私はキリスト教徒になったことはないが、新約聖書の福音書は16歳の時から読んでいる。
その中で、福音書に記述されていることで気になることがあった。
同じようなことが書かれている2つの部分である。
1つは、湖の沖に浮かぶ船の中のイエスの弟子達が、岸から湖の上を歩いてこちらに向かってくる人影を見て、幽霊だと思って恐がった。
すると、その湖の上を歩く者が言う。
「恐れるな。私だ」
それで弟子達は、その人物がイエスであると分かった。
これは、普通に考えれば、弟子達は、声によってイエスだと判別出来るということで、イエスもそう思っていたということだ。
もう1つのところはこうだ。
イエスが磔の刑で死んだ後、イエスの弟子達が部屋に居る時、1人の人物が部屋に入って来て、弟子の1人が、「あなたは誰ですか?」と尋ねる。
すると、その人物は「私だ」と言い、弟子達はイエスと気付くが、確信出来なかったので、イエスは磔にされた時に槍で刺された傷を見せる。
今度は、弟子達は、イエスの声を聞いても分からなかったのだ。
引き寄せ界の重要人物であるネヴィル・ゴダードは、福音書のみならず、新約、旧約の聖書の全体を通して、このようであると言う。
つまり、神もイエスも、「私は神である」とか「私はイエスである」とは全く言わず、いつも「私だ」と言うのだ。
ゴダードは、その「私だ」は、英語で言えば、「I AM」だと言う。つまり、「私は在る」だ。
旧約聖書で、モーセの前に現れた神は「私は『私は在る(I AM)』だ」と言っている。
(原語のヘブライ語では、神は「エヒュー・アシェル・エヒュー」と名乗っているが、これが「I AM THAT I AM」と訳されている)
だから、ゴダードは、神は「私は在る」なのであるが、誰でも「私は在る」と思っているし、人間が唯一確信出来ることは、「私は在る」だけであると言う聖者もいる。
デカルトは「疑っているわれは確かに存在する(一般には、われ思うゆえにわれあり)」と言い、「疑っている」と限定はしたが、究極の真理は「われあり(私は在る)」だということには気付いていた。
もし、あなたが、肉体から魂を抜き取られたらどうなるだろうか?
その時、あなたは、肉体ではなく、魂が自分だと感じると予想出来ると思う。
昔、NHKで放送されていたアニメ『キャプテン・フューチャー』(原作はエドモンド・ハミルトンのSF小説)で、キャプテン・フューチャーことカーティス・ニュートンは、肉体から魂を抜かれたことがあった。
その時のカーティスの反応が面白い。
「肉体がなくなっても目が見えるのか?これは驚くべき発見だ」
これほどの緊急事態でも、さすがに宇宙一の科学者は冷静であるようだ。
だが、それなら、存在の自覚があることに驚くべきである。
カーティスは機械によって魂を抜かれたのだが、これは、言い換えれば、魂から肉体を除去したのである。しかし、この装置は、魂から心まで除去しないようである。
もし、心まで除去出来れば、カーティスは全知全能の神になっていたと思われる。
心まで抜かれても、存在の自覚はある。それが神であるようだ。
そして、肉体も心もある我々も、存在の自覚を感じることが出来る。
だが、普通の人は、存在の自覚を重要視しない。
もし存在の自覚を大切にすれば、全知全能の力と一致していく。それが、ネヴィル・ゴダードの引き寄せの根本原理である。
だから、「私は在る」と唱えることが重要で、それだけで引き寄せの力は強大になる。
すぐには納得出来ないと思うが、やってみれば分かると思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(2)アイ・アム・ザット 私は在る~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(3)新約聖書 福音書(塚本虎二訳。岩波文庫)
(4)聖書(フェデリコ・バルバロ訳)
(5)恐怖の宇宙帝王/暗黒星大接近! <キャプテン・フューチャー全集1>(エドモンド・ハミルトン)
