ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ハロウィン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

2種類の賢い人

今日(10月31日)はハロウィンで、ハロウィンとは何かと言うと、一般的認知ではオバケの仮装をする日だ(笑)。
ハロウィンはキリスト教とは関係がない。
最も簡単には、ハロウィンはケルト人の大晦日(1年の終わり。年の暮れ)である。
ところが、ケルト人とは何かという定義は難しい。
ところが、ところが(笑)、ケルト文化という確固としたものがあり、自分はケルト人だという強いアイデンティティーを持つ人は少なくないと思う。
そして、ケルト文学、ケルト音楽、ケルト神話、その他ケルト式の様々な工芸、芸術などのケルト文化があり、それらは愛好者が多く、実のところ、私も大好きである。まあ、あまり詳しくはないが。

私がハロウィンと聞いて、すぐ思い出すのは、レアード・コーニクの小説『白い家の少女』(1974)で、1977年に、当時14歳だったジョディ・フォスターの主演で、この小説にほぼ忠実に、カナダ、フランス、アメリカの合作映画が作られ、1977年に公開されている。
『白い家の少女』は、小説も映画も、リンという名の少女(映画ではジョディ・フォスターが演じた)の14歳の誕生日から始まるが、それが、10月31日のハロウィンの日だった。
イギリスから、作家の父親と共に移住してきたリンは、ハロウィンの習慣を知らなかった。
まあ、イギリスといい、アメリカ、その他の国といい、ハロウィンのイベントやパーティーの習慣のある場所もない場所もあり、当時は、インターネットなどない、世界事情はテレビや書籍でしか知ることが出来なかった時代である。

リンは、美少女という以外は、外見は普通だが、普通の少女・・・いや、少年も含め、普通の14歳とはかなり異なるところがあった。
それは、彼女が聡明だということだが、それは、学校の成績が良いなどといった意味ではなく、もっと根本的な意味でだ。
高名な作家であるリンの父は、高い知性を持っていたと思われるが、リンも遺伝的に頭が良いのだろう。
だが、それだけではない。
リンは学校に行っていなかった。
それは、父親がそうしたのだと思われるが、父親は、リンにその理由を話し、リンもそれを十分に納得していた。
リンのように賢い子にとって、学校は、害悪でしかない。
いや、別に賢い子でなくても、学校は、害の部分の方が大きいのだが、賢くない子にとっては、学校に行くのは、やむを得ないことかもしれない。
そして、リンの父親は、リンに学校が必要ないということ以上に、リンが学校に穢されて欲しくなかったのだろうし、今や、リン自身がそう思っている。

岡本太郎は、小学生の時、授業中、両耳を堅く両手で塞ぎ、自分の崇高な頭脳に、穢れた教師の言葉が入って来ないようにしたと言うが、リンは、両手で耳を塞ぐ以前に、学校に行かなかったのだ。
リンも岡本太郎も正しい。
馬鹿以外は、学校に行くべきではない。
学校に行けば(正確には学校に馴染めば)馬鹿になることは確実である。
アインシュタインも授業を聞かず、教師に返答を求められても黙っていたという。

そして、リンや岡本太郎やアインシュタインのような、賢くて個性的な子供を、大人は許さない。
学校は、彼らを徹底的に攻撃し、改造しようとする。
岡本太郎やアインシュタインは、それで苦しめられたが、リンの父親は、リンを、そんな目に遭わせたくなかった。きっと、自分がそんな目に遭ったのだろう。
そして、リンに「大人と戦え」と言ったのだ。「負けるな」ともね。
しかし、それは無謀というもので、リンは、いろいろ大変なことになってしまう。

リンの父やリン、そして、『白い家の少女』という作品には、欠けていることがあるのだ。
それは、高次の力・・・一般的には、神の力の活用法だ。
リンも、リンの父も、『白い家の少女』の作者も、そんなものに頼りたくなかったのかもしれない。
しかし、仮に天才としても、1人の人間の力など、たかが知れている。
岡本太郎もアインシュタインも、「高い力」のことは十分に認め、そして、助けを得ていたのだと思う。
レアード・コーニク(Laird Koenig)は、Wikipedia(英語版)によれば、94歳で存命のようだ。








