ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

デカルト

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

不意に天才になる方法を思い出す

規律や信念を夢の中でも保っているようなら、それらは本物だ。
野球のバッターが、夢の中でも素振りをしているようなら、かなり見込みがある。
私は一頃、デカルトに倣って、何でも疑うようにしていたことがある。
その厳格で優れたルールは「単に正しいと思えることは全て間違いと決めつける」というものだ。
デカルトと言えば、唯物論者であるという欠点ばかり注目する者が多いが、彼は、このように熱心な真理の探究者で、だから、数学や物理学で、現在でも十分通用する成果を数多く上げたのだった。
夢の中では、何を見ても、「これは本物ではない」と疑うと、途端に存在感を失くしたり、小さくなったり、あるいは、消えてしまうのが面白い。
また、「夢の中でこれをしよう」と普段から決めていると、それをやった時、「これは夢だ」と分かり、「じゃあ、夢の中でしか出来ないことをしよう」ということになり、なかなか面白いことが出来る。
私は、あるメキシコ人の本で、「夢の中では身体が柔らかいので、指を掴んで引っ張ると伸びる」と書かれていたのを夢の中で思い出し、実際にやってみたら本当だった。
夢の中で空を飛ぼうと思ったら、息をするように自然に飛ぼうとしなければならないが、それはなかなか出来ないことである。
だが、指を引っ張って伸ばすことはいつでも出来る。

普段から思考を消す訓練をしていて、夢の中で思考を消せば、すぐに何でも出来、その何でも出来る感覚を憶えていると現実でも同様に出来る。
私もよく忘れるが、人差し指を立てると、かなり思考が消える。
架空の人物と思うが、倶胝(ぐてい)という僧は、師の天竜から一本指の禅(一指禅)を教わった。
これは、ただ人差し指を立てるという実に簡単なもので、倶胝はどんな相談を受けても人差し指を1本立てて見せた。
これは古い禅語なのだが、このお話を作った人は最新の脳科学であるミラーニューロンの働きに気付いていたのだから凄い。
ミラーニューロンについて知りたければ、TEDで講演をしたこともあり、自分をサイコパスと明言する神経科学者ジェームズ・ファロン博士の『サイコパス・インサイド』という本をお薦めする。実に面白い本だった。
ミラーニューロンとは簡単に言えば、誰かの動作を見たら、自分の脳内で、その動作をしている反応を起こさせる働きをするもので、まさに「ミラー」である。
ミラーニューロンのおかげで、小さな子供は、大人がやるのを見るだけで自分も出来るようになってしまうのである。
ミラーニューロンが異常に発達したのが、西尾維新の『刀語(かたながたり)』に登場する七実(ななみ)という美しい娘である。

夢と現の間
AIアート231
「夢と現の間」
Kay


ここまで書いて、ミラーニューロンの有益さを思い出したので、今後、しばらく書こうと思う。
難しい話ではないが、これであなたも天才である。
そして、これで、ある人はなぜプロ野球選手になれるのか、売れっ子のイラストレーターになれるのかの説明もつく。
この原理を知れば、あなたも努力なしで好きなものになれる。

倶胝の話に戻るが、さっきも述べた通り、人間は、人差し指を立てることで思考が消える。
そして、いつも言う通り、思考が消えれば、人間は全知全能である。
まあ、だから、良ければ、夢の中でも人差し指を立てるくらい、普段からそうすると良いと思う。
夢の中でも人差し指を立てるようになれば本物で、あなたに不可能はなくなるだろう。
今後のミラーニューロンシリーズは極めて有益である。








思考を消すことの力

偉人のエピソードにはフィクションも多いようだ。
たとえば、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが子供の時、新しい斧の切れ味を試したくて、その斧で桜の木を切ってしまったが、それを父親に告白して、かえって正直さを父親に褒められたという話があったが、これは作り話であるらしい。
私は小学3年生の時に、この話を読んだ本には、この話は事実として書かれていて、これがワシントンの正直で誠実な人柄を示すと解説されていたように思うが、私は嘘っぽいと感じていた。
それで、後に、この話が作り話だと知った時、すっきりしたものだ。
いくら斧の切れ味を試したくても、そして子供でも(桜の木を切るほどには大きいのだ)、父親が大切にしていた桜の木を切るなど、短絡的で馬鹿過ぎるからだ。
それに、さらに後になって、ワシントンは大人になっても、そこそこの年齢になるまで、あまり誠実でない自己中心的な人物であった可能性があることも知った。
いい年になるまで駄目人間だったことでは、アブラハム・リンカーンも同じであったらしい。
リンカーンは40歳くらいまでは普通の男としても、かなり情けなかったというが・・・まあ、本当のことは分からない。
いずれにしろ、証拠もないことを信じてはいけない。
我々を騙そうとする者はいくらでもおり、特に学校やテレビでは、我々を騙そうという意図を持たない者の方が珍しいと思った方が良いかもしれないほどだ(あくまで主観である)。
ルネ・デカルトは、「単に本当らしい話は全部嘘と断定する」という規律を自分に課していた。
それですら、デカルトはいろいろ間違えた。
そこで、ジッドゥ・クリシュナムルティの、「私は何も信じませんよ」という態度が良いのである。

