ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ハルマゲドン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

迫る終末と始まり

個人的な不平不満、あるいは、ただの不況や政策の不備との区別は難しいかもしれないが、それでも、
「今の世界は相当おかしい」「世界は闇に飲まれつつある」
と、直観、あるいは、霊感で感じている人が増えているだろう。
人類全体で、どれほどの人々が、そう感じているのかは分からないが、日本においては、まだ、気付いていない人の方がずっと多いように思う。
だが、アメリカでは、昨年の大統領選挙によって、自由の国であるはずのアメリカが、既に共産主義化していることに多くの人が気付くことになった。
そして、新型コロナウイルスを巡る様々なことよって、世界中で、多くの人々が、「もう世界はハルマゲドンのような状態にあるのではないのか」と強い危機感を感じるようになった。
ハルマゲドンとは、新約聖書の『ヨハネ黙示録』として書かれた世界終末戦争の予言であるが、このハルマゲドンが近付くと、あちらこちらに、偽救世主が登場することも予言されている。
怪しげな者達が、自分が救世主であるかのように話し、本を出し、動画配信しているので、詐欺師に慣れていない者は気を付けなければならない。
本来、そんな偽の救世主は、「こいつは偽物だ」とすぐに分かるはずであるが、偽預言者は、一般民衆にかけられた洗脳や、権力に教育された思考パターンを利用することが巧みなので、普通の人には、なかなか見破れず、大衆の支持を得ることすら珍しくはない。その大成功者がヒトラーなのであるが。
だから、やたら受けが良い人気者・・・たとえば、インフルエンサーなどは頭から疑った方が良いのである。

だが、常に真言を唱えているなら、偽の救世主を見ても、偽物だと、ちゃんと感じるのである。
ところで、偽の救世主は敵のボスではなく、知識があったり、話がうまいなどの理由で利用され操られているだけの下っ端である。
ところが、その下っ端であるはずの偽救世主自身が、自分は選ばれた救世主であると強く妄想していることが多く、その本人の思い込みが伝わって来るし、元々、話がうまいので、本物っぽく感じる場合もあるので気をつけて欲しい。
偽の救世主は、自慢が好きでナルシストである。
イエスは、自分が、知恵においては、ソロモンよりはるかに優るとは言ったが、自分が偉いとか、自分が素晴らしいと言ったことはなかった。
イエスは、自分は、あくまで人々に仕える者であり、自分に出来ることは誰にでも出来ると言い、そして、全ての良い業は神の力によるものであると言ったのである。
そのようなことが書かれた福音書を読んでおくと、偽預言者に騙されないだろう。
そして、日本には『歎異抄』という素晴らしいものがある。これは、短くて素朴な、まるで備忘録のような書であるが、これを読むと、本物と偽物の違いが分かるようになる。しかも、これには、念仏を題材とした真言の究極の極意が書かれている。
あくまで象徴的な意味であるが、阿弥陀、観音、それに、弥勒を擁する光の側の力は圧倒的である。ただ、各自がどちらを選ぶかだけの問題なのである。
今は、闇に騙されてしまっているので、闇が良く思え、闇を選ぶ者が多いが、そんな者達は、日々、不安に怯え、ストレスに悩まされている。
光の存在を感じてはいても、光に確信が持てず、闇の誘惑に負けそうな者も、闇の世界に落ち込んでしまう危険が大きい。
しかし、真言をたゆまず唱えていれば、闇と手を切ることが出来るし、そのために、光は、真言を唱える者をこの上なく気遣い保護してくれるだろう。
もう、それほど長くは続かない。
いつ、いかなる時、場所でも、心の中で真言を唱えていれば、何も心配はないだろう。








自分の額に獣の印があることは自分では分からない

人は自分のことが一番分からないというが、その通りだ。
他人の身体をキリで突き刺して、そのキリをこね回し、相手が苦痛に悲鳴を上げて身悶えする様子をじっと見ながら、自分は良心を大切にする真っ当な人間だと思っているのだ。
そして、その行為の悪さを指摘すると、狂ったような報復に出る。
ソクラテスがデルフォイの神殿に書かれた神託(神のお告げ)である「汝自身を知れ」に学んだように、我々も自分を知らなければならない。

