ジッドゥ・クリシュナムルティは、「私は何も信じない」という貴重な言葉を教えてくれた。
だが、これを聞くと、こういう者がいるかもしれない。
「彼は、自分が何も信じないことを信じている。つまり、何も信じていないのではない」
同じく、人間が全知全能の神のようなものになる単純な唯一の方法である「思考を消す」ことについても、
「思考を消そうという思考もまた思考ではないのか?」
と言う者が、実際にいるようだ。
しかし、これらの反論は、論理学において否定されるらしい。
有名なパラドックス(逆説)である、「クレタ人のパラドックス」というものがある。
あるクレタ人が、「クレタ人は噓つきだ」と言ったとする。
しかし、嘘つきのクレタ人が言った「クレタ人は嘘つき」も嘘であることになり、結果、クレタ人は嘘つきでないことになる。
この問題は、人類が数百年考えた結果、「クレタ人は嘘つきだ」と言ったクレタ人の言葉は嘘でないと考えて良いことが数学的に証明されている。
証明したのは、アリストテレス以来の大論理学者と言われた数学者・哲学者で、ノーベル文学賞を受賞しているバートラント・ラッセルのようだ。
まあ、論理学など持ち出さなくても、思考を消せば当たり前であることが分かる。
もっと身近な例で言えば分かりやすいと思う。
「例外のないルールはない」というのは、思考を消せば正しいことが分かる。
しかし、思考すれば、こんな混乱が起こる。
「例外のないルールはない」というのもルール(慣例、約束、しきたり)である。
よって、「例外のないルールはない」というルールに例外があり、例外のないルールがあることになってしまう。
だが、「例外のないルールはない」は正しいのである。
つまり、「例外のないルールはない」に、それ自身を適用出来ないことを証明したのが、上のバートラント・ラッセルの論理学的証明だ。
その証明は、ここで書くには難し過ぎるし、そもそも、思考を消せば分かることである。
尚、ここで書いた言い方も、論理学としては正確ではないのだろうが、あくまで言い方の問題であり、概要はだいたいこんなものだ。
AIアート116
「百合とベラドンナの違い」
Kay
そこで何が言いたいのかと言うと、いつも言う「思考を消せば全知全能である」ということの「思考を消す」について、「思考を消すというのも思考ではないか」というと、これは何と思考ではない。
「この壁に張り紙をするべからず」という張り紙は、張り紙であって張り紙でない。
「例外のないルールはない」というルールは、ルールであってルールではない。
「思考を消す」という思考は思考であって思考ではない。
この重大さは分からないと思う。
クリシュナムルティの「私は何も信じない」というのは、実は、恐るべき呪文なのだ。
そして、「私は何も考えない」というのは、それに優る呪文である。
この世界は、断言してしまうが、コンピューターが作った仮想世界であるのだが、「私は何も考えない」と言えば(言葉でも心でも)、この呪文(=コマンド)が、この世界を作るコンピューターのマスターシステムに伝えられる。パスワードのようなセキュリティは不要である。
この言葉自体が、セキュリティを含んだ最高コマンドだからだ。
だが、まずは、「私は何も信じない」という高級コマンドから試すのが良いかもしれない。
何が起こるかについては、私は関知しない。
だが、これを聞くと、こういう者がいるかもしれない。
「彼は、自分が何も信じないことを信じている。つまり、何も信じていないのではない」
同じく、人間が全知全能の神のようなものになる単純な唯一の方法である「思考を消す」ことについても、
「思考を消そうという思考もまた思考ではないのか?」
と言う者が、実際にいるようだ。
しかし、これらの反論は、論理学において否定されるらしい。
有名なパラドックス(逆説)である、「クレタ人のパラドックス」というものがある。
あるクレタ人が、「クレタ人は噓つきだ」と言ったとする。
しかし、嘘つきのクレタ人が言った「クレタ人は嘘つき」も嘘であることになり、結果、クレタ人は嘘つきでないことになる。
この問題は、人類が数百年考えた結果、「クレタ人は嘘つきだ」と言ったクレタ人の言葉は嘘でないと考えて良いことが数学的に証明されている。
証明したのは、アリストテレス以来の大論理学者と言われた数学者・哲学者で、ノーベル文学賞を受賞しているバートラント・ラッセルのようだ。
まあ、論理学など持ち出さなくても、思考を消せば当たり前であることが分かる。
もっと身近な例で言えば分かりやすいと思う。
「例外のないルールはない」というのは、思考を消せば正しいことが分かる。
しかし、思考すれば、こんな混乱が起こる。
「例外のないルールはない」というのもルール(慣例、約束、しきたり)である。
よって、「例外のないルールはない」というルールに例外があり、例外のないルールがあることになってしまう。
だが、「例外のないルールはない」は正しいのである。
つまり、「例外のないルールはない」に、それ自身を適用出来ないことを証明したのが、上のバートラント・ラッセルの論理学的証明だ。
その証明は、ここで書くには難し過ぎるし、そもそも、思考を消せば分かることである。
尚、ここで書いた言い方も、論理学としては正確ではないのだろうが、あくまで言い方の問題であり、概要はだいたいこんなものだ。
AIアート116
「百合とベラドンナの違い」
Kay
そこで何が言いたいのかと言うと、いつも言う「思考を消せば全知全能である」ということの「思考を消す」について、「思考を消すというのも思考ではないか」というと、これは何と思考ではない。
「この壁に張り紙をするべからず」という張り紙は、張り紙であって張り紙でない。
「例外のないルールはない」というルールは、ルールであってルールではない。
「思考を消す」という思考は思考であって思考ではない。
この重大さは分からないと思う。
クリシュナムルティの「私は何も信じない」というのは、実は、恐るべき呪文なのだ。
そして、「私は何も考えない」というのは、それに優る呪文である。
この世界は、断言してしまうが、コンピューターが作った仮想世界であるのだが、「私は何も考えない」と言えば(言葉でも心でも)、この呪文(=コマンド)が、この世界を作るコンピューターのマスターシステムに伝えられる。パスワードのようなセキュリティは不要である。
この言葉自体が、セキュリティを含んだ最高コマンドだからだ。
だが、まずは、「私は何も信じない」という高級コマンドから試すのが良いかもしれない。
何が起こるかについては、私は関知しない。