ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

デカルト

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

頭を良くするには

私が高校生の時、福沢諭吉の有名な『学問のすすめ』を読んで、まず衝撃的だった言葉が「力役は易し」だった。
つまり、肉体労働は簡単で卑しい仕事だから、勉強することで、そんな仕事をしなくて良い人間になろうと説いているように思ったのだが、そう理解されても仕方がない文章だったように思う。
高校生だった私は、『学問のすすめ』や福沢諭吉について、「何たる浅はかな煽り。福沢諭吉というのはロクでもない人物」という観念を持ってしまい、以降、福沢諭吉について調べることがなく、こんな人物を一万円札に採用した日本の危うさを感じたものだった。
まあ、これが誤解だったかどうか、いまだ確認していない。
私は、中学・高校時代は、「学問は試験のためにやるものじゃない」「学問は金のためにやるものではない」という想いが強烈で、学問は純粋に、真の意味で賢くなるためにやるものだと思っており、試験の成績第一主義の学校や日本の教育に完全に背を向けてしまった。
よって、私は、高校受験も大学受験も真面目にやらなかった。
だから、ルネ・デカルトが「書物による学問を捨て、世間から学んだ」と言ったことに感激したものだった。
彼は、意外なことに、学校に行ったのは二十歳までで、それでも大学は出ているが、取った学位は法学士だった。
つまり、彼の業績として現在も高く評価されている数学、物理学、哲学は全て独学であった。
これは、ニュートン、アインシュタインも同じである。
英国の作家コリン・ウィルソンは、アインシュタインのような科学者になりたかったが、家が貧しくて高校に進学出来ず、肉体労働をしながら図書館で独学した。彼のことは、一般に、作家、評論家と紹介されるが、なぜ、思想家とか哲学者と紹介されないのか、私には不思議である。
哲学者、作家の東浩紀さんが、自分が哲学者と呼ばれるのは良いが、思想家とは思っていないと、何かで言うか書くかしていたと思うが、それは、学術的な取り決めとか因習のようなものからと思われ、私は、そんな学問の権威みたいなものは大嫌いで、そんなものにひれ伏す東浩紀さんは大したやつじゃないと勝手に思っている。

賢くなるためには、頭を鍛えなくてはならないが、頭を鍛える大切な期間を過ごす小中学校、あるいは、高校では、試験の採点の仕方を最優先とし、学問や教育がすっかり歪んでしまっている。私は、ひょっとしたら、これが有名な、「中国、ロシアによる、アメリカや日本の若者の頭脳を破壊するための策略」と思ったものだが、当たらずと言えども遠からずといったところだろう。
まあ、偏見かもしれないが、そんなことを感じていたので、私は学校の勉強は真面目にやらず、成績が悪かったこともあり、社会では不利な立場になってしまった。それがどういうわけか、そんなエリート教育に加担する企業に関わり、高学歴な人々を沢山見たが、やっぱりおかしな人が多かったと思う。

人間の生まれつきのIQは遺伝でほぼ決まるらしく、その遺伝率は、一般に遺伝的と思われている背の高さの遺伝率よりずっと大きいのだという。つまり、人間の頭のレベルは、生まれつき決まっているのかもしれない。
ただ、生まれつきの筋肉の強さがきまっているとしても、鍛えれば、かなり強くなるように、人間のIQも鍛えれば必ず伸びると思う。
いや、それどころか、人間の脳は驚異的なほど優秀で、誰でも相当な可能性を秘めていると思われる。
最終的には、デカルトが言うように、世間で学ぶのが良い。
しかし、デカルトは基礎的な学問はよく修めていた。
面白いのは、デカルトは、今で言う中学や高校あたりで、「この学問は良いが、この学問は懐疑的だ」と区別すると共に、「怪しげな学問も何等かの役には立った」と言ったことだ。
この怪しげな学問とは、占いや魔術の類であったが、デカルトは実際は大のオカルト好きだった。
ニュートンが、オカルト研究のついでに数学や物理学をやっていたのだということは知られているが、デカルトも、そんな傾向があったのだと思う。
オカルトも、学びようで頭が良くなるのだろう。
ニュートンのオカルトは、多くは聖書の研究だった。
イーロン・マスクなども、聖書はよく読み、評価していたと思う。
日本には、『カタカムナ』や『ホツマツタヱ』といった知恵の書もあるのだが、世間に出回っているものを見ると、まだまだ、あまり優秀でない人の個人的独断を含んだ怪しげなものが多く、学び難い。
いずれにしても、仏典や聖書などの聖典も、権威側に読まされる形で読むと、必ず歪んだ理解をする。
よって、あまり宗教には関わらない方が良いかもしれない。
私は、とりあえずは聖書は読んでいる。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)方法序説ほか (デカルト)
(2)プリンキピアを読む ~ニュートンはいかにして「万有引力」を証明したのか?~ (ブルーバックス)
(3)旧約聖書(新日本聖書刊行会)
(4)新約聖書(新日本聖書刊行会)
(5)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)