現在は、ハルマゲドン(最終戦争)の世界で、戦いはまず人の心の中で始まるのであり、悪魔は人の心の中に侵入し、速やかに人の魂を喰らって弱め、穢して、その者を自分の手下にしてしまう。その結果は現象世界に現れてくるし、現れている。
悪魔の配下になった人間の額には、獣の印が付けられているという。
こういったことを、最近よく書いているが、同時に、私自身が、悪魔に破れ、額に獣の印を付けられていることも何度か書いた。
すると、「おやおや、Kayさんは負けちゃったのですか?残念ですねえ。では、立ち直るにはこうすればいいですよ」とか、「Kayさんでも負けるのですねえ」といった感じのコメントがかなりあったが(ほとんど公開していない)、そういった上から目線をしたり、他人事のような考え方の者は、とっくの昔に悪魔に魂を食われてしまっているのだ。
また、ハルマゲドンの最中であることを感じ取れないという感覚もまた、悪魔に取り込まれて、直感の力を完全に失ってしまっている証拠なのである。
もし、悪魔に魂を支配されながら、その中に、ほんの一かけらでも、苦しみながらも最終的な侵食に抗っている部分があるなら、自分の状況が理解できるはずなのだ。それができないということは、百パーセント、悪魔の子分に成り下がったということかもしれない。だが、そこまでいくこともないはずだ。ただ、状況は極めて悪いということも確かだ。

実話をもとにした『わたしのいもうと』という絵本がある。
妹は、小学4年生の時にひどいいじめに遭い、学校に行けなくなる。
誰も口を利いてくれないばかりか、返事もしてもらえなくなる。給食当番で、食事を渡しても「きたない」と言って受け取ってくれない。
遠足に行っても、誰とも一言も話さず一日、一人で過ごすしかない。
妹は家でも会話をしなくなり、学校にもどこにも行かずに引きこもる。
やがて、妹は折り紙で鶴を折るようになる。家族もみんな鶴を折り、やがて、妹の部屋は折り紙の鶴で溢れ返る。
しかし、何も変わらない。
家の前では、かつて妹をいじめた女の子達がセーラー服を着て通り過ぎる。セーラー服の少女達は、楽しく快活そうで、何の罪の意識もなく、自分が真っ当な、そして、かなり善良な人間だと思っているし、これからもずっとそう思い、将来、子供でもできたら、「正しい人間のあり方」でも教えるのだろう。
しかし、妹は、やがて命の火が消えてしまう。

だが、実に、彼女達(妹をいじめて後ろめたさのない少女達)はまだマシだったのだ。
ハルマゲドンの世界においては、無自覚に悪を為すだけでなく、悪の衝動が高まり、人が苦しむことをせずにいられなくなる。
会社では、「お前のために言っているのだ」と前置きすることで、心置きなく、相手の抵抗を赦さず、口汚い罵りを浴びせ、見下し蔑んで快感を満喫するのだ。
スマートフォンを見ながら駅などで人ごみの中をノロノロ歩くが、より効果的に迷惑をかけることができる位置の取り方と歩き方で、人々を最も苛立たせることに快感を感じていることを、自分では認めないかもしれない。
タバコを吸いたいからというのもあるが、それよりも、他人に煙を浴びせかけるだけでなく、他人に無理にでも近付いていき、さらに、嫌でも自分に近付いてこざるを得ない状況を作ることを、穢れた心は楽しくて仕方がない。

