ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

パワハラ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

超少食は正しいか?

世の中には、超少食とか、あまつさえ、不食(食べないこと)で、運命が良くなったり、超健康になるなどと主張する者がいる。
そういった輩は相手にしない方が良いと私は思う。
尚、私も一時、超少食を実践し、それが良いことだと言っていたことがあるが、それは間違いであったと反省している。
超少食は、場合によっては、大食より悪い。

食に関しては、『バガヴァッド・ギーター』の、クリシュナ神の教えが適切であると思う。
即ち、「食べ過ぎてはいけない。だが、少食過ぎてもいけない」である。
スウェーデンの科学者、政治家、教育家、宗教家であったエマニュエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)の言い方も良いと思う。
即ち、「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」で、要は、食べ過ぎなければ良いのである。

また、クリシュナ神は、こうも述べている。
「惰眠を貪るな。だが、眠りが少な過ぎてもいけない」
クリシュナ神の教えのようなものは、あらゆることに関し、バランスが大切だということかと言うと、そうとも言えるが、もっと大切なことがある。
それは、人間は、「自己制約(自己コントロール)」が何より大切だということだ。
つまり、人間というものは、放銃(勝手気まま)に振る舞いたい・・・欲望のままに好きなことをしたいという性質がある。
美味しいものを好きなだけ食べたい、性的快楽を果て無く求めたい、偉くなって人をひれ伏させたい、もっともっと贅沢をしたい・・・などである。
そういった欲望は、個人的欲望と言って良いと思う。
そして、個人的欲望を適切な範囲に抑えることを、自己制約(自己コントロール)と言い、それが出来る人間が、本当に優れた人間である。
個人的欲望の自己制約のことをモラルというのであり、本当に優れた人間とはモラルがある人間である。

個人的欲望も、ある程度は必要である。
だが、個人的欲望の1つ、あるいは、特定のものを取り上げ、超少食とか完全な禁欲といったことを称賛する者がいる。
そんな主張をする者が世の中に溢れたら大変なことになる。つまり、間違っている者である。
私の推測では、そんな主張をする者は、称賛されたい欲望(名誉欲)、偽物の大きな力を得たいという、個人的欲望のコントロールが出来ないのである。つまり、モラルがないのである。

ある書によれば、「食は少なければ少ないほど幸運になる」と言った江戸時代の有名な観想家である水野南北は、女遊びに関してはどんどんやれと言ったそうだが、それが本当なら、南北は2重の意味で間違っているのである。
無論、食の慎みは、大変難しいながら、その重要性を訴えたことは立派であったと思う。しかし、それも度が過ぎては、そして、他の個人的欲望は放縦で良いというのが、正しいはずがない。
確かに、水野南北には、妻が8人いたという。
しかし、水野南北は、8人全員を正妻とし、妻たちが歳を取っても、ちゃんと面倒を見たのであり、それをする財力もあった。
気に入らなくなったら捨て、若い女をとっかえひっかえというのは放縦であり、自己制約がないが、水野南北の場合は、その点は自己制約があり、モラルがあったと言えると思う。それが出来ない者に同じことを勧めてはならないはずである。

徳川家康や孔子は、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といった意味のことを重要なこととして守り、人にも教えていた。
あらゆることに対し、そんな態度で挑むことを、自己制約と言い、それを実践する者のことを、モラルがある人と言うのである。
そして、モラルがある者こそが幸運なのである。

例えば、パワハラをするような上司は、尊大に振る舞いたいという、人間だれしも持っている欲望をコントロール出来ない・・・つまり、個人的欲望を自己制約出来ない者であり、モラルがないのである。
そのような者は、一時的に良い状況にあっても、すぐに駄目になり、惨めな状況に落ちる。
パワハラの被害に遭った方は、決して自己制約を忘れてはならない。
そうすれば、幸運に恵まれ、状況は改善すると思う。








抵抗するものははびこる

一頃から、パワハラ、セクハラ行為が厳しく批判されるようになった。
立場が圧倒的に強い者が、弱くて抵抗出来ない者に、あらゆる意味で危害を加え、尊厳を奪っていることを糾弾する流れは強まっているように思われる。
正義を訴える人達は、そういったパワハラ、セクハラ等が行われているのを見つけ出し、それを世の中に告発し、そして、こう言うのである。
「これは氷山の一角だ」
つまり、隠され、外に分からないような非道な行為は、いくらでもあるのだから、それらをさらに探して暴き、罪ある者を断罪し、弱い者を救わないといけないということであろう。
レディー・ガガらの、MeToo運動は、世界的なムーブメントを起こしているように思う。

