ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

デカルト

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

究極の力ある言葉

私は、合氣道家の藤平光一氏の著書『氣の威力』で知ったが、「真理の言葉」を唱えると、何らかの原理で心身の力が拡張され、ちょっとした奇跡のようなことも起こる。
藤平氏の著書には、極めて単純な真理の言葉「重みは下にある」によって、藤平氏流には「氣が出て」、精神や肉体の力が高まるが、それだけでなく、不思議なことも起こる。
そのような状態では、引き寄せの力も強まるはずであり、藤平氏も、引き寄せとは言わないながら、それを示唆するようなことも書かれていたと思う。
それで私は、昔から、では、最上の真理の言葉は何であろうかと考えてきた。
その言葉が真理であればあるほど、また、高度な真理であるほど、発揮する力は大きいと思われる。

しかし、「愛は世界を救う」なんて、CMでよく見るような言葉はどうかというと、愛の定義にもよるのだろうが、こんな言葉が使われる場面での雰囲気を見ていると、あまり真理の言葉とは思えないのである。特に、庶民が「愛」という場合、あるものを愛すると同時に別のものを憎むということを平気でやる。確か、愛とは、分け隔てをしないものであったはずだが・・・
「愛の反対は憎しみではなく無関心」とか言う人もいるが、これだって、何かを愛するがゆえに、愛することが出来ないもの、価値がないと思うものを無視するだけのことである。
いずれにせよ、普通の人が言う「愛」自体が真理でないのだから、「愛は永遠」だの「愛こそは全て」だのは、いかがわしかったり、ハリボテだったりする。

デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」を究極の真理としたが、これの本来の言葉である「疑っているわれは確かに存在する」なら、かなり良いが、思おうが思うまいが「われ」は存在するという簡単な指摘に対しても、なかなか反論出来ない。
面白いのは、ルドルフ・シュタイナーが「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」と言ったことで、私は「ああ、これは真理だ」と思ったが、一般的には禅問答のような言葉だろう。

そして、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」こそ、最高の真理であり、即、これが最高のマントラだと言った。
本当にそうなら、この言葉を唱えれば、超人、マスター、大師になり、引き寄せも自在になるはずだ。
しかし、そうはならない。
この言葉の問題は、「私は在る」の「私」が、自我か真我(魂)かはっきりしないことだ。
どちらかというと、自我を指していると思われるが、自我はあったりなかったりするし、仏教の立場では、自我は本来、存在していないし、自我が消えることが目標である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で語られているが、イギリスの偉大な技術者で思想家と言えるF.L.ローソンは、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
という言葉を真理とし、この言葉によって奇跡を起こした。
「神の他に何もない」は、「全ては神である」を言い換えた言葉と言えるが、確かに真理である。
しかし、自我にとって、これほどピンと来ない言葉もないし、自我が最も反発する言葉でもある。
その自我が黙るまで、粘り強く唱えれば、引き寄せ自在の超人になるのかもしれないが、いったい、どれだけの時間がかかるか分からない。

そこで、私なら、次の言葉を推したい。
「私は世界で唯一の考える主体である」
これは、ジョセフ・マーフィーの何かの本に載っていたのだと思う。
これに似た言葉と思ったのは、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの『History(歴史)』というエッセイの中の、
「私はスフィア(天球)の所有者( I am owner of the sphere)」
だ。入江勇起男氏は、これを「私は世界の所有者」と訳しておられ、意味としてはその通りであると思う。
この「私」は、自我と言えば自我だが、エマーソンは自我と魂の融合をよく説いていたので、この「私」は、自我であり魂であると言え、自我も良い意味で満足するのであり、とても調和のとれた言葉だ。
それも含めた深い意味で、この言葉は「私は世界で唯一の考える主体である」と似ていると思う。
ただ、「私は世界の所有者」と言うのは、エマーソンのように精神が発達した者でないと、やはり抵抗がある。

