ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ヒマラヤ聖者の生活探求

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

夢でこの世の仕組みを知る

私は、毎晩寝る時に、ベッドで横になって「私、私、私」と心で唱えることが楽しみになっている。
すぐに眠れるし、夢に変化が起こった。
こんな夢を見た。
知っているような気がする男が、遺跡のような場所で高さ5メートルほどの岩の壁の前に立ち、その岩の壁の一部を切り出した。
すると、その岩が男の方に倒れてきて地面に落ちたが、男は間一髪無事だった。
ぞっとする場面のはずであるが、男はほっとした様子ではあるが、まるで深刻そうでない。明るい平気な様子である。
それを見て私は、世界とはゲームのように仕組まれたものであるということを明確に感じたのだった。
世界が、自我としての自分の思い通りになるかどうかは分からない。
だが、完全にコントロールしている存在はいるのだ。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻にこんな話がある。
著者のベアード.T.スポールディングが、ロンドンのF.L.ロースンを訪ねた時、彼らがロースンの屋敷の中から通りを見ていたら、岩を積んだ馬車が転倒し、御者(ぎょしゃ。運転手)が下敷きになった。
ロースンは「神の他に何もない。ただ神だけれがある(原文:There is nothing but God)」と唱えた。
すると、岩の中から、御者が平然と出てきた。
ロースンは常に「There is nothing but God」と想い、あるいは、唱えていたのだと思う。
彼は著名な技術者であり、第一次世界大戦では隊長として部隊を率いたが、1人の戦死者も出さなかったという。

世界は3Dゲームのようなもので、自在に操ることが出来る存在がいるが、それはおそらく本当の自分で、それは神のようなものだ。
ある説では、本当の自分は自我という作り物の自分を楽しませるためにゲームを進めるが悪意はない。
アインシュタインだって言っていたものだ。
「神は老獪である。だが悪意はない」

心で「神、神、神」と言っていたら、正確ではないが、人間としての自分と神としての自分の2重意識のような状態になり、「あ、どうでにも好きなように出来るんだ」「神としての自分にまかせておけばいいんだ」と分かるようになる。
するとまあ、心配はなくなる。
他のことはしないで、これをやればいいと思うが、そこは各自の自由で、もっとハラハラドキドキのゲームを楽しみたい方もいるだろうが、あまり苦しいゲームはしない方が良いと思う。まあ、それも人の勝手だが。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ヒマラヤ聖者の生活探究 第5巻(ベアード.T.スポールディング)
(2)Life and Teaching of the Masters of the Far East, Vol. 5 (English Edition)(Baird T. Spalding )
(3)人生は思うように変えられる(ジョセフ・マーフィー)

無敵
AIアート2915
「無敵」
Kay

最高のマントラの使い方

ラマナ・マハルシは、真我を実現する(悟りを開く)には「私は誰か?」と問うしかないと言った。
だが、「私は誰か?」を呪文にしてはいけないと言ったらしい。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』3巻で、イエスは「神という言葉を出来るだけ多く使え」と言ったが、「これを公式にしてはいけない」とも言い、『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で、著者のベアード.T.スポールディングは、「神」を呪文にしてはいけないと言う。

あくまで翻訳で書かれていることで、実際のニュアンスは分からないが、「いったいどうしろってんだ」だろう(笑)。
ただ、マハルシは「私は誰か?」を呪文にしてはいけないと言いつつ「私」とずっと心の中で言えとも言っている。
呪文とマントラ(真言)の違いが曖昧だが、マハルシは「私」は最高のマントラであると言う(これも翻訳だが)。
つまり、「私」を呪文のように唱えて構わない。
これには私も同意だ。
本当にずっと「私」と唱えていたら、驚くべきことが起こるが、それは悪いことではない。

結局、マハルシもスポールディングも、「呪文」を「魔法の呪文(マジック・スペル)」のような意味で言ったのだろう。
スピリチュアルな言い方だが、「神」という言葉には神の波動がある。
これを唱えれば、神の波動を発し、それと同調してくる。
それが分かれば、「神」と唱えることは呪文ではない。
分からなければ、出来るだけ小さな声で、あるいは、頭の中で出来るだけ微かに唱えると良い。
それは呪文ではない。

以上の通りにやればうまくいくだろう。
どうしようもない者の最後の手である。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ヒマラヤ聖者の生活探究 第3巻(ベアード.T.スポールディング)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第5巻(ベアード.T.スポールディング)
(3)あるがままに 改訂版 ―ラマナ・マハルシの教え―
(4)ラマナ・マハルシの教え