ところが、何十年も、世の中で、苦労しながらも、前向きに生きてきた多くの人達が、こう言うのを聞くこともある。
「最近の、パワハラ、セクハラ防止の動きは、良いことだとは思うが、それが行き過ぎてコメディーかギャグのように思うこともよくある。昔は、職場の隅で、男が女の子を口説くことはよくあり、確かに、迷惑そうな女の子もいたが、深刻にはならなかった。深刻になりそうだったら、同僚らがその男に『いい加減にしろよ』と諫めていた。男性の上司が若い男性の部下を怒鳴りまくり、稀だが、実際、殴ることもあり、それは『愛あって』という感じでもなかったが、それでも、大抵、良い方向に行った。」

何十年も前のアニメで、主人公の少年が自分を殴った年長の青年に、「殴ったね。僕は親に殴られたこともないのに」と言うと、その青年は「殴られずに一人前になったやつはいない」と返したらしいが、昔は、それに反感を持つ者は稀だったのだと思う。
アニメらしい単純さがあるにせよ、原則、それで正しいことは分かっているのだと思う。

もちろん、児童虐待という痛ましい事件が起こっていることは分かっている。
しかし、なぜ、そのようなことが起こるのだろう?
しかも、そのようなことを重大視する風潮がありながら、実際に児童虐待があると、学校も行政組織も、がん首揃えて何も出来ないのである。
昔であれば、児童虐待の疑いがあれば、刑事がすっ飛んできて、「親が子供に暴力を振るっているという通報があったが本当かね?」とストレートに言い、結果、親か子供か、あるいは、誤報をした者に説教して問題は平和に解決したものであるし、それ以前に、近所の人達が黙っていなかった。

世の中の悪に対し、スイスの著名な精神科医であり心理学者であるカール・グルタフ・ユングはこう言っている。
「抵抗するほど、はびこる(横行する)」
パワハラ、セクハラで言えば、そういったことに意識を向け、感情的に糾弾するほど、パワハラ、セクハラは、より多く、そして、より深刻なものが多くなるというのであると思う。

もちろん、このように、世の中の風潮に反する話をすると、有名人ならタダで済まず、地位や仕事を失ってしまうだろうから、決して言わないだろう。
誰も、パワハラ、セクハラ、児童虐待、その他の、弱い者いじめが善いなどと言っていない。
だが、「そんなことをするやつはぶっ殺してしまえ」と言うような者が、ひょっとしたら、一番の問題ではないかと疑った方が良いかもしれないのだ。
昔のことだが、新聞に、ある中学校で男性教師が女子生徒達の身体検査を行ったことが問題として取り上げられたことがあった。
今なら、あり得ないことであるが、実のところ、当時はそんなに珍しいことでもなかったらしい。
私が、その話をしたところ、1人の男は「羨まし!」とあっけらかんと言ったが、別の男が、その教師らのことを激しく罵りだした。
これは、正直、正義感と言うよりは、「よほど羨ましいのだね」ということだと思う。
つまりね、これもあまり主張すると、有名人なら身が危ういが、他人のことを、口汚く糾弾する者って、同じ穴のムジナなのである。
はい、私も出来たらやりたいと思うが、昔、実際にやった人が、本音で全然楽しくないことを、少し分かるように言ってくれたが、それを聞いたら、なるほど、全然やりたくないって思ったのだ(女子生徒達に失礼な面があるので、内容は言わないが)。
そういえば、レディー・ガガらも、下種な男を叩くよりは、女の子を賢くすることに力を注いだ方が良いと思うのである。

悪いものの存在は認め、必要な対策は行いつつ、それにあまり意識を向けないことだ。
意識を向けるべきは、その反対のものである。
児童虐待ではなく、子供を立派に育てる家庭や教育に関心を向けるべきで、そうであってこそ、悪い問題への実際的な対応が可能になる。
総理大臣が嫌いなら、それに対抗出来る、優れた政治家を応援すれば良い。
口汚く糾弾するだけの者は無能であるように思える。
学校教育や受験制度に反対なら、真の教育に関心を持ち、それを広める活動に参加すれば良いのである。
「抵抗するものははびこる」なら、抵抗せず、冷静に賢いことをすれば良い。
デモというのは、あまり良い結果にならない。効果はあっても一時的だ。
そうではなく、自分がもっと正しいものに目を向ければ、もっと良い道が見つかるのであると思う。
私も、最近、この方向に向かい始めたばかりだが、抵抗の道は行かないことにしたのである。