白とピンク
AIアート173
「白とピンクの間」
Kay


ところで、野口英世に関しても、嘘の話が多いらしい。
子供向けの野口英世の伝記では、彼は、真面目に努力する上、恩を忘れない、そして、愛情深い高潔な人物のように描かれているが、それも疑わしいようだ。
だが、たとえ身近にいる人だって、本当はどんな人間かは「全く」分からないと考えるべきである。
極端な話ではあるが、楳図かずおさんの漫画『洗礼』で、こんな話がある。
小学4年生の美少女さくらの母親は、さくらを大切にするあまり、時に常軌を逸したこともするが、それも、さくらへの深い愛情によるものと思われていて、さくらもそう思い、母親を慕っていた。
しかし、さくらの母親は、さくらへの愛情などかけらもなかったことが分かるが、このお話は、私を十分に人間不信にしてくれ、楳図さんには大変に感謝している(半分冗談だが半分本当)。
ところで、野口英世が子供の時、当時は珍しい、高価だったかもしれないゼンマイ時計の構造に好奇心を持って、それを分解してしまうお話があったように思う(別の偉人?)。
今のデジタル時計では、分解しても面白いことはほとんどないと思うが、昔の時計はいろいろ面白かったと思う。
だが、野口は、分解しても、再び組み立てることが出来なかった。
野口も子供の時は知恵が足りない普通の子供だったということだろうが、このお話で野口の好奇心の旺盛さや実行力でも示したかったのだろうか?
だが、私には、普通の範囲のことだと思われる。
ところで、この時の野口少年のように、分解してしまった時計を組み上げるという難しいことが出来ないといった状況は、人生の中ではよく起こる。
そこで、私は、野口少年には、見事、時計を組み上げるお話にして欲しかったと思うのだ。
それは可能だからだ。
私は、ある時、欠陥のあるコンピュータープログラムを修正しなければならなかったが、その時の野口英世のような困難さを感じていた。
成し遂げることは全く不可能に思えた。
あまりに難しかったし、そもそも、そのプログラムには根本的に重大な欠陥があると思われた。
それで諦めて考えるのをやめたら、すぐに、奇想天外な異次元の解決策が分かった。
野口英世のその話が本当かどうかは分からないが、その程度のことであれば、野口はうまくやれたはずなのだ。
ここでいつも言う通り、思考を消せば。
思考を消すことの力を理解している者は、この世界では滅多にいない。
世で賢人、知恵者、あるいは、聖者と呼ばれる者ですらだ。
いつも言う通り「私は誰か?」と自分に問うことで思考を消せば、そんな身近でシンプルな真理を知り、真理はあなたを自由にするのである。








IQを20%以上アップする

愚民とは本当に困ったものだ。
これは、私や誰かの見解ではなく、客観的事実だ。

本人に責任があるとは思わないが、地球人を愚かにするのに利用されたのがルネ・デカルトだ。
彼の有名な言葉「われ思う、ゆえにわれあり」は、ある意味正しいが、とはいえ、その「われ」は、最悪のわれだ。
それから250年ほど経って、ルドルフ・シュタイナーが、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
と、多少マシなことを言ったが、これは、後半の、
「われ思わず、ゆえにわれあり」
だけで良いのだが、「ゆえにわれあり」は余計だ。
「われ思わず」だけで充分だ。
愚民に合わせるためには、余計なことも言ってしまう。
丁度、「考えるな、感じろ」の「感じろ」が余分であるように。

「われ思わず」あるいは「考えるな」で十分である。
これを静かに唱えていれば、そうそう悪いことにはならない。
そして、もっと使いやすい(良いわけではない。一般的に使いやすいだけだ)世界コマンドを作っておいた。
「私は何も考えない」(1000)
「私は何も信じない」(130)
「私は何も愛さない」(90)
数字は、大雑把な効果の目安だ。
とはいえ、「われ思わず」もなかなか好ましい。
「私は何も考えない」と同等なので、唱えやすそうなら使うと良い。