悪魔が人を操るための虫は、人の心に巣食う。人の心が巣であると同時に美味しい餌なのだ。では、心ごと、それらの虫を葬るのだ。
だが、心は自殺したがらない。だから、そういった試みは成功しない。
唯一残された道は、神の高貴な名を唱え、それで心を満たすことだ。そうすれば、心は消え、悪魔の虫は餌を失って死ぬ。
そして、心が消えた後には、満たされた神の名が響き渡る。神の名が神そのものであることを知る。
神の名は、古代の聖者からの贈り物である。そこには偉大な力を発揮させるプログラムが秘められている。
最も効率的に働く名前を選べば良い。
だが、釈迦の教えが効果を発揮し難い今、力ある名は、おそらく宗教教団としては存在しない弥勒の名だ。
弥勒は、イエスの後のキリストであり、釈迦の後の仏なのである。









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現在、ハルマゲドン(最終戦争)の真っ只中にあるという理由と勝利の方法

不親切な人間というのは、別に良いのではないかと思う。
見返りを期待して親切にしようという下心のない潔さ、清々しさがあるのだし、いらぬおせっかいをされる心配もない。
だが、親切なことをしないというだけでなく、他人に迷惑をかけずにいられない人間がひどく多くなってしまった。
例えば、落としたものを届けてくれないのは不親切であるが、ある意味、落とした者が悪いのだから、諦めても良い。
しかし、その落し物をわざと隠して発見できないようにしたり、二度と見つからないようなところに捨ててしまうような者が多いのである。
これが、悪魔に心を穢された人間であり、ハルマゲドンでは、悪魔はこのように攻撃してくるのである。
このような人間があまりに多いことが、今やハルマゲドンの最中であるという証拠なのである。

欲張りなだけなら良いのである。
自分の食べる分を確保するために、他人の食料を奪うというのも、その者が弱いというだけのことで、あまり酷くないなら、目をつぶってやっても良い。
私も子供の頃、姉のチョコレートを勝手に食べてしまったこともあった(後でこっぴどく怒られたが…)。
だが、ハルマゲドンでは、他人をわざと飢えさせて喜ぶような者が多くなるのである。それが悪魔にとり込まれた者の特徴だ。
あるいは、どうしても耐えられないなら、醜態ではあっても、電車の中や駅のベンチでパンなどを食べても良いだろう。しかし、そんな場合は、せめて臭いがなく、袋を破る音や、食べる音のしない食べ物を選ぶのが人間である。だが、そうではなく、周囲にその食べ物の臭いを撒き散らして平気なのは、既に悪魔に魂を食われてしまっているのである。

スマートフォンが大好きで、駅などの人ごみでも、どうしても触らずにいられないなら、それはそれで仕方がない。だが、ハルマゲドンにおいては、わざと周囲に迷惑をかけて、人々を不快にさせずにはいられない者が多いのである。そのような者も既に、悪魔に魂を売っているのである。
タバコが好きで、歩きながらどうしても吸いたいなら、容認できない訳ではない。しかし、現在、歩きタバコをする者の実に多くが、無自覚と言いたいのかもしれないが、そうやってタバコを吸いながら、わざと他人に近寄る、あるいは、他人が自分に近寄らざるを得ないような歩き方をしているのがよく分かるのである。

このような者達を見ても、もしあなたが神の側にいて、悪魔に穢されたくないなら、なるべく心を乱してはならない。憎んではならないのだ。それどころか、蔑んでもならない。
なぜなら、良い人間に、そのような感情を持たせるのが悪魔の常套手段だからだ。
人間は、憎む相手、恨む相手、蔑む相手に似てくるのだ。そんな人間を悪魔は簡単に支配できるのだ。
私も、悪魔のそんな策略にまんまとはまり、悪魔の手先になってしまった。

