ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ニサルガダッタ・マハラジ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

『老子』第16章を一言で言えば「心を静かにせよ」

では、『老子』第16章に入る。
この章を一言で言えば「心を静かにせよ」だ。

心を静かにするとは、想念を起こさないことであり、それは、無我、忘我、没我になるということで、それを「無になる」ことと言って良いと思う。
そして、老子は、無になれば真理が見え、真理が見えれば一切を公平に見ることが出来、一切を公平に見る者は真の王であり、真の王であれば万物が従うので無敵であると言う。
これは、老子、荘子、列子などの道教の根本的な思想でもある。

ラマナ・マハルシも言っている。
「全ての聖典には、つまるところ、心を静かにせよと書かれている。それが分かれば、もう聖典を読む必要はない」

ただ、問題は、「では、どうすれば、心を静かに出来るのか」ということであることが分かると思う。
もちろん、老子は『老子』の全章に渡って、それを教えようとしたが、教えを抽象的に感じ、無になる方法が理解出来ない人が多い。
荘子は、もう少し、初心者向けに易しく語ったが、やはり、「思慮分別を離れ、是非好悪を捨て・・・」といった、掴みどころのない教えが多いように思う。

そこで、私は、ラマナ・マハルシの方法と、ニサルガダッタ・マハラジの方法をミックスすれば良いのだと思う。
ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問えと言った。
しかし、それは少しの間は誰でも出来るが、長く続けることが出来ない。
「私は誰か?」と問う意義が分からず、そして、続けていても何も起こらなければ、モチベーションが続かないからだ。
一方、ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在だ」と言われたことを憶えているだけで解脱が出来た・・・つまり、究極的に心を静かにし、無になったと言っているのである。
だが、「私は至高の実在だ」ということの意味が分からず、憶えていられる人は少ない。
また、「至高の実在だ」という言葉は、宗教的で馴染みが薄く、ピンと来ない。
だから、もっと単純に「私は神だ」で良い。
それを信じられるかどうかはどうでも良い。
「私は神である」という言葉だけを憶えていれば良いのである。
そして、時間があれば、常に「私は誰か?」と問うのであるが、その答は「神である」だと、思わなくていいから意識する。
すると、ある時、突然、自分が神であるという実感が起こり、その時は、あなたは神のようになっている。
そうなれば、老子が言うように無敵である。
神であるのだから当然だが。








『老子』第15章を一言で言えば「無になる」

今回は、『老子』第15章である。
この章を一言で言えば、「無になる」である。

老子は、太古の昔はもっといたであろう本当に優れた人間の特徴を、様々にたとえて称賛している。
そこらを、文字の一つ一つについて解読していたら、『老子』の本質から外れてしまう。それでなくても、普通に思われているより、『老子』も改ざんがいろいろ行われている可能性が高いのだから。
で、どんな人間が、聖人、神人と言うに相応しいかを、書かれている文字に囚われずに言えば、それは「無」である人間で、これはつまり、想念を起こさない人間だ。
「いくら聖人でも、人間が全く想念を起こさずにいられるのか?」と言う人がいるが、そこまでこだわる必要はない。
もちろん、聖人も、害にならない程度の、当たり前の自然な想念くらいは起こす。
これに関し、釈迦も、「聖人も感受作用は普通の人と変わらない。だが、聖人は想念を追わない」と言ったのだ。
たとえば、綺麗な花が咲いていれば、聖人も凡人と同じく「きれいだなあ」と喜ぶ。
だが、凡人は、「あっちの花はこっちの花より美しいぞ」「では、こっちの花を摘んで帰ろう」などと、余計なことを考え、止まらなくなる。
聖人にはそれがなく、花を見て「きれいだなあ」で終わり、あるいは、「子供の時に住んでいたところにも同じ花が咲いていた。近所の人は元気かなあ」程度までである。
聖人は、そのようであるからこそ、やらなければならないことは、極めて効率的に行う。
一般には、仕事や雑用をうまくこなすのは、よく考えて行うからだと思われているが、人間はよく考えて何かやると大抵間違うのである。
よく考えて行うのではなく、余計なことを考えず、心静かにやるから最大の成果を上げるのだ。

