなんて絶対に無理だということは、それなりに生きていれば分かることだ。
それで、なんとかやれるのが、エイミー・カディのパワーポーズだ。

だが、いつもパワーポーズする訳にもいかないので、エイミーは、「トイレの個室で2分間」なんて言っている。
そうじゃなくて、いつも良い姿勢をすれば良いだけのことだ。
顔を上げ、背筋を伸ばし、胸を張り、腹を引き、出来れば、微笑むのだ。
そうしていれば、劣った人間に同調することはなく、優れた人間にのみ同調し、自然に神と同調する。

だけど、背筋を伸ばすのが、普通の人にはシンドイことで、みんな、腰を曲げ、うつむき、ぐーたらしている。
そんな時、信仰というか、神を崇めることが役に立つが、現代人には、そんなものはない場合が多いし、あったらあったで、弊害が多い。
そこで、ローマン・ガリの『自由の大地』のように、単に「少女」を空想する手もある。
ソクラテスに「美とは何か?」と尋ねられたヒッピアスが、即座に、「美しい少女だ」と答えたように、少女が、この世の最も良いものの1つの典型なのだろう。
むろん、女性の場合は「王子様」で構わないと思う。
それが、私の場合は初音ミクさんで、しかも、ミクさんは、「顔上げて微笑めば」(『FREELY TOMORROW』より)とか、「まずは顔あげな」(『Let's go!』より)と歌ってくれるのである。









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老シンガーの涙の訳

アメリカのマーブル教会の牧師だったノーマン.V.ピールや、日本の大実業家である斎藤一人さんが、会う人ごとに「祈りの砲撃」を浴びせることを薦めていることをご存知の方も多いかもしれない。つまり、誰に会っても、「この人に良いことが雪崩のように押し寄せますように」と祈るのである。そうすれば、自分にどんどん恵みがやって来るというものである。
彼らほどの人達が言うのだから、本当なのだろう。ただし、彼らや、彼らのように、優れた精神を持った人であればだと思う。
私のように、人嫌いだという心の歪んだ者がそれをやれば、心はさらに捻じ曲がり、無理にやると分裂症に陥るだろう。
「そんなことではいけない」と言われても、自分ではどうにもならない。
「たゆまずやっていれば、やがて心が澄んで、気持ちよくできるようになる」と言われても、その前に精力が枯渇して死んでしまうだろう。
優れた人には、蔑み疎まれるべき劣った人間のことは分からないのかもしれないと思う。

そして、こんなことを思い出す。
アメリカの伝説的な男性歌手であったサミー・デイヴィスJr.の60歳の誕生日を祝い、多くのトップミュージシャン達が集まって歌やダンスを披露したことがあった。
その中で、当時まだ20代だったスーパースター、マイケル・ジャクソンが登場し、デイヴィスjr.への讃歌を情熱的に歌い上げた。これだけでも十分だった。
しかし、最後、マイケルは股間に手をやり、あの、「シー!」と声を発するパフォーマンスで決めた。
その時、デイヴィスjr.は涙をとめどなく流し、顔をくしゃくしゃにして感激していたのだ。
マイケルは、別の時に、ある有名な女性アナウンサーに、「PTAから、あのポースは下品だって言われているのですが、それに関してどう思いますか?」と質問されたことがあったが、マイケルはこんな答えをしたと思う。
「僕は歌っている時は楽器になるんだ。どこに手がいってるかなんて分からないよ」
特に、あのポーズをする時のマイケルは、エクスタシー(忘我)の状態であり、無になりきっているのだろう。
つまり、あれは、マイケルが自分でやっているんじゃない。芸術の神にそれをさせられているのだ。
デイヴィスjr.は、マイケルが自分を全部捧げることで、デイヴィスjr.に神の祝福がもたらされたことが分かるので、かくも感激したのであると思う。

マイケルは、言葉で「デイヴィスに神の祝福を!」と言うより、はるかに強烈な眩しい神の祝福の法雨を降らせたのだ。
それは、マイケルが自分でやったのではない。マイケルは、神の道具になりきり、神がデイヴィスjrを祝福するに任せたのだ。