世界を再構成中
AIアート134
「世界を再構成中」
Kay


さて、世界コマンドもロクに続かない困った者達にも有益だが、IQを20~40%アップする訓練をご紹介する。
それは、頭の中で、出来るだけ早く、1から100まで数えることを繰り返すだけだ。
ただし、正確に数える。
正確に数えられないほど速く数えてはならない。
最初は、あまり速く数えられないかもしれない。
それどころか、とてもゆっくりとしか数えられない。
しかし、慣れれば、1秒で数回(100までを)数えられる。

ついでの話だが、IQ10万の(もちろん比喩だが)天才に、タイムリープについて聞いた。
誰でも、数千回、タイムリープしているらしい。
ただ、凡人(IQ400以下。比喩だがw)は、タイムリープ前の記憶が全くない。
記憶がなければ、タイムリープする意味は全くない(輪廻転生もだが)。
上の、カウントアップ訓練をやれば、そこそこ記憶が戻り、自覚はないが、ものが分かる状態になっているらしい。
記憶が戻るほど、記憶を持ってタイムリープがしたくなり、それをかなり自由に出来るようになるようだ。








究極の力ある言葉

私は、合氣道家の藤平光一氏の著書『氣の威力』で知ったが、「真理の言葉」を唱えると、何らかの原理で心身の力が拡張され、ちょっとした奇跡のようなことも起こる。
藤平氏の著書には、極めて単純な真理の言葉「重みは下にある」によって、藤平氏流には「氣が出て」、精神や肉体の力が高まるが、それだけでなく、不思議なことも起こる。
そのような状態では、引き寄せの力も強まるはずであり、藤平氏も、引き寄せとは言わないながら、それを示唆するようなことも書かれていたと思う。
それで私は、昔から、では、最上の真理の言葉は何であろうかと考えてきた。
その言葉が真理であればあるほど、また、高度な真理であるほど、発揮する力は大きいと思われる。

しかし、「愛は世界を救う」なんて、CMでよく見るような言葉はどうかというと、愛の定義にもよるのだろうが、こんな言葉が使われる場面での雰囲気を見ていると、あまり真理の言葉とは思えないのである。特に、庶民が「愛」という場合、あるものを愛すると同時に別のものを憎むということを平気でやる。確か、愛とは、分け隔てをしないものであったはずだが・・・
「愛の反対は憎しみではなく無関心」とか言う人もいるが、これだって、何かを愛するがゆえに、愛することが出来ないもの、価値がないと思うものを無視するだけのことである。
いずれにせよ、普通の人が言う「愛」自体が真理でないのだから、「愛は永遠」だの「愛こそは全て」だのは、いかがわしかったり、ハリボテだったりする。

デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」を究極の真理としたが、これの本来の言葉である「疑っているわれは確かに存在する」なら、かなり良いが、思おうが思うまいが「われ」は存在するという簡単な指摘に対しても、なかなか反論出来ない。
面白いのは、ルドルフ・シュタイナーが「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」と言ったことで、私は「ああ、これは真理だ」と思ったが、一般的には禅問答のような言葉だろう。

そして、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」こそ、最高の真理であり、即、これが最高のマントラだと言った。
本当にそうなら、この言葉を唱えれば、超人、マスター、大師になり、引き寄せも自在になるはずだ。
しかし、そうはならない。
この言葉の問題は、「私は在る」の「私」が、自我か真我(魂)かはっきりしないことだ。
どちらかというと、自我を指していると思われるが、自我はあったりなかったりするし、仏教の立場では、自我は本来、存在していないし、自我が消えることが目標である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で語られているが、イギリスの偉大な技術者で思想家と言えるF.L.ローソンは、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
という言葉を真理とし、この言葉によって奇跡を起こした。
「神の他に何もない」は、「全ては神である」を言い換えた言葉と言えるが、確かに真理である。
しかし、自我にとって、これほどピンと来ない言葉もないし、自我が最も反発する言葉でもある。
その自我が黙るまで、粘り強く唱えれば、引き寄せ自在の超人になるのかもしれないが、いったい、どれだけの時間がかかるか分からない。

そこで、私なら、次の言葉を推したい。
「私は世界で唯一の考える主体である」
これは、ジョセフ・マーフィーの何かの本に載っていたのだと思う。
これに似た言葉と思ったのは、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの『History(歴史)』というエッセイの中の、
「私はスフィア(天球)の所有者( I am owner of the sphere)」
だ。入江勇起男氏は、これを「私は世界の所有者」と訳しておられ、意味としてはその通りであると思う。
この「私」は、自我と言えば自我だが、エマーソンは自我と魂の融合をよく説いていたので、この「私」は、自我であり魂であると言え、自我も良い意味で満足するのであり、とても調和のとれた言葉だ。
それも含めた深い意味で、この言葉は「私は世界で唯一の考える主体である」と似ていると思う。
ただ、「私は世界の所有者」と言うのは、エマーソンのように精神が発達した者でないと、やはり抵抗がある。