地球人類は不合格か

「今は、何でもかでもセクハラ、パワハラと言われてやり難い」と言い、労働者保護が過剰なのではないかという声もあるのだと思う。
しかし、それは単に、
「これまではセクハラ、パワハラが横行していた。立場が強い者のエゴが無制限に通っていた」
というだけのことなのだ。
「え、これがセクハラ?(パワハラ?)」
と言うのを見ると、ほとんどが、
「もちろんセクハラ(パワハラ)だ。当たり前だ」
なのである。

もう何十年も前の本だが、竹村健一さんの著書の中で、
「社員旅行は行きたくないなら行かなければよい。ただし、ちゃんと『行かない』と言っておかないといけない」
と書かれていたのは、当時としては非常に進歩的なことだった。
しかし、実際は、ほとんどの場合、「行かない」なんて言えるわけがなかった。
今でもそんな会社が多いかもしれないが、何とか状況は変わりつつある。
社員旅行に行かないなどと言うと、上司に脅され、怖い目に遭わされるか、「従業員の誰もが尊重される良い会社」でも、若い社員のところに、普段は会うこともない偉い人がやってきて「穏かに恫喝」したり、あるいは、延々と「説得という名目のいじめ」を行うようなことも、よくあった。
「社員旅行は仕事だ。参加が当たり前だ」
「普段、交流のない人達と知り合う貴重な機会」
「仲間と深く交流する大切な場」
などという「呆れるほど馬鹿らしい」理屈を押し付けることがまかり通ってきた。
だが、これらは全て、完全なパワハラだ。
「社員旅行への参加の強制は立派なパワハラ」という、当たり前のことが、ようやく認識されてきたのである。
実際、自由であるはずのことを強制すれば、責任者(最高責任者は社長だが)にペナルティが与えられることが普通になってきつつある。

ちょっと信じられないが、昔は(最近も?)、女子社員は社員旅行の宴会は水着で参加が強制されたことがあったらしいが、これは完全な犯罪行為であり、首謀者は懲役で当たり前というのが「当たり前」というのが、やっと認められてきたのだと言える。
そんなことが行われた会社の社長は、当然やめさせるのが当たり前と思う。

最近、テレビニュースなどで、上司に暴言を吐かれ続けて精神に異常をきたしたと会社を訴えるも、会社側は「それは単なる指導だった」と主張するというものを見ることが多くなった。
だが、今の時代、スマホで簡単に録音が出来、それ(上司の暴言等)をマスコミで公けにされて会社側が言い逃れが出来ないというものもよく見る。
それらは、完全に会社側に非があることを認めた上で、ちょっと別のことを言うが、私はそんなものを見る度に思うことがある。
「そんなん(上司の暴言等)普通や」
である。
私は昔の人間であるし、礼儀正しい私は、若い頃、むしろ、良い扱いを受けた方だったが、それでも、上司に殴られこそしなかったが、怒鳴られるなどはかなりあったし、それで鍛えられたのも事実である。
上司はさほどではなかったが、セールスマンやシステムエンジニアをやってきた中で、暴力的か狡猾的かの違いはあったが、お客様によるパワハラは割とよくあったと思う。
お客様の社長に、「言う通りに出来ないなら、(収めた商品等を)全部持って帰ってくれ」などと言われると、若い私は凍りつくしかなかったが、今となっては「鍛えてくれてありがとう」と本気で思える。まあ、その社長は、それほど立派な人ではないのかもしれないが、私には利益があったのである。

昔の『機動戦士ガンダム』で、ブライトさんだったと思うが、「殴られずに一人前になったやつがいるか」というセリフが有名なのではないかと思う。
そして、それはそれで1つの真理なのである。
「愛情持って殴ったかどうかが問題なのだ」などという馬鹿なことは言うべきでない。
上司のエゴで殴るから部下は鍛えられるのである。
人間は、大切にされ過ぎると、確かに駄目になる。
本来は、パワハラに負けない精神力を持ちたいところである。
そして、限度はあるが、強い精神力があれば、状況は改善されるものだと思う。
しかし、セクハラは全面的にいけない。
今もセクハラは実は多い。
自然にセクハラがない世界になれば、この星は合格であるが、それは無理なのかなあと思う。









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下々の者の目線

ジャズ・トランペット奏者の日野皓正さんが、指導している男子中学生を平手で叩いたことで大騒ぎしている人達って誰なんだろう?
確かに暴力は良くないが、日野さんは74歳のおじいちゃんらしい。
いかに高名な演奏家で、相手が子供でも、威圧するほどの貫禄がなくなっているので、つい手が出たのではないかと思うし、それほど本気で叩いた訳でもないようだ。

