ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ピカソ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ピカソは見る人を感動させる義務なんて決して持っていなかった

今のお笑い芸人を見ていると、つくづく、彼らはお客さんを笑わせる「義務」があるのだなあと思う。
その義務を果たさないと、お笑い芸人でいられない。
そして、そんなやり方では、やはり息が長くないのだ。
お客さんは、面白ければ何でもいい。
そして、お笑い芸人も、笑わせるためなら何でもやる。
昔のお笑い芸人は、お客さんを笑わせる「権利」を持っていた。
どんなお客さんでも笑わせようなんて思っていなかったに違いない。
言い換えると、今のお客さんは、お笑い芸人に笑わせてもらえる権利を持っていると思っている。
昔のお客さんは、そんなことを考えてはいなかった。
昔のお笑い芸人は、見る人によっては退屈で少しも面白くなかった。
だが、おかしなことに、「面白くないなあ」と思いながらも、よく憶えているのである。
そして、昔のお笑い芸人は息が長く、大儲けはしないが、生涯現役でいる者が多かった。

これは、お笑いだけではなく、あらゆるエンターテインメント(娯楽)でも事情は同じだ。
今の映画、小説、ポップミュージックなど、どれも、「あまりに安直に面白い」。
誰でも楽しめる。
しかし、観客皆が、同じような楽しさしか味わえないのだ。
お笑い芸人も歌手も、映画も小説も、面白ければ何でもいいのだ。
だから、もうどれもアートでなくなっている。

本物のクリエイターの作品は見る者を選ぶものだ。
見る者、聴く者こそ、本当は義務を持っているが、今は、権利を持っているのだと勘違いしている。
本物の作家はこう言うのだ。
「お前に俺の本を読む権利があるなどと自惚れるな」
凡人は、自分にピカソを見る権利があると思っている。
だから、「ちっとも良いと思わない」などという、あまりに愚かで馬鹿なことを本当に言ってしまう。
ちっとも良くないのは、見る者の問題であって、ピカソの問題ではない。
ピカソに、見る者を感動させる義務なんて決してない。
ただ、感動させる権利を持っているのだ。

我々は働く権利など持っていない。
こう言うと、「その通り。働くのは義務だ」と言う者がいるだろう。
しかし、それも違うのだ。
別に働くことは義務ではない。好きにすれば良い。
しかし、飢えない権利も、惨めな境遇にもならない権利も持っていないというだけのことだ。
働く権利は持っていない。
だが、「働かせていただく」権利は確かに持っている。

我々は大自然の生命によって生かされている。
これを、神によって生かされていると考えても良いだろう。
だが、生かされる権利があるのではない。
生かさせていただく権利を持っているだけだ。
全ては神の偉大な力でなされる。
その中で、我々は何かをする権利を持っていたりなどはしない。
何かをさせていただく権利を持っているのである。
だから、悟った人は言うのだ。
「自分がしているのだと思うな。させてもらっていると思え」

念仏というのは凄いもので、自分が念仏を称えていると思っていても、やっていたら、念仏をさせられていることが分かるようになる。
すると、全ては、自分がやっているのではなく、やっぱり、やらされているのだと分かる。
そうなれば、あなたは生涯、傷つけられることはない。









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権威に反抗する限り青春だ

テレビで、クラシック音楽界の世界的権威と言われる指揮者を見た時、クラシックファンの知人が、「これほどの人の言うことなら、何でも認められるのだよ」と言った。
私は、彼に、「私なら、君の言うことだって、何でも認めるよ。でも君の言うことに従わないのと同様、この者の言うことにも従わないさ」と言ってやった。
彼は、「きょとん」としていた。
彼は、ただの世間の人でなのである。
世間の人は、平凡な個人の言うことには闇雲に反対するが、権威者の言うことには盲従するのだ。
権威ってのは、単に世間という意味でしかない。
愚かな世間の人間は、権威と同様、世間にも盲従するのだ。
だから、世間の人々を手玉に取る者は、権威者になるか、世間の代弁者を演じるのだが、それは同じことなのだ。

