ちょっと私の備忘録的な意味もあるが、興味深いことを述べる。
それは、「神の名」、あるいは、「神とは何か?」に関する旧約聖書の記述である。
私は、子供の時、『十戒』という旧約聖書の『創世記』を描いた映画をテレビで見たが、その中で、モーセの前に現れた神が、
「われは、在りて在るものである」
と名乗るのを印象的に憶えている。
子供の時に、そんなふうに1度聞いただけではっきり憶えていることは、大抵真理であると思う。
一般的にも、「私は、私は在るという者である」というのは、キリスト教やユダヤ教の神の定義の定番であると思う。
ところが、私が12歳の夏に入手したW.E.バトラーの『魔法入門』の文庫本の171ページに、こんなことが書かれている。
この(神の)名前は『欽訳聖書』によれば『われは有りて有るものなり』と訳されているが、ヘブライ語では、「エヒュー・アシェル・エヒュー」、すなわちモッハの翻訳するところでは「わたくしはなるようになるであろう」という意味であり、この方がはるかにヘブライ語の意味を伝えている。わたくしはあるヘブライ語の学者に教えられたことがあるが、もっと忠実には「われはつねに生成する者なり」と訳することができるという。
『欽訳聖書』とは、おそらく『欽定訳聖書』つまり、イングランド王ジェームズ一世の命令で訳された聖書で1611年刊行の英訳聖書である。
そこに、神の名は、I AM THAT I AM(私は私は在るという者である)と訳されているのだろう。
ヘブライ語で聖書を読んでいたネヴィル・ゴダードも、神の名を I AM THAT I AMと訳しており、字義的にはこれで良いのだが、注目すべきは、ゴダードは、I AM THAT I AMを「われはつねに生成する者なり」の意味があると示唆していることだ。
字義的に、神とは「私は在る」であるが、正確には、「私は在るという自覚」が神である。
「私は在る」は、多少の違いはあれ、誰でも感じているが、その感じが神であり、それが、あらゆるものを常に生成する主体である。
それならば、「私は在る」という自覚を大切にせずにはいられない。
ヒンズー教の聖者に学んだと考えられるニサルガダッタ・マハラジは、「常に、私は在るという感覚にしがみつきなさい」と教えたというが、これは、「常に、私は在るという自覚を持ちなさい」という意味だろう。
ゴダードは、おそらく「とっかかりは」という意味であると思うが、言葉で「私は在る」と心で唱えることを勧めている。
そうすれば、容易く、「私は在る」という感覚が分かるのではないかと思う。
マハラジもまた「私は在る」が最高のマントラ(真言)であると言ったらしい。
だが、「私は在る」は呪文ではないので、言葉なしに、それを感じないといけない。
「私は在る」が神であり、「私は在る」と感じることは、少なくとも神と交流することである。
ならば、これをせずにいられるはずがない。
AIアート780
「呼吸と光合成」
Kay
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(2)想定の『超』法則(ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(3)その思いはすでに実現している! (ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(4)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話
(5)魔法入門(ウォルター・アーネスト・バトラー)
(6)魔法修行(ウォルター・アーネスト・バトラー)
(7)神秘のカバラー(ダイアン・フォーチュン)
それは、「神の名」、あるいは、「神とは何か?」に関する旧約聖書の記述である。
私は、子供の時、『十戒』という旧約聖書の『創世記』を描いた映画をテレビで見たが、その中で、モーセの前に現れた神が、
「われは、在りて在るものである」
と名乗るのを印象的に憶えている。
子供の時に、そんなふうに1度聞いただけではっきり憶えていることは、大抵真理であると思う。
一般的にも、「私は、私は在るという者である」というのは、キリスト教やユダヤ教の神の定義の定番であると思う。
ところが、私が12歳の夏に入手したW.E.バトラーの『魔法入門』の文庫本の171ページに、こんなことが書かれている。
この(神の)名前は『欽訳聖書』によれば『われは有りて有るものなり』と訳されているが、ヘブライ語では、「エヒュー・アシェル・エヒュー」、すなわちモッハの翻訳するところでは「わたくしはなるようになるであろう」という意味であり、この方がはるかにヘブライ語の意味を伝えている。わたくしはあるヘブライ語の学者に教えられたことがあるが、もっと忠実には「われはつねに生成する者なり」と訳することができるという。
『欽訳聖書』とは、おそらく『欽定訳聖書』つまり、イングランド王ジェームズ一世の命令で訳された聖書で1611年刊行の英訳聖書である。
そこに、神の名は、I AM THAT I AM(私は私は在るという者である)と訳されているのだろう。
ヘブライ語で聖書を読んでいたネヴィル・ゴダードも、神の名を I AM THAT I AMと訳しており、字義的にはこれで良いのだが、注目すべきは、ゴダードは、I AM THAT I AMを「われはつねに生成する者なり」の意味があると示唆していることだ。
字義的に、神とは「私は在る」であるが、正確には、「私は在るという自覚」が神である。
「私は在る」は、多少の違いはあれ、誰でも感じているが、その感じが神であり、それが、あらゆるものを常に生成する主体である。
それならば、「私は在る」という自覚を大切にせずにはいられない。
ヒンズー教の聖者に学んだと考えられるニサルガダッタ・マハラジは、「常に、私は在るという感覚にしがみつきなさい」と教えたというが、これは、「常に、私は在るという自覚を持ちなさい」という意味だろう。
ゴダードは、おそらく「とっかかりは」という意味であると思うが、言葉で「私は在る」と心で唱えることを勧めている。
そうすれば、容易く、「私は在る」という感覚が分かるのではないかと思う。
マハラジもまた「私は在る」が最高のマントラ(真言)であると言ったらしい。
だが、「私は在る」は呪文ではないので、言葉なしに、それを感じないといけない。
「私は在る」が神であり、「私は在る」と感じることは、少なくとも神と交流することである。
ならば、これをせずにいられるはずがない。
AIアート780
「呼吸と光合成」
Kay
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(1)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(2)想定の『超』法則(ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(3)その思いはすでに実現している! (ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(4)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話
(5)魔法入門(ウォルター・アーネスト・バトラー)
(6)魔法修行(ウォルター・アーネスト・バトラー)
(7)神秘のカバラー(ダイアン・フォーチュン)