ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ニサルガダッタ・マハラジ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

それぞれの人にとっての大切な言葉

皆さんには、「これだけは憶えていよう」と思う言葉があるかもしれないし、かつてはあったという場合もあるかもしれない。
憶えていたい言葉とは、大切ではあるが、忘れ易いものだろう。
それが1つか、せいぜい2つなら良いが、増え過ぎた人の人生は大抵混乱している。
私だって「これだけは座右の銘に」と思った言葉も1日も経たないうちに忘れることもある(笑)。
どんな言葉を憶えているかで、人生が決まるかどうかは分からないが、そう思わされることもある。
それで思い出すのが、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジのことだ。
彼は、「私は修行は何もしなかったが、師が言った『あなたは至高の実在である』という言葉を憶えていたおかげで、わずか7年で悟りが開けた」と言ったらしい。
まあ、この「あなたは至高の実在である」は原語とその正確な意味、また、マハラジの師の正確なニュアンスといったものが分からないが、マハラジは何かを感じたということだろう。

それで、私は最近また、そんな、自分が憶えておくべき言葉を見つけたが(笑)、それは、少し前にご紹介した、アメリカの歌手・女優のジュディ・ガーランドが言ったという、「もし私が呼吸することを忘れていたら思い出させて」である。
本当に彼女がそう言ったかどうかはどうでも良いのだ。この言葉が良いと思っただけである。
ただ、もっと単純な表現が良いかもしれない。
「もっと深く呼吸しろ」とか、あるいは、「もっとちゃんと呼吸しろ」でも良いだろう。
いや、若い頃のガーランドのような人物を想像しながら、「呼吸が良くない」「良い呼吸を」と言ってもらうとかでも良いかもしれない。

花のスピリット
AIアート353
「花のスピリット」
Kay


ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』に、こんな話があるらしい。
ドイツ軍の捕虜になったフランス兵達のモラルが、どうしようもなく低下してきた時、フランス兵の隊長がフランス兵達に「少女が1人いることを想像しろ」と命令した。
まあ、この少女とは、理想の女性といった意味だろう。
すると、みるみるフランス兵達は騎士道精神を取り戻したという。
理想の少女の存在を想像するだけでそうであるなら、最も大切な呼吸に関し「良い呼吸を」と言ってもらえば、きっと素晴らしい効果があるだろう。
※『自由の大地』の話は、コリン・ウィルソンの『至高体験』から引用した。
※ジュディ・ガーランドの話は、パム・グラウトの『人生を思い通りに変える呼吸法』より引用した。








神の真似をすれば神(保存版)

事実かどうかは分からないが、あったとしてもおかしくはないと思う中村天風の逸話がある。
経緯は分からないが、虎かライオンが入った檻の中に指輪が落ちていたらしい。
中村天風は、その中に平気で入っていき、指輪を取って来たという。
また、中村天風の弟子の藤平光一に、こんな話がある。
おそらく、藤平光一が中村天風の弟子になる前の話と思う。
藤平光一は、23歳かそこらで隊長として兵隊を率いて戦場に行ったが、自分より年長の部下達に、自分が頼りになることを見せて安心させるため、銃弾飛び交う戦地を平然と歩いて見せたという。
これで思い出すのが、織田信長がやはり鉄砲の弾が飛び交っている戦場を「わしに弾は当たらん」と言って悠然と歩いたという逸話だ。

論理的・常識的には馬鹿な行為で、無事に済んだのはたまたまということになるが、深い真理から言えばそうではなく、いずれも、やろうと思えば誰でも出来る。
どうやるのかというと、思考を消せば良いのである。
織田信長のセリフを言い換えれば「頭が空っぽのわしに弾は当たらん」である。
まあ、格好よく言えば「無になったわしに弾は当たらん」となるが。

思考を消す最上の方法は、20世紀初頭から今までは「私は誰か?」と自分に問うことだった。
思考する主体である「私」に意識を引き戻すことで思考は消えるのである。
だが、思考偏重の傾向が強い現代では、なかなかこれを続けられる者がいないのも確かである。
そこで、世界コマンドである「私は何も考えない」「われ思わず」などがあり、好きな言葉を常に唱えて思考を消すことに励めば、思考が消えるごとに全知全能に近付く。

