ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

バガヴァッド・ギーター

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人類最高の3人が言った共通する意外なこと

人間は皆、自分は頭が良いと思っている。
どんな愚か者でもそうだ。
実は、自分の頭が良いと思っている者ほど馬鹿だ。
一方、自分は馬鹿だと本当に知っているなら馬鹿ではない。

私は子供の時、何かの雑誌で、東大生に対する「頭が良いと思う人物を5人あげよ」というアンケートで、歴史上の大天才と並べて自分をあげていた馬鹿が半分いたという記事を読み、「東大生って半分も馬鹿がいるんだなあ」としみじみ思ったものだった。
(あくまで昔の東大生の話である)
東大生は、元々は頭が良いが、東大に入って、冗談にでも、そのように考えるようになったら馬鹿になるのである。

また、似たことだが、自分は有能だと思っている者ほど無能だ。
自分に自信を持つことは大事だという話もあるが、優越感を感じる自信は全て不要である。

聖母マリアの人生を変えた一言をご存じだろうか?
天使が、結婚前のマリアと、マリアの親類の老女であるエリサベツの両方に子供が出来るという、信じられないことを言った後、天使はこう言った。
「神には何一つ出来ないことはない」
(ルカ福音書1章37節)

だが、人類で最も有能な人イエスはこう言った。
「私は自分では何一つすることが出来ない」
(ルカ福音書5章30節)
そういえば、『バガヴァッド・ギーター』で、神クリシュナはアルジュナに対し、「人類で最も優れた者よ」と呼びかけていた。
アルジュナは確かに素晴らしい男であるが、そこでは何も出来ずにいた。
そして、クリシュナとの会話で、アルジュナには何も出来ず、何も知らないことは明らかであった。
人類で最も優れた人であるアルジュナですらそうなのだ。

ソクラテスは、巫女が神託として言った、「ソクラテスが人類の中で最も知恵がある」ことを認めた。
なぜなら、「人類の中で私だけが、自分には知恵がないことを知っている」ことが分かったからであった。

実際、自分の馬鹿さ、無能さを知らない者が馬鹿で無能であり、自分の馬鹿さ、無能さを本当に知っている者が賢く有能である。
例外は決してない。
とはいえ、想定の法則の正しい活用方法を知っていれば、誰でも何でも出来るのだが、やはり正しくは、出来るのではなく起こるのである。

美しい光景
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「美しい光景」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(2)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会翻訳)
(3)ソクラテスの弁明/クリトン (岩波文庫)
(4)想定の『超』法則(ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(5)その思いはすでに実現している! (ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(6)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書

脳の本当の役割

人間の能力の限界は、脳の性能の限界と言うよりは、感覚器官の限界かもしれない。
デカルトは、「単に正しいと思える程度のことは全て間違いと決めた」と言ったが、この「単に正しいと思えること」とは、たとえば、太陽と月の大きさは目で見れば同じといったように、感覚器官を介した認識での正しさのことを言うのだと思う。
視力も聴力もなかったヘレン・ケラーは「五感は幻想。Ideaが真実」と書いたが、Ideaをアイデア(観念)という意味で使ったのか、プラトン哲学のイデア(純粋理性概念)のつもりで使ったのかは分からないが、とにかく、彼女は五感は信用ならないと断言している。
『バガヴァッド・ギーター』でも、クリシュナ神は、五感を外に働かせるなと教えている。

「百聞は一見にしかず」という言葉は、別に視覚が聴覚に優るという意味ではなく、「自分の目で見、自分の耳で聞いたことしか信じるな」という意味で、つまり、噂話のような信憑性のないことを信じるなという意味だ。
しかし、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことも十分に疑わしいはずである。
それで、ちょっと昔、栗山天心という事業家が、「百見は一験にしかず」と、経験の重要性を訴えたが、経験も感覚器官を通した記憶であるだけでは疑わしく、内面の閃きを伴ったものでなければ正しいとは言えない。

脳は、本来は大変な能力を持っているが、どうやら何等かの制限がかかっているようだ。
ジル・ボルト・テイラーという脳科学者は、脳梗塞を起こすことで、偶然、脳にかかった制限が消え、脳本来の素晴らしい能力を経験した。
それでテイラー博士は、誰もが正常な状態で脳の力を引き出す方法を考え、世界中に啓蒙しているが、おそらくうまくいかないだろう。
彼女は理屈で考えることで、またまた脳に制限をかけていることに気付いていない。
脳本来の性能を発揮させるには、思考を消すことが必要なのだが、テイラーという最高の脳の研究者がそれに気付かないのだ。
立ち読みした本に書いてあったのを見ただけだが、無脳症といって、脳がないに関わらず、IQ120(優秀と判定される)を示し、大学の数学科を優秀な成績で卒業した青年がいたらしいが、脳はほんの一部があれば高度な知性を示す働きが出来るのかもしれない。

