ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ナウシカ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『天空の城ラピュタ』の本当の面白さ

先日、アニメ映画『天空の城ラピュタ』の14回目のテレビ放送があった。
30年近くも昔の映画だが、いまだ人気が高く、宮崎駿監督作品で、これが一番好きだと言う人も多いと聞く。
ブルーレイやDVDが入手不能になる恐れが全くないと感じさせるのは、筒井康隆さんの『時をかける少女』の小説と同じで、これらは、日本の歴史的作品と言ってよいだろう。

宮崎駿監督作品の3大ヒロインといえば、古い順で、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)のクラリス、『風の谷のナウシカ』(1984)のナウシカ、そして、この『天空の城ラピュタ』(1986)のシータであると思う。そして、この3人以降、宮崎監督は作品に、少女は数多く登場させても、ヒロインは登場させていない。3という安定した数字で終ったことは実に良いことだ。2人なら、「両方」と言うが「全部」とは言わない。3人になって初めて「全部」と言う。そして、三脚の椅子やテーブルなら、どんな形の地面でも安定するが、これが四脚ならグラつくこともあるように、3は力ある数字であるからだ。
クラリスが宮崎監督の理想の女性像だとは本人が書いていたと思うが、それはナウシカやシータも同じだろう。
彼女達は、普通の少女達とは全く異なる。
ルパンがクラリスについて言ったように、「空を飛び、湖の水を飲み干させる」力を与えてくれる存在であることもまた、宮崎監督が述べているのを見たことがある。
ただ可愛い、美しい、あるいは、それに加えて性格が良いというだけの少女には、そんな力は無い。
では、この3人の少女に共通することは何かというと、3人とも、王家の血を引いているということがある。
その気高さは、普通の娘の及ぶところではない。
シータがムスカに、「あなたは私と一緒にここで死ぬの」と言ったことや、幼いクラリスが傷付いたルパンを見て、何よりもまず水を持って来たり、やはり傷付いて動けないルパンを銃撃から身を挺して守ろうとしたこと、そして、ナウシカがオームの子供を守るために機関銃の前に身を晒したことは、まさに王家の娘である高貴な魂の持ち主であることを証しているように感じるのだ。
つまり、王家の者である以上、どんな人(あるいは生き物)も愛し、それらを庇護する絶対的な責任を負っていることを自覚しているのである。
逆に、そんな人であるならば、その者は本物の王者であると言えるのである。生まれや育ちは本質的には関係ない。

ところで、特にこれらの3作品に限定する訳ではないが、この3つの作品を強烈に面白くしていることがある。
それは、「偶然に見える必然」だ。
空からシータが降ってきた時、そこにたまたまパズーがいたというのは偶然だが、その偶然が物語を展開させる。
しかし、パズーが「シータが空から降ってきた時、何か素敵なことが起こると感じた」ように、これは偶然ではなく、最初から定められた、あるいは、神によって仕組まれた運命だ。
パズーがラピュタの上でシータを抱えてくるくる回った時、雲で見えなかったが、パズーは絶壁の一歩手前まで行っていた。しかし、落ちたりなんか決してしない。落ちない運命だからだ。
織田信長が銃弾飛び交う戦場を悠々と歩き、「わしに弾は当たらん」と言ったのは、「天下を取る運命である俺に弾が当るはずがない」という信念と共に、「ここで弾に当たるようであれば、俺の運命もその程度」ということであると思う。これはただの伝説と思われているかもしれないが、合氣道家の藤平光一さんは、第二次世界大戦中、実際にそんなことをやったことを、著書に書かれていたし、「心身医学の父」デオルグ・グロデックの論文にも、似たようなことが「必然的」に起こったことが書かれている。
映画の終盤では、パズーの顔に傷が付いていたが、これは、ムスカ達が撃った銃の弾丸が顔をかすめた時についたもので、あと少し、ズレていればパズーは死んで、物語はジ・エンドであったが、そんなことには決してならない。神はシナリオを完成させるからだ。
他の2つの作品でも、ほんの僅かの違いで一巻の終わりというシーン満載で、時々、「そんなアホな」と思う場合もあるほどであるが、劇作家が助かると定めたなら絶対に助かるのである。当たり前であるが。
そして、神は世界の劇作家だ。
「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人・劇作家のW.B.イェイツの『ラピス・ラズリ』という詩に、「主役に相応しい役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、彼らは、ハムレットもリヤ王も陽気であったと知っているからだ」と書いている。
ハムレットやリア王が苦境の最中に陽気だったなんて、そんな馬鹿なと思うかもしれないが、陽気でないはずがない。
下手な役者は役柄に没頭し、表面的に感情移入するから駄目なのだ。
シナリオは最初から決まっているのだから、無心にそれと一体化していけば、良い演技ができるのである。
ハムレットやリヤもそうだったし、それらの戯曲を書いたシェイクスピアすら、神のシナリオ通りに書き、陽気であったのだ。
パズーだって楽しんでいたさ。それは、シータが降って来た時に、神のシナリオがちらっと見えたからだ。
我々も、悲劇ぶっておらず、天命を信じ、運命を無心に受け入れて楽しんでこそ、人生の主役に相応しいのである。