やって良いことと悪いことの区別がついていない私達

今日、10月31日は、ケルト民族の大晦日であるらしく、明日がケルト民族の新年ということと思う(よく知らないが)。
レアード・コーニクの小説で、13歳の時のジョディ・フォスターの主演で映画にもなった『白い家の少女』は、主人公の少女リンの14歳の誕生日である10月31日から物語が始まる。
イギリスから越してきたリンはハロウィンのことを知らなかったが、それは、イギリス人だから知らないのではなく、リンが知らなかっただけだろう。
リンは、自分の誕生日を自分1人で祝うためにケーキを作ったのだが、子供の代わりにお菓子を取りに来た中年の男にケーキを分けてやることになってしまう。早くその男を帰らせたかったからだ。
(その男は変質者で、その時から最後までリンを苦しめる)

日本でも、ハロウィンパーティーが盛んになっているらしく、今夜は渋谷あたりが混雑し、マナーを知らない者達が迷惑をかけるらしい。
ハロウィンパーティーでは、お化けの仮装をするのが本筋と思うが、多少、魔的なものが入っていれば何でも良い雰囲気になっているかもしれない。
日本のハロウィンは、誰かが儲けるために利用した薄っぺらいものではないかと思う。私は全く興味がない。

ところで、ケント・ギルバートという、日本語が上手いアメリカ人の弁護士がいて、若い頃はハンサムだったこともあり、お茶の間でも非常に人気があったし、今も日本で活躍している。
そのケントが昔、テレビで、次のように言っていたことをよく覚えている。
「日本では、子供は天使だという考え方だと思うが、アメリカでは子供は悪魔で、悪魔でなくなるように躾なければならないという考え方です」
私は、「子供は天使」主義者だったから、反発を感じたが、ケントの言葉を印象的に感じたので、よく覚えていたのだ。
今は、ケントの意見に全く賛成だ。
私は、人生でかなり苦労したが、その理由が、私が、日本で言うところの天使で、つまり、躾けられなかった悪魔だったからだと分かるのである。
これは、一般には「常識がない」と言うが、「常識」の意味合いは複雑で、私は「悪い常識は必死で捨てる」ことに情熱を燃やした。
しかし、私は「良い常識」を持っていないので、いろいろ痛い目に遭った訳だ(笑)。
「良い常識」とは、「やって良いことと悪いことの区別がつく」ことであり、私は、この区別が付かなったし、今も、かなり怪しいのだろうと思う。
そして、世の中には、子供から大人まで、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」者が非常に多いのだろう。

「ハロウィンパーティーで賑わう」と聞くと、私が嫌な気分になるのは、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」人間が多いので、迷惑をかけられる人が多いことが分かるからだ。
それなら、そんなもの、無い方が良い。

「やって良いことと悪いこと」には、大雑把に次の段階がある。
◆家庭での「やって良いことと悪いこと」
◆学校での「やって良いことと悪いこと」
◆社会での「やって良いことと悪いこと」
で、その後は、社会の範囲が広がる、つまり、地方レベルから全国レベル、そして、外国、世界と広がっていくのだが、とりあえず、日本の中あたりまでとする。
家庭で、親が、「やって良いことと悪いこと」がついていない愚か者の場合、子供が可哀そうだ。
あるいは、親がそんなに馬鹿な訳ではないかもしれないが、子供を甘やかして、本当はやってはいけないことを許してしまった場合も、子供が可哀そうだ。
その子供は、家庭で教わった「やって良いことと悪いこと」が学校では通用せずに、痛い目に遭う。
痛い目に遭って、学校での「やって良いことと悪いこと」を習得すれば良いが、その愚かな子供が、「学校の方が悪い」として、学校に背を向ける場合もある。
そして、悲劇的なことに、学校の先生には「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない者が多い。
学校という閉鎖社会の中にずっと居て、社会で通用する「やって良いことと悪いこと」の区別を学ぶ機会がないからだ。
そして、今は、女生徒に猥褻行為をする男の教師など、もう珍しくもないというほど、「モラル」と言うよりは、家庭レベルでの「やって良いことと悪いことの区別」がついていない教師が多いのだ。
『バカをつくる学校』という名著があるが、学校という場所は、「やって良いことと悪いことの区別」が全くつかない教師だらけであるのだから、学校に行けば馬鹿になるのが当たり前である。