サラリーマンでも職人でも、普通に長く働いている人で、あれを見て騒ぐ人って、まあ、いないと思う。
私だって、確かに、あまり良いものを見たとは思わないが、私の直接的な感想はというと、
「ちっとも大人になれない自分が嫌になることは多いが、あんないい年になっても、やっぱり同じなんだな」
である。
そして、結論はこうだ。
「実社会での理不尽は、あんなもんやない」
つまり、サラリーマンのお父さんは、あの程度ではない理不尽に耐えて、家庭に「お金を運んでいる」のだ。

教師の生徒に対する不適切発言というのが大騒ぎになることも、最近は多い。
しかし、それらのほとんどが、やはり、
「実際の社会の理不尽さは、その程度じゃない」
のであり、子供は、アホな教師に鍛えられた方が、社会で必ず出会うはずの本物のアホに耐えられると思うのだ。

思想家の吉本隆明さんが著書の中で、だいたいの意味で、
「教師を反面教師にして鍛えておかないと、実際の社会でやっていけない」
といったことを書かれていたと思うが、全くそういうことなのである。
そして、吉本さんは書かれていなかったが、教師が外面がいい人であることを強要されるようになってから、ロリコン・変態教師が増えてきたのではないかと思う。
ロリコン・変態教師って、外面(そとづら)は抜群なのである。

私は、ひきこもり明けに初めてやった仕事が家庭向けセールスで、少なくとも私の場合は、下々の者がやる賎しい商売だったと私は思う。
そんな下々の仕事では、「そんなもんやない」ことは、毎日いくらでもある。
ある時、同僚の20歳の若いセールスウーマンの女性が、外回りから帰って来て、ある家での商談のことを話していた。
「そこのお父さんが、『そのスカートめくってくれたら買ってやる』と言うんだけど、本当に買ってくれるんなら、こんなスカート、いくらでもめくるんだけどなあ」
と言って、キャラキャラ笑っている。
そのお父さん、言うだけで買いそうもなかったからめくらなかったけだという訳だ。
彼女も、学歴や容姿で勝負出来ない、下々の道を歩まねばならない人だったが、それを自覚していた分、逞しいのだと思う。
そして、世の中、こんなの当たり前である。
ところで、一流大学の大学院を出て、海外に留学までした、しかも美人の若い女性を見て、あのセールスウーマンとの境遇の違いに深い感慨を持ったが、でも、そんなエリートでも、あの「下々の」女性のような強さがなければ成功なんて出来ないのであると思う。

以上、まあ、下々の者の意見、いや、ひがみ・・・である。









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劣等感の克服

劣等感のない人間はいない。
昔の日本ではどうだったかは知らないが、現代人の劣等感は深刻だ。
おそらく、昔は今ほどではなかったように思うが、今はかなりひどい。
だが、自分では劣等感をあまり自覚していない場合が多い。
また、ほとんどの人は、意識的にも無意識的にも劣等感を隠そうとする。

劣等感の証拠とは何だろう?
威張るのは、間違いなく、強い劣等感の裏返しだ。
自慢もそうだ。
宮本武蔵は、晩年、仕官がかなって、いわばサラリーマンになれたのだが、自慢ばかりして嫌われていたらしい。
武蔵だって、劣等感のかたまりだったのだ。
武蔵を美化する映画やドラマが多いし、武蔵自体は偉大なところもあったのだが、彼の実態はそうなのだ。
他人の陰口、悪口も深刻な劣等感を表している。
本人のいない場所で、その人をこき下ろし、貶めるのも、強い劣等感のためだ。
大きな音を立てて周囲の気を引こうとするのも、悲しい劣等感による惨めな行為だ。
また、昨今流行のパワハラなどは、深い深い劣等感に突き動かされてやることなのだ。
パワハラを法律やなんかで抑えつけるだけだったら、次はもっと醜悪で悲惨なことが起こるだろう。

お分かりと思うが、劣等感自体はあって良いし、あるのが普通かもしれない。
しかし、現代人の劣等感は強過ぎる。
そして、劣等感も度が過ぎると、自慢や悪口といった外に向かうものではなく、自分に向かう。
自分を卑下するようなことばかり言い、見ているだけで疲れる。
当然、誰にも相手にされなくなる。
そうして、ますます劣等感を深め、精神的だけでなく、肉体的な疾病の症状まで出てくるようになる。