教室の記憶
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「教室の記憶」
Kay


ところで、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジと宇宙人バシャールが共通のことを言っている。
それは、「振舞うことが最上」「態度は事実より重要」である。
引き寄せ的に簡単に言えば、「金持ちになりたいなら金持ちのように振舞え」である。
ただし、これ(「金持ちになりたいなら金持ちのように振舞え」)自体は、ほぼうまくいかない。
頭で「金持ちらしさ」を考えるからで、それは不自然で、不自然なことをやっていると疲れるので続かない。
振舞うべきは、「思考が消えた人間らしく」振舞うことである。
思考が消えた人間らしく振舞うのは、案外に自然なのである。
なぜなら、本来は、思考が消えた状態が一番自然なのだからだ。
思考が消えた人間のように超然とした表情をし、思考が消えた人間のように静かに呼吸をすれば、すなわち、思考が消えた人間の出来上がりである。
『徒然草』に「狂人の真似をすれば狂人」とあるように、神の真似をすれば神である。
そして、神とは思考を消した人間なのである。
ひろさちやの『空海入門』には、この「真似てなる」の良いヒントがうまく書かれているように思う。








恐怖の言葉

思考を消せば全知全能である。
思考を消す方法で、最上と思われるのが「私は誰か?」と自分に問うことである。
「私は誰か?」と自分に問う方法は、20世紀の初頭に、インドのラマナ・マハルシが提示した。
これを否定する本物の賢者は存在しない。

ところが、「私は誰か?」と問うても、なかなか速やかに思考が消えない。
もちろん、マハルシは「『私は誰か?』以外の一切の想念を持ってはならない」と言うのだから、そんなに簡単ではない。
一方、マハルシと同時代のインドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「私は在る」が最高のマントラだと言い、翻訳書の表現だが、「常に存在の感覚にしがみつけ」と言った。
「存在の感覚にしがみつく」とは分かり難いが、要は、「私は在る」と唱えることでそれが出来ると思われる。

そこで、この偉大な聖者2人をまとめて否定しようと思った(笑)。
特に、マハラジはいけない。
彼は「あなたが確信出来る唯一のことは、自分が存在するということだけだ」と言った。
そんなことは嘘である(笑)。
そうではないのだ。
正しい言い方をすれば、
「私が決して信じられないことは『私はない』ということだから『私はない』が真理である」
である。
もっと、分かり易く言うとこうである。
「私は酒が(ケーキでもステーキでも何でも良い)好きだ。よって、私は酒が好きでない」
ちっとも分からないぞ(笑)。
では、さらに分かり易く。

この上なく愛らしい少女が、天使の微笑みを浮かべて言う。
「あなたを愛しているわ」
そして、私も彼女を愛していると強く感じる。
つまり、彼女は私を愛していないし、私は彼女を愛していないのだ。

こう説いた時、悪魔が自分の身体を2つに裂いて去ったのである。
嘘が暴かれた時、悪魔はそうするのである。

思い出
AIアート188
「思い出」
Kay


とはいえ、「私は誰か?」が最上のマントラなので、それは使っていただきたい。
私はこれで全てを知ったのだから。
ところで、恐怖を味わいたくはないだろうか?
それなら、軽く初心者用として、こんな言葉がある。
「私はここにいない」
この恐怖に耐えれば、即座に菩薩が従うだろう。
では、中級者用は?
もちろん、
「私はどこにもいない」
である。
上級者用は?
・・・怖くて言えない(笑)。
ツイッターで教えようか?
まあ、言ってみただけだ。
ヒントは、考えれば分かる・・・だ。








不安が消えない時

人間が嫌いなものは不安である。
なぜ人間は不安が嫌いなのかというと、人間が本質的に不安の対局である安らぎを求めているからだ。
人間は、富や名誉や酒池肉林(しゅちにくりん)のようなものを求めているのではなく、ぐっすりと眠れることを求めているのである。
そして、不安を消し安らぎを得るには、心を消せば良いというか、心を消す以外の方法はない。
心を消すこととは思考を消すことと同じである。
考えている限り、不安があり、安らぎはない。