昔、敬愛する丹波哲郎さんが、こんなことを言われていた。
「男がスケベなのは当たり前だが、女の子をわざと恥ずかしがらせて喜ぶ男は、悪霊にとりつかれた下種だ」
丹波さんも相当スケベな方だったが、ウブな女の子を相手にする時は、嫌な思いをさせないよう非常に気を使うので、後になっても、その女の子にずっと慕われ、生涯、人生相談に乗ってやったりしていたという。
実は、それが日本の伝統だという話もある。
柳田國男など所詮「学者先生」だと言い、各地方の人々と本当の友情を結ぶことで、その土地の本物の風俗を知ることができたという民俗学者の赤松啓介さんは、多くの村では、娘が13歳ほどになると、親が見込んだ立派な大人の男性(ほとんどが妻子持ちだろう)に男女関係の手ほどきを頼み、男性はその後も生涯に渡って娘の良い相談相手になるのだが、それが最善でないにしても、国のあり方によっては、女の子にとって幸福になれる可能性を高める優れた方法だとは思うのである。
ところで、良寛さんが子供好きで、子供達と一緒によく遊んでいたという話を御存知の方も多いと思う。
しかし、良寛さんは、昨日まで一緒にいた女の子が、一人また一人と消えていくのに気付く。家が貧しく、親も泣きながら娘を身売りさせることが多くあったのだ。
良寛さんは、自分の無力を嘆き苦しんだ。
これに関しての話だが、上にあげた赤松啓介さんの本にもこんな話がある。
明治の頃の日本でも、多くの子供達が、工場労働に従事するために、田舎から出てきて、住み込みで働かされる。
子供達は男の子だけでなく、女の子も当然いた。
すると、子供達を雇う側では、拒否ができない女の子達をなぐさみものにするのだが、それは無論、立派なことであるはずがないが、道徳を説いてどうなるものでもないというのが現実だろう。
可愛い女の子なら10歳くらいから、男達はくじを引いたりして取り合ったという。
そして、最も人気があるのは、12~13歳くらいの美少女であったという。
それもまあ、仕方がないとしよう。
しかし、それならそれで、優しくしてあげ、普段の生活の中でも、いろいろ相談に乗ってやれば良いと思う。
だが、男共の中には、わざと痛がらせて喜ぶような下種がいたという。
良寛さんも、そんな連中がいることを知っていたからこそ苦しみ、嘆いたのである。
だが、私が思うに、昔であれば、むしろ、そんな男は少数派だったのではと思う。
しかし、もし、現代において、そんな立場に立てれば、昔とは比較にならない男共が、いたいけな少女達を虐待するはずだ。
そういったように煽り立てるのが、ハルマゲドンにおける、悪魔の戦略なのだ。
現代のアダルトゲームや、アダルト同人誌で、少女達を無慈悲に過激に虐待するものを見たことがあるが、いかな私でも、少しも良いとは思わず、ただ醜悪に感じたものだった。また、中年も過ぎたような学校教師が、教え子の小中学生の女子生徒をなぐさみものにするというのは、今や日常茶飯事で、誰も驚かないというのが、ハルマゲドンを象徴していると言えるだろう。そういったことも含め、学校はいまや、悪魔の巣窟であるのかもしれない。

テレビで極悪な犯罪者のニュースを見て過剰に憤り、「死刑にしろ!」なんて言う者は、既に悪魔に魂を奪われているのだ。
神に留まり、悪魔を拒絶する者というのは、絶対にそんなことを言わないものだ。それは断言する。
だが、あなたも油断して、人を憎み、恨み、妬むなら、そこから悪魔につけ込まれる。
いや、事実を言えば、あなたは、悪魔に侵入され、魂を穢されるのを免れる術はほとんどない。
無論、私も、いや、私は特に他愛なかった。悪魔共には「歯応えのないやつ」と馬鹿にされたものだ。

世の中を見て、あまりに憤ってはならない。
何度も言うが、道徳や良心にあまりに欠ける者を見ても、憎んだり、見下してはいけない。
今はハルマゲドンの最中なのだ。戦争中なのだ。悪魔との、不利な戦いの最中にいるのだ。
道徳や良心を全く持たない者達が溢れ返っているなど、当たり前なのだ。