そこで、私は、最高の真理の言葉は、やはり、
「私は世界で唯一の考える主体である」
と思う。
この言葉に馴染めば、あらゆる引き寄せを行う力になる。
他の引き寄せ法や鍛錬と共に、1日数度でも唱えれば、大きな力になると思う。
もちろん、この言葉だけ唱えるのも、非常に良いことと思う。








究極の言葉

藤平光一さんの『氣の威力』に書かれている重要なこととして、「当たり前の真理を言えば氣が出る」というものがあった。
氣が出れば、心や身体の力が拡張される。
そして、藤平さんが取り上げた、1つの「当たり前の真理の言葉」は、「重みは下にある」で、これは、地球上にいる限り真理である。
氣が出るかどうかは分からないが、この言葉を言えば、身体の力が強化されることは実験で確認出来るし、そのやり方も書かれている。
では、最高の真理の言葉とは何であるかに興味が出るかもしれない。
高いレベルの真理であるほど、発揮される力が大きいからだ。

デカルトが辿り着いた究極の真理の言葉は、有名な「われ思う、ゆえにわれあり」だった。
ところが、この言葉に対して、イギリスの作家コリン・ウィルソンが「思おうが思うまいが、われはある」と指摘したが、これには反論不可能だ。
ところが、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、絶対的な真理は「私は在る」で、「私は在る」が最高のマントラ(真言)だと言った。
つまり、「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ思う」「ゆえに」は不要というわけだ。
一切の理由なく「私は在る(われはある)」のである。
だが、これらの議論が、どこかふにゃふにゃしているように感じるのは、「私(われ)」の定義が曖昧だからだ。
よって、唱えても、それほど力は出ない。
デカルトやウィルソンの場合は、明らかに、「私」とは「自我」だ。
しかし、マハラジの言う「私」は、彼の他の発言と合わせて考えても、自我のことなのか真我(魂のようなもの)なのか曖昧なのだ。
そして、おそらく、マハラジの言う「私」は、真我のことだが、それなら、「私は在る」と言葉で言うのは不適切だ。
なぜなら、言葉で「私」と言えば、自我しか指せないからだ。
もし、「真我は存在する」と言っても、それは、人間には確信出来ない。「真我」は概念ではないので、言葉で表現することは出来ないからだ。
概念でしかないことを言葉にする虚しさは、「愛」という言葉で、我々は痛感しているはずなのだ。
ところが、マハラジは「あなたが確信出来る唯一のことは、私が在るということだけだ」と言っており、これなら「私」は「自我」を指しているように思われる。しかし、やっぱり曖昧なのだ。

ところで、ラマナ・マハルシがこう述べている。
「夢のない深い眠りの中でも、『私』は存在する」
「夢のない深い眠りの中で、世界は存在しない」
つまり、こうだ。
夢のない深い眠りの中で存在するのは「真我」だ。
夢のない深い眠りの中で存在しないのは「自我」と「世界」だ。
ただ、普通の人は、夢のない深い眠りにあっても、世界は存在すると思っている。マハルシは、それは事実と反する幻想だと言う。
どういうことかというと、世界は心が創り出す幻想だということだ。
マハルシの言うことは真理だ。
ただし、証明は出来ないのだ。
なぜなら、証明とは自我(心)が行うことであり、自我を超えて存在する真我を証明の中に含めることは出来ないからである。

さて、証明は出来ないが、究極の真理は何であるか、一応、言っておくと、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
だ。
言い換えれば「一切は神」で、こちらでも良い。
だから、この言葉を「神の他に何もない。ただ神だけがある」とする人もいる。
だが、この言葉は、証明出来ないのだから、「信じろ」とは言えない。
よって、現代人の多く、あるいは、現代人のほとんど、あるいは、現代人のほぼ全員が信じない。
残念なことである。この言葉を唱えれば、不可能はないからだ。
なぜなら、藤平光一流に言えば、最高の真理の言葉は最大の氣を出させるからだ。
普段、「神実現の呼吸法」を行っている者が、この言葉を唱えると、すっと自我が消えて神化する。
神化のような事例が『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻にある。
ロンドンで、石を積んだ馬車が転倒し、多量の大きな石が人の上に落下した。
だが、L.H.ローソンが「神の他に何もない」と唱えると、その人は平気で立ち上がった。
L.H.ローソンは翻訳書は出ていないと思うが、自分で本も書いていて、ジョセフ・マーフィーも彼の本を引用している。








