ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ナーマデーヴァ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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メタ・ヒューマンになる

メタ・ヒューマンという言葉をご存じだろうか?
メタ・ヒューマンとは、外見は人間であるが、人間を超えた能力を持つ存在で、例えば、想像上の存在ではあるが、スーパーマンがそうだ。
アンドロイドや、メカを組み込まれた改造人間はメタ・ヒューマンに含まれないが、放射能の影響で超人化したような、あるいは、事故か意図的かは問わず、生物学的変異が起こって超人になった場合はメタ・ヒューマンに入る。例えば、粒子加速器の間接的な影響で加速人間になったフラッシュ(DCコミックス社の漫画作品のヒーロー)のようにである。
仙人や天狗、あるいは、『ゲゲゲの鬼太郎』のような妖怪漫画に登場する妖怪なども、猫娘のように外見が人間ならメタ・ヒューマンに入ると思う。

メタ・ヒューマンが幸福になることは、極めて難しいと考えられる。
スーパーマンのように、人類全部を敵に回しても楽勝出来そうな力があり、なおかつ、善の存在であるというイメージを定着させた場合は別であると、ずっと考えられてきたが、近年のスーパーマン映画では、スーパーマン不要論、スーパーマン脅威論が前面に出されている。そりゃ、冷静に考えれば、スーパーマンが本当にいたら非常に困ることは誰でも想像出来るはずだ。

そして、スーパーマンほどの力があるわけではないメタ・ヒューマンは、自分の存在を隠す場合が多い。
存在を知られたら、政府に捕獲される可能性が高いし、誤解からでも、善人のイメージを損なったら、大衆を敵に回してしまう可能性が極めて高い。そうなれば、スーパーマンほどの超人でないなら、身の破滅を招く。
そもそもの話だが、人間は、優れていようが劣っていようが、普通と違っている者は異分子として排除したがる強い性質がある。それも、ほんの少し違ってるだけで、そうなることもある。
昔から、普通の子とは違う子供は、その違いが、たとえ他の子より優れているものだとしても、迫害されるものだ。

名も無い時代の集落の 名も無い幼い少年の
誰も知らない おとぎばなし
産まれついた時から 忌み子 鬼の子として
その身に余る罰を受けた
~『六兆年と一夜物語』(作詞・作曲・編曲:kemu。唄:IA)より~

これらの話には、平凡な人間の「皆と一緒でなければならない。異分子は許さない」という、強力な小市民思想が感じられ、それは、いつの時代も、もちろん今も厳として存在する(今回は触れないが、それは権力者によって叩き込まれた思想…つまり洗脳である)。
大谷翔平さんがいかに革命的に凄いといったところで、実際は世間の許容範囲に収まった凄さであり、しかも、実体もそうなのかもしれないが、彼が大衆好みの人間性を持っているから受け入れられているのである。
一方、トランプ大統領は、並外れた能力があるだけでなく、これまでのホワイトハウスや国家権力の慣例を破る、超異分子であるので、エリート層からは徹底的に嫌われている。
実のところ、大谷翔平さんだって、誰からも好かれているわけではなく、我々の知らない苦難もあるはずだ。
だが、彼らの場合は、少なくとも、大衆の支持はある(トランプ大統領の場合、マスコミは、彼が大衆にも嫌われているという報道をするが)。

で、我々は、大衆の支持を一切得ない覚悟があれば、メタ・ヒューマンになれる可能性がある。
時間と空間を超え、世界を精神で改変するメタ・ヒューマンに。
ただし、メタ・ヒューマンは、利己的であっては身を亡ぼす。
利己的でないことは、人間にとっては難しく、人間的成長や円熟が必要である。
そして、利己的でないとしても、メタ・ヒューマンは支配者からは嫌われ、憎まれる。それは、支配者に与える恐怖の反動でもある。
どうすれば、メタ・ヒューマンになれるのか?
信じることが出来る者だけやれば良いが、神仏の名を唱えることによってである。
ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の『聖なる名前の哲学』の最初にこう書かれている。