例えば、もし、イエス・キリストが現れて、「私は毎日ジャガイモを食べたから悟りを開いたのじゃ」と言えば、キリスト教徒によって、スーパーのジャガイモは買い占められる。
そして、世間で「ダイエットにはバナナを毎日食べることが効果的」とか、「ココアを毎日飲めば健康になれる」と言われれば、スーパーのバナナやココアは売り切れるのだ。
世間の人にかかれば、イエス・キリストもバナナも同じだ。

気高い人間の態度とは、「傾聴はするが盲従はしない」だ。
しかし、世間の人間達は、「傾聴はしないが盲従する」のだ。

「情熱がある限り青春だ」といったことを聞いたことがあるかもしれない。
だが、情熱というものを、情欲や欲望と思う者が大半だ。
もっと正確で良い言葉を教えよう。
「権威に反抗する限り青春だ」
世界的なだけでなく、歴史的な画家だったピカソは、若い女の子が大好きで、60代のピカソは美術学校の周辺をウロウロし、そこに通う10代の女の子達を頻繁にナンパしていた。
口説き文句はただ一言、「僕、ピカソ」だ。
それでホイホイついてくる、生物的には若いが、尻軽の「老女」がいっぱいいたらしい。
水晶のように透き通った気高い少女なら、たとえ絵画に本当の情熱を持っていようが、「僕、ピカソ」と言い寄ってくる下種など、本当にピカソだろうが、何の価値もないだろう。
いや、むしろ、本当にピカソであるなら、余計に見向きもしないのだ。
彼女が価値を認めるのは「ピカソの芸術」であって、ピカソ個人ではない。
しかし、世間の人間は、ピカソの芸術に本当には興味がないのに、ピカソ個人を有り難がるのだ。
世間の人間は芸術家にはなれない。

岡本太郎は、生涯、情熱に溢れた「青年」であったが、彼は「俺はピカソなどとっくに超えている」と言ったものだった。
「俺はピカソを超えている」を、妙な意味に捉える愚か者は当然、世間には多かった。いや、世間の人間は皆、妙な意味にとった。
蛇足もいいところだが、解説すると、岡本太郎は、「俺は権威には従わない」と言ったのだ。
岡本太郎こそ、本当にピカソの芸術の偉大さを理解していた。
太郎は、フランス語に堪能だったこともあるが、実際にピカソとも親しかった。
しかし、ピカソに対しても、絵画のことで、よく、真っ向から反論した。
そうすることに、何の遠慮もいるはずがなかった。
「ピカソの芸術」を高く評価していても、人間としてのピカソに対しては、「傾聴はするが従わない」のだった。

権威に反抗する者はいつまでも若い。
権威に盲従する者は老人だ。
やりたい学問がある訳でもないのに、受験勉強に血道を上げる者は、既に完全に老人だ。
世間の権威に平伏しているのだから当たり前である。
それは、熱心な受験生を見ていても、一目瞭然でもある。
私は、「受験生」と言われた頃でも、受験勉強に隷従させられることは屈辱でしかなく、実際に、そんなものは全くしなかった。いや、できなかった。
それなのに、大学受験に合格できないことを、「頭が悪い」「努力が足りない」などと言われるのだから辛かったが、今思えば良い経験である。
私だけが、ピカソにほいほいついて行く「薄汚い馬鹿娘」ではなかったのだ。

「傾聴はするが盲従はしない」
これを忘れなければ、いつまでも本物の情熱のある青年でいられるし、天使のように身軽になり(自由になり)、重力の鎖(恐怖)を解き放って、高く飛べるだろう。
そのためには、この世間では、権威に反抗する気持ちを持っていなければならないだろう。
『理由なき反抗』どころか、「大いなる理のある気高き反抗」である。