私がただ1つ掴んだ、勝利の方法がある。
京都の広隆寺(こうりゅうじ)に、1本の赤松から彫られた、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)という、総高137.5cmの、実に質素な弥勒菩薩像がある。
聖徳太子が大切にし、昭和20年代の、本当に「見る目」を持った人達によって、国宝彫刻の部第一号に選定された、文字通り、我が国最高の仏像だ。どんな豪華できらびやかな大仏も、飾り一つない、この素朴な弥勒像には及ばない。
そして、現代最高の哲学者カール・ヤスパースが、人類史上最高の彫像と言われる、古代ギリシャや古代ローマの、神や英雄の彫刻すら、この弥勒像の足元にも及ばないと言ったのを初め、やはり、本当に見る目を持った者であれば、この弥勒像の真実の美が分かると思う。
この弥勒像を思い浮かべながら、ただ、弥勒の名を呼べば良い。
呼び方は、普通は、「南無弥勒仏(ナムミロクブツ)」、あるいは、「南無弥勒菩薩(ナムミロクボサツ)」になるのだろうが、「弥勒」、「弥勒様」、「マイトレーヤ」でも良いと思う。好きなように心で唱えれば良い。可能なだけ多く。
私が、最高の成功哲学書と思っている『ノストラダムスの超法則~死活の書~』の著者、五島勉さんの『未来仏ミロクの指は何をさしているか』によれば、それであらゆる幸運にも恵まれるという。
尚、五島さんのノストラダムスの予言の解釈が外れたというのは大誤解で、全て的中している。1999年7月に、原爆か大隕石が落ちてきて地球が滅ぶことだけが予言の的中だと思うのは、あまりに愚かであると思う。それは、各自調べれば分かると思う。
また、上記『ノストラダムスの超法則~死活の書~』は、当時、最も勢いのあった頃の竹村健一さんや舛添要一さんが推薦の言葉を書いている。
下に、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を、仏像写真のスペシャリストである小川光三さんが撮影した最高の写真を収めた本もご紹介しておく。









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初音ミクに、美少年だった未来仏弥勒の姿を見る

古代マヤ文明の太陽暦であるマヤ暦が、昨年(2012年)12月の21日から23日の間で終ることから、その日が世界の終焉になるのではないかという話があった。
それはどうなったのであろうか?
ところで、今朝も書いたが、地球は何年も前から、聖書の「ヨハネ黙示録」に書かれたハルマゲドン(最終戦争)に突入しているが、その主戦場は人間の心の中だ(結果は現象世界に現れる)。
そして、戦いは、悪魔軍が圧倒的優勢で、2012年12月22日には、地球は悪魔の手に落ちると私は思っていた。
しかし、黙示録では、ハルマゲドンは確かに悪魔軍がいったんは勝利するように見えるが、イエスが天から救いに来ることになっているはずなのだ。
イエスは来たのだろうか?
ところが、偉大な霊覚者であり、世界的な教育者として知られ、さらに万能の天才と言って差し支えないであろうオーストリア帝国(現代のクロアチア)出身の神秘家ルドルフ・シュタイナーは、世界を救いに現れるのは弥勒菩薩であると述べていた。
弥勒菩薩は、イエスの後継者で、ある意味、イエスを超えている。
ところが、『法華経』で、弥勒菩薩が釈迦の後継者に指名されていることはよく知られている。
また、弥勒三部経と言われる3つの経典や、法滅尽品という経典にも、弥勒菩薩が、釈迦の後継者であることは明言され、やはり、ある意味、釈迦を超えている存在と思う。
弥勒菩薩が、釈迦とイエスの両方の後継者であるとは、どういうことだろうか?
これに関し、シュタイナーは、その謎を明かしている。
シュタイナーは、弥勒菩薩はイエスの後継者だが、釈迦の強力なサポートを受けているといったことを述べているのだ。

では、昨年、弥勒菩薩は現れたのであろうか?
弥勒菩薩が弥勒仏として現れるのは56億7千万年後とも言われるが、こういった数字を挙げた場合、経典では大抵、別の意味があるので、その数字自体は気にしなくて良いと思う。いかなる経典でも、数字をまともに考えたら、あまりに非現実で、話にならないことは御存知の方も多いと思う。

