ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ナーマスマラナ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人間社会で最強の能力

人間が生きていく上で、一番重要な能力は何か?
いろいろな考え方はあろうが、おそらく、間違いのない答は、「誰とでも仲良くなれる能力」だ。
ある村が、ゲリラ(不正な民兵)部隊に占領されたことがあった。
そんな場合、その村の人々には、悲惨としか言いようのない運命しか待っていない。
ところが、その村の中に、人付き合いの達人がいて、ゲリラ達と言葉が通じたことも幸いだったが、その人付き合いの達人は、かなりの苦労や危険はありながら、ついに、ゲリラのボスと仲良くなり、村は最小限の被害で済んだのだった。
また、こんな話もある。これは日本の話だ。
ある若者が、若気のいたりで調子に乗ってしまい、ヤクザの組長を怒らせることをやってしまった。このままでは、どんな「落とし前」を付けさせられるか分からない。最悪、命を取られることもあり得る。
その若者は、気も狂いそうな状況で、普段、あまり付き合いはないが、兄貴と慕う男に相談した。
黙って話を聞いていた兄貴分の男は、「分かった。心配するな」とだけ言い、出かけていった。
しばらくすると、兄貴分の男から電話があった。
電話の内容は、今から、その組長たちと飲みにいくが、もう何の心配もいらないということだった。
つまり、この兄貴分の男は、ヤクザの組長と、僅かな時間で仲良くなってしまったのだ。

ここまでいかなくても、誰とでも仲良く出来る能力があれば、どんな時代になっても生きていける。
学校だろうが、会社だろうが、その他、いかなる職場、さらには政治の世界・・・いかなる場所でも、誰とでも仲良くなれる者は、苦労せずに済み、適切な能力があれば、大きな目標を達成する可能性も高いのである。
平凡で大した能力がなくても、誰とでも仲良く出来さえすれば、楽々と必要な獲物を得られる。
逆に言えば、人と仲良くすることが苦手であれば、優れた能力を持っていても、苦労し、神経をすり減らし、ストレスを溜めながら大変な奮闘をした挙句、最低限のものすら得られないということも十分あり得る。
人付き合いが苦手だと公言する人は多いし、アニメのヒーローやヒロインにも、そんなタイプが多い。
しかし、そんな者は、惨めな目に遭った挙句、敗者になる可能性が大きいのである。

人と仲良くなる能力は、どうすれば得られるのだろう?
まず、訓練法などない。
人と仲良くやっていかざるを得ない環境に放り込まれて、自然に能力を得るしかない。
だから、子供は、小さい時から、心配もあろうが、知らない人達の中に放り込んで放置しなければならない。
それは、早ければ早いほど良い。
4つ5つになるまで、母親がべったり構っていたら、もう遅い。
しかし、特に日本では、子供が、中学生や高校生、あるいは、それ以上になるのに、親が必要以上に世話を焼いていることが多いが、それは、子供にあまりに大きな不幸を与えているのである。
特に、母親が息子に過剰に構い、もう、どうしようもない駄目な男にしてしまっていることが、なんと多いことか。

つい先日、私は、初音ミクさんの大きなライブコンサート(マジカルミライ2021)に行ったが、そこに、中学生くらいの男の子が、母親と一緒に来ていて、コンサート中、母親が世話を焼く形で、ずっと2人で仲良くしていた。
言っては悪いが、この息子はロクなものにならないし、下手をすれば、悲惨な未来しかないだろう。

しかし、人と仲良くする能力は、子供の時に身に付けないと、それを得るのは、もうかなり難しいのである。
だが、その能力を身に付けることに失敗した者が、なんと沢山いることだろう。
そんな者は、いまさら、誰とでも仲良くなれるようになるのは不可能だ。
だから、自分が、そんな人間だと分かったら、出来るだけ大物の特定の人物に気に入られることに全力を尽くすことだ。
その大物を崇め奉り、決して、一瞬でも、尊敬の態度をなくしてはならない。
せっかく、大物に気に入られ、可愛がってもらっていながら、ほんの少し、大物の意に沿わないことを言うような馬鹿をやったら、それで一貫の終わりだ。
日本には、昔から、「お客様は神様です」という言葉があり、それはそれで貴いが、それよりもっと「ボスは神様です」ということを忘れてはならない。

だが、もしも、それがうまくいかない場合、神様、仏様に頼ることだ。
「南無阿弥陀仏」というのは、阿弥陀如来に絶対的に頼り、すがることを宣言する言葉なのである。
念仏でなくても、好きな神仏の名や、あるいは、神仏の真言を、無限に唱えることだ。
あるいは、神仏の力を肯定する言葉を唱えることである。
「神様の奇跡が起こる」
「神に出来ないことはない」
「私を強くして下さる方(神のこと)によって、私はどんなことでも出来る」
「もし神が私の味方であるなら、誰が私に敵対出来ようか」
「私は神を信頼する」
などである。








念仏で奇跡を起こす

私は、念仏だ、マントラだ、経典だ、奇跡だ・・・などと言ってる割には理屈っぽいのである。
ここらは、私が、システムエンジニア・プログラマーということもあり、仕方がないところだ。
ところが、量子力学をそれなりに高度に修めた人が、引き寄せなどの神秘現象を量子力学的に語るのを見ると、ある部分は論理的かもしれないが、それ以外は、論理の飛躍も甚だしいことが多いのである。
例えば、電子には意思があり、人間の意思と呼応するということを、理論的、実験的に導くことは出来るかもしれない。
しかし、だからと言って、人間の願いが物質世界で実現するというのは、論理の過度な飛躍だ。
これはあくまで極端な例だが、もっと緻密に語っているように見えるものでも、誤魔化し(と言って悪ければ個人的思い込み)が非常に多いように思うのである。

神秘世界を、現代科学で完全に語ることは不可能である。
むしろ、役に立つのは、経験と直観になる。
ただ、経験というものは、自分の経験に関しても、誤解が多いのである。まして、他人に正確に伝えるのは難しい。
だが、純粋にして明晰な直観というものは確かと思う。そして、これは他人に伝えない。あくまで個人的なものである。
その個人的な、純粋で明晰な直観は正しいのである。
とはいえ、それほど純粋で明晰な直観は、容易く得られない。

関英男博士などは、神秘現象を理論家する際、大胆な仮説を立てたが、その仮説の多くは直観によるものだったと思う。
だが、関博士は、なまじ、科学的知識があるだけに、直観に曇りがあったと思う。
釈迦が、現代の科学者にすらインスピレーションを与える(つまり正しい)直観的理論を示せたのは、現代の科学を知らなかったから、直観が曇らなかったのだと思う。
また、偏見の問題もある。
相対性理論に関しては完璧な理論を示したアインシュタインは、なぜか量子力学では迷走した。
これについては、アインシュタイン自身が、「自分が持っている偏見のせいで、量子力学が正しいことを認めたがらない」と分かっていたのだから、大したものである。
そして、釈迦は、おそらく、偏見がなかったのだ。

だが、残念ながら、釈迦の教えを記したと言われる経典が、偏見だらけの人によって、翻訳され、解釈され、釈迦の教えのかなりの部分が、正しく伝わっていないのだと思う。
それで、これは正確なことではないかもしれないが、釈迦が「念仏だけが有効なものとして残る」と言ったことが、かなり確かなのだと思う。
しかし、その念仏が、いろんな人によって、歪められて伝わっている。
だから、最も良いのは、念仏の意味など誰にも聞かず、ただ、「ナムアミダブツ」と唱えれば良いということだ。
ただ、これは、「南無妙法蓮華経」でも、「南無観世音菩薩」でも同じだし、「イエス様」「マリア様」でも同じである。
本当に長い時間、念仏や、好きな神仏の名を唱えて奇跡が起きなかったことはないし、それは自分で実証出来ると思う。
どうしても理屈が気になるなら、念仏であれば、法然や親鸞の教えが書かれた本、あるいは、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん』の中の『易行品』を読み、とにかく念仏を唱えれば良いと分かれば、そこで、読んだことを全部忘れて念仏を唱えると良い。
あるいは、サイババの『ナーマスマラナ』を読み、神の名を唱えれば良いと分かったら、そこで読んだことを全部忘れて、ただ実践すると良いと思う。








悪童達もこうして成功した

人間の徳には2つある。
1つは、善いことをすることで、もう1つは、悪いことをしないことだ。
だが、全ての善を行うことは極めて難しいか、あるいは、不可能だ。
また、全ての悪を行わないことも、極めて、難しいか、あるいは、不可能だ。
そこで、必ず行うべき善と、絶対に行ってはいけない悪を定め、それだけは守ることにする。
それを、戒律とか掟と言い、「モーセの十戒」もその1つだ。

ところが、実は、必ず行うべき善は1つ、絶対に行ってはならない悪は1つとして良いばかりか、「1つの必ず行う善」か「1つの絶対に行わない悪」を持ち、それを守れば、高次の力に保護される。
法然や親鸞の場合は、言うまでもなく「1つの必ず行うべき善」は念仏で、その他に善いことをする必要はなく、むしろ、その他の善いことをしてはならないし、いかなる悪を行っても構わない。
ただし、念仏を行っていれば、縁のある善いことは勝手にしてしまうし、縁のない悪いことは出来ないというのが親鸞の教えであったようだ。

14世紀のインドにサックバーイーという女性がいたらしいが、私は、彼女のことは、ラマナ・マハルシやサイババの本で断片的に語られているのを見ただけで、正確なことは知らない。
彼女は、クリシュナ神の1つの名である「パーンドゥランガ」の名を唱えることを最も重要なこととしていた。
パーンドゥランガは、彼女が生まれ育った場所で信仰されていたのだが、どんな経緯で、彼女がそこまでの信仰を持つようになったかは分からない。
彼女は子供の時に嫁がされ、嫁ぎ先でも辛い目に遭ったが、パーンドゥランガの名を常に唱えることで、あらゆる困難を克服し、遂には、クリシュナ神が直接、彼女を助けたことで、名を残すことになった。
念仏も、サックバーイーが行ったことも同じことだ。
そして、明治や大正の時代には、日本にも、念仏によってサックバーイーのようになった妙好人と呼ばれる人が沢山いた。妙好人は、見かけはごく普通というか、学問のない貧しい人であった場合が多いと思うが、奇跡のような人々であったと言われる。

念仏やナーマスマラナ(神仏の名を心で唱えること)でなくても、1つの善行をずっと続けることで、実際には人間を超えたような人々もいた。
一方、「これ(1つの悪いこと)だけは絶対にしない」という徳の力も、同じ位大きいかもしれない。
それで思い出すのは、大俳優だった丹波哲郎さんだ。
彼は、子供の時から、常に好き勝手に生きていたが、とにかく、困ることは全くなく、常に良い想いをしたらしい。
例えば、彼が若い頃は、日本は戦争中で、彼も二等兵(最下位の兵)として従軍したが、他の全ての二等兵は、上官の服の洗濯をするなどで上官の機嫌を取っていたが、彼は、面倒だからとそんなことは一切しなかった。ところが、それで酷い目に遭わされたかというと、それは全くなく、それどころか、楽で安全な場所に送られ、そこで女の子と遊びながら終戦までのんびり過ごしたという。
私は、丹波さんが理想で(笑)、かなりうまくやれていると思う。
丹波さんは、自分が運に恵まれる要因は、まあ、後には守護霊に守られているからということを強調し、実際にそうであるとは思うが、子供の時から、自分には「こだわりがない」という美点があったと丹波さんはよく本に書かれていた。
「こだわらない」では、曖昧過ぎて漠然としているが、私が思うに、丹波さんは、「弱い者いじめをしなかった」のだと思う。
強い立場にある人間にこだわりがあると、その者は、意識的、無意識的に弱い者いじめをしてしまうが、丹波さんには、それが全くなかったのだ。
それでさらに思い出すのが、空手家の大山倍達さんだ。
昭和の空手ブームの時、彼の伝記は漫画やアニメにもなり、その際、彼はかなり美化され、少年達のヒーローになった。
だが、実際の大山さんは、感心出来ない部分も多いと言うより、ロクでもないことも沢山やった。
しかし、子供の時から、並外れて腕力が強く、喧嘩で無敵であった彼も、弱い者いじめだけは絶対にしなかった。
弱い者いじめをしないことが、最上かどうかは分からないが、神仏に守られ、幸運を呼ぶ秘訣であると思う。








世間の束縛を逃れ自由になる

最近、このブログで書いている「言葉の力」の、まとめの意味もあることを書いておく。
考えを整理して、新たに取り組むと、成果が大きくなると思う。

潜在意識による成功法則で知られるジョセフ・マーフィーの昔の本でよく強調されていたことが「世間に飲み込まれるな」だった。
この「世間」には、2種類あるということが重要だ。

1つは、家庭、親族、友人等親しい人達、学校や勤務先、地域、国家、マスメディアといった、目に見える世界の関係性だ。
家族や親族の人々が、あなたの思想に与える影響は、おそらく最も大きく、学校に通うようになったら、学校の教義や教師の思想に影響され、クラスメイトの考え方に馴染んでいく。
地域独特の思想の影響を受ける場合もあるかもしれない(地域の結束が高い町や村)。
会社勤めをすれば、会社のカラーとでも言える会社独自の思想の影響を受ける。
そして、半世紀以上前から、マスメディア・・・特に、テレビを通し、国家や国家を構成するもの、そして、国家の裏側にあって、国家を操る者達が作った思想が、想像も出来ない強力さで、あなたに叩き込まれる。
もし、宗教団体に所属しているなら、その宗教団体の思想の影響も受けているだろう。
こんなふうに育ち、生きるあなたの精神は、もう、作り物だらけの、わけの分からないガラクタと言えるかもしれない。

もう1つの「世間」は、必ずしも存在が認められているわけではない。
それは、人間が共有する意識である「集合無意識」だ。
ユング派心理学では「習合無意識」は理論とされるが、フロイトは、そんなものはないと否定しており、フロイト派心理学の人達からは「そんなものがあってたまるか」と馬鹿にされることもある。
だが、ユングは、「実際は、フロイトだって、集合無意識の存在を認めていた」と言うが、実際のところは分からない。
ジョセフ・マーフィーは、フロイトをよく引用しながらも、集合無意識は確実にあるという立場である。
人間は、この集合無意識を通して、意識でつながっている。
そうであれば、目で見える世間だけでなく、この目に見えない世間である集合無意識からの影響も受けるのである。
それで、誰もが、「人類的思想」とでもいうものを持っているが、人類全体の集合無意識よりも、同じ国や地方の人々の集合無意識の影響を受け易い(目で見える世間との関係性による)。

問題なのは、あなたは、上の2つの世間、つまり、「目で見える世間」と「目で見えない世間」の両方の影響を受けている・・・もっとはっきり言うと、「操られている」ことである。
その影響は、最悪とまで言えるかどうかは分からないが、それでも、マイナス部分が、あまりに大きいのである。
2つの世間の影響により、「自分には力がない」「自分の思うようには生きられない」「権力者には勝てない」「なりたいものになれない」と考えるようになっていて、しかも、その考え方を強力に強制されているのである。
だから、自分が本来持っている驚異的な力を解放して自由に生きるためには、2つの世間の支配から逃れないといけない。

何もせず、放っておいたら、あなたの頭の中では「私には出来ない」「私は不幸だ」「私は奴隷のようなものだ」といったつぶやきが、1分間に数百回繰り返されているという、科学的研究がある。
だから、あなたは、是が非でも、プラスの言葉を自主的に自分に与えないといけない。
そのやり方がいろいろあり、このブログでは、いろいろなものを述べている。
やり方は1つではないのである。
とはいえ、ほとんどのやり方に効果があるが、特に自分に合ったものを選んでやるのが最上である。
ある人々にとっては、神仏の名を唱える「ナーマスマラナ」と呼ばれる行が最高である。念仏もナーマスマラナに入ると考えられる。
あるいは、神仏の真言、お経、祝詞を唱えると、良い集合無意識にアクセス出来、素晴らしい効果を得られることで、最良の効果を得る人々もいる。
自己暗示やアファーメーションも良い方法だが、より良い方法でやるべきだろう。
人間には「私」という言葉に強いエネルギーの経路があるので、
「私は〇〇だ」
というアファーメーションが特に有効である。
例えば、
「私は裕福だ。私は幸せだ。私は最高の気分だ」
「私は健康だ。私は幸せだ。私は素晴らしい」
「私は豊かだ。私は健やかだ。私は安らかだ」
などである。
また、人類史を通し、「神」という言葉は、いかなる世間でも穢されることはなかったし、これからもない。
だから、「神」という言葉を使うことには、素晴らしい効果がある。
「神に出来ないことはない」
「神様の奇跡が起こる」
「神は道なきところに道を作る」
「神が味方であるなら、誰が私に敵対出来ようか」
などの言葉がある。

ここで、最上と思える言葉を上げると、
「私は在る」
「神の他に何もない、ただ神だけがある」
がある。
非常に高度であり、低い世間に穢された度合いが大きな者は抵抗を感じるかもしれない。
しかし、唱え続ければ人間を超える。

尚、唱え方は、「心で、丁寧に、穏やかに」である。
数は多ければ多いほど良い。








神仏の呼び方に関する疑問

今回は、皆様が、ひょっとしたら疑問に思っているかもしれないことについて述べる。

神仏の名を心で唱えるナーマスマラナが、神仏に守られ恵みを得る最高の方法である。
これは、釈迦の念仏の教えであり、釈迦の後継者とも言われた天才、龍樹も認めていたことであり、近年ではインドの有名な聖者サイ・ババが述べていたことであるが、確かに間違いのないことであると思う。
一方で、最近は、このブログでは、「神」という言葉が、最高の力を持ち、これを唱えることを勧めている。
「神」という語を唱えるためには、普通に、心で「神」と唱えるのが基本だが、「神」という語を含む言葉、例えば、「神に出来ないことはない」と唱えたり、あるいは、「神」という語を多く含む本(例えば『聖書』)を読むことも勧めた。
この両者(個々の神仏の名を唱えるナーマスマラナと、「神」という語を唱えること)は、実は同じである。
その理由を以下に簡単に述べる。

インドの聖典(ゲーテ、ガンジー、アインシュタインらも愛読したと言われる)『バガヴァッド・ギーター』で、最高神クリシュナは、「各自、自分が信仰する神に祈るが良い。そうすれば、願いは叶えられるだろう。だが、それは結局は、私に祈っているのであり、私が願いを叶えているのである」と述べている。
「クリシュナ」は1つの神の名であると同時に、宇宙全体である絶対神でもあるのである。
クリシュナの教えは、個々の神に祈れば、それらの神を通して、クリシュナに祈っていることになるという意味である。

江戸末期の偉大な神道家であった黒住宗忠は、天照大神(アマテラスオホミカミ)を信仰していたが、この天照大神は『古事記』や『日本書紀』に登場する女神でもあるのだが、黒住宗忠がこの名で信仰していたのは、唯一絶対神のことであったことは明白である。
黒住宗忠は、日本人に最も親しみのある天照大神を通し、クリシュナの場合と同じく、宇宙全体である絶対神に祈っていたのである。

また、敬愛の意味で、神を「父」とか「親様」と呼ぶことも、よく行われている。
江戸末期から昭和初期の農民で妙好人(庶民だが高度な悟りに達していた念仏者のこと)であった因幡の源左(いなばのげんざ)は、阿弥陀仏を信仰していたが、阿弥陀仏を「親様」を読んでいた。
そして、実は、黒住宗忠も、天照大神を、しばしば「親様」と呼んでいたのである。
イエス・キリストだって、神を正式な名であるヤハウェと呼ばず、もっぱら「父」と呼んでいた(ただ、一般に、ヤハウェと口に出して呼ぶことは禁じられている)。

このように、その時々の風習や習慣、あるいは、個人的な好みなどにより、神仏を、個々の名で読んだり、「神(神様)」「仏(仏様)」と呼んだり、「親様」「父」と呼んだりするが、これらは、同じなのである。
聖母マリアに祈る場合も、「マリア様」と言ったり、「祝福された乙女」「無原罪の宿り」「平和の女王」など、いろいろに呼ぶが、各自、自分に合った名で呼べば良いのである。
日本人の場合、天照大神、阿弥陀仏、観世音菩薩、大黒天や弁財天などの七福神を祈る場合が多いが、それらの神仏に親しみがあれば、その名を唱えれば良いのである。
ただ、現代においては、それぞれの神仏の名を知らないわけではないが、特に何かの神仏に親しみがあるわけではない場合、「神」と唱えるのが、一番良いと思う。
また、「神」という言葉自体にも違和感があったり、無神論者と自覚する場合もあるかもしれないが、そんな者でも、自分を超えた叡智と力があることは認めていると思う。そうとは自覚出来なくても、そうであるはずだし、そうでないというなら、それは問題である。
「神」という言葉を使いたがらない人のために、ジョセフ・マーフィーは「宇宙の活力(コズミック・エナージャイザー)」という言葉を使ったことがある。「コズミック・エナージャイザー」を「宇宙の活力」と訳したのは、優れた翻訳家の桑名一央氏であるが、「エナージャイザー」は、特に日本人には馴染みのない概念かもしれない。
エナージャイザー(Energizer)は、今日では、有名な電池メーカーとして知られる会社の名前である。
Energizerの辞書的な意味は、1つは「電気エネルギーを供給する装置」であり、根本的な意味は「エネルギーと活力と勇気を他の人に与える誰か」であり、ジョセフ・マーフィーは、この2つ目の意味により、神に該当する存在を「コズミック・エナージャイザー」と呼んだのだ。それを、桑名一央氏は、かなり考えて「宇宙の活力」と訳したのだと思う。
だから、意味を知った上で、「神」の代わりに「コズミック・エナージャイザー」、あるいは、「宇宙の活力」と呼ぶのもありであり、実は、私も「宇宙の活力」という言葉を使うことがある。

以上のようなわけである。
よって、「神」、「父」、個々の神仏の名、「宇宙の活力」・・・何と呼ぼうが構わないが、その名を、心の中で唱えれば、一切の問題は解決し救われる。
あらゆる恵みが与えられ、願いは全て叶う。
このことは、偉大な啓蒙家や事業家らが言明していることもあるが、敢えて言わなくても、そう考えている者は多いと思う。
そして、そもそも、イエス・キリストが言っていたことである(特に「マタイ福音書」)。

最初に書いたが、今回は、皆様が、疑問に思っているかもしれないことについて述べた。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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