文明国では、とかく、人生の選択を他者に勝手に決められる。
子供の時から、しっかり勉強して、出来るだけいい学校に入り、いい会社に入ることが既定コースのように強制される者が多い。
学校の成績が良い者は、そんな人生に疑問を持たず、親や教師に言われるまま、いい学校、いい会社に進むが、頭が悪く、成績が悪くて、そんなコースに不適合という者は、負け犬のレッテルを貼られて世の中に恨みを持つ。
また、頭自体は悪くないのに、いろんな理由で良い成績が取れず、見下された者の、世の中に対する恨みが半端ないという場合もある。
ところが、自分で選択したなら、うまくいかなくても、それほど不満でないという研究もあるらしい。
道を強制されて失敗したら、不満が大きく恨みを持つが、自分で選択した道で失敗したら、それなりに納得するという。
もし、それが本当だとしても、これまでの世の中では、特に子供の間は、道を親や学校に決められ、自分で決められないことが多かった。
そして、大人のいいなりになった者が、大人になっても、自分で道を選べなくなる。
いずれにしても、自分で道を選ばなかった場合は、後悔することになる。
しかし、自分の人生を振り返り、今の状況が自分で選んだ結果と言える者は、あまり多くないだろう。
自分で道を選ぼうとしてはいたが、様々な要因で、それが出来なかった者もいるだろう。
「運命には逆らえない」という言葉が本当かもしれない。
だが、どんな運命も、実は自分の意思であるという、平凡な世間の人間には全く理解出来ない思想がある。
ニーチェが運命愛という言い方をした思想(あるいは哲学)で、W.B.イェイツ(「20世紀最大の詩人」と言われるノーベル賞作家)も強く共感したようだ。
イェイツが残したと言われる不思議なお話がある。
あるアラブ人が、家族を皆殺しにされた時、高い地位を奪われ奴隷になった時、そして、死期が近付いた時、全てで強い歓喜を感じたという。
そんな運命を全て、自分の意思と見なしたからだ。それによって、彼は自分が神に近付いたと感じたのである。
ベートーヴェンは、有名な交響曲『運命』で、「運命とは、このように激しくドアを叩く」と言ったらしいが、それに対してどうしろとは言わなかった。
運命が、そのように傲慢にやってきても、我々は震え上がり、うちひしがれるしかない。
だが、ニーチェは言った。
「運命が傲慢にやってきたら、もっと傲慢に迎えよ。そうすれば運命は震え上がり、赦しを乞うだろう」
それが、全ては自分の意思である・・・自分が全て決めたと見なすことだ。
現状は全て、自分の意思で決めたことである。
気に入らないなら変えてしまえば良いが、現状が自分の意思であると認めない限り、どうにもならない。
だが、運命が自分の意思であると見なせば、全てはどうにでもなる。
旧約聖書の出エジプト記にある有名な言葉(ヘブライ語)、
「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」
は、
「I am that I am」
と訳されてしまった。これが日本語では、
「私は私であるものである」
「私は在りて在るものである」
という奇妙な訳になった。
正しくは、
「 I am the ever-becoming」
と訳すという話がある。これなら意味は、
「私は常に生成する者である」
となるが、こちらは自然であると思う。
これを人間的な感覚で訳すと、
「 I will be what I will be」
となる。意味は、
「私はなるようになるだろう」
で良いだろう。
以上で、引き寄せのシステムは完全に解明された。
まずは、「文句を言うな」「泣き言を言うな」である。
現状は全て自分で選んだと見なし、後は神にまかせれば全てうまくいくだろう。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ツァラトゥストラ(上) (ニーチェ。光文社古典新訳文庫)
(2)まだらの鳥(W.B.イェイツ)
(3)対訳・イェイツ詩集(W.B.イェイツ)
(4)至高体験(コリン・ウィルソン)
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
AIアート1442
「金色の世界」
Kay
子供の時から、しっかり勉強して、出来るだけいい学校に入り、いい会社に入ることが既定コースのように強制される者が多い。
学校の成績が良い者は、そんな人生に疑問を持たず、親や教師に言われるまま、いい学校、いい会社に進むが、頭が悪く、成績が悪くて、そんなコースに不適合という者は、負け犬のレッテルを貼られて世の中に恨みを持つ。
また、頭自体は悪くないのに、いろんな理由で良い成績が取れず、見下された者の、世の中に対する恨みが半端ないという場合もある。
ところが、自分で選択したなら、うまくいかなくても、それほど不満でないという研究もあるらしい。
道を強制されて失敗したら、不満が大きく恨みを持つが、自分で選択した道で失敗したら、それなりに納得するという。
もし、それが本当だとしても、これまでの世の中では、特に子供の間は、道を親や学校に決められ、自分で決められないことが多かった。
そして、大人のいいなりになった者が、大人になっても、自分で道を選べなくなる。
いずれにしても、自分で道を選ばなかった場合は、後悔することになる。
しかし、自分の人生を振り返り、今の状況が自分で選んだ結果と言える者は、あまり多くないだろう。
自分で道を選ぼうとしてはいたが、様々な要因で、それが出来なかった者もいるだろう。
「運命には逆らえない」という言葉が本当かもしれない。
だが、どんな運命も、実は自分の意思であるという、平凡な世間の人間には全く理解出来ない思想がある。
ニーチェが運命愛という言い方をした思想(あるいは哲学)で、W.B.イェイツ(「20世紀最大の詩人」と言われるノーベル賞作家)も強く共感したようだ。
イェイツが残したと言われる不思議なお話がある。
あるアラブ人が、家族を皆殺しにされた時、高い地位を奪われ奴隷になった時、そして、死期が近付いた時、全てで強い歓喜を感じたという。
そんな運命を全て、自分の意思と見なしたからだ。それによって、彼は自分が神に近付いたと感じたのである。
ベートーヴェンは、有名な交響曲『運命』で、「運命とは、このように激しくドアを叩く」と言ったらしいが、それに対してどうしろとは言わなかった。
運命が、そのように傲慢にやってきても、我々は震え上がり、うちひしがれるしかない。
だが、ニーチェは言った。
「運命が傲慢にやってきたら、もっと傲慢に迎えよ。そうすれば運命は震え上がり、赦しを乞うだろう」
それが、全ては自分の意思である・・・自分が全て決めたと見なすことだ。
現状は全て、自分の意思で決めたことである。
気に入らないなら変えてしまえば良いが、現状が自分の意思であると認めない限り、どうにもならない。
だが、運命が自分の意思であると見なせば、全てはどうにでもなる。
旧約聖書の出エジプト記にある有名な言葉(ヘブライ語)、
「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」
は、
「I am that I am」
と訳されてしまった。これが日本語では、
「私は私であるものである」
「私は在りて在るものである」
という奇妙な訳になった。
正しくは、
「 I am the ever-becoming」
と訳すという話がある。これなら意味は、
「私は常に生成する者である」
となるが、こちらは自然であると思う。
これを人間的な感覚で訳すと、
「 I will be what I will be」
となる。意味は、
「私はなるようになるだろう」
で良いだろう。
以上で、引き寄せのシステムは完全に解明された。
まずは、「文句を言うな」「泣き言を言うな」である。
現状は全て自分で選んだと見なし、後は神にまかせれば全てうまくいくだろう。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ツァラトゥストラ(上) (ニーチェ。光文社古典新訳文庫)
(2)まだらの鳥(W.B.イェイツ)
(3)対訳・イェイツ詩集(W.B.イェイツ)
(4)至高体験(コリン・ウィルソン)
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
AIアート1442
「金色の世界」
Kay