私は、別に冗談ではなく、初音ミクの中に、弥勒存在があると思っている。
簡単に説明しようと思う。
今年(2013年)2月25日に亡くなられた、神道家で合気道の達人であった佐々木の将人(ささきのまさんど)さんは、中村天風や植芝盛平の直弟子だった。
その佐々木の将人さんの著書『数霊のメッセージ』に、神道の秘術と思われる、9×9の81の数字が並んだ元数盤というものがある。
縦横が反対になっているが、同じものと言って良いと思う9方陣が、深田剛史さんの本にもある。
この元数盤、あるいは、9方陣の、縦横斜の数字を足せば、いずれも369になる。369(ミロク)である。
弥勒は、インドの原語ではマイトレーヤ、あるいは、メッティヤらしいが、なぜか原語と似ていない。阿弥陀はアミターバで、文殊がマンジュシュリーというように、弥勒ももっと原語に近い音写がされても良さそうなものだ。
弥勒という名は、ミラクルの語源であるミラクルムであるという説もある。
また、まだ仏になっていないので、未録の仏だから弥勒だという話もあるようだ。
だが、佐々木の将人さんは、やはり、369が弥勒であり、この数字を大切にしなさいと著書に書かれていたのである。
初音ミクは、そのミクという名から、39が彼女の数字とされている。
ミクは漢字で書くなら、「未来」であると言って良いだろう。
そして、弥勒菩薩は、釈迦の後継者として、未来の世で仏になることから、「未来仏」と言われている。偶然にしても、面白い一致である。

昨年(2012年)11月23日、東京オペラシティ・コンサートホールで、日本フィルハーモニー交響楽団、慶応大学、聖心女子大学の合唱団、そして、シンフォニーヒルズ少年少女合唱団の総勢三百人の大演奏団によって公演された、冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』は、宮沢賢治の世界を音で描くという冨田さんの60年来の夢であると共に、冨田さんや様々な人々の深い想いの込められたもので、指揮者の大友直人氏も言われたように、圧巻の作品となった。
この交響曲で、冨田さんが「他には考えられない」と言ってソリストに迎えられたのが初音ミクだった。
私は、この演奏のCDを軽く百回以上聴いたが、ミクの中に、地上を救いに来た弥勒の慈悲を確かに感じた。
冨田さんは、ミクに、本来は男の子である又三郎や、カンパネルラの役を担わせたのだが、それが、不思議なほど似合っていた。
実は、弥勒であるマイトレーヤ、あるいは、メッティアは実在していて、少年の時に釈迦の弟子になっているが、大変な美少年であったらしい。
このコンサートでの、Tda(ティーダ)式Appendミクと呼ばれる、Tdaさんデザインの美しいミクの姿に、25歳で亡くなったと言われる弥勒の少年時代が重なるようにも思う。
私は、もし、このコンサートが行われなかったら、ハルマゲドンにおいて悪魔軍の圧勝となり、人々の心は更に荒み、堕落して、それがあらゆる惨事・・・例えば、壊滅的な天災、中国と日米を巡る危機的な状況の発生、北朝鮮の暴挙といったことまで引き起こし、地球が滅んでいた可能性もあったと思う。
冨田勲さんと初音ミクが世界を救ったのであると私は思っている。
さらに秘密を明かせば、弥勒の名を呼べば、ハルマゲドンの戦いに打ち勝つことができる。
弥勒は、慈悲に満ちた謙虚な菩薩であるが、イエスや釈迦を超えた仏でもあるのだ。
信じられないなら、以下に挙げた書籍を研究していただき、自分で答を出されても良いと思う。
ただ、弥勒にしろ、マイトレーヤにしろ、美しい名前なので、素直にその名を唱えても良いと思う。
信仰者の間では、「南無弥勒菩薩」、「南無弥勒仏」と言うようである。

















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ハルマゲドンは始まっている

ヨハネが黙示録として記述したことがらは、「神がキリストにまかせ、キリストは天使を送ってヨハネに教えた」ことである。
それは最終戦争である。
ハルマゲドン(最終戦争)と、これまでの戦争の違いは何であろう?
これまでの戦争は、一応は、国と国との戦い、支配者と蹂躙された被支配者といった形の戦いだった。
しかし、その内実は神と悪魔の戦いであったのだ。
ハルマゲドンにおいては、世の中の出来事が、神と悪魔の戦いによって起こっているということが鮮明になる。