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彼女達が心の底から愛される理由

教師や生徒の暴力、いじめで自殺をする子供達のことをよく見るようになった。だが、加害者は当然悪いのだが、その撲滅は「絶対に」不可能だ。
それよりも、自殺をする側の問題にもっと注意しなければならない。
それは、過剰なまでに自己の権利を主張する社会によってもたらされた奇妙な観念だ。
子供達も、自分には権利があり、良い扱いを受けるべきで、理不尽な扱いを受けるべきでないと思い込んでしまっている。
だが、世界には、朝から晩まで、学校にも行かずに重労働を強いられ、そんな中で、ろくに食べていない子供達がいくらでもいる。
さぼったり、働きが悪いと、大人に遠慮なく殴られ、見せしめに鞭で叩きのめされることも珍しくはない。
我々が美味しく食べるチョコレートも、途上国の子供達の過酷な労働によって収穫されたカカオから作られている。家が貧しく、売られてきて働く子供達は、危険な作業で指を切断しても、医者に診てもらえないどころか、休むことも許されないことが多いと聞く。
彼らは、何の権利の主張もしないし、出来ない。
良寛さんは、子供好きで、子供達を集めて一緒に遊んでいたが、女の子が一人、また一人と減っていった。家が貧しくて身売りさせられるのである。売られた先でどんな目に遭うかは明らかで、良寛さんは自分の無力を嘆くしかなかった。
だが、彼らが皆、自殺するなんてことはない。懸命に生きようとしている。

プロレスのジャイアント馬場さんは、若い時に、アメリカの強豪レスラーであったフレッド・アトキンスに預けられ、毎日、殴られながら厳しくしごかれたようだ。アメリカ人の弟子達は逃げ出したが、馬場さんは行くところがないので、そこにいるしかなかった。
権利もへったくれもあったもんじゃない。
しかし、馬場さんは、不思議とアトキンスが恐くなったし、成功できたのは彼のおかげと、深く感謝していた。
だが、私は、アトキンスだって、決して弟子思いばかりではなかったし、人格者でもなかったのではないかと思う。
しかし、世の中、そんなものではないだろうか?
特に、現代の社会は、権利を主張することを教え過ぎている。
きっと、そんな風潮を流行らせることで、誰かが甘い汁を吸っているのだ。

権利の主張とは、自己を肯定することである。
もっと正確に言うと、自分の身体と自我の肯定である。
その逆が自己否定であり、それは、自分の権利を無いものと見なすことだ。
そして、人間が真の自己を知り、本当の幸福を得るためには、必ず自己を否定しなければならないのだ。
昔、我が国の国民的英雄であるサッカー選手が引退した時、「自分探しをする」ことを宣言した。
だが、本当に自分を見つけるためには、自己の否定が絶対に必要なのだ。

