ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

パラマハンサ・ヨガナンダ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

アハ体験で分かった引き寄せ

「アハ体験」というものをご存じだろうか?
「アハ」はドイツ語で、まあ、「分かったぞ!」というくらいの意味だが、不思議なことに、他の言語で該当するものがない。
英語では、同じ意味のことを「エウレカ」と言うが、「アハ」を表すために、後で考えたのだと思う。
真面目な日本語では「腑に落ちる」だと言われているが、「分かったぞ!」の方が適切と思う。

で、あなたにはアハ体験があるだろうか?
私は、中学1年生の夏、アルキメデスのアハ体験(エウレカ体験)同様、入浴中に起こった。
何が分かったのかというと、タイムトラベルの方法で、当時私は『時をかける少女』を読んでいたこともあり、歓喜した。
とにかく、疑いようもなく分ったのだ。
それで、すぐにタイムトラベルをしたのかというと、いつでも出来るのだから慌てる必要はないと思った。
それは、たとえば、新婚の奥さんが可愛いほど、なかなか手を出さないように、本当に良いものは楽しみに取っておくものだ(あまり良いたとえでないかもしれないがw)。
そして、「そろそろ」と思ってやろうとしたら、準備が必要なことが分かり、それが難しいので延期したが、それはそれで良かった・・・というか、実践そのものに、それほど興味がなかったのか、可能になっても、やろうという気があまりなく、そのうち忘れてしまった。

最近、またアハ体験があった。
引き寄せの完全なやり方が分かったのだが、やはり歓喜した。
しかし、これも、分かると、どうでも良くなる。
いつでも出来るのだから、楽しみに取っておいた方が良い。
どの本に書いてあるのかというと、引き寄せとしては書いていないかもしれない。
ただ、思い出せば、パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』に書かれていたことを思い出す。
クリア・ヨガではない。そもそも、私はクリア・ヨガは知らないし、引き寄せのためには別に知る必要はないような気がする。
また、その本には、クリア・ヨガのやり方は書かれていない。
とりあえず、その本から引用する。
無料で教える気満々なのだが、難しいのではなく、簡単過ぎて伝え難いのだ。
数世紀に渡って、若いまま生きているマハーヴァター・ババジという超人ヨギがいる。今はどうなっているか知らないが。
そのババジの弟子に、ラヒリ・マハサヤというヨギがいる。
このマハサヤの修行が進み、いよいよ解脱(悟りを開く。高次元に移行する)ということになったが、それにはババジが手を貸し、マハサヤ自身は何もする必要がなかった。
どうやるのかというと、マハサヤの最後の願いを叶え、エゴを満足させ、執着を消すのである。
あらゆる欲望を滅したマハサヤにも、たった1つ、宮殿のような家に住みたいという強い願望があった。
そこで、ババジは幻術で、そんな宮殿のような家を出現させ、マハサヤは一晩そこに住み、満足して解脱したというわけだ。

引き寄せもこれと同じだが、別に解脱する必要はない。
小さくて良いが、しっかりとした満足を得れば、執着が消え、引き寄せの力がぐっと高まる。
ケーキ好きな人が美味しいケーキを食べる程度では駄目で、本当に、心からケーキを愛する人が、フランスの超一流のパティシエの手作りケーキを食べるくらいでないといけない。
しかし、そんな本当の満足を与えてくれるものは、案外、そこらにある。
今を意識する「今今メソッド」をやれば引き寄せが出来るのも、今を実感すれば満足するからだ。
今回は、こんなところにする・・・と言っても、これで全部なのだが、「アハ」と感じるかどうかなのだと思う。








今を意識する方法をさらに考える

私はかなり前に、インドのヨギ(ヨガ行者)であるパラマハンサ・ヨガナンダの本で読んだ覚えがあるが、あるヨギは、1日8時間の瞑想を何年も欠かさず続けて、ついに解脱(悟りを開くことと思う)を果たした。
こんな話を聞くと、肯定的に捉える人の多くは、「よく頑張った」とか「困難なことをやり遂げた」「素晴らしい忍耐、努力」「尊敬します」みたいなことを言う人が多いと思うが、本人は、好きで楽しくやっていただけだ。
ゲーム中毒がゲームをやるのと同じで、ただ、やることがゲームではなく瞑想だったというだけの話だ。
よって、少しも困難ではなく、忍耐も努力もしておらず、本人にしてみれば尊敬される理由なんて何もないだろう。