体育
AIアート2209
「体育」
Kay

我々は最初からマスター(大師)である

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の第5巻は引き寄せの神髄が満載であると思う。
その中でも印象的なお話がある。
著者のベアード.T.スポールディングが4歳の時、彼は大学予備校に連れて行かれたと書かれている。
ただし、予備校と言っても、今の日本でいう大学受験勉強をする予備校ではなく、大学予科(大学の本科へ進む前の予備教育課程)の学校だと思われる。
そこで彼はアルファベットを見せられたとある。
このアルファベットが何を意味するのか分からないが、要は、4歳の子供に分かるはずのないものだろう。
それで彼が「分かりません」と言うと、先生は、
「そんな態度ではいけない。そんな態度とは決別しなさい。自分にはちゃんと分かっていると思いなさい」
と言う。
そのおかげで、彼は14歳で大学を卒業出来たという。
別に引き寄せのお話ではないが、これが引き寄せの全てだろう。
引き寄せにやり方もテクニックも全くない。
必要なことは「出来る」と思うことだけだ。
私が小学4年生の時、天文の知識は全くなしですぐに土星を見つけることが出来たのも、自分には土星をちゃんと見つけることが出来ることを疑っていなかったからだ。

現代人は、家や学校やマスコミに変な教育をされているから「出来る」と思うことが致命的に苦手だ。
『トーチェ氏の心の法則』の中に、脚が折れても走り回ることが出来る民族の話がある。
その民族では、脚が折れたら走れないことを知らないので、そんなことが出来る。
つまり、脚が折れても走れることが当たり前なのだ。
決して、脚が折れた人が「俺は走ることが出来る。絶対出来るんだ」と必死に自分に言い聞かせるのではない。
脚が折れても走れることなど、当たり前過ぎるのだ。

関英男博士も、人々に信じさせることには苦労したのかもしれない。
超能力を使うことに関して、関博士は面白いことを教えた。
それは「私は元々超能力者だ」という、当たり前のことを唱えるというものだ。
「超能力が使える」ではない。
自分が超能力を使えることは当たり前なのだ。最初から超能力者なのだからだ。

願ったことがすぐに叶うのも当たり前である。
彼女が欲しいなら、「彼女が出来る」と思うのではなく、「既に彼女はいる」と思わないといけない。
最初のベアード.T.スポールディングの話でも「アルファベットが分かるようになる」ではなく「もう分かっている」ことが大切である。
我々は、いつか神になるのではなく、既に神なのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ヒマラヤ聖者の生活探究 第5巻(ベアード.T.スポールディング)
(2)トーチェ氏の心の法則(トーチェ夫妻)
(3)読むだけで超能力が身につく本(関英男)

妖精の訪問
AIアート2206
「妖精の訪問」
Kay

子供が奇跡を起こす方法は大人にも出来る

マイナス状況を認めつつ疑うという、スピリチュアル界では108式「不足を疑う」メソッドについて考えることで、これまで分からないことが分かって来る。
たとえば、『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻の、著者ベアード.T.スポールディングのこんな話がある。
彼は4歳の時、大学予備校に連れていかれ、アルファベットを見せられた。
教師に「どう思う?」と聞かれ、スポールディングが「分かりません」と答えると、教師は、「そんな態度とはサヨナラしろ」と言った。
そのおかげで、スポールディングは14歳でインドの最高の大学の1つであるカルカッタ大学を卒業し、原子物理学者として実績を上げることが出来たと言う。
しかし、上の、4歳のスポールディングに対する教師の教えの意味がはっきりしない。
スポールディングも、それについては何も書いていない。彼にも説明出来なかったのかもしれない。
「分からない」という態度が良くないのは分かった。
では、具体的にどうすれば良いのか?
「分からない」ものを「分かる」と思えというのか?
確かに、4歳の子供であれば、素直に教師に従って「分かる」と思い、実際に、今まで分からなかったことが瞬間で分かるということもあり得るかもしれない。
しかし、大人にはそんなことは出来ない。
だが、実を言うと、幼い子供が奇跡的なことを行う時に心の中で起こっていることは、大人にも自然なことなのである。
ただ大人はやらないだけだ。

つまり、スポールディングはアルファベッドを見せられ「分からない」と思ったが、教師はその態度は駄目だと言ったのだ。
そこで、スポールディングは、「僕は本当に分からないのだろうか?本当は分かっているのではないだろうか?」と疑ったのだ。
すると、分からないという現象が消え、分かるという現実が現れたのだ。

昨日、私にこんなことがあった。
私が嫌いな、良識に欠けたオツムの足りなさそうな2人の若者がいて、周囲に迷惑をかけていた。
私は注意しようと思ったが、実験することにした。
この2人に対し、「こいつらは本当はそんなに悪い連中ではないのではないか?」と疑ったのだ。
その直後、私にちょっとしたトラブルがあったのだが、2人のうちの1人が積極的に協力してくれて、簡単に解決し、もう1人の方もきちんとした態度になった。
あまりこういう話をして先入観を与えてはいけないらしいが、こんなことはザラである。