いつか重力のクサリを解き放ち
宇宙へ飛ぶサテライト
そこに行けば体の重さも1/6
~『1/6』(作詞・作曲・編曲:ぼーかりおどP 、唄:初音ミク)より~









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岡本太郎は超革新的ではなかった

超革新的な芸術家、思想家、事業家でありたいなら、生きている間に世間で報いられるという望みは、可能性としても捨てなければならない。
それを願う者に世界を変える力はない。
岡本太郎は、革新的ではあったが、超革新的ではなかった。これは無論、彼を低く評価することではない。ただ、変革者ではあったが、イェイツが『ラピス・ラズリ』で言った、「破壊して造り直すGay(陽気)な存在」ではなかったというだけだ。
彼は、「認められなくていい。いや、認めさせてたまるか」「売れなくていい。いや、売ってたまるか」と言ったが、かなり売れたし、いかにエキセントリック(風変わり)とはいえ、世間に受け入れられていた。
岡本太郎は、世間より1歩近く進んでいた。
もし、彼が半歩だけ進んでいたのだったら、彼は世間的にはもっと大成功していたかもしれない。だが、世間的に賞賛されるには進み過ぎていた。だから、彼より少し後である、今の時代の、進歩した精神の持ち主達に受け入れられてきているのだ。かつては暴論であった彼の思想は、いまや、極めて有意義なものになりつつある。
だが、もし彼が、本当に1歩進んでいたら、誰も見向きもしなかったし、誰も憶えていなかっただろう。
彼の時代にだって、もっともっと革新的な人はいたし、今もいる。しかし、そんな人達が認められるとしても、それは数世紀後だ。

ビジネスだって、世界より1歩も進んだら、ちっとも成功しない。
たとえ1歩進むことが出来るとしても、半歩だけ進むというセンスが事業成功のコツだ。
マイクロソフトだって、アップルだって、そして、GoogleやFacebookなども、決して超革新的なことをやった訳じゃない。
彼らのやることは、どこか極まったところがなく、鈍くて後一歩と感じるものだが、結局はそれが成功のために必要なのだ。

ピカソは半歩だけ進んでいた。
しかし、世間の芸術家ってのは、保守的なものだ。その中で半歩進んだということは異例中の異例で、そのため、彼は凄い革新者のように言われた。しかし、実際は、世間で成功するための半歩だけ進んでいたのだ。
実は、彼は元々、世間とぴったり歩調を合わせた芸術界の超エリートだった。そんな風に訓練され、それで上手くやれた天才であったがために、かえって彼があまり先に行けなかったのは、彼にとっては悩みだった。
彼は、「私は年々下手に描くことで救われている」と言ったところに、そんな本音が感じられる。
それを見破った岡本太郎は、「俺はピカソを超えた」と言ったが、それは本当のことで、ピカソはさぞ悔しかったことだろう。
だが、晩年のピカソは1歩進み、岡本太郎を抜き返した。80歳を超えて狂気のごとく制作したエロチカシリース(版画作品)は革新的過ぎ、誰にも理解できなかった。池田満寿夫さんは心酔したらしいが、誰もその意味を理解できない。

半歩進めば成功し、1歩進めば見向きもされない。
そして、2歩進めば迫害される。イエス・キリストがそうだった。
ミュージカル映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973年。ノーマン・ジュイスン監督)を見ていると、イスカリオテのユダが、「もっと上手くやれたはずなのに」とイエスに言うのが印象的だ。イエスは、進み過ぎていたと言いたいのだろう。
マザー・テレサでさえ、2歩進みたいところ、世間的駆け引きをして一歩以上戻った。彼女自身がそう言っていたのだ。それが実際的であったし、そうすることが彼女の運命だったのだ。
だが、ジョージ・アダムスキーは平気で1歩以上進んだ。
実際は、彼のUFO写真が偽者だという証拠を示すことは誰にも出来ないし(専門的学者は本物としか言えなかった)、彼の話は学会の権威でしか反駁できない。つまり、誰も自分の言葉で彼を否定出来ず、彼を批判しようとすると、そうする者の精神的なみすぼらしさが露(あらわ)になるだけだった。だから、彼の批判者は、風説や陰口で彼を貶めることしかできない(まあ、世間はそんな攻撃に乗る傾向が大きいので、それはそれで効果があったが)。
だから彼は弾圧と嘲笑を受けた。もう少し彼が無能であったら、彼はむしろ世間の人気者になれたかもしれないが(エンリケ・バリオスのように)、彼は優れていた上に、融通の効かない真面目な男だったのだろう。