もし、第二次世界大戦中であっても、現在、戦争が起こっているということに気付いていない者がいれば、その者が日本人であれば、アメリカ軍が日本の民家や重要な文化遺産を爆撃して焼き払うのを見ると、「アメリカは狂った悪魔の国だ」と思うであろう。しかし、戦争だと知っている者にとっては、ある意味、当然のことなのである。
現在の我々の大半が、実は、そのように、戦争中なのに戦争が起こっていることを知らない無知な人間と同じなのである。
親が子を殺し、学校では、群を作った子供達が、群に入れず弱い立場の子供をいじめるのはもちろん、教師もいじめに加担して子供を自殺させるというのは、ハルマゲドンの中にあるのだから、当たり前なのである。
北朝鮮が、核実験を繰り返し、ミサイルを飛ばすのも、ハルマゲドンにおいては当然のことだ。
中国が急に尖閣諸島の領有権を強引に主張し始め、軍事力で脅しをかけてくるのも、不思議なことでも何でもない。
だが、間違えてはならないのは、日本と中国の戦いではないのである。
神と悪魔の戦いなのである。どっちが神でどっちが悪魔というものでは決してないのだ。
ハルマゲドンの戦場は心の中である。それは、人類全体の心の中であり、我々一人一人の心の中でもあるのだが、そこが、神と悪魔の戦いの戦場である。

悪魔は、快楽と欲望を武器とする。だから、戦わずして勝てるようなものだ。
美味しい食べ物や、強力な性の誘惑で罠に誘い込んで、あっという間に人間の魂を殺してしまう。
イエスが言ったではないか?
肉体を殺せる者を恐れるな、魂を殺せる者に注意せよと。
そして、心の中の戦争は外界に姿を現すことを覚えておくのだ。
地震や津波、火山の爆発といったものは、心の中での悪魔の軍勢の攻勢と勝利が現れたものだ。
これまでの時代ではあり得なかったほどの広い範囲を水没させてしまうような大津波による水害が次々に起こるのは、ハルマゲドンによるものだからだ。

私はもう、自分が神と悪魔のどちらについているのか分からない。
私の全てが神か悪魔の一方についているということはないだろう。
しかし、9割までが悪魔につくこともあるし、それを4割にまで落とすことに成功することもある。
実は、私は、すっかり悪魔に取り込まれて、魂を殺される寸前であったのだ。
それが、昨年11月に、東京のオペラシティ・コンサートホールで行われた、冨田勲さんが制作し、初音ミクがソリストを務めた『イーハトーヴ交響曲』のCDを百回以上聴いたことで、なんとか完全に悪魔に支配されることだけは免れた。
あのコンサートは、私だけでなく、多くの日本人、そして、世界の人々を救ったのだ。
そして、ますます強まる悪魔軍の攻勢の前にまたも敗れそうになった時、私に、自分の名である「ア」が与えられ、私の神の特別な名が与えられたので、反撃が可能になったことは、何度も書いた。
皆さんも、自分に「ア」と呼びかけ、「吾(ア=私)は誰か?」と、「自分で」探求しなければならない。
難しいと思うなら、呪文のように、声や心で「アー」と唱えたって構わない。その回数は多い方が良い。
そして、自分の神の名を見つけ、それを常に唱えよ。
その神の名は、アマテラスかもしれないし、アメノミナカヌシかもしれない。
阿弥陀かもしれないし、クリシュナ、あるいは、ゼウスやアテーナー、アポローンかもしれない。
分からなければ、好ましいと思う神の名で良いから、常に心で唱えるのだ。
それで、心の中の悪魔を、心ごと葬るのだ。
『ヨハネ黙示録』を読めば、現在がハルマゲドンの最中であることがよく分かると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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