劣等感は、どうして起こるかを説明する。
人間の自我というものは、比較をするのが本質だ。
そして、人間は、自分の肉体や心の負荷しか感じない。
つまり、疲れ、痛み、重さ、悲しさ、悔しさなどは、自分のものしか感じない。
「他人の痛みを分かれ」
と言っても分かるはずがない。
それが分かるには、想像力が必要だということはお分かりと思う。
しかし、現代人には想像力がない。
これは何を意味するか、分かるだろうか?
つまり、痛みは自分にしかないと思い込むのだ。
痛みも、苦しさも、悩みも、焦りも、妬みも、嫉妬も、自分にだけあるのだと感じるのだ。
そんなものを持っているのが自分だけだと感じるなら、深い劣等感を持つのは当たり前ではないだろうか?
他人がそんなものを持っているとは思えないのだから、それを唯一持っている自分は劣っていると思い込んでしまうからだ。

実に想像力の欠如が劣等感の原因である。
だが、現代の学校は、子供達の想像力を速やかに殺している。
想像力があったら、試験の点が取れないからだ。
想像力があったら、学校が正解とする解答を認める訳にはいかないのである。
大企業の宣伝も、想像力のある者にはうそ臭くて見ていられない。
だから、大企業は、巧妙なCMの力で、人々の想像力を殺そうとする。
CMなんて絶対に見ちゃいけない。
刺激的な映画や音楽やレジャーも、我々の想像力を激しく打ち壊していく。
娯楽やレジャーやエンターテインメントを提供する企業は、儲けるために、想像力を働かさなくても面白い、刺激の強いものを作るが、人々はそんな刺激に慣れてしまうので、ますます刺激の強いものを作るのだ。
結果、我々の想像力はますます乏しくなり、ますます劣等感が強くなるのだ。

世間が鳴り物入りで宣伝する、刺激に満ちたものを避けることだ。
想像力を取り戻すことだ。
でないと、あなたは劣等感の苦しさで生きるのも辛くなる。
想像力がないと宇宙とつながらない。
宇宙とつながらないと、自分が万能だということを全く感じることができず、無力感に覆われてしまう。
『ネバーエンディング・ストーリー』で言われていた、やってくる不気味な「虚無」とは、想像力の欠如であり、無力感であり、劣等感だ。
それに襲われ、世界は瀕死の状況だ。

昔のインドでは、「私は彼である」と心で言い、自分の至高性を確認した。
この「彼」とは、神のことであり、人々は、クリシュナ神やシヴァ神、ビシュヌ神、ラーマ神といった神々の中の、自分のお気に入りの神を「彼」と考えていた。
その神に自分が等しいことを常に言い聞かせ、劣等感が入り込む余地はなかった。
しかし、インドの人達だって、それを忘れて久しく、やはり、劣等感が強くなっている。
「私は彼である」と思う時は、息を止めるのが決まりだ。
「私はこれではない」と思いながら息を吐き、「私は誰か?」と思いながら息を吸い、息を止めて、「私は彼である」と心で言う。
賢い人は、それを何度も繰り返したりはしない。
1回か2回で「決める」。
それで神秘力が得られることは、ラマナ・マハルシのような聖者さえ認めている。
だが、神秘力に執着してはいけないとも教えている。

ところが、不思議なことに、肛門を締めれば、想像力が高まり、劣等感が消えていく。
現代人が、良きにつけ悪しきにつけ、頭ばかりに意識があるところを、肛門を締めることで、意識を、胸、腹に降ろしていけるからだ。
意識を胸においてぼうっとすると、大抵のものごとはうまくいく。
そのためには、人差し指を立てるという手もある。
人差し指を立てると、肩から力が抜け、ある程度は肛門が締まる。
これだけでも習慣にすると、かなり楽に生きられる。
だが、肛門を締めることはもっと強力だ。
気が付くごとに、肛門を締めれば、劣等感もなくなり、何でもうまくいくようになる。
大体、肛門が若々しく強く締まった劣等感の強いやつなどいるはずがない。
肛門の締まった者は、悪口を言わないし、自慢もしない。
肛門を締めると、下腹も引き締まってくる。
そうなれば、下腹がたるんだ人々のものである、井戸端会議で、そこにいない人の陰口を楽しむのも終わりになる。
そんな下らない楽しみより、はるかに大きな本当の楽しみがいっぱいあるからだ。
その後は、自己暗示が有効になるので、人生は思うがままである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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