AIアート1229
「女神の出現」
Kay
その中で、福音書に記述されていることで気になることがあった。
同じようなことが書かれている2つの部分である。
1つは、湖の沖に浮かぶ船の中のイエスの弟子達が、岸から湖の上を歩いてこちらに向かってくる人影を見て、幽霊だと思って恐がった。
すると、その湖の上を歩く者が言う。
「恐れるな。私だ」
それで弟子達は、その人物がイエスであると分かった。
これは、普通に考えれば、弟子達は、声によってイエスだと判別出来るということで、イエスもそう思っていたということだ。
もう1つのところはこうだ。
イエスが磔の刑で死んだ後、イエスの弟子達が部屋に居る時、1人の人物が部屋に入って来て、弟子の1人が、「あなたは誰ですか?」と尋ねる。
すると、その人物は「私だ」と言い、弟子達はイエスと気付くが、確信出来なかったので、イエスは磔にされた時に槍で刺された傷を見せる。
今度は、弟子達は、イエスの声を聞いても分からなかったのだ。
引き寄せ界の重要人物であるネヴィル・ゴダードは、福音書のみならず、新約、旧約の聖書の全体を通して、このようであると言う。
つまり、神もイエスも、「私は神である」とか「私はイエスである」とは全く言わず、いつも「私だ」と言うのだ。
ゴダードは、その「私だ」は、英語で言えば、「I AM」だと言う。つまり、「私は在る」だ。
旧約聖書で、モーセの前に現れた神は「私は『私は在る(I AM)』だ」と言っている。
(原語のヘブライ語では、神は「エヒュー・アシェル・エヒュー」と名乗っているが、これが「I AM THAT I AM」と訳されている)
だから、ゴダードは、神は「私は在る」なのであるが、誰でも「私は在る」と思っているし、人間が唯一確信出来ることは、「私は在る」だけであると言う聖者もいる。
デカルトは「疑っているわれは確かに存在する(一般には、われ思うゆえにわれあり)」と言い、「疑っている」と限定はしたが、究極の真理は「われあり(私は在る)」だということには気付いていた。
もし、あなたが、肉体から魂を抜き取られたらどうなるだろうか?
その時、あなたは、肉体ではなく、魂が自分だと感じると予想出来ると思う。
昔、NHKで放送されていたアニメ『キャプテン・フューチャー』(原作はエドモンド・ハミルトンのSF小説)で、キャプテン・フューチャーことカーティス・ニュートンは、肉体から魂を抜かれたことがあった。
その時のカーティスの反応が面白い。
「肉体がなくなっても目が見えるのか?これは驚くべき発見だ」
これほどの緊急事態でも、さすがに宇宙一の科学者は冷静であるようだ。
だが、それなら、存在の自覚があることに驚くべきである。
カーティスは機械によって魂を抜かれたのだが、これは、言い換えれば、魂から肉体を除去したのである。しかし、この装置は、魂から心まで除去しないようである。
もし、心まで除去出来れば、カーティスは全知全能の神になっていたと思われる。
心まで抜かれても、存在の自覚はある。それが神であるようだ。
そして、肉体も心もある我々も、存在の自覚を感じることが出来る。
だが、普通の人は、存在の自覚を重要視しない。
もし存在の自覚を大切にすれば、全知全能の力と一致していく。それが、ネヴィル・ゴダードの引き寄せの根本原理である。
だから、「私は在る」と唱えることが重要で、それだけで引き寄せの力は強大になる。
すぐには納得出来ないと思うが、やってみれば分かると思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(2)アイ・アム・ザット 私は在る~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(3)新約聖書 福音書(塚本虎二訳。岩波文庫)
(4)聖書(フェデリコ・バルバロ訳)
(5)恐怖の宇宙帝王/暗黒星大接近! <キャプテン・フューチャー全集1>(エドモンド・ハミルトン)
AIアート1229
「女神の出現」
Kay