名前は空に大地に、そして宇宙全体に密に充満している。
それが冥界のどれほど深くまで、そして天界のどれほど高くまで行きわたっているかを誰が知ろう。

この意味に深く想いを致せば分かるかもしれないが、分からなくても、この原理により、神仏の名を唱えれば自ずと効果は現れる。
ただ、粘り強さだけは要求される。








一番大切なもの

人間にとって一番大切なものは何だろう?
「もちろん命に決まっている」と言う者が多いと思うが、それが間違いとは言えない。
しかし、命より名誉を重んじる人もいれば、「いや、愛である」と言う者もいる。
まあ、「いや、一番大事なのはお金だ」と言うのは、なかなか共感や賛同を得られないかもしれないが、他人が否定出来ることではないかもしれない。
どの回答にも、明確な反論は不能で、議論を始めたらキリがない。
だが、一番大切なものは名誉や愛、あるいは、お金だと言う者は、極限まで行ったことがないのだ。つまり、それなりに恵まれていたはずだ。
それは、一番大切なものが命だと言う者でもそうである。
なぜなら、極限まで行けば、人間は割と容易く自分で命を絶ってしまえるからだ。

貧しく無知な女性であるサックバーイーは「一番大切なもの、それは神の名です」と断言し、それを聞いて震撼した偉大な聖者ナーマデーヴァは、サックバーイーの弟子になった。
本当に苦しい時、人は神に祈るとしても、何々を下さいとか、何々をして下さいなどとは言わないものだ。
せいぜいが、「ヘルプ!(助けて!)」と言うし、本当の極限状態では、それすら言わない。
ただ「神様!」と、普通は心で言うだろう。
純真無垢な12歳の少女だったサックバーイーが非道な家に嫁がされた時は、まさにそんな状況だったと思われる。
サックバーイーはパーンドゥランガ(クリシュナ神)を信仰していたので、パーンドゥランガの名を心で唱え続け、そして、救われたのである。
ナーマデーヴァは、神の名を唱えることの教義や、それに隠された原理を『聖なる名前の哲学』という短い手記にまとめた。
短いながら、それは偉大な聖典であり、一度読んで分かるようなものではないが、ナーマデーヴァ自身が神の名を唱えていたことが分かれば、同じことをすれば良いことはすぐに分かる。
仏教で言えば、仏の名を唱えることになる。
真言宗、浄土宗、浄土真宗の始祖とも言われる龍樹が、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の『易行品』で、「阿弥陀仏などの仏、菩薩の名を称せよ」と記しており、それが、後に念仏になったのである。
(ただし、龍樹はそれを『観無量寿経』や『阿弥陀経』など、『浄土三部経』を元にしたと考えられている)
従って、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることが、サックバーイーやナーマデーヴァの神の名を唱えることと同じだし、「阿弥陀仏」「阿弥陀」「阿弥陀様」と唱えても良い。
同じく、観世音菩薩を信仰するなら(あるいは単に好きなら)、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」「観音様」と唱えれば良いのである。
家の宗派が何であるかは関係ない。神仏の名は心で唱えるのであるから、どの仏の名を唱えているかは誰にも分からず、よって、問題が起こることもない。

親鸞の教えが書かれた『歎異抄』と併せて考えると、我々は神仏の名を唱えること以外、何もやることはない。
何もやる必要はないということに関しては、ナーマデーヴァを心から崇拝していたインドの聖者ラマナ・マハルシも同じことを述べている。
ただ、正確に言えば、マハルシの場合、実際に、我々は何もしていないのだと言う。
為されるべき行為は為されてしまい、起こるべき出来事は起こってしまう。
それを、自分がしている、自分がしなければならないと思うのは迷いである。
大人になれば、働かなくてはならないと言われる。
だが、マハルシは、「働く運命にあれば仕事は避けられないが、働く運命になければ、いくら仕事を探しても見つからない」と言う。
マハルシ自身、社会的な仕事に就いたことはないし、私も、会社勤めをしていた時でも、仕事をしたことはほとんどなかった。
何もしなくて良いが、敢えて言えば、神仏の名を唱えることだけはした方が良い。それも、出来るだけ多く。
そうすれば、全てはうまくいくだろう。