そして、心(=思考)を消す最上の方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
だが、真面目に「私は誰か?」と自分に問うている者が、こんな状況に陥ることが、おそらく必ずある。
それは、「私は誰か?」と問うているのに不安だらけで苦しいということだ。
それで、「私は誰か?」と問うことに効果はないのではと思うだろう。
それなら、世間で人気がある「大丈夫」という言葉の方が良いと思い、試しに唱えてみると、確かに気楽になる気がする。
実際、「大丈夫」は慰めになるが、言ってみれば慰めにしかならない。

一人の道
AIアート163
「一人の道」
Kay


なぜ、「私は誰か?」と唱えていても効果がないのかというと、数が足りないだけである。
「大丈夫」も、唱え続けている限り心が落ち着く感じがする。
しかし、やはり、唱えている間だけである。
だが、「私は誰か?」は、心を消していくので、やがては問うていない時でも、そして、心が消えれば、常時、平安でいられる。
もっとも、心が消えたとは言っても、うまい譬えかどうかは分からないが、ニサルガダッタ・マハラジが言ったように「ハチミツのような心」は残る。
つまり、水が、かき混ぜると、かき混ぜるのをやめても長い間動いているのとは違い、ハチミツは、かき混ぜるのを止めると直ちに停止するようなものである。
これを釈迦は「聖者は第二の矢を受けず」と言い、聖者だって怒ったり「美しいなあ」と思うのは凡人と同じだが、凡人は、怒ったら仕返しをしたくなり、美しいなあと思ったらそれを手に入れたいと思うが、聖者にはそれがない。
これを、「聖者は心が魂に従っている」と言い、「凡人は心が玉座に座っている」と言うこともある。
そこでイエスは、「汝(=心)破れたり。私(=魂)の後方に退けサタン(=心)」と言ったのである。

素振りの足りないバッターが打てないように、「私は誰か?」と問う数が少ない人間は、心が玉座から降りないのである。








『老子』第16章を一言で言えば「心を静かにせよ」

では、『老子』第16章に入る。
この章を一言で言えば「心を静かにせよ」だ。

心を静かにするとは、想念を起こさないことであり、それは、無我、忘我、没我になるということで、それを「無になる」ことと言って良いと思う。
そして、老子は、無になれば真理が見え、真理が見えれば一切を公平に見ることが出来、一切を公平に見る者は真の王であり、真の王であれば万物が従うので無敵であると言う。
これは、老子、荘子、列子などの道教の根本的な思想でもある。

ラマナ・マハルシも言っている。
「全ての聖典には、つまるところ、心を静かにせよと書かれている。それが分かれば、もう聖典を読む必要はない」

ただ、問題は、「では、どうすれば、心を静かに出来るのか」ということであることが分かると思う。
もちろん、老子は『老子』の全章に渡って、それを教えようとしたが、教えを抽象的に感じ、無になる方法が理解出来ない人が多い。
荘子は、もう少し、初心者向けに易しく語ったが、やはり、「思慮分別を離れ、是非好悪を捨て・・・」といった、掴みどころのない教えが多いように思う。

そこで、私は、ラマナ・マハルシの方法と、ニサルガダッタ・マハラジの方法をミックスすれば良いのだと思う。
ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問えと言った。
しかし、それは少しの間は誰でも出来るが、長く続けることが出来ない。
「私は誰か?」と問う意義が分からず、そして、続けていても何も起こらなければ、モチベーションが続かないからだ。
一方、ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在だ」と言われたことを憶えているだけで解脱が出来た・・・つまり、究極的に心を静かにし、無になったと言っているのである。
だが、「私は至高の実在だ」ということの意味が分からず、憶えていられる人は少ない。
また、「至高の実在だ」という言葉は、宗教的で馴染みが薄く、ピンと来ない。
だから、もっと単純に「私は神だ」で良い。
それを信じられるかどうかはどうでも良い。
「私は神である」という言葉だけを憶えていれば良いのである。
そして、時間があれば、常に「私は誰か?」と問うのであるが、その答は「神である」だと、思わなくていいから意識する。
すると、ある時、突然、自分が神であるという実感が起こり、その時は、あなたは神のようになっている。
そうなれば、老子が言うように無敵である。
神であるのだから当然だが。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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