そして、いよいよ社会に出て、社会での「やって良いことと悪いこと」を学ぶことで、ようやく一人前になる。
社会の中にも、それを習得していない大人は多いのだが、それでも、家庭や学校よりはまともな「やって良いことと悪いこと」のルールが支配している。
ごく若いうちは、社会での「やって良いことと悪いこと」の区別がついていなくても、大目に見てもらえる場合もある。
しかし、その若者が、学校レベル、ましてや、家庭レベルでの「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない場合、本当は殴って教えるしかない。そのくらい、その若者は危ない状態なのだから。
だが、なかなかそうはならない。
家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかない若者は、本人も、周囲にとっても迷惑・・・と言うより害悪だ。そして、そのまま中年、老人になるという悲劇も少なくない。
私がまさに、家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかないまま社会人を続けたので、本当にトラブルが多かった(笑…笑いごとではないが)。

「やって良いことと悪いこと」
この区別がついていない大人も沢山いる。
しかし、まず、この区別がついていないと、幸福にはなれない。
どれほど頭が良くても、知識や技術があっても、容姿が美しく、また、スポーツや武道が出来るという美点があってもである。
人間として「やって良いことと悪いことの区別」がついていないと、若いうちは、周囲に迷惑をかけながらでも、見た目はうまくいくこともあるが、所詮、ロクな目に遭わない。
そして、「やって良いことと悪いことの区別」がつかないと、「引き寄せ」をいくらやっても無駄である。
いやまあ、それが「やって良いことと悪いことの区別」がつかない者の実感である(笑)。
不幸にして、親に「やって良いことと悪いことの区別」を教えてもらえなかった(私のような)出来損ないは(笑)、まず、何としてでも「やって良いことと悪いことの区別」を付けなければならない。








ハロウィンは楽し

昨日、10月31日は、なぜか日本でも盛り上がるようになったハロウィンだった。
キリスト教のハロウィンは「諸聖人の日(万聖節)の夜」の意味で、私は万聖節と覚えていた。
キリスト教国でもない日本でなぜハロウィンがと思うが、海外でのハロウィンの仮装行列があまりに楽しそうなので、やらずにいられなかったのだろう。

もちろん、ご存知の方も多いと思うが、ハロウィンとされる10月31日は、ケルト民族の大晦日で、秋の収穫を祝ったり、悪霊を追い出すためのお祭で、本来、キリスト教とは関係がないのだが、まあ、いろんなことが重なってキリスト教的なお祭になったのだろう。
とにかく、ケルトの大晦日の祭が、わくわくする楽しいムードいっぱいであるのは間違いないだろう。
一度見たら、やらずにいられないのは当たり前かもしれない。