そこで、私は、最高の真理の言葉は、やはり、
「私は世界で唯一の考える主体である」
と思う。
この言葉に馴染めば、あらゆる引き寄せを行う力になる。
他の引き寄せ法や鍛錬と共に、1日数度でも唱えれば、大きな力になると思う。
もちろん、この言葉だけ唱えるのも、非常に良いことと思う。








究極の言葉

藤平光一さんの『氣の威力』に書かれている重要なこととして、「当たり前の真理を言えば氣が出る」というものがあった。
氣が出れば、心や身体の力が拡張される。
そして、藤平さんが取り上げた、1つの「当たり前の真理の言葉」は、「重みは下にある」で、これは、地球上にいる限り真理である。
氣が出るかどうかは分からないが、この言葉を言えば、身体の力が強化されることは実験で確認出来るし、そのやり方も書かれている。
では、最高の真理の言葉とは何であるかに興味が出るかもしれない。
高いレベルの真理であるほど、発揮される力が大きいからだ。

デカルトが辿り着いた究極の真理の言葉は、有名な「われ思う、ゆえにわれあり」だった。
ところが、この言葉に対して、イギリスの作家コリン・ウィルソンが「思おうが思うまいが、われはある」と指摘したが、これには反論不可能だ。
ところが、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、絶対的な真理は「私は在る」で、「私は在る」が最高のマントラ(真言)だと言った。
つまり、「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ思う」「ゆえに」は不要というわけだ。
一切の理由なく「私は在る(われはある)」のである。
だが、これらの議論が、どこかふにゃふにゃしているように感じるのは、「私(われ)」の定義が曖昧だからだ。
よって、唱えても、それほど力は出ない。
デカルトやウィルソンの場合は、明らかに、「私」とは「自我」だ。
しかし、マハラジの言う「私」は、彼の他の発言と合わせて考えても、自我のことなのか真我(魂のようなもの)なのか曖昧なのだ。
そして、おそらく、マハラジの言う「私」は、真我のことだが、それなら、「私は在る」と言葉で言うのは不適切だ。
なぜなら、言葉で「私」と言えば、自我しか指せないからだ。
もし、「真我は存在する」と言っても、それは、人間には確信出来ない。「真我」は概念ではないので、言葉で表現することは出来ないからだ。
概念でしかないことを言葉にする虚しさは、「愛」という言葉で、我々は痛感しているはずなのだ。
ところが、マハラジは「あなたが確信出来る唯一のことは、私が在るということだけだ」と言っており、これなら「私」は「自我」を指しているように思われる。しかし、やっぱり曖昧なのだ。

ところで、ラマナ・マハルシがこう述べている。
「夢のない深い眠りの中でも、『私』は存在する」
「夢のない深い眠りの中で、世界は存在しない」
つまり、こうだ。
夢のない深い眠りの中で存在するのは「真我」だ。
夢のない深い眠りの中で存在しないのは「自我」と「世界」だ。
ただ、普通の人は、夢のない深い眠りにあっても、世界は存在すると思っている。マハルシは、それは事実と反する幻想だと言う。
どういうことかというと、世界は心が創り出す幻想だということだ。
マハルシの言うことは真理だ。
ただし、証明は出来ないのだ。
なぜなら、証明とは自我(心)が行うことであり、自我を超えて存在する真我を証明の中に含めることは出来ないからである。

さて、証明は出来ないが、究極の真理は何であるか、一応、言っておくと、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
だ。
言い換えれば「一切は神」で、こちらでも良い。
だから、この言葉を「神の他に何もない。ただ神だけがある」とする人もいる。
だが、この言葉は、証明出来ないのだから、「信じろ」とは言えない。
よって、現代人の多く、あるいは、現代人のほとんど、あるいは、現代人のほぼ全員が信じない。
残念なことである。この言葉を唱えれば、不可能はないからだ。
なぜなら、藤平光一流に言えば、最高の真理の言葉は最大の氣を出させるからだ。
普段、「神実現の呼吸法」を行っている者が、この言葉を唱えると、すっと自我が消えて神化する。
神化のような事例が『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻にある。
ロンドンで、石を積んだ馬車が転倒し、多量の大きな石が人の上に落下した。
だが、L.H.ローソンが「神の他に何もない」と唱えると、その人は平気で立ち上がった。
L.H.ローソンは翻訳書は出ていないと思うが、自分で本も書いていて、ジョセフ・マーフィーも彼の本を引用している。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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