本当に頭が良いという人がいるなら、それは、余計なことを考えず、いつも心静かな人だ。
そのようであれば、人間は、自然と賢い行いをするのである。

とはいえ、「想念を起こさない」「考えない」「心静かにいる」ことを、「考えて」行うことは難しいというか出来ない。
そこで、賢い人は、今、目の前で起こっていること、今、やっていることだけに意識を集中させる。
これを「今今メソッド」と呼ぶ人がいて、これが引き寄せの最上の方法である。
だが、「今今メソッド」を常に意識してやるのは、もはや修行であり、なかなか難しい。
そこで、それを自然に行えるようになる秘法が「私は誰か?」と問うことである。

「私は誰か?」と問うには、必要なことがあるのだが、それを教える者がいなかったので、皆、駄目だった。
必要なこととは、私が誰かは、まず言葉で知っておかなければならないことだ。
だから、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジの師は、若い時のマハラジに「あなたは至高の実在である」と教えたのだ。
そして、マハラジは、師のその言葉を忘れなかった。
「至高の実在」は、あくまで翻訳で、本来はもっと馴染みのある言葉だったのだと思う。
『エイリアンインタビュー』では、宇宙人エアルは、人間の魂の本質に最も近い「あなた方の」観念は、やはり「神」だと言ったらしい。
私は、「全知全能の無限者」という言い方が気に入っているが、そこは各自、神のような最上の存在を示す言葉を当てはめれば良い。
だが、一般には、やはり神で良いし、私も、普段は、神と言っている。
つまり、自分が神であると頭で分かった上で「私は誰か?」と問うと、魂でも分かって来るのである。
そうすれば、神の特性である無になり、『老子』第15章で老子が褒め称えている聖人になるのである。








現代の三種の神器を得る

『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(Catch Me If You Can)』(2002)という、レオナルド・ディカプリオ主演のアメリカ映画がある。
昔、私は、この映画を見ないうちに、この映画を「お奨めだ」と言ったことがある。
この映画は、1980年に出版されたフランク・W・アバグネイル・Jr著の自伝小説『世界をだました男』を元に製作された実話である。
とてもではないが、実話とは信じられないだろうが・・・
ちなみに、「 キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(Catch Me If You Can)」とは、鬼ごっこを始める時の掛け声で、意味は分かると思うが 「出来るもんなら捕まえてみろ」である。

主人公フランクは詐欺師である・・・いや、罪は償ったので、「元詐欺師」である。
しかし、その詐欺の規模が大き過ぎる。
私は、映画を見る前から彼のことは知っていた。
憧れの人物ってやつだ(笑)。
『バガヴァッド・ギーター』の中でも、神クリシュナは自分のことを「詐欺師の中の大詐欺師だ」と述べていたが、それを思い出すほどだ。

彼が最初にやった詐欺は、16歳の時に転入した高校でフランス語教師に成りすましたことだった。
最初、他の生徒にも、フランクはただの生徒に見えたが、彼は急に、自分は新任のフランス語教師だと言い、そのまま、しばらくの間だが、見事に教師を演じた。
その後、航空機パイロット、エリート医師、エリート弁護士と、次々に成りすまし、堂々、実務を行い、それらの地位を利用した詐欺で莫大な利益を得た。
それも、17~18歳の間でだ。
最終的には、詐欺師としては、超一流の小切手偽造のプロになった。
面白いのが、ルパン三世を追い回す銭形警部のごとく、フランク逮捕に情熱を燃やすFBI捜査官カールとの間に友情が芽生えたことだ。
フランクの自伝小説『世界をだました男』執筆時点でも、フランクとカールは親友である。
フランクはFBIに入り、現在では経営者、コンサルタントとして大成功し、大金持ちだ。