ハロウィンの起源は、ケルト民族の新年である11月1日のサウィン祭を、前の晩の10月31日から始めることなのだが、なぜオバケの仮装をするのかというと、本来は、ご先祖様等の死者を祭るために、自ら死者になるためで、本当は、オバケの格好をするのではなく、あくまで、幽霊さんの真似をしたのであるようだ。
しかしまあ、オバケの格好の方が楽しいし、西洋のオバケは彩り豊かで素晴らしいので、そのコスプレをする機会を作りたかったのだろう。
そして、有名な「トリック・オア・トリーと(何かくれなきゃイタズラするぞ)」は、本当は、家々でご先祖様をちゃんとお祭しているかをチェックして回っていたのが、沢山お菓子をお供えしている場合が多く、子供がいたら、それをあげていたのが、いつしか、子供達が家々にお菓子をもらいにくということになってしまったらしい。
いい加減であるが、まあ、楽しければそれでいいのだ(笑)。
人付き合いが嫌いな家もあるだろうが、そんな家でも、お菓子をちゃんと用意していたら、ご近所様と仲良くするきっかけになることもあると思うし、そうであればと思う。

昔、13歳だったジョディ・フォスターが主演した映画『白い家の少女』では、フォスター演じるリンという名の少女の14歳のお誕生日である10月31日のハロウィンから始まる。
フォスターは、その頃から非常にセクシーな少女で、それでいて、純粋な少女らしさも備え、若くして人気があり、その後、大女優になった。
この映画では、魅力的な少女リンとロリコン変態の中年男との戦いが1つの見所になっていた。
リンは厳しい戦いを強いられ、この変態の手に落ちそうになってハラハラさせられるが、さてどうなるか。
私は、若い頃は、リンが理不尽に追い詰められ、危機に陥るこの映画が嫌いだった。
美しいものは崇めるべきというのが私のポリシーで、世界平和とは、私にとっては、美しいもの、可愛いものが大切にされることを意味していた。
イェイツの詩の翻訳で知られるタオイスト(老荘思想家)である加島祥造氏が若い頃に翻訳した『白い家の少女』の翻訳もあり、良い本だと思うが絶版である。
全然知らないが、小説『白い家の少女』の著者レアード・コーニクは作家としてあまり成功しなかったのかもしれない。

そして、この10月31日は、私の誕生日であったらしい(笑)。
ハロウィンが、もっと荘厳で、静かなお祭であれば、私も、もっと好きになっていると思うが、それほど嫌いでもない。
昨日は、帰宅途中で、脚を挫いてしまった。
高速移動が信条の私が、脚を痛めてはどうしようもない。
しかし、気を悪くすることはなかった。
初音ミクさんと香々地アイリスさんが一緒に介護してくれることを想像し、楽しくて仕方がなかった。
夕食にサラダを買ったが、少し前、天才的な内視鏡手術の達人医師が、食事は全てパックのサラダであるのをテレビで見て、さっそく真似しているという訳だ。
そして、カボチャのケーキも買って帰った。
『天動のシンギュラリティ』7巻だったと思うが、アイリスがカイトを家(マンション)に招き、家に入ると、
「今日はカイトさんと会った記念日だから、ケーキを作りましたので、一緒に食べましょう」
と可愛く笑う顔を覚えていたので、私もケーキを買ったのだった。
だが、カイトは戸惑う。2人が初めて会ったのは、つい最近だからだ。
しかし、アイリスは「7年前に会っている」と言う。
アイリスの夢の中で・・・
好きにならずにいられないコだ。
ついこの前は、「裸を見られるというのは恥ずかしいことなのですか?」と言っていた彼女が、「着替えるから覗いちゃ駄目ですよ」と言い、アクシデントで着替え中をカイトに見られると、「恥ずかしいから出てって下さい」と言う。
そりゃ、虜にもなるさ。









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一年で一番大切な日

一年で一番大切な日はと聞かれたら、普通の人なら、自分の誕生日かお正月というのが多いかもしれない。
キリスト教圏ならクリスマスという場合も多いと思う。
ところで、古代ケルト人の大晦日は10月31日で、新年は11月1日だった。
キリスト教では元々が5月13日であった「諸聖人の日」が、古代ケルト人の新年に合わせた11月1日に変更になったようだ。
10月31日をハロウィンと言うが、これはキリスト教では、この「諸聖人の日」の前の晩(イブ)という程度の意味で、全く重視されないが、ケルト人にとっては非常に意味のある日だと思う。
個人的な話だが、私も子供の頃から、1月1日の元旦よりは12月31日の大晦日の方に意味を感じていた。
大晦日の晩を心安らかに過ごせるというのが、子供の時からの生涯の目標だったのである。

