ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

デスハンター

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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人間の本当の力を示唆するお話

「私は誰か?」と問い続ければ、正しいことが分かってくるし、超能力が身に付くし、引き寄せもうまく出来るようになるが、それは単に、本来の我々が大きな力を持っていて、それを回復させるからに過ぎない。
しかも、超能力や引き寄せ等といった力は実は些細なものだ。
何と言っても、我々は至高の実在・・・神(のようなもの)なのだからだ
これに関しては、聖典には、嘘が書かれていることが多い。
たとえば、旧約聖書では、神は絶対的な一者で、人間は神に作られた、神の絶対的に下方に位置する(つまり、絶対的に劣った)存在である。
そこには、人間が神であることは全く述べられていない。
人間は土で作られたつまらない存在であるとされている。
だが、イエスは、人間は死んでも、最後の審判の時に甦り、優れた人間は天国に行けると言ったが、イエスの言うことのニュアンスは、死んですぐに天国に行くことを示唆している。

なぜ、そんな矛盾することが、旧約聖書と新約聖書に書かれているのかというと、人間が神のようなものであることを隠したい宇宙人が人間に噓を教え、それが記述されたことや、それを知っていたイエスが、ものを知らない当時の人々に教えるために、どうしても事実を曲げて教える必要があったからだ。そう考えると話が非常にすっきりする。
それを知ったうえで聖書を読むと、意外に面白い。

以前、SF作家の平井和正氏(1938~2015)が、『エリート』『幻魔大戦』といった漫画の原作で、人間が元々、強大な力を持っていることを示していることを書いたが、他にも平井氏は、あまり知られていないかもしれないが、『デスハンター』という漫画(漫画は桑田次郎氏が描いた)で、人類の正体をドラマチックに描き、後にこの原作を『死霊狩り(ゾンビハンター)』というSFにして出版している。
地球は、宇宙人「デス」の侵略を受けているが、デスは姿なき宇宙生命体で、人間にとり憑く。
デスにとり憑かれた人間は、デスに意識を支配されて超人化し、恐るべき能力を発揮する。
このデスを殺し、地球を守るために、人類はデスハンターという強大な秘密組織を作る。
デスハンターの隊員は、世界中から選りすぐられた超人的に優秀な人間で、そのデスハンターが、人類を守るためであれば、法を無視してでも、デスを殺す任務を全うする。たとえば、10人の人間の中に1人、デスが「いるかもしれない」と疑われれば、それだけで10人共、爆弾で一気に吹っ飛ばす程度のことは平気で行う。
以下は、ネタバラシになる(まあ、半世紀前の作品だが)。
◆ネタバラシ~ここから~
デスはデスハンターが予想していた以上の存在で、殺すことは不可能で、その力は無限である。
そして、デスは実は、人類の本体であるという驚愕の事実で話が終わる。
◆ネタバラシ~ここまで~
無論、『デスハンター』に書かれていることが純粋な真実であるわけではない。
だが、重要なことを示唆しているとは言えると思われる。

多くの、人間の正体を示唆する話を知り、「人間って(私って)、本当は何だろう?」という想いで「私は誰か?」と自分に問えば、やがて自分(の魂)が答えてくれるだろう。
人間の正体は『デスハンター』のデス以上であるに違いない。
しかし、それをほとんどの人間が知らず、結果、人間の本当の力を使えない。
だが、あなたはそうではなくなるのである。
「私は誰か?」と問うことによって。








不死のテクノロジー

2014年に、映画『ロボコップ』のリニューアル版が作られているが、昔の『ロボコップ』との共通の設定は、殉職した優秀な警官の頭部を、スーパーロボットの身体と融合するというところだ。
こういった設定のロボット、あるいは、サイボーグものの映画(アニメ、小説、漫画等も同じだが)というのは、うまく描かないと、果てしなくドロドロし、不気味になる。
日本の漫画・アニメ『エイトマン』(ロボコップのはしりだ)や、『サイボーグ009』、あるいは、『新造人間キャシャーン』や『キューティーハニー』は、そのあたりを気を付けて描いたから、人気者になれたのであり、もし、『ロボコップ』のように、現実的な面を持ち込むと、やはり、グロテスクなところも出て来てしまったはずだ。

ところが、人間の身体の代替に十分になる、あるいは、人間の身体をはるかに超えるロボットの身体というのは、そう遠くない未来に登場し、人間に死というものがなくなると予言したのが、「シンギュラリティ」の提唱者である、発明家、AI研究家であるレイ・カーツワイルだ。
カーツワイルは、未来のテクノロジーを正確に予言してきた未来学者で、現役の研究者であり、カーツワイルの予言は、決して空想ではなく、根拠があるものだ。
それによれば、人類がやがて開発する機械の身体や電子の脳は、人間の身体や脳をはるかに超える。
そして、現在73歳のカーツワイル自身も、それらを得ることになると言っているらしい。