少女が奇跡を起こした方法

ラマナ・マハルシ(1879~1950)は、C.G.ユングも崇拝した世界的に知られるインドの聖者で、広大な彼のアシュラム(道場)は今もきれいに保管され、世界中から巡礼者が絶えない。
マハルシは「沈黙の聖者」と言われるほど、ほとんど会話をしなかったが、そのわずかな会話の内容が、今も日本でも、書籍として発行され続けている。
マハルシは、少年時代、学校で、黒板に書かれたことを一度見ただけで完全に暗記してしまえたという話があるが、その驚異的な記憶力のおかげで、自分で聖典を持っていなくても、一度見せてもらえば内容を覚えてしまったらしい。
そのマハルシが、14世紀の聖者ナーマデーヴァ(ナームデーヴ)が書いた『聖なる名前の哲学』という、4つの文から成る、日本語の翻訳なら730文字ほどの小冊子を発見すると、それを自ら書き写し、小さな書棚に置いて大切に保管し、度々朗読して聞かせたという。
この話からも、ナーマデーヴァがいかに優れた聖者であるかが分かる。
『聖なる名前の哲学』の全文は書籍『あるがままに』や『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』(共にナチュラルスピリット刊)に収められていて、私は、PDFおよび画像にしてスマートフォンに入れている。

サイババの『ナーマスマラナ』(サティヤ・サイ出版教会)によれば、上に述べたナーマデーヴァの教えは、神の名を唱えることであった。
ナーマデーヴァは、サックバーイーという、牛糞(燃料にされる)を作る一般労働者によって神の名を唱えることの重要性を知り、サックバーイーの弟子になったのだという。
サックバーイーは、パーンドゥランガという神を信仰し、その名を常に唱えていた。
パーンドゥランガは、クリシュナ神の別名のようだ。
サックバーイーは、純真無垢な少女であった12歳の時、酷い家に嫁がされ、そこで辛い日々を送っていたが、パーンドゥランガに祈り続けた・・・彼女の場合、パーンドゥランガの名を心で唱え続けたのだと思われる。
それで、サックバーイーは、家を抜け出してパーンドゥランガの聖地パンダルブルに行くことが出来、そこで直接パーンドゥランガに会ったという。
『ナーマスマラナ』の104ページによれば、パーンドゥランガ(クリシュナ)はサックバーイーの姿になって家事を行い、そのスキにサックバーイーは家を出たということだ。
『ナーマスマラナ』に、ナーマデーヴァに関する面白いエピソードがある。
彼が、兄のグニャーナデーヴァと森を歩いていた時のことだ。
喉が渇いた2人に、古井戸が目に入った。
覗いてみると、その井戸の底の方に少し水があった。しかし、桶のようなものはなかった。
すると、グニャーナデーヴァは、鳥に姿を変え、井戸の底に降りて水を飲むことが出来た。
だが、ナーマデーヴァは、
「私の神は私の中におわす。神のところに行かなくても、私には神がそばにおわすことを保証できる」
と言って、座って神の名を唱え始めた。
すると、井戸の水が上昇してきて、ナーマデーヴァは水を飲むことが出来た。
福音書のイエスの奇跡同様、このお話をそのまま受け取っても別に構わないが、なかなかそうもいかないかもしれないので解説すると、この場合の水は神を喩えたものだろう。
グニャーナデーヴァは自分が神のところに行ったが、ナーマデーヴァは、神の名を唱えることで、神を連れて来ることが出来たのである。
サイババは、ナーマデーヴァのようでないといけないと述べた。
ナーマスマラナとは、神の名を唱えることであるが、書籍『ナーマスマラナ』には、念仏はナーマスマラナそのものであると書かれている。
無論、あらゆる神仏の名を唱えることがそうであろう。
祈るとか、信仰するというのは、どういうことか分からない人も多いだろうが、『聖なる名前の哲学』を読めば、ナーマスマラナが最も優れた祈り、あるいは、信仰であると分かるのである。








