「女はすぐに感情的になるから困るんだ」
なんてことがよく言われると思う。
しかし、いつも究極で正しい判断を出すのは、感情豊かな女性なのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメで、29歳の美しき指揮官ミサトが、ある範囲が選別されている地図を前に、
「敵はこのエリアに来るのよ」
と言うと、14歳のエヴァンゲリオンのパイロットであるシンジが、怪訝に思って、
「どうして分かるのですか?」
と尋ねると、ミサトは自信たっぷりに、
「勘よ!女の勘」
と答える。
笑える場面ではあるのだが、誰だって心の奥では、あまり笑っていなかったはずなのだ。
重要な話し合いの中で、
「感情抜きでお願いしますよ」
というのもよくあると思うが、そういうのを聞くと、私は吹き出してしまうのである。
感情なしに、正しいことなんて分かるはずがないからだ。
「感情抜き」じゃなくて、「自己中心主義はなしに」というのなら分かる。
しかし、感情なしに、どうやって良い案を出せるってのだ?
NHK紅白歌合戦で、
「初音ミクを出しましょう。私はミクが大好きですから」
と誰かが言うと、
「そんな個人的趣味はなしにしましょうよ」
と言われるだろう。
しかし、「出すな」と言う方が個人的趣味なのだ。
お互いが個人的趣味を取り去ったら、必ず、「感情的に」ミクを出そうということになる。
そして、紅白歌合戦の視聴率はぐんと上がるのだ。
冨田勲さんが交響曲の、そして、渋谷慶一郎さんがオペラのプリマを初音ミクにしたのは、個人的趣味ではないだろう。
だが、高貴な感情ではあるのだ。
今の人は、こんなことが分からなくなっているのだ。
学問は、感情を除かなければならないなんて思ってやしないだろうか?
学校では、そんな「安物の学問」が行われており、そんなものに教育されてされてしまったことが致命的なことなのだ。
最先端の科学・・・その中でも、最も純粋な数学において、数学そのものが感情なしに成立しないことが証明されてしまっている。
しかし、そんな証明をしてくれなくても、古代から人間はそんなことは明らかに知っているはずなのだ。
念仏がなぜ良いかと尋ねられて、「感情の問題です」とか、「勘よ!女の勘」などと答えたら、それを色眼鏡で(偏った見方で)見てしまい、念仏に価値がないと判断する人が多いと思う。
さっき、数学の話をしたが、岡潔という世界的な数学者がいた。
あまりに優秀なので、外国では、岡潔というのは、個人の名前ではなくて、スーパー数学者集団の名称と思われていたほどだった。
数学にはノーベル賞がないので、優秀な数学者でも有名になり難い。
バートランド・ラッセルが有名なのは、数学者でありながら、ノーベル文学賞を取ったということもある。
ラッセルは、アリストテレス以来の大論理学者とも言われている哲学者でもあるのだ。
しかし、岡潔はそれに優るとも劣らなかったのではないかと思う。
その岡潔は念仏の行者で、毎日熱心に念仏を称えていたことは、彼の身近な人は皆知っていた・・・というより、自宅に念仏堂まで造っていたのだから分からない訳がない。別に彼の家が、篤い信仰心のある家系であったという訳ではない。
確かに調べれば、念仏を熱心に行っている者が奇跡を起こしている実例は多く、私も驚いたが、別にそんなことは知らなくても、偏見を捨てれば、念仏とは何かが、理屈ではなく感情で、つまり、直観で分かるのではないかと思う。
無論、念仏が向いていない人もいるかもしれないが、そんな人は、別の(神仏の名の)称名や真言でも見つければ良いのではないだろうか。
しかし、念仏を試しにやってみれば、自分にも良いということが分かるかもしれない。私もその口(種類、たぐい)である。
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なんてことがよく言われると思う。
しかし、いつも究極で正しい判断を出すのは、感情豊かな女性なのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメで、29歳の美しき指揮官ミサトが、ある範囲が選別されている地図を前に、
「敵はこのエリアに来るのよ」
と言うと、14歳のエヴァンゲリオンのパイロットであるシンジが、怪訝に思って、
「どうして分かるのですか?」
と尋ねると、ミサトは自信たっぷりに、
「勘よ!女の勘」
と答える。
笑える場面ではあるのだが、誰だって心の奥では、あまり笑っていなかったはずなのだ。
重要な話し合いの中で、
「感情抜きでお願いしますよ」
というのもよくあると思うが、そういうのを聞くと、私は吹き出してしまうのである。
感情なしに、正しいことなんて分かるはずがないからだ。
「感情抜き」じゃなくて、「自己中心主義はなしに」というのなら分かる。
しかし、感情なしに、どうやって良い案を出せるってのだ?
NHK紅白歌合戦で、
「初音ミクを出しましょう。私はミクが大好きですから」
と誰かが言うと、
「そんな個人的趣味はなしにしましょうよ」
と言われるだろう。
しかし、「出すな」と言う方が個人的趣味なのだ。
お互いが個人的趣味を取り去ったら、必ず、「感情的に」ミクを出そうということになる。
そして、紅白歌合戦の視聴率はぐんと上がるのだ。
冨田勲さんが交響曲の、そして、渋谷慶一郎さんがオペラのプリマを初音ミクにしたのは、個人的趣味ではないだろう。
だが、高貴な感情ではあるのだ。
今の人は、こんなことが分からなくなっているのだ。
学問は、感情を除かなければならないなんて思ってやしないだろうか?
学校では、そんな「安物の学問」が行われており、そんなものに教育されてされてしまったことが致命的なことなのだ。
最先端の科学・・・その中でも、最も純粋な数学において、数学そのものが感情なしに成立しないことが証明されてしまっている。
しかし、そんな証明をしてくれなくても、古代から人間はそんなことは明らかに知っているはずなのだ。
念仏がなぜ良いかと尋ねられて、「感情の問題です」とか、「勘よ!女の勘」などと答えたら、それを色眼鏡で(偏った見方で)見てしまい、念仏に価値がないと判断する人が多いと思う。
さっき、数学の話をしたが、岡潔という世界的な数学者がいた。
あまりに優秀なので、外国では、岡潔というのは、個人の名前ではなくて、スーパー数学者集団の名称と思われていたほどだった。
数学にはノーベル賞がないので、優秀な数学者でも有名になり難い。
バートランド・ラッセルが有名なのは、数学者でありながら、ノーベル文学賞を取ったということもある。
ラッセルは、アリストテレス以来の大論理学者とも言われている哲学者でもあるのだ。
しかし、岡潔はそれに優るとも劣らなかったのではないかと思う。
その岡潔は念仏の行者で、毎日熱心に念仏を称えていたことは、彼の身近な人は皆知っていた・・・というより、自宅に念仏堂まで造っていたのだから分からない訳がない。別に彼の家が、篤い信仰心のある家系であったという訳ではない。
確かに調べれば、念仏を熱心に行っている者が奇跡を起こしている実例は多く、私も驚いたが、別にそんなことは知らなくても、偏見を捨てれば、念仏とは何かが、理屈ではなく感情で、つまり、直観で分かるのではないかと思う。
無論、念仏が向いていない人もいるかもしれないが、そんな人は、別の(神仏の名の)称名や真言でも見つければ良いのではないだろうか。
しかし、念仏を試しにやってみれば、自分にも良いということが分かるかもしれない。私もその口(種類、たぐい)である。
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