ところで、テクノロジーを使わずに不死になるという考えは、大昔からある。
簡単な例で言えば、ゾンビだ。
そして、ゾンビの実現は可能と言う科学者も、昔から案外いたし、特に、近年では、IPS細胞の発見・利用により、その可能性が見えてきたかもしれない。
『新造人間キャシャーン』(1973)というアニメでは、1人の人間全体をロボットに融合させて作るのが「新造人間」で、それは、人間の意思を持ったロボットだ。
そして、このアニメを元に作られた、2004年のSF映画『CASSHERN』(キャシャーン)では、「新造細胞」という、いわば、IPS細胞の超発展形のバイオテクノロジーによって作られた超人がキャシャーンだった。
今でも人気の高い『キューティーハニー』は、原作漫画の連載が始まったのが1973年らしいが、ヒロインの如月ハニーはロボットだった。
ところが、1997年のアニメ『キューティーハニーF(フラッシュ)』では、ハニーはロボットという設定ではなく、生命テクノロジーによって作られた人造人間で、子供を産むことも出来る。

ところで、超IPS細胞のようなテクノロジーでも使わないと出来ないようなことをやっていたのが、イエス・キリストだった。
歩けない人を歩かせ、盲目の目を見えるようにし、死者を蘇らせることすらやっている。
ただ、そのようなことを実際にやると、ロクなことにはならないと見抜き、イエスによって救われた人々が後に不幸になったことを、オスカー・ワイルドが書いていたという話もある。
ところが、精神が進歩すれば、イエスのような力で、即座に再生出来る身体を持っても問題はなく、むしろ、そうなるべきとしたのが、平井和正原作の桑田次郎の漫画『デスハンター』(1969)で、原作者の平井和正は、後にこれを『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)』として小説家している。
そして、このように、精神が進歩すれば、人間が万能の超人になっても良いのではなく、精神が進歩すれば、自ずと、イエスや、インドの伝説の聖者ババジのようになるという説もある。

そして、根本的には同じような考え方なのだが、心の中の不純物(あるいはマイナス因子)を消すことで、人間は、はるかに健康に、そして、高い能力を持つというのが、L.ロン.ハバートの『ダイアネティックス』や、アレクサンダー・ロイド博士の『ヒーリングコード』だ。
よくは分からないが、このうち、『ダイアネティックス』は、いろいろ問題が指摘されており、個人的にだが、『ダイアネティックス』の本やDVDを見たところ、かなりの疑問も感じた。
『ヒーリングコード』が正解であるかどうかも分からないが、聖書との矛盾がないことや、科学的に正しいことも実証しているらしい。
他にも、私の知らないものもあるかもしれない。
人類には無限の可能性があるのか、あるいは、コロナでなくても、近く滅びてしまうのか、それはやはり、人類の精神の進歩次第かもしれない。












プラス・エンティティの驚異

これからの世界では、正しい生き方をしていれば、自然に生体エネルギーがどんどん強化されていく。
その結果がどんなものになるかは、想像をはるかに超えている。
旧来の人間と、新しい人間との違いは、今後ますます際立ってくるだろう。
ただし、新しい人間と言っても、必ずしも若い人のことではないし、流行やテクノロジといった、表面的な新しさとは何の関係もない。
新しい人間とは、放埓(勝手きまま)に振舞いたい自己に制約を課し、言葉や心において沈黙を守る人である。

人間の本来の生命力を発揮した人間とはどんなものだろう?
霊的と言えるような発想で創られた小説や、あるいは漫画等には、それを示唆するものは実に多いのだ。
エマーソンが、想像と空想は全く異なると言ったことに注意して欲しい。
ギリシャ神話は、想像であって空想ではない。
ソクラテスが言った通り、優れたアイディア、知恵は、神の領域からやって来るものだ。
『マジック・ストーリー』では、プラス・エンティティ(プラスの生命体)と一体化した人間が、ほとんど瞬間的に、驚異的な力を持った別人に生まれ変わることが描かれている。
平井和正さん原作の桑田次郎さんの漫画『デスハンター』では、宇宙生命体デスと融合した人間は超人と化すが、デス自体には個人的感覚がなく、人間の中の邪悪な性質の影響を受けてしまい、恐るべき悪魔と化す。しかし、感情を支配できる人間であれば、新しい時代の人類となり、宇宙の友の仲間入りを果たすだろう。
石ノ森章太郎さんが、病魔と闘いながら、死の間際まで書き続けた遺稿を、息子さんの小野寺丈さんが、長い苦難の末に完成させた、『サイボーグ009』の完結編の小説『conclusion GOD'S WAR』にも、009達は、001に与えられたという形ではあるが、人間が本来持つ生命エネルギーを得た姿を的確に描いていたと思う。
無論、これらの作品は、比喩や象徴の部分もあるのだけれど、読めば、我々の内側のプラス・エンティティ、あるいは、宇宙生命の存在を感じ、日毎にそれをますます現していけるのではないかと思う。自己に制約を課す、沈黙を友とする人間であればね。
これらの本は、楽に読めるが、感性があれば、想像力を刺激し、拡大してくれるだろう。想像力こそ、力の源であることは御存知と思う。
エマーソンの人類最高のエッセイ『自己信頼』と併せて読むと、009達が得たのと同じくらいの力を得られると私は本気で思っている。