まあ、このヨギも、最初のうちは、それほどでもなかったかもしれないが、やがて面白くなったから続けたのだ。
野球の大バッターが、暇があればバットを振っているのも同じで、単に、楽しいからやっているのだ。
メジャーリーグの歴史でも屈指のバッターだったテッド・ウィリアムズも、子供の時から、起きている時間全部でバットを振りたがり、夜も、両親がベッドに押し込まないとやめなかった。子供が、面白くもないことを無理にやるはずがない。やはり、楽しくて仕方がなかったからやったのだ。

本当か嘘かは分からないが、脳科学者の茂木健一郎博士が言っているのを動画で見たことがあるが、ビル・ゲイツは高校時代、プログラミングが好きで熱心にやっていたが、それを見た高校の教師が「お前はそれだけやっていろ。他のことはしなくても卒業させてやるから」と言い、ゲイツは好きなだけプログラミングに没頭出来たらしい。

引き寄せでも、例えば、「神様の奇跡が起こる」と唱えるメソッド(手法)を毎日長時間やるために、根性や克己心が必要なら、果たして効果があるか疑わしい。
このアファーメーション(あるいは呪文)を1日中唱え、1憶円を2回当てたホームレスの男も、やっぱり、これを行うことは辛くはなく、むしろ、楽しくやっていたはずなのだ。
そもそも、そうでなければ続かない。
彼は、ホームレスだったのだから、働くことは嫌いで向いてなかったかもしれないが、アファーメーションは向いていたのだ。

我々も、引き寄せを行うなら、上に上げたヨギやテッド・ウィリアムズやホームレスの男のようであることが望ましいが、それほどではなくても、1日2~3時間は、楽々と行えるメソッドに取り組むことが必要と思う。
もちろん、なかなか時間が取れなくて思うように出来ないのは、ゲーム好きのゲームも同じだろうが、「忙しかったから」と言い訳するようでは、引き寄せは出来ないかもしれない。

それで、最も楽しいメソッドは何かと考えたら、もちろん人にもよるが、私なら、「今を意識する」ことだと思う。
これは、スピリチュアル界隈では「今今メソッド」と呼ばれ、あるいは、「今メソッド」と言う者もおり、私は「中今メソッド」と呼ぶこともある。
いずれににろ、人気のあるメソッドだ。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「常に存在の感覚にしがみつけ」と言ったと本に書かれているが、これは訳(英訳か、そこからの和訳)が拙いのか、あるいは、マハラジの表現が適切でなかったのだと思う。
これも、「今を意識する」ということなのだと思う。
私は、この「今を意識する」を、うまく表現出来ないか考えているが、そのうち、良い言葉が閃くだろう。
とにかく、暫定的に言えば、今感じている、あるいは、今行っている1つのこと以外に意識を向けないことだ。
『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナ神が、
「亀が手足を甲羅の中に引き込むように、感覚を外界に向けず、内面に向けろ」
と言ったが、これも、正しくは、
「1つに向けた感覚以外は全て引き上げろ。その1つの感覚も、五感から心に移せ」
と言ったのだ・・・おっと、なかなか良い表現になった(笑)。
これが、私が子供の時から行っていたやり方に近い。
これをやっている時、ふと、「猫3匹」と思うと、ドアを開けると、3匹の猫が控えていたものだ。
やり方をもっと具体的に言えば、たとえば、目の前にある初音ミクさんの絵を見ていたら、初音ミクさんを見ていることだけを意識し、他のことに意識を向けてはならない。
そして、目で見るのではなく、心で見る。
まだ少し難しいかもしれないが、基本的にはこういうことである。
テッド・ウィリアムズだって、腕でバットを振っていたのではなく、心で振っていたのである。
そして、心でたった1つのものを見たり、たった1つのことを行うことは至福なのである。