超能力者になる言葉

当たり前の言葉を言えば、超能力者になる。
その言葉が当たり前であればあるほど、超能力は強くなる。
この「超能力者」は分かり易く言っただけで、「引き寄せマスター」程度のつもりで使った。
もっと、癖のある言い方をする者もいる。
例えば、合氣道家の藤平光一さんは、「当たり前のことを言えば氣が出る」と言った。
「氣が出る」とは、潜在能力が発揮されるという意味で、まあ、超能力者になることと言って良い。
ちなみに、藤平さんが勧める当たり前の言葉は「重みは下にある」だったと思う。

当たり前ということは、自然という意味で、真理であるということだ。
デカルトは、言葉というのではないが、最高の真理を探究し、そして、彼が辿り着いた答が、
「われ思う、ゆえにわれあり」
だった。
彼は、「宇宙は広い」とか「火は熱い」というのは疑ったが、「われ思う、ゆえにわれあり」は信じたのだ。
だが、私は、ルドルフ・シュタイナーが言った、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
の方が好きだ。
ただ、デカルトとシュタイナーは反対のことを言っているようで、それは単に「われ」の定義の問題であり、実際は、そんなに違わないと思う。

別に、どの言葉が良く、どの言葉が悪いということはない。
大切なことは、自分が納得する言葉ではなく、魂が納得する言葉を使うことだ。

ニサルガダッタ・マハラジが至高の真理と言った言葉は、
「私は在る(私は存在する)」
だ。
これで良いと思えば使うと良い。
私も、この言葉には散々、お世話になり、良い想いをした。

『福音書』にはイエスの、『法句経(ダンマパダ)』や『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』には釈迦の、『老子』には老子の、『荘子』には荘子の、『論語』には孔子の言葉が沢山書かれているので、それらを読み、その中から選んでも良い。
あまり迷わず、とりあえず何か使うと良い。
真理度が多少低かろうが、言わないよりは、はるかにマシだからだ。
藤平氏の「重みは下にある」も、マハラジの「私は在る」も十分と思う。

「私は生きている」も、「私はいつか死ぬ」も、なかなか確からしい。
「ありがたい」こそ真理と思えるなら幸いだ・・・いや、確かに、魂はそれを納得するだろう。
「俺に不可能はない」は、魂的には正しいが、心の葛藤を生む可能性があるので、お勧めしない。
同じく、「私は神である」もだ。
だが、使いたければ使うと良い。












騙されないために必要な当たり前のこと

テレビ、新聞といったマスメディアが偏向報道でなかったことはないが、特に今はひどい偏向振りで、偽情報だらけと言えるかもしれない。
一方、インターネットの、特にSNSに沢山の情報があるが、こちらは玉石混交だ。
大手メディアの「我々は正しい」という権威的な姿勢に対し、SNSでは、発信する情報の根拠を示す謙虚さがある場合が多い。
だから、SNSは、見る者が情報の真偽を判断出来るが、SNSでも人気インフルエンサーになると、傲慢にも根拠を示さず「俺が言うのだから正しい」というマスメディア的な態度だったり、真面目そうに見える発信者であっても、根拠自体がフェイクだったりすることも多い。
特に、根拠を、事実ではなく、論理で示す場合は、いくらでも巧妙な嘘がつける。