名前の神秘

最も親愛を示す行為は名前を呼ぶことだ。
人間の場合、姓より名の方が良い。

精神が不安定な子供でも、繰り返し、名前を呼んであげれば、やがて精神が安定してくる。
人間は、名前で呼ばれず、番号で呼ばれると、精神が不安定になる。そんな人間は支配し易い。
名前を呼ばれないと不安だから、ちょっとした安心を与えてやれば、すぐに従うからだ。例えば、「団体の教義(あるいは総統)を信じれば、605号よ、お前は必要とされるが、そうでないなら、605号よ、お前は不要だ」とかね。

良い親か悪い親かは、子供のことを言う様子で分かる。
良い親は「花子はですね」と、子供の名前を言うが、愚かな親は「あの子はですね」と言う。もちろん、良い親でも文脈の中で「あの子」と言うことはあるが、大抵は名前で呼ぶ。
また、愚かな親は、子供に話しかける時、子供を「お前」と呼ぶが、良い親は名前で呼ぶのだ。
「お前」という言葉も、元々は、「御前」という良い意味の言葉であったが、「御前」ですら良くない。絆を作ることはないからだ。やはり、名前で呼ぶのが良いのである。

軍隊でも、「ダン中尉」と名前で呼ばれる隊長は部下に慕われているが、単に「中尉」と呼ばれる隊長は、いざという時、部下は言うことを聞かないし、その中尉も部下を守らないだろう。

好きな人がいれば、なるべく姓ではなく、名前で呼ぶことだ。自然に名前で呼べるようになれば、親しくなったと考えて良い。もし、自然に名前で呼べないなら、それは自分に何か問題があり、それをどうにかしなければならないのだ。もし、どうして良いか分からないなら、心でその人の名前を繰り返し呼ぶことだ。そうすると、自ずと、名前で呼べるような言動が出来るようになる。
そもそも、好きな人がいたら、心で名前を呼び続ければ、不思議と仲良くなってしまうものだ。

私は、政木和三さんの本を読み、政木さんの名を呼びはしなかったが、心の中で何度も「政木和三さんは」「政木和三さんが」と考えるようになった。そうしたら、私は政木さんに何度も会う機会が出来、2人で食事をすることも出来るようになったのだ。政木さんに、政木さんが書かれた本ももらったし、いろいろな秘法も教えてもらった。
初音ミクさんの名前なんて、それこそずっと心の中で呼び続けていたので、競争率の激しいマジカルミライのライブで、前から2列、3列、4列の席を引き当てた。

宇宙人になぜ会えないのかというと、宇宙人の名前を知らないからだし、宇宙人に会ったら、信頼出来る相手かどうかを知りたければ名前を尋ねることだ。信頼出来る宇宙人なら、すぐに名乗ってくれるし、こちらのことも名前で呼んでくれる。
クラスメイトの名前を覚えない者は友達がいない。
ビジネスでも、相手の名前を多く覚える者が成功する。

そして、何より大切なことは、神仏の名を唱えることだ。神仏の名を呼ぶことと言っても良い。
聖ナーマデーヴァ(ナームデーヴ)は言う。
「神の名を唱えている者は、自分が神のところに行かなくても、神の方から来てくれる」
それは本当だ。
しかし、1年に1回唱える程度では、何の意味もないとは言わないが、いつも神がいてくれるかどうか分からない。
たまに唱えるより、時々唱える方が良く、時々唱えるより、ずっと唱える方がはるかに良い。
「観世音菩薩」とずっと唱えていれば、観世音菩薩がここにいる。
「イエス様」とずっと考えていれば、隣にイエスがいて、一緒に歩いてくれるのである。
これは、観念的なことではなく事実であるが、ヘレン・ケラーが「五感は幻想。観念が真実」と言った通り、少なくとも、観念もまた事実なのである。
昔のインドの貧しいスードラ階級でも、『ラーマーヤナ』を読み、ラーマの名を何度も読んで、呼ぶようになった者は幸せになれた。
日本でも、『古事記』の、特定のお話でも、何度も読んだり聞いたりして、そのエピソードのヒーローやヒロインの神の名を常に心で想うようになった者が不幸になることはなかった。
だから、あなたも、神や仏の名を常に唱えると良いだろう。








