古い偉大な聖典の翻訳が沢山出版されているが、難しく分厚いものは、なかなか読めない。
『旧約聖書』にチャレンジして挫折した人もいるだろう。まあ、私もである(笑)。
仏教の聖典で、キリスト教の『聖書』に相当するものは、異論もあるだろうが、『法華経』だと言う人もいる。
だが、『法華経』全体は長い。
しかし、『法華経』の中の『観音経』だけなら、長いとは言えない。元々、『観音経』は独立した経典であったという高位の専門家の証言もある。
比較的短い、しかし、非常に価値の高い聖典を挙げれば、
・観音経(『法華経』25章)
・観無量寿経(『浄土三部経』の1つ)
・福音書(『新約聖書』の中心部)
・老子
・バガヴァッド・ギーター(『マハーバーラタ』6巻の1部)
・古事記
この中で一番新しいものでさえ『古事記』(西暦712年)で、どれも古い。
古い書物は、何度も写本や翻訳が行われ、その度に間違いや齟齬(くいちがい)が入り、オリジナルとはかなり変わってしまっていると考えた方が良いだろう。
とはいえ、これらの聖典には霊的な働きかけがあり、真面目に読む限り、自ずと正しい意味が伝わってくると思う。
ところで、新しい(基本的に1902年に書かれた)、優れた、そして、有り難いことに、とても短い聖典がある。
それは、インドの聖者ラマナ・マハルシが砂に書いたものを書き写したと言われる『私は誰か?』だ。
28の短い質問とその回答からなる、書籍にすれば十数ページのこの聖典は、以前は、ラマナ・マハルシの公式サイトから、PDFで無料ダウンロード出来たが、今はリンクが切れている。
しかし、「私は誰か PDF」で検索すれば、そのPDFファイルが見つかる。
一応、リンクを書くと、
【PDF】私は誰か?
である。
書籍としては、『ラマナ・マハルシの教え』(新泉社)、『あるがままに』(ナチュラルスピリット)、『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』(ナチュラルスピリット)に収録されている。
ところで、最近も書いたが、ラマナ・マハルシ自身は、聖典をほとんど所持していなかった。
伝承では、マハルシは一度読めば完全に記憶してしまえるので、若い時に、いろいろな聖典の持ち主を訪ねて、一度読ませてもらっていた。それで十分だった。
ところが、そのマハルシが、ほとんど唯一、死ぬまで保持していた聖典がある。
それは、マハルシが自分で書き写したものだった。
よほど気に入り、また、重要視していたに違いない。
本にすれば、おそらく、2ページという非常に短いもので、4つの文から成っている。
それは、ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)が書いた『聖なる名前の哲学』である。
私は、当然翻訳で読み、意味が完全に分かるわけではないが、あまりの素晴らしさにゾっとした。
ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の名を知っている人はほとんどいないと思うが、サイババの『ナーマスマラナ』の中では非常に重要な人物で、まさに、神の名を真言として唱えることの意味を最も知っていた聖者だった。
「ナーマスマラナ」とは、神の名を唱える行で、念仏もまさにナーマスマラナであると記されている。
このブログでもずっと書いている通り、神仏の名、あるいは、神仏を褒め称える言葉である真言を唱えることだけが、普通の人に出来る、あらゆる問題を解決し、救われる方法である。
ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の『聖なる名前の哲学』の全文は、上で挙げた聖典『私は誰か?』が収録された書籍のうち2つに収録されている。
それは、
・『あるがままに』(ナチュラルスピリット)
・『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』(ナチュラルスピリット)
である。
さっきも述べたが、『聖なる名前の哲学』は、4つの短い文で構成される。
その第2を、引用しておく。
名前そのものが形であり、形そのものが名前である。 名前と形に違いはない。
神は顕現し、名称と形態を装った。名前ゆえに『ヴェーダ』が確立されたのである。
名前を超えたマントラはないと知りなさい。これに異議を唱えるのは 愚か者である。
ナームデーヴ曰く、
「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」。