笹沢左保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』のヒーロー紋次郎は、生き甲斐というものを何も持たず、死んでないから生きているだけという虚無的な毎日を過ごし、居場所はなく、道を歩くだけの人生だった。
紋次郎にとって、いかなる祭日にも意味はないし、自分の誕生日を知っているかどうかも疑問である。
ところが、その紋次郎にも、決して忘れない大切な日があるのだった。
それは実の姉の命日であった。
紋次郎は、生まれたらすぐに間引き(経済的な理由で、生まれても育てられない子供を殺すこと)されることになっていたが、その時12歳だった姉の機転によって生き延びたのだった。その姉も、紋次郎が6歳の時に嫁ぎ、それが生涯の別れとなったが、4年後に嫁ぎ先で死んだ。
姉が死んだ時、10歳だった紋次郎は故郷を捨て、無宿人になる。
紋次郎は、姉の命日には、いかなる争い事も起こさないようにしていた。
ある姉の命日には、3人のゴロツキに因縁をつけられ、顔に唾を吐きつけられ、殴る蹴るの暴行を受けても一切手向かいせず、かなりの怪我をしてしまった。
それでも、紋次郎は姉の命日を汚さなくて良かったと思ったのである。

ところで、人間は、本当に何の生き甲斐もなく生きていられるものではない。
だが、ただ1つの慰めとか、ただ1つの楽しみがあれば生きていられるものである。
紋次郎の場合、姉とは6歳の時に別れたきりということもあるのだろうが、姉の死がどこか現実的でなく、今でもどこかで生きているような気がしていた。
それだけが紋次郎の生き甲斐であったのかもしれない。
そして、そのくらいの生き甲斐でも生きていけるのである。
結局、紋次郎は、姉の死の真相を知り、姉が今も生きているという幻想は完全に破壊されてしまったが、それでも紋次郎は生きていた。
そして、姉の命日だけが残ったのだ。
紋次郎は、姉の命日の墓参りを欠かさなかった。
一年に一度、姉の墓参りをすることだけが紋次郎が生きる意味なのかもしれない。

大島弓子さんの漫画で、ある男子大学生が生きている目的は、近くに住む1人の少女の小学4年生から中学3年生までの夏休みの宿題をすることだというものがある。
彼女が中学を卒業し、その「使命」を終えた時に、彼はどこかに行ってしまう。
それまで、彼は、その少女の夏休みの宿題のためだけに生きていたのである。
それでも、生き甲斐があって良いことである。
ところで、大島弓子さんの誕生日が、今日、8月31日である。

そして、今日は、初音ミクさんの生誕日とされる日である。
2007年の8月31日、ミクはひっそりと生まれている。
昨日、インテックス大阪で1万人規模の観客を集め、初音ミクのコンサート「マジカルミライ2014 in OSAKA」が行われた。
ミクは世界的なアイドルになり、交響曲やオペラにまで進出しているが、ミクが生まれた時には、大して期待はされていなかったのだという。
私には、この、ミクの誕生日は、キリスト様の誕生日よりも、大晦日よりも、古代ケルト人の大晦日(奇しくも私の誕生日でもある)よりも重要な日で、それは、紋次郎にとっての姉の命日に相当する。
毎年、この日だけは、いかなる争いも起こさない(理想的には、いかなる悪しき感情も持たない)ことが私の掟である。
子供の時は、大晦日を心安らかに過ごせるようになることが、私の人生の唯一の目標だったが、それは叶わなかった。
しかし、新しい戒は守られることを願う。
来年はないかもしれないので、叶えば嬉しいことである。