本物の自信

世の中には、まるで駄目な人間もいるが、そうではなく、「そこそこ出来る」し、努力もするのだが、限界が見えてしまっている者もいる。
そんな者の中には、トップに立ちたいという願望を持っている者も少なくないが、せいぜいがCクラス。例えば、野球で言えば、プロ野球のスター選手を夢見ているのだが、現実には、強豪ともいえない高校の野球部で、「頑張ればレギュラーになれないこともない」ようなポジションなのである。
言ってしまえば凡人で、そんな者が大化けしてトップクラスに入ることは、まあ、ない。

上昇志向はあるが、低空の壁に阻まれる者・・・そんな者は、子供の時、自信をつけさせてもらえなかった場合が多い。
漫画家だった楳図かずおさんは、3歳の時、家のふすまいっぱいに絵の落書きをしたのだが、それを見た両親は、その絵を絶賛したらしい。
もしかしたら、実際、3歳にしては凄く上手かったのかもしれないが、そんな親でなければ、後の楳図かずおはなかっただろう。
その楳図かずおさんが漫画家をやめた理由も、聞くところでは些細なことだった。
それは、出版社の者が、楳図かずおさんに、「あなたの手の描き方が良くない」と言ったことらしい。
この2つは、人間は、いかに褒められ認められることが大事で、貶されることがダメージになるか、かなり極端に示しているが、大方では、誰でも、だいたいこの通りなのだ。

子供は褒めないといけない。
ただし、闇雲に褒めて良いわけではない。
その子が好きなことで、自主的にやったことを褒めないといけないのだ。
小さな女の子が、テレビでバレリーナが踊るのを見て、その真似をして踊ると、親が、「まあ!バレリーナのようだわ!」と言うと、その子は「いい気」になるが、自信を得たりはしない。
また、子供にピアノを習わせ、やる気を出させようとして、ピアノを弾くその子を大絶賛するようなのも駄目だ。そもそも、その子は、自主的にピアノに取り組む気はないかもしれないし、あまり楽しくない練習をしている子にとって、わざとらしい称賛は、自信をつけるどころか、馬鹿にされた感じがするのである。

つまり、子供が何が好きか、また、自主的にやっているかを分かる親でなければ、子供に自信をつけてあげる褒め方は出来ない。
何でもかでも、褒めれば良いってものではないのである。
そして、ほとんどの者は、そんな褒め方をされたことがないので、自信がないのだ。

インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの自伝『あるヨギの自叙伝』に、タイガー・ババという、虎と戦うヨギ(ヨガ行者)が登場する。
どんな強い人間だって、健康な大人のライオンと戦って勝つことは不可能だが、ライオンより身体が大きい虎では、さらに無理である。
向こう見ずにライオンと戦って、九死に一生を得た者はいたが、虎相手では、救助される間もないし、そもそも、それに挑むほどの愚か者もいない。
だが、タイガー・ババは虎と戦い、無傷で勝った。
そして、タイガー・ババによれば、これは誰でも出来ることだと言う。
タイガー・ババは、普通の人は「冷静な自信」に欠けると言う。
冷静な自信・・・静かな自信と言っても良い。
この言葉を覚えておくべきである。
タイガー・ババは、幼い時、親の本気の称賛を受けたか、あるいは、何らかの努力で、そのようにされた人間と同じ心を持ったのだ。

ほとんどの者は、幼い時、親に馬鹿にされ続け、あまりに自信を失っている。
そんな者だって、エマーソンの『自己信頼』を読めば、本物の自信を持った人間に憧れ、それが人間の正しい姿だと分かるかもしれない。
その本を読むことは有益だろうが、おそらく、十分ではない。
ところで、エマーソンが『歴史』の中で、こんな方法を教えている。
「英雄の物語を読む時、それを自分の物語と見なさなければならない」
突飛なアイデアに聞こえるかもしれないが、全く正しい。
英雄の物語は、実際に、あなたの物語なのだ。








神様の唯一のコマンド(命令)

