今のお笑い芸人を見ていると、つくづく、彼らはお客さんを笑わせる「義務」があるのだなあと思う。
その義務を果たさないと、お笑い芸人でいられない。
そして、そんなやり方では、やはり息が長くないのだ。
お客さんは、面白ければ何でもいい。
そして、お笑い芸人も、笑わせるためなら何でもやる。
昔のお笑い芸人は、お客さんを笑わせる「権利」を持っていた。
どんなお客さんでも笑わせようなんて思っていなかったに違いない。
言い換えると、今のお客さんは、お笑い芸人に笑わせてもらえる権利を持っていると思っている。
昔のお客さんは、そんなことを考えてはいなかった。
昔のお笑い芸人は、見る人によっては退屈で少しも面白くなかった。
だが、おかしなことに、「面白くないなあ」と思いながらも、よく憶えているのである。
そして、昔のお笑い芸人は息が長く、大儲けはしないが、生涯現役でいる者が多かった。
これは、お笑いだけではなく、あらゆるエンターテインメント(娯楽)でも事情は同じだ。
今の映画、小説、ポップミュージックなど、どれも、「あまりに安直に面白い」。
誰でも楽しめる。
しかし、観客皆が、同じような楽しさしか味わえないのだ。
お笑い芸人も歌手も、映画も小説も、面白ければ何でもいいのだ。
だから、もうどれもアートでなくなっている。
本物のクリエイターの作品は見る者を選ぶものだ。
見る者、聴く者こそ、本当は義務を持っているが、今は、権利を持っているのだと勘違いしている。
本物の作家はこう言うのだ。
「お前に俺の本を読む権利があるなどと自惚れるな」
凡人は、自分にピカソを見る権利があると思っている。
だから、「ちっとも良いと思わない」などという、あまりに愚かで馬鹿なことを本当に言ってしまう。
ちっとも良くないのは、見る者の問題であって、ピカソの問題ではない。
ピカソに、見る者を感動させる義務なんて決してない。
ただ、感動させる権利を持っているのだ。
我々は働く権利など持っていない。
こう言うと、「その通り。働くのは義務だ」と言う者がいるだろう。
しかし、それも違うのだ。
別に働くことは義務ではない。好きにすれば良い。
しかし、飢えない権利も、惨めな境遇にもならない権利も持っていないというだけのことだ。
働く権利は持っていない。
だが、「働かせていただく」権利は確かに持っている。
我々は大自然の生命によって生かされている。
これを、神によって生かされていると考えても良いだろう。
だが、生かされる権利があるのではない。
生かさせていただく権利を持っているだけだ。
全ては神の偉大な力でなされる。
その中で、我々は何かをする権利を持っていたりなどはしない。
何かをさせていただく権利を持っているのである。
だから、悟った人は言うのだ。
「自分がしているのだと思うな。させてもらっていると思え」
念仏というのは凄いもので、自分が念仏を称えていると思っていても、やっていたら、念仏をさせられていることが分かるようになる。
すると、全ては、自分がやっているのではなく、やっぱり、やらされているのだと分かる。
そうなれば、あなたは生涯、傷つけられることはない。
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その義務を果たさないと、お笑い芸人でいられない。
そして、そんなやり方では、やはり息が長くないのだ。
お客さんは、面白ければ何でもいい。
そして、お笑い芸人も、笑わせるためなら何でもやる。
昔のお笑い芸人は、お客さんを笑わせる「権利」を持っていた。
どんなお客さんでも笑わせようなんて思っていなかったに違いない。
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昔のお客さんは、そんなことを考えてはいなかった。
昔のお笑い芸人は、見る人によっては退屈で少しも面白くなかった。
だが、おかしなことに、「面白くないなあ」と思いながらも、よく憶えているのである。
そして、昔のお笑い芸人は息が長く、大儲けはしないが、生涯現役でいる者が多かった。
これは、お笑いだけではなく、あらゆるエンターテインメント(娯楽)でも事情は同じだ。
今の映画、小説、ポップミュージックなど、どれも、「あまりに安直に面白い」。
誰でも楽しめる。
しかし、観客皆が、同じような楽しさしか味わえないのだ。
お笑い芸人も歌手も、映画も小説も、面白ければ何でもいいのだ。
だから、もうどれもアートでなくなっている。
本物のクリエイターの作品は見る者を選ぶものだ。
見る者、聴く者こそ、本当は義務を持っているが、今は、権利を持っているのだと勘違いしている。
本物の作家はこう言うのだ。
「お前に俺の本を読む権利があるなどと自惚れるな」
凡人は、自分にピカソを見る権利があると思っている。
だから、「ちっとも良いと思わない」などという、あまりに愚かで馬鹿なことを本当に言ってしまう。
ちっとも良くないのは、見る者の問題であって、ピカソの問題ではない。
ピカソに、見る者を感動させる義務なんて決してない。
ただ、感動させる権利を持っているのだ。
我々は働く権利など持っていない。
こう言うと、「その通り。働くのは義務だ」と言う者がいるだろう。
しかし、それも違うのだ。
別に働くことは義務ではない。好きにすれば良い。
しかし、飢えない権利も、惨めな境遇にもならない権利も持っていないというだけのことだ。
働く権利は持っていない。
だが、「働かせていただく」権利は確かに持っている。
我々は大自然の生命によって生かされている。
これを、神によって生かされていると考えても良いだろう。
だが、生かされる権利があるのではない。
生かさせていただく権利を持っているだけだ。
全ては神の偉大な力でなされる。
その中で、我々は何かをする権利を持っていたりなどはしない。
何かをさせていただく権利を持っているのである。
だから、悟った人は言うのだ。
「自分がしているのだと思うな。させてもらっていると思え」
念仏というのは凄いもので、自分が念仏を称えていると思っていても、やっていたら、念仏をさせられていることが分かるようになる。
すると、全ては、自分がやっているのではなく、やっぱり、やらされているのだと分かる。
そうなれば、あなたは生涯、傷つけられることはない。
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