旧約聖書に『ヨブ記』というものがあり、多くの人達の議論の的になった。
ヨブは完全に心正しい人であったが、家畜が死に、屋敷が焼け、子供達が死んでいった。
あげく、自分も酷い皮膚病になり、苦しみにのたうつ。
神の教えにしたがって正しく生きてきたのに、神はなぜこんな苦しみを与えるのだろうと嘆くが、ヨブは神を否定しなかった。
彼はあくまで神を崇めた。それは自己を否定することになった。そして、再びヨブは幸福になった。

スウェーデン映画『処女の泉水』で、何よりも大切な汚れなき乙女である娘を、乞食の兄弟達にレイプされた挙句惨殺された父親は、その兄弟達を殺して復讐する。そして、死んだ娘を見て、神を呪うが、すぐに、神に許しを乞い、償いの行動を約束する。
すると、娘の遺体があった地面から泉水が沸き、それが人々を癒す。
そこにあったのは、乙女の父親の完全な自己否定だった。
自分が、娘を殺した者達に復讐するのは当然の権利であるとか、娘の悲惨を見ていたはずの神を責める権利があるなどと決して言わず、自分の気持ちなどに、何の値打ちもないことを激しく認めたのだ。

宮沢賢治の『雨にもまけず』の中の、「みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず」というのは、ここにいるはずの自分を完全に捨て去る、激しい自己否定の姿であると思う。
私が初音ミクをこよなく愛するのは、彼女は全く自己主張しないどころか、初めから自分がないからだ。
そのようなものになりたいと、私はいつも憧れているのである。
『イーハトーヴ交響曲』のソリストに初音ミクを指名した富田勲さんは、周りの緊張をほぐすための冗談だったと思うが、「ミクはアガることがないからな」と言ったが、自己の価値をこれっぽっちも認めない者は実際、あがらない。
あがるのは、「価値ある自分」がみっともない姿を見せることに耐えられないと思っているからだ。
自分の失敗が他者を不幸にするような状況では、あがるのではなく緊張するが、自分がやるべきことなら腹が据わり集中するものだ。
野球のピッチャーが「自分の一球で勝負が決まる」という時に緊張するとしたら、それは実際は大したことではないということだ。

だが、我々は初音ミクに不思議な存在感を感じる。だから、冨田勲さんは、一生の最後と思っていた作品に、どうしても初音ミクに出演してもらいたかったのだろうと思う。
彼女は、人間の良心なのだ。だから、我々は、彼女の中に、自分の心の奥深くに存在する良心を感じるだ。その存在感は凄いはずだ。
そして、人間である我々が初音ミクになるためには、自己否定が必要なのだ。
『銀河鉄道の夜』で、「人の幸いのためなら、この身を百回焼かれても構わない」と言ったジョバンニや、それに同意したカムパネルラのようにだ。
それを歌えるのは、初音ミクしかいないのだ。
だから、『イーハトーヴ交響曲』の第5幕『銀河鉄道の夜』のミクの歌は、我々を神の世界に誘うのだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』の14歳のヒロイン綾波レイが、長く国民的人気を集める理由は、彼女は、自分の価値を全く否定しているからだ。
我が国で、レイに匹敵するヒロインといえば、『風の谷のナウシカ』のナウシカだろうと思うが、彼女も、一匹のオームの子供のために自己を捨て切ってしまったのだ。
『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロインで17歳のクラリスも、ルパンのために何度も身を捨てた。だから愛されるのである。
我々が自己否定する意義を悟った時、世界は天国になるのである。









