ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ニーチェ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

現状は全て自分の意思

文明国では、とかく、人生の選択を他者に勝手に決められる。
子供の時から、しっかり勉強して、出来るだけいい学校に入り、いい会社に入ることが既定コースのように強制される者が多い。
学校の成績が良い者は、そんな人生に疑問を持たず、親や教師に言われるまま、いい学校、いい会社に進むが、頭が悪く、成績が悪くて、そんなコースに不適合という者は、負け犬のレッテルを貼られて世の中に恨みを持つ。
また、頭自体は悪くないのに、いろんな理由で良い成績が取れず、見下された者の、世の中に対する恨みが半端ないという場合もある。

ところが、自分で選択したなら、うまくいかなくても、それほど不満でないという研究もあるらしい。
道を強制されて失敗したら、不満が大きく恨みを持つが、自分で選択した道で失敗したら、それなりに納得するという。
もし、それが本当だとしても、これまでの世の中では、特に子供の間は、道を親や学校に決められ、自分で決められないことが多かった。
そして、大人のいいなりになった者が、大人になっても、自分で道を選べなくなる。

いずれにしても、自分で道を選ばなかった場合は、後悔することになる。
しかし、自分の人生を振り返り、今の状況が自分で選んだ結果と言える者は、あまり多くないだろう。
自分で道を選ぼうとしてはいたが、様々な要因で、それが出来なかった者もいるだろう。
「運命には逆らえない」という言葉が本当かもしれない。

だが、どんな運命も、実は自分の意思であるという、平凡な世間の人間には全く理解出来ない思想がある。
ニーチェが運命愛という言い方をした思想(あるいは哲学)で、W.B.イェイツ(「20世紀最大の詩人」と言われるノーベル賞作家)も強く共感したようだ。
イェイツが残したと言われる不思議なお話がある。
あるアラブ人が、家族を皆殺しにされた時、高い地位を奪われ奴隷になった時、そして、死期が近付いた時、全てで強い歓喜を感じたという。
そんな運命を全て、自分の意思と見なしたからだ。それによって、彼は自分が神に近付いたと感じたのである。

ベートーヴェンは、有名な交響曲『運命』で、「運命とは、このように激しくドアを叩く」と言ったらしいが、それに対してどうしろとは言わなかった。
運命が、そのように傲慢にやってきても、我々は震え上がり、うちひしがれるしかない。
だが、ニーチェは言った。
「運命が傲慢にやってきたら、もっと傲慢に迎えよ。そうすれば運命は震え上がり、赦しを乞うだろう」
それが、全ては自分の意思である・・・自分が全て決めたと見なすことだ。

現状は全て、自分の意思で決めたことである。
気に入らないなら変えてしまえば良いが、現状が自分の意思であると認めない限り、どうにもならない。
だが、運命が自分の意思であると見なせば、全てはどうにでもなる。
旧約聖書の出エジプト記にある有名な言葉(ヘブライ語)、
「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」
は、
「I am that I am」
と訳されてしまった。これが日本語では、
「私は私であるものである」
「私は在りて在るものである」
という奇妙な訳になった。
正しくは、
「 I am the ever-becoming」
と訳すという話がある。これなら意味は、
「私は常に生成する者である」
となるが、こちらは自然であると思う。
これを人間的な感覚で訳すと、
「 I will be what I will be」
となる。意味は、
「私はなるようになるだろう」
で良いだろう。

以上で、引き寄せのシステムは完全に解明された。
まずは、「文句を言うな」「泣き言を言うな」である。
現状は全て自分で選んだと見なし、後は神にまかせれば全てうまくいくだろう。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ツァラトゥストラ(上) (ニーチェ。光文社古典新訳文庫)
(2)まだらの鳥(W.B.イェイツ)
(3)対訳・イェイツ詩集(W.B.イェイツ)
(4)至高体験(コリン・ウィルソン)
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)

金色の世界
AIアート1442
「金色の世界」
Kay

深呼吸で神に近づく原理

昔、ひろさちやさんの本で読んだだけだが、イスラム教徒は「インシャーアッラー」という言葉をよく使うらしい。
これは「もし神の思し召しがあれば」という意味で、例えば、明日の午後3時に待ち合わせをしようという合意をした後で「インシャーアッラー」と言う。
ところが、翌日、片方が時間に遅れてしまったが、遅れた方は、「神の思し召しがなかったから遅れた」と堂々と言う。
金を借りても同様で、「〇月×日に返そう。もし神の思し召しがあれば」と言い、返せなくなっても、「俺は返すつもりだったが、返すことが神の思し召しでなかった」と言えば良いのである。