これらの情報から推論すると言うよりは直観的に、脳は思考回路というよりは、我々の知る通信装置とは違う高度な感応装置であると考えられる。
脳にも、それなりの思考機能があるが、天才といったところで脳自体の能力は高くはない(アインシュタインの脳も、実際のところ、凡人との明確な差異はないらしい)。
だから、イーロン・マスクは、脳にチップを埋め込み、脳を外部装置と連携させることで、脳の機能を高めようというアイデアを思いつき、実行しようとしている。彼は、天才はチップを埋め込む必要はないとは言っていない。
だが、そんなことをすれば、歪みが生じ、狂気に陥るだけだ。
脳は感応装置としては完璧で、余計なことでその機能を邪魔しなければ良いだけである。
つまり、思考を消せば、それで十分なのだ。
そうすれば、感応装置としての脳が、どんな形で存在するのかは分からないが、恐るべき能力を持つ英知と共鳴するのである。ここらは、直観に優れた太古の賢人達が言っていることである。

視線
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「視線」
Kay


理屈を説明すると長くなるので略すが、深呼吸をすれば思考は消え、宇宙の英知と感応する度合いが高まっていく。
宇宙の英知は、単に情報的に賢いのではなく、世界を創造し形作る力がある。
その力は無限で、完全な引き寄せの能力がある。
宇宙の英知そのもの、あるいは、宇宙の英知との感応を、昔から神と呼んできたのであり、宇宙の英知を指す時には、神、ブラフマン、大神と言い、宇宙の英知との感応を指す時、内なる神、アートマン、魂と呼ぶが、通常は区別をする必要はない。
そこで、「私は神にいっさいをゆだねる」と宣言し、自分で考えて邪魔をしなければ、自分を超えた高次の存在である宇宙の英知が一切の面倒を見てくれる。
「私は神に一切をゆだねる」の「神」の部分は、仏でもクリシュナでも阿弥陀仏でも魂でも内なる神でも良い。私は内なる神とか魂という言い方が合っているが、それは人ぞれぞれだろう。
そして、深呼吸をすれば、思考が消え、神にゆだねた状態になりやすい。特に優れた方法での深呼吸の場合は効果が高い。
深呼吸をすれば、IQも高くなり、上記の文章も楽々と理解出来るが、それよりも、神に等しい魂の力を引き出せるようになり、全知全能に近付いていくのである。








『バガヴァッド・ギーター』の真意

今回は、『バガヴァッド・ギーター』全体の真意について、バッサリというか、あっさりと片付けようと思う。
ほとんどの解説書は、全く馬鹿げたものである。
『バガヴァッド・ギーター』は、『マハーバーラタ』という壮大な超長編物語の一部であるため、物語の背景や設定を述べると、極めてややこしいが、そんなものを知る必要はない。
知っておくべきことと言えば、こんなことくらいだ。

インドの2つの部族が戦争を開始した。
主人公は、片方の陣営のリーダーの1人で、武勇で知られる王子アルジュナと、その親友であるクリシュナだ。
クリシュナも高貴な家の出で、しかも、あらゆることに秀でた若くて美しいスーパーマンだ。
ところで、戦争をする2つの部族は、極めて近い間柄で、敵の中にも、親しい親族や尊敬する友や師も沢山いる。
そのため、アルジュナは戦いを放棄し、愛しい人達を殺すくらいなら、負けて全てを失ったり、殺されても構わないとクリシュナに言う。
だが、クリシュナは、アルジュナに戦うよう説得するが、その説得が、神の叡智によるものであり、神の本当の教えになっている。

『バガヴァッド・ギーター』の解説書は、特に最近多く出ているような気がするが、「やるべき義務を果たせば幸せになれる」みたいな下らないものが多いような気がする。
そもそも、『バガヴァッド・ギーター』の正しい解説書など見たことはない。
やたら小難しいことを書いていて、書いた本人も何を書いたか分からないに違いないというものならあるかもしれない。

クリシュナは、アルジュナに「戦うべきだ」と言い、その理由を素晴らしい言葉で語る。
しかし、これが誰も分かっていないことだが、クリシュナは、どんな意味においても、「戦う意義」みたいなことを言っているわけではない。
単に、「戦うしかない」と言っただけだ。