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勝利したIT企業は絶対に「ナウシカ流」である

IT産業は、栄枯盛衰の移り変わりが実にはっきり見て取れる業界だ。
ビージーズの『メロディ・フェア』という歌で、「人生は雨じゃない、メリーゴーランドのようなものさ」という歌詞があるが、アップルという会社は繁栄の極みにあったかと思うと、地面すれすれまで落ちぶれることもある。今は頂点にあるように見えるが、これほど明日が不確定なIT企業もない。アップルの遠くない未来は、今の製品を強化することなんかでは全くなく、次の大ヒット作を作れるかどうかにかかっている。遅くとも、来年には、まだ誰も見たことのない何かを生み出さないと、また落ちていく。しかし、メリーゴーランドとはそのような運命なのだ。

多少は勢いが衰えた印象もあるかもしれないが、マイクロソフトほど恐ろしい会社はない。
手塚治虫さんは、彼の多くの作品に登場させるクールな悪役ロックについて、「宇宙人のように頭が良い」と表現していたが、ビル・ゲイツという事業家は、悪役ではないが、まさに宇宙人のように優秀な頭脳を持ち、彼が人間界で事業をするのは反則ではないかと、私は本当に思っている。
マイクロソフトは、OS、オフィスソフト、開発ツールといった必要欠くべからざるもので市場を押さえてしまい、その上で、発展性さえあれば、どんな分野にでも乗り出し、結局はそれも攻略してしまう。本当に恐ろしい会社だ。
かつては、マイクロソフトはデータベース分野は全く駄目だったが、今はデスクトップデータベースはAccessでほとんど独占し、企業用データベースでも、かつての覇者オラクルをSQL Serverで逆転してしまった。他にも、そんなものがいくらでもある。
興味深いのは、マイクトソフトOfficeの互換製品がいくら出てきても、一定以上の影響を受けないところだ。ここらは、アップルでは、iPhoneやiPadにとって、他社のスマートフォンやタブレットPCが脅威であるのと異なる。
その理由は実に簡単なのだが(普通の人には難しいが)、マイクロソフトはやはり人間に対する洞察がアップルより深いのだ。

さて、かつて、PCネットワークで市場を支配した、アメリカのノベルという会社がある。
今や見る影もないと言ったら失礼だが、かつての栄光があるだけにそう感じるのだ。
アップルが、ノベルのようにならないためには、スマートフォンやタブレットPCでの競争などにかまけている場合ではない。人々を熱狂させるに足る驚異の新作が間に合うか、そもそも出せるかどうかだ。しかし、ジョブズはもういない。ジョブズは霊界からアップルの誰かにテレパシーを送ってくるのだろうか?
さて、そのノベルのかつての社長で、名前はすっかり忘れてしまったが、彼が言った言葉を憶えている。
「流れに乗れば生き残れる。流れを作り出せば勝てる」
まさに、IT業界の歴史を簡潔にまとめたような言葉だ。
しかし、社長がそういったノベルがさっぱり駄目になったのは何故だろう?
ノベルが努力しなかったからじゃない。
それは、この言葉が間違いだからだ。
アップルもマイクロソフトも、Googleもフェイスブックも流れなんか作っちゃいない。流れを読んだのだ。
ナウシカが誰よりも上手く飛べるのは風を読めるからだ。かつて、優れた航海師は、海の流れと風の流れを誰よりも上手く読めたのだ。
流れを自分で作れるなんていう傲慢な者が滅びるのは当たり前のことなのだ。
中国の易は、世界の流れを読むための霊妙な秘術だ。
宇宙人の宇宙船は、まだ地球人が知らない、宇宙のある流れに乗れるから、どんな遠くの惑星にでも瞬時に着いてしまうのだ。
あなたも、流れを読むことを学ばなければならない。それが出来れば無敵である。

さて、本日から、神戸で横尾忠則現代美術館が開館となる。横尾忠則さんほど成功する芸術家も稀であるが、彼はかつて、アダムスキーの本が自分のバイブルと述べたほど、宇宙人の哲学を敬虔に学んでいたのだ。彼は、宇宙の流れが見える画家なのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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