わずか17歳、18歳の若者が、どうやってパイロットや一流の医師・弁護士を現場ですら演じて見せられるのだろう?
フランクが、とんでもなく頭が良いのは確かだが、頭が良いだけなら、世の中にいくらでもいるし、人によって意見は違うだろうが、たかが人間の頭の良さなど知れたもので、その気になれば、誰でも頭が良くなれる。
ここで、このブログで何度も引用した、ひろさちや氏の『空海入門』にあったように、「狂人のマネをすれば狂人、仏陀のマネをすれば仏陀」を再度言いたい。
なりたいものになりたければ、マネをする、フリをする、そうであるという態度をすれば良い。
仏陀(釈迦を代表とする、悟りを開いた覚醒者)という、究極の理想的人間になることすら、マネ次第なのだ。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジだって、こんなことを言っていた。
「時空を超えているフリをしろ」
時空を超えた存在・・・それは神である。神のフリをしろと言うのだ。
そして、マハラジは、フリをすることは実践経験だという。
実践経験こそ、最も大事であることはご存じと思う。

そして、少し前にも書いたが、究極のフリとは呼吸である。
なりたいものになったかのように呼吸するのである。
それがどんな呼吸かは調べる必要はない。誰でも分かることだからだ。
例えば、金持ちの呼吸はどうだろう?
ゆったりとした落ち着いた呼吸だ。
「これが金持ちの呼吸」と了解して、そんな呼吸をすれば金持ちになる。
呼吸が浅く、せわしくなってきたら、お金は逃げていく。
モテる男、モテる女も同様だ。
そして、悪い宇宙人が設置した、魂の波動を下げる装置の影響を脱したければ、そうなった人間・・・例えば、釈迦や老子の呼吸をすれば良い。
それは神の呼吸だ。
神は呼吸しない。
よって、呼吸していないフリをしなくてはならない。
それは、よほど静かな呼吸である。
呼吸に準じるものとしては、表情、ポーズがあることも以前述べた。
「呼吸、表情、ポーズ」
この三種の神器で、あなたは自由である。








善い宇宙人からの嬉しいメッセージ

私が『エイリアンインタビュー』で最も感激したことは、半分も読んでいなかった時、残りに書かれていることが基本的には全部分かり、残りを読んで、それ(私が思っていたこと)が正解であったとが確認出来たことだ。
細かい表現や、あるいは、様々な概念に関しては、我々と宇宙人の間で途方もない差があることから、おかしな言い方になってしまっている処も少なくはなかったが、そういったところをうまく調整しながら読めば、実用的に極めて完全なことが書かれている。

そして、重要なことは、地球人類が現在、悲惨な状況にあり、それは悪い宇宙人の悪い策略(このあたりの表現も本来はあまり的確でないかもしれないが)によるものであるが、善い宇宙人が、様々な理由で、当面、解決してくれないにしても、我々は自分達の手で問題を解決出来る可能性があり、また、やはり、自分達でやらなければならないということである。

そして、善い宇宙人が保証するところでは、地球人類を含め、魂は本来、全知全能であり、魂が何であるかを、我々が知る最も近い概念で言えば、やはり「神」であるということだ。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、師の「あなたは至高の実在である」という言葉を憶えていただけで、何の修行もせずに、悟りを開いたと言う。
「思考の実在」とは、神のことであり、悟りを開くとは、その至高の実在、即ち、神になったということだ。まあ、正確に言えば、元々神なのだから、それを完全に思い出したということだろう。
そして、マハラジは、誰がやっても同じになることを示唆している。
自分が自分であることを思い出す方法が複雑であるはずがない。
ただし、情熱と根気が必要であるとは思う。
つまり、本当の自分でありたい、あるいは、奪われていたものを取り戻したいという情熱である。
情熱があれば、自ずと根気も出て来るであろう。
だが、ほとんどの人間は、今の状態が自分であると思い込み、それを疑うことをしない。
しかし、もし、あなたが、本当の自分はこれではなく、真の自分に戻りたいと思っているなら、それは必ず出来るのである。
その情熱があれば、「私は誰か?」と問い続けることは易しい。
問い続ければ、魂が揺す振られ、やがて反応を返してくるであろう。
ラマナ・マハルシも「目覚めつつある者にとって、私は誰かと問うことは喜びである」と言っていたが、私も、本当に楽しいと感じている。








我々は本当は何か?