フェードアウト
AIアート58
「フェードアウト」
Kay


世間でも、「人生は修行だから、目の前の問題に立ち向かい乗り越えなければならない」と言い、「そうしたら良いことがある(神の恵みがある。優れた人物になる)」のようなことが言われる。
『かぐや様は告らせたい』式に言うなら、そんなことは「嘘である」。
これもまた、目の前の問題に対し、立ち向かうより仕方がないから立ち向かうだけである。
もっと正しく言えば、どんな嫌な問題も、受け入れるしかないのである。
我々は、そんなに良いポジションにいるわけではない。
しかも、アルジュナのように文句を垂れていると、もっと悪くなるのである。

これが真実で、我々に選択権などないというのが事実である。
だが、これを認め、一切の文句を言わず、全てを受け入れると、心が消える。
心が消えたら、我々は、無敵、全能の無限の魂として復活する。
だが、我々は、心を消す簡単な方法を知っているのである。
それが、「私は誰か?」と自分に問うことである。
嫌な現実や、逃れようのない問題に苦しんでいても、それらから逃げるのではなく、かといって、そういったことに余計な思考を巡らすことを止め、「私は誰か?」と問うのである。
これは『バガヴァッド・ギーター』を超える教えである。
これを知って『バガヴァッド・ギーター』を読むと、真実がさらに明らかになると思う。








「私は誰か?」の問い方

「私は誰か?」の問い方を改めて説明する。

「私は誰か?」と問うとして、答はあるのかというと、ある。
その答とは、「全知全能の無限の魂」である。
この魂とは、我々の知る観念で、唯一近いものは「神」である。
その神は、一神教で言う神がより近いが、多神教の場合はトップの神である・・・とはいえ、あくまで観念なので、いちいち神の名まで説明しない。

我々人間は、不幸な理由で、自分がそんな無限の魂であることを完全に忘れ、それと共に、全知全能の力のことも忘れてしまった。。
それで、そのことを思い出すために、「私は誰か?」と問うのである。
問い続ければ、魂の反応を得られるだろう。

春爛漫
AIアート43
「春爛漫」
Kay


だが、我々の魂は力を弱められている。
どうやって弱められているのかというと、魂の僕(しもべ)である心をコントロールすることでだ。
心に魂を支配するような力はないが、魂は、心に幻想を作らせ、それを楽しむことを利用された。
つまり、コントロールされた心が、魂を幻想で覆い、魂に、自分は身体や心であると思い込ませたのである。
だが、魂に残された力が、心に「私は誰か?」と問わせることで、心自身を消させ、それにつれ、魂は自己を取り戻すのである。

上のようなことを記憶に置きつつ、なるべく多く「私は誰か?」と自分に問えば、心が消えていくと共に、魂が力を取り戻していき、自分は、身体や心ではなく、全知全能の無限の存在であることを思い出す。
それなれば、神のごとき魂の力を取り戻すのである。

『ラーマーヤナ』の主人公ラーマが自分と思うと良いだろう。
尚、シータはラーマの半身であることから、シータだと見なしても良いのである。
また、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナでもある。








『老子』第56章を一言で言えば「真に貴い存在」

今回は『老子』第56章である。
この章を一言で言えば「真に貴い存在」である。

『老子』を語ることは、適当にやるつもりだったが、あまりの楽しさに止められなくなった。
なぜなら、『老子』が全81章あるといっても、81の教えがあるわけではなく、たった1つの本当に貴い教えを調べを微妙に変えて語っているのだからだ。
そして、正真正銘、万能の教えである。
これほど良いものがあろうか?

この章でも、本当に貴い人とは、思考しない人であることを美しく語っているのである。
思考しないからこそ、自動で起こる思考は全て無理がなく自然で美しいのだ。
世間では、「思考停止する馬鹿」とか言うが、思考が停止すれば賢者であり、馬鹿な思考をする者が馬鹿なだけである。

異星の少女

AIアート3
「異星の少女」
Kay


徳川家康が、天下取りの秘訣は「上を見ないこと」と言い、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神が感覚を外部に向けないよう教えたのも、煌びやかなものを見てしまうと、それを欲することで余計なことを考えてしまうからだ。
だが、最も効果があるのは、目や耳自体は自由にしていても、意思を内に向けることだ。
そして、その最も易しい方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
「私は誰か?」と自分に問う者を、誰も傷付けることは出来ない。
なぜなら、「私は誰か?」と問えば、思考する主体である自我としての私がロックされ、思考を起こせなくなるからだ。
自我の思考を起こさない人は極めて貴く(いわゆる、良い意味で自分がない人)、誰も神に対するのと同様、ただひれ伏すしかないのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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