マスメディアの情報の根拠は、現地取材をしているとか、映像や音声を示すといった、いかにも信頼性が高いように見えるものが多いが、映像や音声の一部を切り取ったり、それらを組み合わせれば、事実と真逆の情報を作ることが出来、実際、それが行われている。さらに、映像や音声自体が、本物らしい偽物であることも珍しくはなくなった。それが、マスメディアで堂々と行われれている。
そして、重要なことは、マスメディアの情報を否定することは難しく、また、マスメディアの嘘がバレても、マスメディアの権威はいささかも揺るがない。その理由は、国民が馬鹿だからであるとしか言えない。
SNSは、とにかく、情報の根拠を見ることだ。
マスメディアでさえあることだが、SNSでは、「関係者によれば」という言い方が多い。だが、そう書かかれていれば、最初からフェイクだと断定するしかないと思う。
その「関係者」が具体的であることが信用するための最低条件であることは、子供でもない限り分かるはずだ。

そんなわけで、あらゆる情報・・・特に大手メディアの情報に対する私の態度はこうである。
「別に疑わない。だが、信用もしない」
最初から疑ってしまったら、良い情報や、デタラメの中に混じった正しい情報も見逃してしまう。
だが、疑いようのないほど真でない限り、信じてはならない。
デカルトの情報に対する態度はこうだった。
「疑いようもないほど正しくなければ、全て偽」
「よって、単に確からしく思えるものは、全て虚偽とする」
だが、ここまでやってしまえば、日常生活を送ることも出来ないので、我々としては、
「疑いはしない。だが、信用もしない」
が、最良の態度と思う。
そして、「疑いようもなく真であるなら信じる」に関しては同じであるはずだ。
デカルトは、「疑いようもないほど真」というものがなかなか見つけられなかったが、最後に、「疑っている自分がいることは、疑いようもなく真」とし、
「疑っている我は、確かに存在している」
を真理とした。
これは、今日では、「われ思う、ゆえにわれあり」として知られている。
だが、これはやはり実用的でない。
では、我々は、どう考えれば良いのか?
それは簡単ではないだろうか?
魂の声を聞けば良いのである。
我々の中には、魂、聖霊、神・・・何と呼んでも良いが、絶対的に正しいものが存在する。
デカルトだって、「自分の中に絶対的に正しいものがあるから、疑うことが出来るのだ」と言ったが、この言葉は、我々の魂の声も正しいと言っているのではないかと思う。

魂の声を聞くなんて、本来、当たり前のことであったはずが、現代の、特に文明国では、皆、それを忘れてしまった。
現代の悲惨の原因はそこにある。
逆に、魂の声を聞けば不安はないはずである。








より良く生きるための単純なルールを持つ

専制政治(支配者が独断的に支配すること)が行われている国、即ち、専制国家では、必ず情報統制(情報のやり取りを制限すること)が行われている。
簡単な言い方をすれば、支配者が国民を騙しているということで、騙すとは、真実でない嘘の情報を信じさせることだ。
嘘の情報を信じ、嘘の情報に基づいた思想を持つことを、マインドコントロールされている、あるいは、洗脳されているというのである。

ただ、専制政治が全く行われていない国など存在しない。
国の体を保つためには、ある程度の情報統制が必要で、結果、思想統制、即ち、洗脳が行われている。
思想家の吉本隆明氏が『共同幻想論』で書いたように、国というものは、根本的には幻想であると言えるかもしれない。

現在、ロシアでは、政府による強い情報統制、言論統制が行われ、国民が正しい情報を得ておらず、嘘の情報で騙されていると言われている。
日本でも、戦時中は、「大本営発表」と言って、国民に嘘の情報が与えられていたが、その目的は、国民思想を戦争肯定にするためである。例えば、日本軍が敗北に次ぐ敗北を重ねていても、日本軍は大勝利していると、当時の主要メディアである、新聞やラジオで言っていたのである。
現代は、インターネットがあると言っても、インターネットの情報を制限・統制することは容易く、むしろ、これが、国家による情報統制・言論統制に効果的に使われている。
日本にいる我々は、ロシアの人々が嘘の情報を与えられていることが分かるが、日本にだって一般のロシア人がいて、そんなことを知っている。
日本にいるロシア人が、ロシアにいる人々に正しい情報を言っても、ほとんど役に立たない。政府の言論統制が、そんなもので揺らぐほど甘いものではないからだ。