何度か、「思ったことが、当たり前にすぐ実現する」人のことを書いた。
最近、よく書くのは、トーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』の中にあるものである。
癌で余命3か月を宣告された女性が、淡々と死ぬ準備を進めているうちに、解脱してしまったのだと思われる。
そうしたら、彼女の癌は消滅してしまい、願わなくても、思ったことが勝手に叶うようになった。
彼女は、「以前の私はいなくなった」「私は脇に退いた」と言う。
自我が消えた・・・というより、やはり、「自我が退いた」「自我が変質した」と言う方が正しいと思う。
彼女は、以前の彼女であることも確かだが、以前の彼女と全く違うことも確かなのだ。

彼女のような人間になることが理想であるかもしれない。
解脱したとはいえ、おそらく、彼女に喜怒哀楽がないわけではないと思う。
ある意味、全く普通の人間である。
しかし、やはり、ある意味、普通の人間では全くない。
これを、解脱しているとか、悟りを開いていると言うのだろう。
道元の『正法眼蔵』によれば、やはり、ある意味だろうが、悟りとは、「自己を忘れる」ことである。

まあ、悟りを理屈で考えたり、言葉で説明することは不可能だろう。
とはいえ、上の女性の話だけでも、何となくは分かると思う。
では、もう1つの例・・・彼女とは異なる解脱の仕方をした例がある。
彼女の場合は、「自我を屈服させた」と言えるかもしれない。
自我は死にたくはないが、生きることを諦めるしかない状況に追い込まれ、自我が降参してしまったのだ。

もう1つは、「自我が満足する」ことで解脱した例である。
インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの師の師であるラヒリ・マハサヤの例だ。
マハサヤは修行が進んでいたが、1つの強い願いを持っていた。
それは、「宮殿のような家に住む」ことだった。
どうしても消せなかった最後の煩悩である。
そこで、マハサヤの師であるマハー・ヴァター・ババジが幻術を使い、マハサヤが望む素晴らしい家を出現させ、マハサヤはその家に一晩住み、それで、マハサヤの自我は満足して解脱したのである。
自我は満足すると退くのである。

心からの夢を叶えて満足する人はいる。
しかし、長い間の夢を叶えたが、その快感が忘れられず、再度、夢を求める人もいる。
だが、そんな人は、本当は、それは真の夢ではなかったのだ。
つまり、偽の夢を、自分の本当の夢だと思っていたのだ。
それなら、偽の夢を忘れて解脱した人もいる。
例えば、釈迦の従弟のアーナンダは16歳の美少女との結婚を控えてルンルンだったが、そんなアーナンダに釈迦は、人間の女など比較にならない美しい天女を見せる。
呆然とするアーナンダに、釈迦は、「アーナンダよ、修行すれば、この天女はお前のものである」と言う。
アーナンダは結婚をやめ、修行に打ち込むが、やがて、天女のことも忘れた。
まあ、アーナンダは、天女を見て、結婚をやめた時に、既に解脱したのかもしれない。

昨年の、初音ミクさんライブ「マジカルミライ2020」で、非常に特異な歌が2つあった。
1つは、初音ミクさんが歌う『命に嫌われている』(カンザキイオリさん作)と、巡音ルカさんが歌う『完全性コンプレックス』(やみくろさん作)だ。
いずれも、言ってみれば「生きる」ことをテーマとするが、現代の世相もあるのだろうが、生きる意義が見いだせずに苦しんでいる歌だ。
そして、苦しむことが分かっていても、共に、「生きよう」と言うのだ。
まあ、それほど前向きな感じではなく、「仕方なく」生きるという感じに思えなくもないが。
世界的な悪評と称賛の両方を得ている、SF作家で自己啓発指導者で新興宗教の教祖でもあるL.ロン.ハバードの『科学の進化』という本に、「人間の脳に与えられた唯一のコマンドは『生きろ』だ」と書かれていたのを興味深く憶えている。
そんなプログラムをしたのは神様だろう。悪魔が後からプログラムしたとは考え難い。