賞賛を欲しがったり、贅沢をしたいのが本音の革命家が一番恐い。
彼らは、ビジネスマンになるべきなんだ。それで失敗したら、少しは自分を顧みることが出来るかもしれないからだ。
ところが、彼らは宗教的陶酔を持ってしまっているので、魂の高貴さを伴わないまま、世界を変えようとし、結果、何でも破壊したがるのだ。
真の革命家は、数世紀の間はこれっぽっちも評価されないと心得なければならないが、本当にそれが出来る者は世界に何人もいない。
自分とは、蔑み疎まれるものであると断じない限り、革命などやるべきでない。
政治的なものに限らず、思想的、芸術的、そして、あらゆることに関してそうなのだ。
ある本物の改革者に誰かが尋ねた。
「自分のことをどう思っていますか?」
彼は、
「軽蔑しています」
と本気で言ったのだった。









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太陽の塔の使い方

悟った人は皆、「真理は否定でしか示せない」と言う。
例えば、ポルシェに乗って「良い」と思う。それ自体は良いことなのだろう。
しかし、「ポルシェは良いぞ」と思っていたら、それはもう真理じゃないのだ。
最初の「ポルシェは良い」は、これまで乗った車を否定した思いなのだ。
では、次は、ポルシェを否定しなくてはならないのだ。

岡本太郎は、18歳の時、ルーブルかどこかの美術館でセザンヌの絵を見て感動し、涙が止まらなかったと言う。
その後、再びその絵に再会したのだが、ちっとも良いと思わなかったと言う。
それは素晴らしいことである。
岡本太郎は、良いのはピカソくらいだと言う。しかし、ピカソを乗り越えなければならないし、俺はもう乗り越えたと言っていた。
だが、ピカソ自身が、常に自分を破壊し、乗り越えていた。
そもそも、岡本太郎がなぜピカソを良いと思ったかと言うと、ピカソがそれまでの美術界を否定し、壊したからだったのだ。
ピカソはいくら成功しても、自己破壊を止めなかった。
80歳を越えて、狂気のような速さで制作し続けた版画は、それまでのピカソらしさは全く無く、子供のラクガキみたいなものだった。しかし、池田満寿夫は、これこそ究極の芸術と感じて、熱心にコレクションしていた。だが、集めた後で見て、満足するようじゃいけないのだ。「なんて下らないものを集めたんだ、俺は」程度で良いのである。

横尾忠則さんが、岡本太郎の代表作とも言われる太陽の塔について、デザインは超一流だが、あんなの芸術じゃないと著書に書かれていたものだ。
私は、デザインセンスが無いので、あのデザインが良いのかどうかは分からないが、作品自体はどうでも良いのだと思う。
あれはシンボルなのだ。
太陽の塔は、1970年の大阪万博のシンボルとして制作されたという。大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」だった。
しかし、太陽の塔というのは、進歩なんてものに「ノー」と言っているものなのだと岡本太郎は言っていた。
つまり、あの塔は否定のシンボルなのである。
人類だろうが、世間だろうが、個人だろうが、良いと思ったものに、「ノー」を突きつけるシンボルなのだ。
あの塔を見るたびに、自分に対して「ノー」と言うことを思い出すなら、モニュメントとして価値があるものなのだろう。

モハメド・アリという歴史的なプロボクサーは、オリンピックの金メダルを川に投げ捨て、オリンピックだのオリンピックチャンピオンの自分を否定したのだ。
そして、ヘビー級ボクサーの伝統的な戦い方を否定し、蝶のように軽やかに舞った。
だが、いつしか、彼は自己破壊を忘れたのではないかと思う。それで、病気によって自己破壊をすることになったのかもしれない。
イエス・キリストなんて人は、社会をぶっ壊した後で、自分を壊して復活するということを示してくれたのだと思う。
ある成功した事業家は、「俺を否定してくれる者に社長の座を譲る」と言っていた。
しかし、彼の周りには、偉大な彼の肯定者しかおらず、やがてつまらない会社になっていった。
だが、ほとんどの大企業はそうなのかもしれない。