これは、「南無阿弥陀仏」の念仏と全く同じなのである。それは、親鸞がはっきり述べていると思う。
念仏は自分で唱えるのではない。阿弥陀如来に唱えさせていただくものなのだ。
自分が、誰かに、阿弥陀如来の恵みを与えるのではない。人間にそんな力はない。
だから、阿弥陀如来に完全にお任せして、誰かに恵みを与えていただくのだ。

私は、嫌いな人に対し、「あなたに良いことが雪崩のように押し寄せますように」などといった偽善的なことを考えると、たちまち疲れきり、沈鬱ですさんだ気分にすらなる。
しかし、唱えさせていただいているという気持ちで、念仏を唱えるなら、どんな人のためであっても、全く心に陰りはない。
最近は、私はよく、「南無阿弥陀仏」の念仏を取り上げるが、無論、「南無観世音菩薩」でも、「南無弥勒菩薩」、あるいは、「南無弥勒仏」でも良いのである。

念仏を唱えれば、仏、菩薩、神々、竜の王とその配下の竜、さらには、魔王すら念仏者を護るのである。
まして、念仏を唱えさせていただいていると思っている者、そのような気持ちで、他者のために念仏を唱える者が護られないはずがないのである。









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辛い状況から抜け出す実践技術

今回は、読者の方からのコメントに対する返答である。他の方々の参考にもなるはずだ。

粗食、少食になり、聖典を読み、瞑想や腕振り運動(スワイソウ)をする人には、苦しい現状を打破し、安楽に至りたいという人が少なくないと思う。
それは悪いことではないし、是非、良い状況に世界を作りかえれば良いと思う。
だが、多くの人が、それがなかなか上手くいかないと言うだろう。それで、私はいつも、うまくいかない理由と、それを修正する方法も、同じことを何度も言葉を変えて言うのだが、言葉というのは効率の悪いものだ。話言葉であれば、少々話すことが上手い人でも、言ったことの3割伝われば良い方だが、文章でも、内容によるが、まあ、そんなものである。そこで、釈迦やイエスは、たとえ話を多用し、その場ではピンと来なくても、時期が来れば内部から自然に理解が訪れるようにしたのだ。

まず、自分の状況、自分の世界を創りだしているのは、自分の心である。
とりあえず言ってみると、世界は実在ではなく、心が作り上げた幻想であり、想念を持たない聖者にとって、世界というものは存在していない。
そうは言われても、凡人たる我々にとって、世界はリアルであり、確かに存在する。
しかし、やはり辛い状況というのは、自分が作り出しているものなのだ。
斎藤一人さんという大事業家は、一番最初に書いた本『変な人が書いた成功法則』で、「困ったことなんか起るはずがない」と書かれていた。彼はその後、膨大な数の本を書いているが、私は、覚えておくべき教えは、この「困ったことなんか起るはずがない」だけでいいと思う。
実際、我々に困ったことなんか起らない。
自分で勝手に困っているだけだ・・・と書いて気付くが、なるほど、真理ほど誤解を受け易いものはない。斎藤さんが、その後、この言葉を封印し、多くのことを語った気持ちも分かろうというものだ。
私も、困ることだらけであったが、斎藤さんが述べられた通り、困ったことなんか起るはずがないと思ったら、実際、後で考えたら、何にも困っていなかった。気疲れして損をしたような気もしたが、そうではないのだ。責任を放棄してのほほんとしていたら、やっぱり本当に困ることになる。