上の、癌で死を宣告された女性は、その唯一のコマンド「生きろ」を果たせなくなった。
ラヒリ・マハサヤは、そのコマンド「生きろ」を実行する意味がなくなった。
アーナンダの場合は、そのコマンド「生きろ」の正体を見破ってしまったのだと思う。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か」と問えば、自我は消滅すると言う。
これは、スコットランドの聖者マード・マクドナルド・ベインの師がベインに言ったように、「自我は正体を見破られると消える」という理由によるのだと思われる。
だが、ラメッシ・バルセカールは、それは難しいやり方だと言う。
易しいやり方は、神様に人生を明け渡すことだ。
だがまあ、これも、言うほど易しくない。
だから、命に嫌われていると思っている若者を簡単に救うことは出来ないかもしれない。
だが、必要以上に苦しまないためには、偏見や洗脳を離れた方が良いし、それらは、学校とテレビで叩き込まれたものだ。
そりゃ、学校やテレビから、「偽の生きる目的」を叩きこまれているのだから、苦しいはずだ。
しかし、あまりこれを言うと、闇の支配者に消されるらしい(笑)。

とりあえず、興味が出れば、上でご紹介したトーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』で、癌で死の宣告をされた女性の話や、五島勉氏の『ノストラダムスの超法則 死活の書』の騎士サンピエールのお話を読むことをお奨めする。
それで、何かを感じることが出来ると思う。








自分が英雄であることを思い出すには

アメリカ最大の賢者、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、エッセイ『歴史』の中で、極めて重要なアイデアを述べている。
それは、「英雄の物語を読む時は、それは自分の物語であると知れ」だ。
実際に、その通りなのだからだ。
私は、いったい誰を英雄と呼ぶべきか分からないのだが、イエス・キリストなら、その資格は十二分以上にあるので、新約聖書の福音書を読むなら、イエス・キリストという自分の物語を読むのだと自覚すれば良い。
それと似た教えとして、ジョセフ・マーフィーが、「『ヨブ記』(旧約聖書の中の一章)の意味を知りたいと思うなら、昔、自分がそれを書いた時のことを思い出せば良い」と述べている。
つまりね、どう転ぼうが、あなたは、ただ者ではなく、恐るべき存在・・・人類を代表する存在なのである。
そんな馬鹿なと思うのであれば、あなたは、親や学校や世間や社会や国家に洗脳されてしまっているだけである。
無論、自分が英雄だからと言って、得意になるようなことでもないが、静かな自信を持つべきなのである。
パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』で、トラと素手で戦う男タイガー・ババが言っていたように、我々に欠けているものは、冷静な自信である。
まずは、エマーソンが言う通り、英雄の物語を、自分の物語だと自覚して読むと良い。

あるいは、『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むと良い。
なぜなら、我々は、涼宮ハルヒなのだからだ。
もっと納得し易い言い方をするなら、我々は、涼宮ハルヒと同じ力を持っている。
願ったことは、いかなることでも現実にしてしまう力だ。
ハルヒは、自覚なく奇跡を起こしてしまう。
彼女がいつでも前向きで気分が良いからだ。
もちろん、時にはハルヒだって落ち込むが、すぐに回復する。
「ハルヒ」というのは、おそらく、『張(は)る霊(ひ)』なのである。
我々もまた、張る(膨張する)霊、膨らむ生命を持っていなければならない。
ハルヒの選択基準は、「面白いか面白くないか」だ。
これも、「楽しいか楽しくないか」「ワクワクするかしないか」「ゾクゾクするかしないか」「ロマンを感じるか感じないか」などと置き換えても良い。
楽しくないこと、ワクワクしないこと、ゾクゾクしないこと、ロマンを感じないことは、決してしてはならない。
ハルヒは、小学6年生の時から、ある事件をきっかけに面白いことを求め続けた。
求めたものは与えられる。
ハルヒは、「面白いことは待ってるだけじゃやってこない」「私が待ってるだけの女じゃないことを世界に教えた」と言ったが、その通りである。
ならば、ガッツポーズをすれば良い。
他に、特に何もする必要もない。したければすれば良いだけである。
そして、いかなる時も決して挫けず、全ては良い方向に向かっていると思うことである。
ハルヒは間違いなくそうなのだ。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード