先日、アニメ映画『天空の城ラピュタ』の14回目のテレビ放送があった。
30年近くも昔の映画だが、いまだ人気が高く、宮崎駿監督作品で、これが一番好きだと言う人も多いと聞く。
ブルーレイやDVDが入手不能になる恐れが全くないと感じさせるのは、筒井康隆さんの『時をかける少女』の小説と同じで、これらは、日本の歴史的作品と言ってよいだろう。
宮崎駿監督作品の3大ヒロインといえば、古い順で、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)のクラリス、『風の谷のナウシカ』(1984)のナウシカ、そして、この『天空の城ラピュタ』(1986)のシータであると思う。そして、この3人以降、宮崎監督は作品に、少女は数多く登場させても、ヒロインは登場させていない。3という安定した数字で終ったことは実に良いことだ。2人なら、「両方」と言うが「全部」とは言わない。3人になって初めて「全部」と言う。そして、三脚の椅子やテーブルなら、どんな形の地面でも安定するが、これが四脚ならグラつくこともあるように、3は力ある数字であるからだ。
クラリスが宮崎監督の理想の女性像だとは本人が書いていたと思うが、それはナウシカやシータも同じだろう。
彼女達は、普通の少女達とは全く異なる。
ルパンがクラリスについて言ったように、「空を飛び、湖の水を飲み干させる」力を与えてくれる存在であることもまた、宮崎監督が述べているのを見たことがある。
ただ可愛い、美しい、あるいは、それに加えて性格が良いというだけの少女には、そんな力は無い。
では、この3人の少女に共通することは何かというと、3人とも、王家の血を引いているということがある。
その気高さは、普通の娘の及ぶところではない。
シータがムスカに、「あなたは私と一緒にここで死ぬの」と言ったことや、幼いクラリスが傷付いたルパンを見て、何よりもまず水を持って来たり、やはり傷付いて動けないルパンを銃撃から身を挺して守ろうとしたこと、そして、ナウシカがオームの子供を守るために機関銃の前に身を晒したことは、まさに王家の娘である高貴な魂の持ち主であることを証しているように感じるのだ。
つまり、王家の者である以上、どんな人(あるいは生き物)も愛し、それらを庇護する絶対的な責任を負っていることを自覚しているのである。
逆に、そんな人であるならば、その者は本物の王者であると言えるのである。生まれや育ちは本質的には関係ない。
ところで、特にこれらの3作品に限定する訳ではないが、この3つの作品を強烈に面白くしていることがある。
それは、「偶然に見える必然」だ。
空からシータが降ってきた時、そこにたまたまパズーがいたというのは偶然だが、その偶然が物語を展開させる。
しかし、パズーが「シータが空から降ってきた時、何か素敵なことが起こると感じた」ように、これは偶然ではなく、最初から定められた、あるいは、神によって仕組まれた運命だ。
パズーがラピュタの上でシータを抱えてくるくる回った時、雲で見えなかったが、パズーは絶壁の一歩手前まで行っていた。しかし、落ちたりなんか決してしない。落ちない運命だからだ。
織田信長が銃弾飛び交う戦場を悠々と歩き、「わしに弾は当たらん」と言ったのは、「天下を取る運命である俺に弾が当るはずがない」という信念と共に、「ここで弾に当たるようであれば、俺の運命もその程度」ということであると思う。これはただの伝説と思われているかもしれないが、合氣道家の藤平光一さんは、第二次世界大戦中、実際にそんなことをやったことを、著書に書かれていたし、「心身医学の父」デオルグ・グロデックの論文にも、似たようなことが「必然的」に起こったことが書かれている。
映画の終盤では、パズーの顔に傷が付いていたが、これは、ムスカ達が撃った銃の弾丸が顔をかすめた時についたもので、あと少し、ズレていればパズーは死んで、物語はジ・エンドであったが、そんなことには決してならない。神はシナリオを完成させるからだ。
他の2つの作品でも、ほんの僅かの違いで一巻の終わりというシーン満載で、時々、「そんなアホな」と思う場合もあるほどであるが、劇作家が助かると定めたなら絶対に助かるのである。当たり前であるが。
そして、神は世界の劇作家だ。
「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人・劇作家のW.B.イェイツの『ラピス・ラズリ』という詩に、「主役に相応しい役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、彼らは、ハムレットもリヤ王も陽気であったと知っているからだ」と書いている。
ハムレットやリア王が苦境の最中に陽気だったなんて、そんな馬鹿なと思うかもしれないが、陽気でないはずがない。
下手な役者は役柄に没頭し、表面的に感情移入するから駄目なのだ。
シナリオは最初から決まっているのだから、無心にそれと一体化していけば、良い演技ができるのである。
ハムレットやリヤもそうだったし、それらの戯曲を書いたシェイクスピアすら、神のシナリオ通りに書き、陽気であったのだ。
パズーだって楽しんでいたさ。それは、シータが降って来た時に、神のシナリオがちらっと見えたからだ。
我々も、悲劇ぶっておらず、天命を信じ、運命を無心に受け入れて楽しんでこそ、人生の主役に相応しいのである。