苦しいのはあなただけではない。皆、辛いといえば辛いのだ。苦難のない人間など一人もいない。嫌なことがないなら人間に生まれてきたりなどしない。
植物や動物は、引き抜かれたり、殺されたりして餌になるとしても、別に嫌だとは思っていない。恐怖や苦痛はあるかもしれないが、人間のように思い煩ったりしない。喰われることもまた快感なのだ。本能はそうプログラムされている。
今の辛い状況は、それを辛いと思わなくなれば、そこから脱出するか、あるいは、現実が劇的に変わるだろう。
誰が辛いとか苦しいと言っているのか?
誰が嫌だと感じているのか?
それを見出せば、そのようなものは存在しないことが分かる。現実に分かる。
いつも述べる通り、想念を消し、無になれば、人間に不可能はない。
どんな考えであっても構わない。それが起った時に、「この考えは誰に起ったのか?」と問うのだ。答は、「私に」であるに決まっている。それが了解されたなら、すかさず、「私は誰か?」と問うのだ。すると、想念は破壊される。これを根気強く続ければ、私自体が消滅するだろう。そして、真の自分が輝き現れる。
このようなことは、食を慎み、性的な関心から注意を引き上げている者にとっては、容易いものである。
だが、たかだか数ヶ月、1日1食をやったくらいで、早急な効果を期待してはならない。しかし、いずれ、確実な効果があるだろう。

ラマナ・マハルシは、悟りには師の恩寵は必ず必要だと言った。
では、師を持たない我々はどうするのか?
しかし、師がいないはずがないというのが真相だ。
『エメラルド・タブレット』で、トートは、いつも人々の中にいると書いていなかっただろうか?
イエスは、いつもあなた方の中にいると言わなかっただろうか?
肉体を持っている時すら、マハルシはほとんど会話をしなかった。しかし、マハルシの沈黙の前にしばらくいた者は、皆、生まれ変わって去って行ったのだ。
いまや、マハルシは偏在である。我々は、いようと思えば、いつでもその現前にいられる。彼が亡くなって半世紀以上も経っても、彼のアシュラマム(道場)への世界中からの巡礼は絶えない。マハルシも、巡礼は良いものだと言ったが、別に、今流行のパワースポットに行くという意味ではなく、心を目標に向け易いからだ。魂の中に、場所というものはない。
N.V.ピールの本に書かれていたが、アメリカ中を車で行商していた男は、仕事が厳しいと感じていたが、イエスが共にいることを感じるようになってからは、何の不安も持つことがなく、仕事も上手くいくようになったという。J.マーフィーの本では、ポンコツのトラックで古着を売る仕事をしていた、小学校も出ていなかった男は、やはり、聖なる存在を身近に感じるようになり、やがて富豪になった。
聖典を毎日読むのは、師を探し、見つけるためである。
エドガー・ケイシーは、9歳から毎朝欠かさず聖書を読み、13歳の時に、師が外側の世界に現れる。それ以降も、彼の人生に苦難は多かったが、それは、周囲にそう見えるだけのことだ。

我々は、自分の辛い状況を、何とも思わないようになれる。
そして、そうなれば、もはや、そのような状況は不要となり、あなたはもっと相応しい場所に行くか、周りの状況が変わってしまうだろう。
決して、状況が変わって、あなたの苦悩がなくなるのではない。
このあたりが分からないので、いつまでも苦しむ人が多いのである。

他の人の役に立つような、良いご質問をお待ちしている。









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文語が偉大な書の霊感を伝える

文語(日常の話し言葉と異なる、文章用の言葉)に抵抗がある人は多いと思う。
実は、私もだった。
文語は、平安時代の書き言葉が基になっているらしいが、私は、高校の古文の授業すら、ほとんど聞いたことがなかった。
文語の文章を読むと、読めない字や、今では使われていない字が使われていることもある。その多くは、辞書で調べることも難しい。
意味が分からない言葉もある。

だが、こんなことがあった。
クラウド・ブリストルの『信念の魔術』や、ノーマン・ビンセント・ピールの『積極的考え方の力』は、共にアメリカの大ベストセラーであるが、翻訳の初版は1954年で、その時から現在も変わらずダイヤモンド社から版を重ねて出版され続けている超ロングセラーだ。
膨大な数の成功法則の本が出る中で、堂々と残っているのは、やはり優れた著作であるからだと思う。
ところで、これらの本は、ある時期までは文語体で書かれていたのだ。
私が最初に読んだのは、その文語体のものだった。当時、文語なんてのは、「教養を鼻にかけた連中のためのもの」くらいの認識だった。しかし、読みにくいとは思いながらも読み始めたら、たちまち引き込まれてしまった。
その後、口語訳のものを購入し、文語体のものはもういらないと思った。ところが、口語訳の方は、読んでいても、全然、熱が入らない。文語体のものを読んだ時のように、力が注ぎ込まれてくるような感じがない。