悪いことが何も起こらない人はいない。
世界一の大富豪や強大な権力者でも同じで、むしろ、そういった連中の方が、より大きな問題が起こる。
しかし、マイナスを適切に疑うことに慣れると、むしろ問題を歓迎・・・と、までは言わないが、それほど嫌ではなくなる。

次回は、『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻から、感動的な奇跡のお話を取り上げ、これもやり方を一般的にする。
この『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻は秘法満載で、単独で読んでも良いと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ヒマラヤ聖者の生活探求 第5巻(ベアード.T.スポールディング)
(2)私は何も信じない ~クリシュナムルティ対談集~
(3)方法序説 (岩波文庫)
(4)投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待
(5)千夜一夜物語 巻9の2 ※「アラジン、または不思議なランプ」含む
(6)マスターの教え(ジョン・マクドナルド )

メディテーション
AIアート1179
「メディテーション」
Kay

最強のマントラ

今回は超高級マントラの話で、使えない人も多いとは思う。
効果は、普通の概念での効果とはまるで異なる。
というのは、効果を生むその根本に作用するからで、ごく簡単に言えば神になるものといった感じだ。
あるいは、この世界がコンピューターが作るVR(仮想世界)だとしたら、そのメインコンピューターを操るようなものだ。

ラマナ・マハルシが、ある時、最高のマントラは「私」だと言い、2番は「オーム」だと言ったという話がある。
ただ、これは相手に合わせて言った話で、彼が最も重要視していた言葉は「私は誰か?」だ。
ところが、これは彼が使ったタミール語の「ナン・ヤー」を「私は誰か?」と訳したのだろうが、ラメッシ・バルセカールは「私とは何か?」に近いと言ったらしい。
だが、詩人の『ラマナ・マハルシの教え』の翻訳者である山尾三省氏に、漁師の人が送ってくれた詩の中では、「私とは・・・?」という言葉で表現されていた。
(その詩は『ラマナ・マハルシの教え』の「あとがき」に収録)
これが全く適確で、これが使われなかったのは残念であると私は思う。
よって、最上のマントラの1つは「私とは?」である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、現代に復活したイエス・キリストが最上の言葉と言ったのは「神」である。
昔はそうではなかったかもしれないが、現代では、一般の日本人が使う「神」と英語のGODに、ほぼ差異はないと思う。
ただ、 『ヒマラヤ聖者の生活探求』の信憑性や価値は、著者のベアード.T.スポールディングさえ、「自分で決めて」と言うくらいのものである。
だが、私は「神」というマントラ・・・と言って良ければ、本当に最上のマントラであることは、昔は直観で分かり、今では個人的には検証も出来たと思う。
そこで、もう1つの最上のマントラは「神」である。

ところで、マハルシもイエスも、これらのマントラを「呪文のように繰り返すな」と同じことを言っている。
唱えるのは「1度だけでいい」と言っているのだが、これには困惑するだろう。
まさか、一生に一度唱えればいいというのではあるまい。
だが、これも解明出来た。
それは、このマントラが、鐘やりん(「おりん」とも。漢字では「鈴」。チーンと鳴らす仏具)のようなものであるということだ。
鐘やりんを、まだ音が響いているのに続けて鳴らす人はおるまい。
それと同じで「神」「私とは?」と唱えると、意識の中で言葉が響くのである。
それが響いている間は、もう唱える必要はない。
どのくらいの長さ響くのかというと、それは人それぞれで、数十秒とか数分の場合もあれば、数日とか、もっと長い場合もあるだろう。
このマントラが響く様を現す良い言葉は「余韻嫋嫋(よいんじょうじょう)」だ。
この言葉の意味は、次の通りだ。

音が鳴りやんでも、なお、かすかに残る響き。また、その音が細く長く続く様子。詩や文章の言外の趣や、事が終わったあとの情緒あふれる風情にもたとえる。「嫋嫋」は音声の細く長く続くさま。

つまり、「神」あるいは「私とは?」と唱えて、その余韻嫋嫋を感じることが最上のマントラなのである。

UFO
AIアート702
「UFO」
Kay


余談だが、私は余韻嫋嫋という言葉には、人生で2度しか出会ったことがない。
1つは、とくPさんによる初音ミクさんの楽曲『SPiCa』の中で。
もう1つは、笹沢佐保さんの小説『帰って来た木枯し紋次郎』シリーズ(『木枯し紋次郎』シリーズの続編)のどれかの中で、お寺の鐘の音を、そう表現していたと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省翻訳)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第5巻(ベアード.T.スポールディング)
(3)SPiCa (とくP feat. 初音ミク)※MP3
(4)MIKUNOPOLIS in LOS ANGELES “はじめまして、初音ミクです” [Blu-ray]
(5)帰って来た木枯し紋次郎(笹沢佐保)
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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