引きこもりのカウンセリングをした時にいつも思うことは、能力的に問題がある人はほぼいないことだ。
彼らの問題は、「自信がないこと」「エネルギーがないこと」「悪い固定観念が強いこと」の3つだが、実は問題は1つで、それは「悪い固定観念が強いこと」だ。そして、実のところ、固定観念に良いも悪いもないので、問題は「固定観念が強いこと」の1つだ。
そして、これは、引きこもりに限らず、ほぼ全ての人に言えることで、固定観念がない人から見れば、バリバリで一線で活躍する人も引きこもりも大差はない。
『灼眼のシャナ』というアニメのシリーズの中で、サブラクという反則級に強い敵が登場する。
ヒロインのシャナや、シャナと同等の強者が束になってかかっても、手も足も出ないほど強い。
ところが、メアという名の可憐な少女の姿の敵がいるが、これがひどく弱く、このメアがシャナに挑んできた時、シャナはあまりの弱さに戸惑うほどだったが、一応は人を殺す敵なので「とりあえず」殺した。
ところが、意外なことに、サブラクはメアが好きだったが、メアはサブラクから去り、なぜかシャナに挑み、瞬殺されたわけだ。
このサブラクが、自分達の王である「祭礼の蛇」を見た時確信した。
「こいつから見れば、俺もメアも差はない」
仏教や道教の説話には、このような話が多い。
つまり、大きな違いがあるように見えるものも、実のところは同じだということだ。
だから、あなたとイーロン・マスクも、あるいは、あなたと大谷翔平も優劣があるわけではない。
たとえば、仏教では、ヨボヨボの年寄りの雌猿と人間の美少女に差はなく、道教では、らい病患者と天下一の美女に差はないことを、その仏教の話では「天女と比べれば」、道教の話では「魚から見れば」というふうに説明している。
一応は差に見えるものが出来た原因は固定観念だけである。
固定観念は記憶に過ぎず、記憶は思考の上にしか現れないので、早い話が、思考を消せば、区別はあるかもしれないが優劣はない。
完全に思考を消せば、神との優劣もない。
それで、思考を消すとは、悟りを開くとか解脱することと同じと考えて良いと思うが、そのためには、サイババといういろいろ悪い噂もある聖者(笑)によれば、「ナーマスマラナ」しかないと言うが、私もある意味同意だ。
ナーマスマラナとは、神の名を繰り返し唱えることで、どの神の名かは何でも良いらしい。
念仏もナーマスマラナの一種と考えて良い。
しかし、実のところ、唱える言葉は、余計な感情を起こさせるものでなければ何でも良いと思う。
極端には「あいうえお」でも「いちにーさん」でも良い。
だが、アインシュタインが言った「出来るだけシンプルに。ただし限度を超えないように」を忘れないことだ。
AIアート826
「咲いては散る花」
Kay
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力(サティヤ・サイ・ババ)
(2)荘子 (PHP文庫)
(3)いま、釈迦に学ぶ生き方(ひろさちや)
(4)灼眼のシャナ(Amazon Prime Video)
(5)数霊のメッセージ( 佐々木将人)
彼らの問題は、「自信がないこと」「エネルギーがないこと」「悪い固定観念が強いこと」の3つだが、実は問題は1つで、それは「悪い固定観念が強いこと」だ。そして、実のところ、固定観念に良いも悪いもないので、問題は「固定観念が強いこと」の1つだ。
そして、これは、引きこもりに限らず、ほぼ全ての人に言えることで、固定観念がない人から見れば、バリバリで一線で活躍する人も引きこもりも大差はない。
『灼眼のシャナ』というアニメのシリーズの中で、サブラクという反則級に強い敵が登場する。
ヒロインのシャナや、シャナと同等の強者が束になってかかっても、手も足も出ないほど強い。
ところが、メアという名の可憐な少女の姿の敵がいるが、これがひどく弱く、このメアがシャナに挑んできた時、シャナはあまりの弱さに戸惑うほどだったが、一応は人を殺す敵なので「とりあえず」殺した。
ところが、意外なことに、サブラクはメアが好きだったが、メアはサブラクから去り、なぜかシャナに挑み、瞬殺されたわけだ。
このサブラクが、自分達の王である「祭礼の蛇」を見た時確信した。
「こいつから見れば、俺もメアも差はない」
仏教や道教の説話には、このような話が多い。
つまり、大きな違いがあるように見えるものも、実のところは同じだということだ。
だから、あなたとイーロン・マスクも、あるいは、あなたと大谷翔平も優劣があるわけではない。
たとえば、仏教では、ヨボヨボの年寄りの雌猿と人間の美少女に差はなく、道教では、らい病患者と天下一の美女に差はないことを、その仏教の話では「天女と比べれば」、道教の話では「魚から見れば」というふうに説明している。
一応は差に見えるものが出来た原因は固定観念だけである。
固定観念は記憶に過ぎず、記憶は思考の上にしか現れないので、早い話が、思考を消せば、区別はあるかもしれないが優劣はない。
完全に思考を消せば、神との優劣もない。
それで、思考を消すとは、悟りを開くとか解脱することと同じと考えて良いと思うが、そのためには、サイババといういろいろ悪い噂もある聖者(笑)によれば、「ナーマスマラナ」しかないと言うが、私もある意味同意だ。
ナーマスマラナとは、神の名を繰り返し唱えることで、どの神の名かは何でも良いらしい。
念仏もナーマスマラナの一種と考えて良い。
しかし、実のところ、唱える言葉は、余計な感情を起こさせるものでなければ何でも良いと思う。
極端には「あいうえお」でも「いちにーさん」でも良い。
だが、アインシュタインが言った「出来るだけシンプルに。ただし限度を超えないように」を忘れないことだ。
AIアート826
「咲いては散る花」
Kay
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力(サティヤ・サイ・ババ)
(2)荘子 (PHP文庫)
(3)いま、釈迦に学ぶ生き方(ひろさちや)
(4)灼眼のシャナ(Amazon Prime Video)
(5)数霊のメッセージ( 佐々木将人)