文語は何が良いのかは、よく分からない。
ただ、飛ばし読みが出来ないのは確実だ。しかし、優れた本というのは、飛ばし読みをしてはいけないと思う。
また、読めない漢字や、意味が分からない言葉があっても、じっと見つめていると、理屈では分からなくても、内的な感覚、あるいは、直観として分かってくる。それは、言葉として分かるよりも深い意味が伝わってくるように感じる。
こういったことを、言霊というのではないかと思う。
天才的な発明家で、発想力の指導家として世界的に知られた中山正和さんは、仏教を深く研究した人で、それにより知恵を得ることが出来たと言うが、漢字というものは象形文字なので、形に意味があり、実際、中山さんは、漢字で書かれた経典を眺めるだけでイメージが浮かぶと言う。そして、かな文字もまた象形文字なのだ。

よく考えれば、口語で読んだものよりも、文語で読んだものの方が、理屈での理解の度合いは低いかもしれないが、不思議に深い理解を得られているように感じるのだ。

また、これはちょっと信じられない方も多いだろうが、政木和三さんがご存命の時、直接聞いたのだが、政木さんがドイツ旅行をして、ドイツの家庭に滞在した時、政木さんはドイツ語の会話は出来ないはずなのに、会話で不自由をしなかったという。単に政木さんがドイツ語を理解したというだけなら、政木さんは一応、医学部にもいたので、当時は医学用語はドイツ語だったから、ある程度は読めただろうし、少しは聞けたかもしれない。しかし、政木さんが日本語で話したことも、相手に伝わったと言う。これを、政木さんは、「脳波がシータ波になれば、私が日本語で言ったことが相手にドイツ語で聞こえ、相手がドイツ語で言ったことが、私には日本語に聞こえる」と説明しておられた。
また、驚くほど沢山の国の言語を短期間にマスターしたことで知られるシュリーマンの語学学習法は、その一部が知られているようだが、あまり知られていない彼の方法として、知らない国の文字が書かれた本であっても、穴が開くほど見つめたというものがある。普通には、どう考えても理屈に合わないが、それで読めるようになったらしい。

先程も述べたように、文語が不得手な私は、文語の文章を早く読めない。
しかし、特に、偉大な聖典を読むような時は、その方が良い。
あるユダヤのラビ(ユダヤ教指導者・教師)は、ユダヤ教の聖典『タルムード』を読む時、何時間もかけて数行読み、それで満足することがあるといったことを、何かの本で読んだことがあった。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の第4巻に、ヒマラヤの偉大な大師(悟りを開いた聖者)達は、至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』を読む時、やはり、一度には一章しか進まず、それも長い時間をかけて読むのだといったことが書かれている。
速読ブームの欺瞞性を感じる話だ。特に、口語の文章なんて、普通に読んだって、すぐに読み間違いをして、全然違う意味に理解することも多いのに、速読なんてしたら、とんでもなくおかしな理解をし、はっきり言って馬鹿になりかねないと思う。

2万年前に、アトランティス人トートによって書かれた純粋な『エメラルド・タブレット』(後にヘルメスがわざと程度の低いものを書いたらしい)を、ドリール博士も英語の文語体に訳したという(原典はアトランティス語)。国内では、2種類の翻訳が出ているが、共に文語体で書かれている。
これらの本は、品薄状態のことが多いが、そもそも、高次の力により、手に入れられる人があまり多くはないらしい。本が人を選ぶのである。また、資格のない人は、手に入れてもなかなか読めない。私も、購入から長い間、読まずに放置したものだ。