こういう話をすると、決まって、「それええなあ」という感じで受け取り、「へーんだ!俺が約束を果たせないのは神の思し召しでなかったからなんだよー」と相手をあざ笑う態度を取れば良いのだと思う馬鹿がいる。そんな人間に見込みはない。
だが、先日のロシアのプーチン大統領の演説ではないが、相手を尊重する気持ちを大切にすれば、このやり方で、非常に平和な世界になるのではと思う。
相手を尊重しないのは、尊大で自己中心的に考えるからであり、根本的には欲張りなのだ。

今の世の中では、相手が欲張りでないことは求め難い。みんな、すっかり欲張りになってしまった。
だが、自分のことは、「もし神の思し召しであれば」と思うことは良いことである。
しかし、ここで重要なことがある。
それは、ニーチェが「運命愛」と呼んだもので、どんな運命であれ、それは自分の意志でもあるとすることだ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツも同じ考え方をしており、イェイツの方が分かり易いかもしれない。
つまり、あらゆることは神の意志で起こるが、神の意志を自分の意志でもあるとした時に、自分が神に限りなく近づく。
それが神になる方法であり、また、アインシュタインが言ったように、「神は老獪である。だが悪意はない」のであり、全てはよくなる。

花の時
AIアート453
「花の時」
Kay


とはいえ、思考があるままでは、なかなかそうは思えない。
ひどく嫌な目にあった時、「これは神の意志であり、私の意志でもある」と思おうとしても、本心ではそう思っていないので、それは嘘になってしまう。
思考があると、ビートルズの『イエスタデイ』のように、「なぜ彼女は行ってしまったんだ」と嘆き、「それが神の意志であり、自分の意志でもある」などとは、とても思えない。
だが、思考を消し、積極的に同意しないまでも、静かにしていれば、彼女は実はひどい女であったと分かったり、あるいは、もっと素晴らしい恋人が出来るかもしれない。そんなことはよくあるだろう。

深呼吸を心掛け、思考を消していけば、自我の愚かしい願いは叶わないかもしれないが、それが何かは今は全く分からなくても、最高の恵みが得られるだろう。








幼児が一番強い

およそ哲学に関心がない人でも、ニーチェ(独。1844~1900)の名くらいは知っていると思う。
また、エマーソン(米。1803~1882)自体は知らなくても、知識人が人類の知恵者の代表としてエマーソンの名やその言葉を上げるのを見たことがあるかもしれない。
彼らは本当に、世界や人間についてよく知っていたし、普通の人が見えないことについてもよく分かっていた。
関係性のない2人であるが、彼らは共に、人間のある性質を称賛していた。
それは「無頓着」だ。
もっと簡単に言えば「気にしないこと」である。
経済的な不安のない子供が、誰にも媚びへつらわないようなものである。
これは、気まぐれにつながる。何も気にしないので、きまぐれに・・・つまり、思った通りに話し、行動する。

無頓着、気まぐれだと、欲望のままに悪いことをしたり、怠惰になったりすると思う者が多いと思うが、そんなふうに悪くなる人間は、本当は無頓着ではなく、何かに縛られているのである。
ニーチェは言ったものだ。
運命が尊大(威張っていること)にやって来たら、自分はもっと尊大に迎える。
すると、運命は従うのだ。
それが出来るには、本当に無頓着、本当に気まぐれでなくては駄目だ。

日本語的には「こだわりがない」「囚われがない」と言う場合が多いが、無頓着、気まぐれには強さが必要だ。
そして、最も無頓着な存在が幼児である。
幼児は誰にも従わない。周りが幼児に従うのだ。

ニーチェの、そんな幼児のような態度を示す言葉を「放恣(ほうし)」と訳した人もいたが、良いと思う。
放恣とは、勝手気ままで節度がないことだ。

気まぐれな風
AIアート449
「気まぐれな風」
Kay


細かく説明すべきではないと思う。
高貴なことを、言葉で聞いて思考で理解しようとしたら必ず間違うからだ。
要は、普通の人が弱い存在だと思い込んでいる、親の完全な庇護下にある子供や幼児が最強なのである。
反論がある人でも、心の奥では、魂が、それが真理であると言っているのが分かるのである。
関心があれば、エマーソンの『自己信頼』を読むと良いと思う。








既に願いが叶っているという意味

何か願いがあるとする。
発想貧困で申し訳ないが、その願いとは、ある男子がある可愛い女子を彼女にすることとする。
願いを叶えるために、その男子には、次のような道がある。

(1)現実的に行動する。たとえば、彼女に親切にし、プレゼントをあげ、頃合いを見計らって告白するなど。
(2)引き寄せを行う。アファーメーションやイメージングなど。
(3)神に願う。イエス様が言った通り、「既に叶った」と思う。
(4)(1)~(3)を適当に組み合わせる。
(5)一切をなりゆきにまかせる。あるいは、神にまかせる。
(6)諦める。
(7)無になる。