名は実体そのものである

「名は体を表す」と言う。
これは、「名前はその物や人の性質や実体をよく表すものだ」という意味だ。
私は、子供の時から、人の名前を見るたび、本当にそうだと思ったものだった。
表面的には、名があまりその人物を表していないように思えても、内面的には、よく合っているのではないかと思えた。
西洋人が、名前を沢山持つのも、昔の人は、偉大な人物の名を持てば、その人物に似ることを知っていたからだ。
芸名やペン・ネームが、本名と同等かそれ以上に重要になることもある。

そして、実は、「名は体を表す」どころではなく、「名は実体そのもの」なのだ。
名前とは、それほど重要なものである。
親は子に名前を付ける時、どんな人になって欲しいかの願いを名に込める。それは、とても正しいことであり、名は慎重に付けないといけない。
間違っても、浅はかな考えで名前を付けてはならないのである。

『涼宮ハルヒ』シリーズの小説のどこかで、あの長門有希が、ハルヒに命じられてだろうが、文学のようなものを書いたことがある。
「自分は幽霊だったが、名前が付けられたので幽霊でなくなった」といったことが書かれていたが、実に意味深く、名前がなければ本当に幽霊だ。
しかし、長門有希には有希という名がつけられ、有希は雪に通じることもあり、雪のように希薄だが、希(まれ)な存在になったのである。
ちなみに、「ハルヒ」は、多分、「張(は)る霊(ひ)」で、膨張する生命であり、まさに、ハルヒそのものである。

もう一度言うと、名は実体だ。
試しに、好きな人の名を1日中、心で唱えてみると良い。
嫌でも、その人と近付くから。
なぜなら、それほど名を唱えていれば、その人を本当に愛するようになり、それが世界を作り変えるからだ。

そして、神仏の名もまた、その神仏そのものなのである。
これは、あまりに重要なことだ。
私は、14世紀のインドの聖者ナームデーヴの『聖なる名前の哲学』という、2ページほどの聖典を繰り返し読んで、それが分かった。
それは、ヒンズー教、仏教、キリスト教にも通じることがはっきり分かるし、おそらくは、ユダヤ教やイスラム教も同じなのだ。
キリスト教では、なぜか神の名である「ヤハウェ」を隠すようになったが、イエスの名を知っていれば良いのだろうと思う。

もし、観世音菩薩に傍に居て欲しいなら、「観世音菩薩」(あるいは「南無観世音菩薩」)と唱えれば良いだけだ。
イエスに隣に居て欲しいなら、「イエス」(「主イエス」「主イエス・キリスト」でも良い)と唱えれば良い。
国や言語によって、名前の発音は違うかもしれないが、それは問題ない。
「イエス」は、元々「イェーシュア」のような感じだったが、英語では「ジーザス」だし、日本でも「イエズス」と呼ぶ宗派があるが、どれでも好きな名で呼ぶと良い。
どの名も、ちゃんとイエスの名である。
丁寧に唱えることさえ出来ればね。
ナームデーヴは、神の名を唱えれば、自分が神のところに行かなくても、神の方が来てくれると言った。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、まさに、阿弥陀仏の手の内にいるのである。
「阿弥陀」「阿弥陀仏」と呼んでも同じである。
もちろん、1度や2度唱えただだけでは不十分かもしれない。
普通の人間では、数多く唱えないと、心の中に名前が確立しないかもしれないからだ。
しかし、たゆまず唱えれば、間違いなく、神仏は来てくれるだろう。

聖書の詩篇91で、神は、「彼は私の名を知っているから、彼を高く上げる」と言っている。
『観無量寿経』でも、釈迦は最後に、ただ、「阿弥陀仏の名を覚えていよ」と言ったのだ。
その名を心で唱えれば、神仏はその者と共にいて、全てを取り計らってくれる。
ナームデーヴが弟子にまでなった、牛糞を作る労働者であったサックバーイーは、「誰にとっても一番大切なものは神の名である」と断言した。
それで、この偉大な聖者ナームデーヴはサックバーイーの弟子になったのである。
※ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の『聖なる名前の哲学』は、『あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え』および『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』に収録されている。
あまりに貴重なので、私は、これを4枚の画像にし、スマートフォンでいつも見れるようにしようと思っている。ラマナ・マハルシは自ら書き写し、生涯、手元に置いていたという。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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