だが、ロシア人が情報統制を受け、嘘の情報を信じさせられていると言っても、我々日本人だって、ロシアのことについて、正しいことを知っているのかどうかは全く分からないのである。
そして、まず間違いなく、我々が知っている、ロシア関連の情報の多くは真っ赤な嘘なのだと思う。
おそらく、ロシア人がロシア政府によって与えられているよりはマシな情報を我々は知っていると思っているが、それも、本当のところは「全く分からない」のである。
もちろん、ロシアのことだけではなく、アメリカ、中国、ヨーロッパ・・・さらには、日本の本当のことだって、我々が、どれだけ正しいことを知っているかは、やはり、「全く分からない」。
特に近年では、2020年のアメリカ大統領選挙、新型コロナウイルス情報、そして、新型コロナウイルス・ワクチンに関し、相反する情報があり、その内の一方を「陰謀論」と呼ぶ習わしになっているように感じるが、陰謀論と、それに対する一般論とされるものにも、実はいろいろあり、そのどれが正しいのかの判定は難しい。
つまり、一般論にも本当と嘘があり、陰謀論とされるものにも、本当と嘘がある。
一般論のあるものが真っ赤な嘘かもしれず、陰謀論と言われるものに真実があるのかもしれない。
しかし、その判定は困難だ。

このような中で、私は何も信じていないのである。
とはいえ、何も信じなければ、生活にも支障が出る。
ルネ・デカルトは、「単に真らしいことは全て虚偽とする」と、言ったが、これも私の態度と似ている。
そして、デカルトは、生活など、生きるために、仮のルールを作ったのである。どんなルールだったかは忘れたが、まあ、差しさわりなく生きられるものだろう。
『サクラダリセット』で、中学2年生の少女、春埼美空(はるきみそら)は、大きな力を持つが判断力が乏しい自分のために、行動規範のルールを作り、それはなかなか面白いものだったが、我々は彼女のような大きな力を持たないので、それほど特別なルールは必要ない。
アシモフの「ロボット3原則」も、力と知性のあるロボットのために作られたもので、我々個人個人は、もっとゆるいルールで良い。
で、私の私のためのルールは、笹沢佐保氏の時代劇小説『木枯らし紋次郎』で、ヒーローの紋次郎が自分に課していたルールと同じである。
即ち、「疑わないが、信じもしない」である。
新聞やテレビの発表(私はどちらもほとんど見ないが)、インターネット・ニュースやSNSの情報、政府や政府機関、行政の発表等を、「疑いはしないが、信じもしない」である。

私はある意味、以前、賭け麻雀をやった検事長に感謝している。
というのは、法の最高権威者が賭博をやっても、何の制裁も課さないことで、日本という国家が全く信用ならないことがはっきり分かったからである。
そんな国が安全だというワクチンなど、怖くて打てない。しかし、これはあくまで私の感覚であり、他の人がどうかは、私が関知しうることではない。

ただ、デカルトは、かなり難しい表現をしたが、人間の内には、信じられる何かがある。
それを私は、魂の声と呼び、それに従うこととしている。
データでビジネスをしていると言っても過言ではないAmazonの副社長が「データは危険である」と言い、「では、何を信じるのか?」と尋ねたら、「CEOの心の声」と答えたらしい。
私の言う魂の声も、この心の声に似ていると思うが、若干異なるかもしれない。
ただ、私が魂の声に従うことを、どれだけ出来ているかは分からない。ひょっとしたら、ほとんど出来ていないかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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