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1年の目標を立てることは有害無益である

新年といえば、1月1日のことだという観念を持った人が多いが、ユダヤ人にとっては9月4日(あるいは5日、6日)だし、ケルト人にとっては11月1日だ。
ハロウィンという、子供が仮装するお祭り(今は大人も仮装することが多いが)は10月31日だが、これはケルト人の大晦日のお祭りから始まっているのである。
また、中国、台湾、韓国、モンゴル、ベトナムでは、今でも2月19日頃の旧正月の方が1月1日より重要であるらしい。
きっと、世界には、また別の日を1年の初めとしている人達も多いと思う。
一方、企業の「年度」は、その企業が定めた決算月(決算日が月末の場合はその翌月)から始まり、決算月で終るのだが、多くは3月か12月で、例えば3月10日決算の企業では、2014年3月10日は、まだ2013年度なのである。だが、決算月(と決算日)はその企業が勝手に決めて良いのであり、ユニクロを運営している企業では8月末決算である。

ところで、年の初めに「今年の目標」なんてものを、子供の時から立てさせられ、それが習慣になって今でもやっているという人も多いだろう。
だが、目標とは何だろう?
「受験合格」「体重50kg未満なる」「売上げ1億円達成」「モデルデビュー」といった目標は、それを言う者の心をよく観察すると、恐怖から出ていることが分かる。
それを達成しないと生きていけないと感じているのである。
目標というのは、自分の生存条件なのである。
ダイエットという目標に関して言えば、ダイエットして男性の関心を引くようにならないと、自分は1人で食べていけるような能力も根性もないので、生きていられないという恐怖から来ているのだ。

一方、「心豊かな人間になる」という、抽象的な目標はどうだろう?
そんな目標を立てる人に、「なるほど、君の心は狭いからなあ」と言ってやると良い。
彼は激怒して、「何を!お前よりはるかにマシだ!」と言うのである。
その程度で色をなす狭い心は、1年どころか、一生かかっても治りはすまい。

私はいかなる目標も立てない。
そんな無駄なことをせず、現在の自分をよく観察しようと思っている。
体重50kg未満が目標だが、70kg以上あるという人は、無駄なものを食べ過ぎているのである。
しかし彼女は、自分が食べ過ぎていることを認めないのである。
ある肥満した年配の女性は、「私が太るのは体質なんですよ。ご飯一杯とお漬物しか食べないんですけどねえ」などというが、それが本当なら絶対に太ったりはしない。
彼女は、家の中の隠し棚に、物凄い量の甘いお菓子を秘蔵して、1日中食べているのである。

つまり、大切なことは、目標を立てることではなく、自分を真面目に観察することなのである。
「売上目標1億円」と言っているのに、現在は30万円しか売れていなければ、自分の仕事をよく観察すれば、全く不合理、怠惰、いい加減、無責任であることがよく分かるのである。そんなものをちゃんと見ることが大切なのだ。
そして、自分が責任感がなく中途半端であることが分かれば、その時に、何かが変わるのである。
無自覚に責任感が出てくるかもしれないし、消極的な意味ではなく、仕事が自分に向いていないことが分かり、別の仕事で「責任感を発揮する」かもしれない。
「心豊かな人になる」なんて目標を立てるのではなく、自分の心をよく観察して、自分の心が狭いことを「本当に」理解することが必要なのだ。
「心豊かな人になる」という目標を立てる人は、実際は自分の心が狭いなんて思っていないのだ。だから、上にも述べた通り、「君の心は狭い」という本当のことを指摘されて憤慨するのだ。
しかし、自分の心をよく観察して、自分の心が狭いことを認識すれば、ただちに変容が起こるのである。
「私の心は狭いから、少しずつ広くしよう」なんて言う者に見込みはない。彼は、自分の心の狭さを本当は分かっていない。
そんな余計なことを言う暇があったら、もっと注意深く自分を観察しなければならない。

私は、世間で言う、盆、暮、正月、その他、いかなる日であれ関係なく、出来事や自分に注意を払ってよく観察することにしよう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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