どの方法が一番叶い易いだろうか?
どれも同じだ。
その女子がその男子の彼女になるかどうかは既に決まっており、その運命に干渉することはどうやっても出来ない。
ある世界的に有名な成功プログラムでは、「叶うからその願望が起こるのである。叶わない願いは起こらない」と言っていた。
これは全くの嘘である。
この成功プログラムを製作・販売する者の目的は、人々を幸せにすることではなく、人々にこの成功プログラムを売ることだ。
では、運命は絶対に変わらないのかというと、仮に変わるとしても、個人の願望は全く関係ない。

夏への扉
AIアート219
「夏への扉」
Kay


だが、ニーチェがそうだったが、稀に、確実に叶えてしまう方法が分かる人がいる。
例えば、この男子が1月1日に、その女子を彼女にしたいと思う。
・1月20日
全くうまくいかない。男子は「予定通り」と言う。
・1月25日
その女子に彼氏が出来る。男子は「予定通り」と言う。
・3月10日
その女子、彼氏と結婚。男子は「僕が決めた通りになった」と言う。

つまり、何が起きても、それは自分の意志とするのである。
それは、自分が神になることである。
神であることに慣れると、ものごとは、異なる状態が同時に存在することが分かってくる。
上の例で言えば、その女子がその男子の彼女である状態と、そうではない状態だ。
どちらもあるのだ。
これは、科学の世界でも、量子力学の「重ね合わせの原理」として解明され、量子コンピューターで実用している。

思考があると、偏見によっていずれか一方しか見えない。
しかし、思考を消すと、両方あることが分かる。
よって、思考を消すのが一番である。
そのためには「私は誰か?」と自分に問うか、静かな呼吸をすることである。








地獄の世界でやむを得ず持つべき力

ラマナ・マハルシが、「神実現の呼吸法」を語ったのは、1936年2月5日のようだ。
尚、「神実現の呼吸法」は私の命名で、マハルシ自身は「知恵の呼吸」と呼んでいた。
この呼吸法が日本に紹介されたのは、1983年出版の、おおえまさのり訳編『南インドの瞑想』で、私はこっちで知っていたが、この本は原書のいくらかを抜き出して訳したもので、マハルシが、なぜ、このような、とんでもないことを教えたのか謎だった。
しかし、ナチュラルスピリット社から、完全な翻訳が2018年(電子版。紙の本もある)に出て、謎が解けた。
マハルシは、非常に優秀な青年からの質問に答える形で教えたのだった。
ひょっとしたら、個人的に教えただけかもしれない。
だが、この質疑は歴史的な出来事であると私は思う。
この素晴らしい青年がマハルシを訪ねなければ、また、そんな質問をしなければ、我々はそれを知ることが出来なかったのだからだ。

マハルシは、この呼吸法により、超能力(シッディ)がもたらされることも示している。
マハルシは、イエス・キリストの力もシッディであったと、別のところで述べている。
もちろん、マハルシの目的は、人に超能力を与えることではなく、場合によっては、超能力で道を踏み外す者もいるかもしれない。
しかし、今の時代、超能力を持っていた方が良いと思われ、後のことは自己責任ということで仕方がない。
メタバースの権威的な研究者であるアヴィ・ローブ博士はごく論理的な意味で、地球人類が「下の世界」に堕落する可能性を示したが、それが近い、あるいは、既にそうなっているような気がするからだ。

神実現の呼吸の翻訳を抜粋する。

「ナ・アハン(私はこれではない)」=出息
「コーハン(私は誰か?」=入息
「ソーハン(私は彼である)」=呼吸停止
~『南インドの瞑想』より~

Naham「ナーハム」私はこれではない=呼気
Koham「コーハム」私は誰か?=吸気
Soham「ソーハム」私は彼だ=呼吸保持
~『ラマナ・マハルシとの対話1巻』より~

「私はこれではない」とは、自分とは、身体でも心でもないという意味だ。
最後の「私は彼である」は、「私は神である」という意味で、我々日本人は「私は神である」と唱えるべきと思う。
インドでは、神は非常に畏れ多い存在なので、直接「神」とは言わず、「彼」「それ」などと表現する。
しかし、日本人にとって、神は親であり、祖先であり、自然であり、非常に親しいので、「神」で差し支えないと思う。
そこで、やり易いように書くと、次のようになる。

(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。

この呼吸法を行っていくと、高次元の自己との同調が起こり、この世界での自分が希薄になるのを感じる。
あまり一気にやると、自我が消失してしまい、ことによっては肉体ごと消えることもあり得ると思う。
高次元に飛んでしまって、自我が消失した有名な例としては、フリードリヒ・ニーチェがいる。
だが、ニーチェの高次元の神体と肉体との関係は完全に消失したわけではなく、霊覚者であるルドルフ・シュタイナーは、ニーチェに会った時、ニーチェの神体を感じ、その知性に畏怖したのである。

行う場合は、自己責任で、適度に行うことをお勧めする。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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