私は、『バガヴァッド・ギーター』は、まず読みやすい口語ではあったが、名訳と言われる田中嫺玉さんの親切な翻訳を読み、今は、三浦関造さんの荘重(そうちょう。おごそかで重々しいこと)な文語のものを読んでいる。クリシュナが語りかけてくるようと言ったらおこがましいが、力が注ぎ込まれるように感じるのだ。

『エメラルド・タブレット』は、百回読んでこそのものであるが、一度じっくり読んだだけでも、やはりその良さは分かったのである。実は、最初に読んだ時は、解説を見なかった。そういった読み方もあると思う。

そういえば、アンデルセンの『即興詩人』も、森鴎外の文語訳のものを持っているが、読み始めてすぐに挫折していた。しかし、彼の文語は特に美文らしい。画家の安野光雅さんも、鴎外訳は最初は歯が立たなかったそうだが、やがてその素晴らしさが分かったという。
偉大な書と言われながら、読んでもその良さが分からなかったといった場合、文語のものをじっくりと読むというのも手ではないかと思う。

















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人は軽薄短小なものである

重厚長大と軽薄短小という言葉は、1980年代の流行語がそのまま残ったものらしい。そんな訳で、本当のところは、これらの言葉に、正確な意味など無いのだが、企業の規模や格を指す言葉と考えても良いと思う。
IT分野というのは、かつてIBMがメインとしていた大型コンピュータのようなものを除けば軽薄短小であったが、今はかなりの範囲で、重厚長大化したように思う。

そのように、重厚長大を、伝統ある、ほとんど民間企業とはいえない規模の企業を言うとしたら、就職活動をする学生達の大半が目指すのは重厚長大だ。
だが、人間というものは、本質的に軽薄短小なのだ。
それで、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが若かった頃のIT事業のような軽薄短小なものに取り組むことは、やっている者には幸福なことだった。
しかし、ITも重厚長大となり、人間にとって本当に面白いものではなくなり、ゲイツはさっさと引退し、ジョブズは病気になって死んでしまった。
学生に限らないが、世間の人が重厚長大にひれ伏すのは、それが安全だと思い込んでいるからだ。重厚長大に守って欲しいのだ。
しかし、それは幻想であり、悲惨な妄想ですらある。

本当に守ってくれる重厚長大なものは自然だ。地球や宇宙であり、もっと正しく言うなら、それを支配し動かしている英知で、我々が使う言葉で言えば神だ。
言い換えれば、重厚長大は神の領域で、軽薄短小が人の領域だ。
だが、確かに、人類は昔から、自らが重厚長大になることを目指す傾向がある。それは、恐れ多い傲慢だ。
バベルの塔の話のように、神のような重厚長大を得ようとした人間は、神の怒りを買って撃ち滅ぼされた。
だが、軽薄短小でいるなら、つまり、分をわきまえるなら、神は守ってくれるのである。
人は、神を怖れ、賛美し、崇めるのが正しいが、そこに、神への信頼や敬愛がなく、逆に、うぬぼれや過ぎた欲望があるから、神への拝礼がおかしなものになってしまうのだ。それは、宗教の責任である。
ジョセフ・マーフィーらも言うように、神は全知万能で、傲慢な者には恐ろしいものであるが、本来は年長の良きパートナーである。あるいは、法然、親鸞、あるいは、黒住宗忠の言うように、無限の慈愛に満ちた親である。

重厚長大な企業に全面的に頼る者は、宇宙、大自然、あるいは、神からの加護を得難い。金や権力を崇拝すると、自然の生命力すら失い、結局、病気になって死んでいくのだ。ハワード・ヒューズや、ほとんどの大富豪のようにね。
軽薄短小でいよう。イエスが言った通り、心配しなくても、神が面倒を見てくれるだろう。スマイルズの『自助論』は、本来はその視点で読んでこそ、価値があるものである。
ノーマン・ビンセント・ピールも、歴史的なベストセラーでロングセラーである『積極的考え方の力』で、最後に、「なぜ神の力を求めないのか」と書いたが、人々は、心の奥では分かっていても(だからこそ、とんでもないベストセラーになったが)、結局は目に見えるものにひれ伏すので、不幸になる一方なのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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