これは主の愛すべき帰依者にのみ知られる。
『旧約聖書』にチャレンジして挫折した人もいるだろう。まあ、私もである(笑)。
仏教の聖典で、キリスト教の『聖書』に相当するものは、異論もあるだろうが、『法華経』だと言う人もいる。
だが、『法華経』全体は長い。
しかし、『法華経』の中の『観音経』だけなら、長いとは言えない。元々、『観音経』は独立した経典であったという高位の専門家の証言もある。
比較的短い、しかし、非常に価値の高い聖典を挙げれば、
・観音経(『法華経』25章)
・観無量寿経(『浄土三部経』の1つ)
・福音書(『新約聖書』の中心部)
・老子
・バガヴァッド・ギーター(『マハーバーラタ』6巻の1部)
・古事記
この中で一番新しいものでさえ『古事記』(西暦712年)で、どれも古い。
古い書物は、何度も写本や翻訳が行われ、その度に間違いや齟齬(くいちがい)が入り、オリジナルとはかなり変わってしまっていると考えた方が良いだろう。
とはいえ、これらの聖典には霊的な働きかけがあり、真面目に読む限り、自ずと正しい意味が伝わってくると思う。
ところで、新しい(基本的に1902年に書かれた)、優れた、そして、有り難いことに、とても短い聖典がある。
それは、インドの聖者ラマナ・マハルシが砂に書いたものを書き写したと言われる『私は誰か?』だ。
28の短い質問とその回答からなる、書籍にすれば十数ページのこの聖典は、以前は、ラマナ・マハルシの公式サイトから、PDFで無料ダウンロード出来たが、今はリンクが切れている。
しかし、「私は誰か PDF」で検索すれば、そのPDFファイルが見つかる。
一応、リンクを書くと、
【PDF】私は誰か?
である。
書籍としては、『ラマナ・マハルシの教え』(新泉社)、『あるがままに』(ナチュラルスピリット)、『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』(ナチュラルスピリット)に収録されている。
ところで、最近も書いたが、ラマナ・マハルシ自身は、聖典をほとんど所持していなかった。
伝承では、マハルシは一度読めば完全に記憶してしまえるので、若い時に、いろいろな聖典の持ち主を訪ねて、一度読ませてもらっていた。それで十分だった。
ところが、そのマハルシが、ほとんど唯一、死ぬまで保持していた聖典がある。
それは、マハルシが自分で書き写したものだった。
よほど気に入り、また、重要視していたに違いない。
本にすれば、おそらく、2ページという非常に短いもので、4つの文から成っている。
それは、ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)が書いた『聖なる名前の哲学』である。
私は、当然翻訳で読み、意味が完全に分かるわけではないが、あまりの素晴らしさにゾっとした。
ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の名を知っている人はほとんどいないと思うが、サイババの『ナーマスマラナ』の中では非常に重要な人物で、まさに、神の名を真言として唱えることの意味を最も知っていた聖者だった。
「ナーマスマラナ」とは、神の名を唱える行で、念仏もまさにナーマスマラナであると記されている。
このブログでもずっと書いている通り、神仏の名、あるいは、神仏を褒め称える言葉である真言を唱えることだけが、普通の人に出来る、あらゆる問題を解決し、救われる方法である。
ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の『聖なる名前の哲学』の全文は、上で挙げた聖典『私は誰か?』が収録された書籍のうち2つに収録されている。
それは、
・『あるがままに』(ナチュラルスピリット)
・『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』(ナチュラルスピリット)
である。
さっきも述べたが、『聖なる名前の哲学』は、4つの短い文で構成される。
その第2を、引用しておく。
名前そのものが形であり、形そのものが名前である。 名前と形に違いはない。
神は顕現し、名称と形態を装った。名前ゆえに『ヴェーダ』が確立されたのである。
名前を超えたマントラはないと知りなさい。これに異議を唱えるのは 愚か者である。
ナームデーヴ曰く、
「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」。
これは主の愛すべき帰依者にのみ知られる。