我々の魂が極めて強大な力を持ちながら、それを全く使えない理由は、我々が、自分は身体だと思い込み、自分が本当は誰かを忘れてしまっているからだ。
光線銃やライトセーバー(ライトサーベル)や、さらにはもっと凄い武器を持ちながら、自分は棒切れ1本の武器も持っていないと思い込んでいるようなものだ。
これまで、なぜ、我々がそのような記憶喪失状態に陥っているのかが謎だったが、良からぬ宇宙人の都合で、そのようにさせられてしまっていることを明かした『エイリアンインタビュー』を読めば、非常につじつまが合った。
その良からぬ宇宙人が地球に設置した装置により、我々は今生での誕生以前の過去生(何億年程度の話ではない)の記憶を全て消去されているようである。
稀に、前世の記憶を思い出すだけでも注目され、しかし、どれほど証拠を示しても信じてもらえないという話がある。
また、さらに稀に、古代超科学文明時代の記憶を取り戻し、画期的な発明を行う者もいる。
政木和三さんは、それが出来たが、自分では、なぜそれが出来るか分からなかった。しかし、ある人物を通してそれを教えてもらった。そのある人物は、おそらく善良な宇宙人を神としてテレパシーで対話していたのだろう。
『エイリアンインタビュー』によれば、善良な宇宙人と言っても、別に、地球や地球人に特別な愛情を持っているとかいうことは全くなく、単に、公正で公平なだけである。

我々は、良からぬ宇宙人が設置した装置の影響を脱し、記憶を取り戻せば・・・つまり、自分が神(のようなもの)であることを思い出せば、本来持っている力を回復させることが出来る。
過去、そのようなことに成功した人は少ないながらいるし、私が思うに、それほど難しいことではない。
単に、誰もやろうとしないのである。
なぜなら、良からぬ宇宙人は、地球人がそれをやることを恐れている。つまり、やはりやろうと思えば出来るのである。

最も直接的には、インドの聖者ラマナ・マハルシ(1879~1950)が言ったように「私は誰か?」と自分に問い続ければ良い。
マハルシが言ったタミール語の「ナン・ヤー(私は誰か)」は、正確には「私とは何か?」という意味だと言った者もいたが、どちらでも同じである。
ただ、『エイリアンインタビュー』を読むまでは、私は、その意義が分からず、それを行う動機を持てなかったが、今は熱心にやっている。
だが、ちょっと方向が異なる、もしかしたら、もっと楽なやり方がある。
それは、マハルシと同時代のインドの聖者ニサルガダッタ・マハラジ(1897~1981)がやったことだ。
彼は、師に「あなたは至高の実在である」と言われ、それを憶えていたというだけで悟りを開いた・・・すなわち、失われていた記憶を取り戻したのだ。
当然ながら、我々も至高の実在(神)であり、そのことを言葉で憶えていれば良いのである。
そうすれば、魂の振動数が上がり続け、自然に全てを思い出すだろう。

余談だが、円谷プロの特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』(1967~)の『ウルトラセブン誕生30周年企画』第1話が『失われた記憶』(1998)だった。
ウルトラセブンは、ある戦いで大爆発に巻き込まれ、一切の記憶を失ったまま、人間モロボシ・ダンとして、ある母娘の家に居候していた。未亡人の美人の母親と6年生の美少女の2人の家というなんとも羨ましい・・・いや、何でもない(笑)・・・環境であるが、母親が隠していたウルトラアイを見て記憶を完全に取り戻す。
実は、それ以前に、ダンは、星空を見るたび、何となく、自分は地球人ではないと感じていた。
実は、星空を見て、自分が元々、遠くの星にいた宇宙人であることを、完全ではないが思い出す人は少なくない。
地球人だって、皆、元々は 遠い星にいた宇宙人なのである。
我々も、もっと星を見なくてはならない。
また、超念力で知られた石井普雄氏が書著に書かれていたように、宇宙をイメージすることも有効である。
そして、自分が神であること、至高の実在であることを憶えておくことだ。
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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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