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30年近くも昔の映画だが、いまだ人気が高く、宮崎駿監督作品で、これが一番好きだと言う人も多いと聞く。
ブルーレイやDVDが入手不能になる恐れが全くないと感じさせるのは、筒井康隆さんの『時をかける少女』の小説と同じで、これらは、日本の歴史的作品と言ってよいだろう。
宮崎駿監督作品の3大ヒロインといえば、古い順で、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)のクラリス、『風の谷のナウシカ』(1984)のナウシカ、そして、この『天空の城ラピュタ』(1986)のシータであると思う。そして、この3人以降、宮崎監督は作品に、少女は数多く登場させても、ヒロインは登場させていない。3という安定した数字で終ったことは実に良いことだ。2人なら、「両方」と言うが「全部」とは言わない。3人になって初めて「全部」と言う。そして、三脚の椅子やテーブルなら、どんな形の地面でも安定するが、これが四脚ならグラつくこともあるように、3は力ある数字であるからだ。
クラリスが宮崎監督の理想の女性像だとは本人が書いていたと思うが、それはナウシカやシータも同じだろう。
彼女達は、普通の少女達とは全く異なる。
ルパンがクラリスについて言ったように、「空を飛び、湖の水を飲み干させる」力を与えてくれる存在であることもまた、宮崎監督が述べているのを見たことがある。
ただ可愛い、美しい、あるいは、それに加えて性格が良いというだけの少女には、そんな力は無い。
では、この3人の少女に共通することは何かというと、3人とも、王家の血を引いているということがある。
その気高さは、普通の娘の及ぶところではない。
シータがムスカに、「あなたは私と一緒にここで死ぬの」と言ったことや、幼いクラリスが傷付いたルパンを見て、何よりもまず水を持って来たり、やはり傷付いて動けないルパンを銃撃から身を挺して守ろうとしたこと、そして、ナウシカがオームの子供を守るために機関銃の前に身を晒したことは、まさに王家の娘である高貴な魂の持ち主であることを証しているように感じるのだ。
つまり、王家の者である以上、どんな人(あるいは生き物)も愛し、それらを庇護する絶対的な責任を負っていることを自覚しているのである。
逆に、そんな人であるならば、その者は本物の王者であると言えるのである。生まれや育ちは本質的には関係ない。
ところで、特にこれらの3作品に限定する訳ではないが、この3つの作品を強烈に面白くしていることがある。
それは、「偶然に見える必然」だ。
空からシータが降ってきた時、そこにたまたまパズーがいたというのは偶然だが、その偶然が物語を展開させる。
しかし、パズーが「シータが空から降ってきた時、何か素敵なことが起こると感じた」ように、これは偶然ではなく、最初から定められた、あるいは、神によって仕組まれた運命だ。
パズーがラピュタの上でシータを抱えてくるくる回った時、雲で見えなかったが、パズーは絶壁の一歩手前まで行っていた。しかし、落ちたりなんか決してしない。落ちない運命だからだ。
織田信長が銃弾飛び交う戦場を悠々と歩き、「わしに弾は当たらん」と言ったのは、「天下を取る運命である俺に弾が当るはずがない」という信念と共に、「ここで弾に当たるようであれば、俺の運命もその程度」ということであると思う。これはただの伝説と思われているかもしれないが、合氣道家の藤平光一さんは、第二次世界大戦中、実際にそんなことをやったことを、著書に書かれていたし、「心身医学の父」デオルグ・グロデックの論文にも、似たようなことが「必然的」に起こったことが書かれている。
映画の終盤では、パズーの顔に傷が付いていたが、これは、ムスカ達が撃った銃の弾丸が顔をかすめた時についたもので、あと少し、ズレていればパズーは死んで、物語はジ・エンドであったが、そんなことには決してならない。神はシナリオを完成させるからだ。
他の2つの作品でも、ほんの僅かの違いで一巻の終わりというシーン満載で、時々、「そんなアホな」と思う場合もあるほどであるが、劇作家が助かると定めたなら絶対に助かるのである。当たり前であるが。
そして、神は世界の劇作家だ。
「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人・劇作家のW.B.イェイツの『ラピス・ラズリ』という詩に、「主役に相応しい役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、彼らは、ハムレットもリヤ王も陽気であったと知っているからだ」と書いている。
ハムレットやリア王が苦境の最中に陽気だったなんて、そんな馬鹿なと思うかもしれないが、陽気でないはずがない。
下手な役者は役柄に没頭し、表面的に感情移入するから駄目なのだ。
シナリオは最初から決まっているのだから、無心にそれと一体化していけば、良い演技ができるのである。
ハムレットやリヤもそうだったし、それらの戯曲を書いたシェイクスピアすら、神のシナリオ通りに書き、陽気であったのだ。
パズーだって楽しんでいたさ。それは、シータが降って来た時に、神のシナリオがちらっと見えたからだ。
我々も、悲劇ぶっておらず、天命を信じ、運命を無心に受け入れて楽しんでこそ、人生の主役に相応しいのである。
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