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あらためて生命の話

私は、平坂読さんの『僕は友達が少ない』という小説が気に入っていて、現在刊行されている7巻までを再読し、アニメも録画を何度も繰り返して見ている。面白いだけでなく、良いお話だとも思う。しかし、どうしても承服できないことがある。
2人の美しいヒロイン、夜空と星奈は、人間的な美点もあるが、根本的には未熟で欠点が多いのは仕方がないところもある。しかし、それでも、この2人が、「殺す」「死ね」という言葉をやたら使うことは(使わせることは)良いことではない。
最近は、若い人に限らず、簡単に、そういった言葉(あるいは、そんな意味を込めた言葉)が使われるように思われる。

密林の聖者と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーが行き着いた哲学は「生命への畏敬」だ。つまるところは、命を何よりも大切なものとして崇拝することであるが、それを権威的に受け入れるのではなく、また、知的に理解するのでもなく、我々は生命の大切さを知らなければならない。
シュヴァイツァーは、文字通り、虫一匹殺さなかった。殺せなかったというのが正しい。彼が診療所を開いていたアフリカの未開地には、病原菌を運ぶハエも沢山いたが、シュヴァイツァーは、紙コップを常備し、部屋の中のハエを捕らえて外に出し、また、実験のため、やむなく蚊を解剖する時も、苦しげな顔で行ったという。

CLAMP(4人組の漫画家ユニット)の1995年頃の漫画作品『魔法騎士(マジックナイト)レイアース』という作品で、ヒロインの14歳の少女、光(ひかる)が、異世界の青年イーグルの命を救うため、2人とも消滅する危機に陥る場面がある。イーグルは不治の病に冒されており、もう長くはなく、彼は愛する光に、そのことを思い出させて自分を置いていくよう説得する。その時、光が言った、「それでも、せいいっぱい最後まで生きなきゃ」という言葉をよく憶えている。実は、作品のその部分で、著者は、確かに素晴らしいことを沢山書いてはいたのだが、この一言で十分であったと思う。
CLAMPといえば、最近の『BLOOD-C』(共作)でもそうだが、作品の中で、容赦なく大勢の人間を殺すことがある。もちろん、決して殺人奨励ではなく、少し前の『ちょびっツ』では、人型パソコン(アンドロイドと同じ)一体の命すら厳粛に描いて見せるところは、アシモフの『われはロボット』すら彷彿(ありありと想像すること)させ、それがCLAMP作品の本質だとは思う。しかし、やはり、人が簡単に死ぬシーンは精神への刺激が大き過ぎると思う。(実際、私は病状を示した)

最近は、原発の話題が巷に溢れているが、平井和正さんと桑田次郎さんの漫画作品『デスハンター』で、主人公の青年、田村俊夫は、もうすぐ原発が爆発する島を脱出するヘリに乗ることをやめ、島に残ることを決意した。それは、島に残っている、リュシールという少女を見捨てることができないからだった。リュシールは、死んでいるかどうかも分からなかったし、生きているとしても、長くはなかった。テロリスト達の拷問を受け、全身に赤くなるまで熱した鉄の棒の焼きごてを当てられ、顔の皮を剥がれた上、全身に銃弾を撃ち込まれていたからだ。俊夫が島に残ることに、何の意味もなかった。だが、彼はそうした上、さらに、俊夫の仲間の林石隆もそれに倣った。実は、俊夫も林も、それまで、冷酷非情な殺し屋であったのだ。

これらの、理屈で考えると不合理で馬鹿げたことでも、真剣によく考えてみたいと思う。
生命というものは、我々が頭で考えるよりはるかに神秘なものだ。
生命と自然と神は同じものだ。「自然な」ということほど、全てにおける適切な指針がないことに気が付かないだろうか?
「殺す」「死ね」という言葉は、どんな悪人、どんな未熟者が使っても、やはり不自然なのだ。
上にあげた、光や俊夫の行為は、どんなに馬鹿げて見えても自然なのである。
自然な行いをする時、人は神と一致しているのである。奇跡を起こす鍵もそこにあることは、容易く分かると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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