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趣味と仕事の明確な違い

「仕事を遊びにする」とか言うことがあるが、仕事と、遊びや趣味には、ある明確な違いがある。
それは、仕事には、ノルマと締め切りがあるということだ。
私はゲームは一切やらないが、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)を、「2~3日でクリアできたらいいな」と思ってやるのが遊びで、それを、「今日の午前中でクリアしろ」というのが仕事だ。「そんな無茶な」と思っても、それをやらなければならないのが仕事だ。
私が一番最初にやった仕事はセールスマンだったが、ある月の初めに、私のいた営業所に、本社から、通常の3倍の売上げノルマが通達されたことがあった。
セールスマン達は、「本社は、俺たちが普段、余裕たっぷりに仕事をしていると思っているのか!?これだから机に座ってのんびりしてるエリートは嫌なんだ」と不満をぶちまけたが、26歳の営業所長は、壁の売上げグラフに、黙って自分の名前を追加した。その売上げグラフは、全セールスマンの名前があり、売り上げる度に、各人の名前の上のグラフが伸びる。また、それぞれのセールスマンの売上げノルマの位置にマークが示されている。
営業所長のグラフはどんどん伸びていき、天井に達してそこから降りてきて、最下点に戻り、また天井を目指す。
天井まで達するグラフすら、それまで誰も見たことがなかった。
そこまでの実力差と、「やる姿」を見せられれば、他のセールスマン達も奮起し、私のいた営業所はノルマを達成したばかりか、自主的に他の営業所の援助にまで出向いた。
商業主義が嫌いな私にも、印象深い経験であった。

締め切りとノルマを自分に課せば、遊びも仕事に出来る。
画家や作家は食べていけないと言われるが、それは、自分に厳しい締め切りとノルマを課して鍛えてこなかったからではないかと思う。
人気作家の村上春樹さんは、アマチュア時代から、原稿用紙1日十枚を絶対ノルマとし、何があっても必ず書いたという。
今年3月に亡くなられた思想家の吉本隆明さんは、作家になりたければ、必ず毎日書けと著書に書かれていた。それで十年続ければ、必ずモノになると断言されていた。
本田信一(著述家、コンサルタント)さんも『会社をやめてどう生きるか』という本の中で、会社をやめて相談業の看板を出したが、客は1人も来ないので、毎日、借り事務所で原稿用紙に文章を書いていたが、1日1枚を必ず書くようにしたという。ノルマと締め切りを設定したのだ。それで、書くことが仕事になったのである。
昨夜も、世界的画家の横尾忠則さんが、元々はデザイナーで、常に厳しい締め切りとノルマに追われていたことを書いたが、横尾さんは画家として有名になってからも、デザインの仕事を続けていたという。
ピカソは2日で1枚以上、時には1日数枚、必ず描いたのであり、これはもうノルマや締め切りがそもそも不要だった。だから世界的画家なのだ。

ノルマとか締め切りがあったら面白くないと思う人が多いかもしれないが、そうではない。本当の面白さは、ノルマと締め切りが無ければ味わえない。
つまり、本当の楽しさには、コンセントレーション(集中)が必要なのだ。
また、自分が決めたノルマや締め切りが守れないなら、プロになる素質が無いということなのだろう。
私がやっているソフトウェア開発の業界では昔、締め切りというものを「そろそろ気合が入り始める日」などと言って笑い話にしていることがあったが、もちろん本当はそうではない。
確かに、ソフト開発を理解しない営業が無茶な仕事を取ってきて、「そんな日に出来る訳がない」といった感じで仕事をする開発者もいたが、プロの開発者は、それでも間に合わせてしまうものだ。
締め切りを守らない開発者はすぐにいなくなる。優秀な開発者は、「10日までには・・・」と言えば、5日には出来ているものだ。
このブログでも時々書くが、優れた人間は、毎日必ずやる訓練とか行といったものを持っているものだ。
それで、プロに必要な締め切りとノルマの感覚、そして、集中力を磨いているのだ。
エドガー・ケイシーは、9歳の時から、毎朝必ず聖書を読むことを生涯続けたが、1年で必ず一度通読したという。
超一流セールスマンだった奥城良治さんは、1日1時間の競歩を欠かさず、嵐や何かで出来なかった翌日は、その分、2時間やったという。
上で述べた村上春樹さんもアマチュア時代から原稿1日十枚書き、また、ジョギングを1日何キロだったか忘れたが、必ずやったらしい。
私もささやかながら、毎日、腕立て伏せ、スクワット、その他の運動を毎日、3年以上、1日も欠かさず続けて、少しは鍛え、その成果が、最近ようやく出てきたように思う。
仕事のノルマは、不本意でも自分で決められない場合が大半だ。しかし、個人的なノルマや締め切りはそうではない。ノルマと締め切りを大いに楽しむのが良い修行であると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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