永遠の瞬間
AIアート1412
「永遠の瞬間」
Kay

後天的に天才になった人達

渡部昇一さん(1930~2017)は、社会評論家として知られているが、ドイツのミュンスター大学で哲学博士号を取得した哲学者で、英語学者と紹介されることもある。
専門分野以外でも、啓発書や歴史書、あるいは、翻訳書など、著書は何百冊になるか分からない。
大変な知の巨人と言えると思う。

また、渡部さんは、ジョセフ・マーフィーの著書を日本に紹介した人だが、ジョセフ・マーフィーの翻訳書や解説書は、もっぱら大島淳一というペンネームを使っていた。
渡部さんと大島淳一が同一人物だとは全く知られず、このことを公表したのは、かなり後のことと思う。
私も、渡部さんが大島淳一だと知った時は、かなり驚いたものだ。
ただ、大島淳一が自分だと明かしてからは、渡部さんは、渡部昇一名義でジョセフ・マーフィーの本も書いている。

渡部さんは、大島淳一名義で書いたジョセフ・マーフィーの本の中で、こんなことを書いていたのを憶えている。
あくまでうろ覚えであるが、だいたいでこんな内容だったと思う。
「私の生まれつきの頭は、学校の成績などから考え、中の上くらいだったと思う。それが、特に裕福でもなかったのに、当時としては貴族的な海外留学が出来たのは不思議なことだった。留学中にドイツの書店でジョセフ・マーフィーの本を見つけてたまたま読んで、何か感じるものがあった。自分の幸運を説明出来る鍵が、マーフィー法則の中にあるように思ったのかもしれない」
普通の人のIQは90から109と言われるので、「中の上の頭」というのは、105から115あたりのことを言うような気がするが、渡部さんは優秀な高校から上智大学に進んでおり、彼の言う「中の上」は、IQ110から120くらいのことか、謙遜ということも配慮すれば、渡部さんの「中の上」の意味は、「飛び切り優秀というほどでもない」という意味かもしれない。

ただ、渡部さんが、高校時代を思い出し、周囲に「すごい」と思える優秀な生徒ばかりだったと言っているのが印象深い。
これは、ルネ・デカルトが今の中高にあたるくらいの学生時代のこととして、「私も、そこそこ出来る方だったが、私など及びもつかない優秀な生徒も沢山いた」と『方法序説』に書いていたのと似ているように思う。
優秀な人間は謙虚であると共に、渡部さんもデカルトも、元々は、天才というほどではなかったのだと思う。
だが、彼らは、大人になってからの実績を見れば、まぎれもなく天才と言って問題ないと思う。
デカルトの『方法序説』では、この本は理性を導くための方法といったふうに書いているが、早い話が、頭を良くする方法と言って良いと思う。
私も若い頃、『方法序説』を繰り返し読み、ほんの少しIQを向上させたものである(笑)。
また、ジョセフ・マーフィーの本は、今で言う引き寄せの本であるが、案外に、頭を良くする本であると思う。なぜなら、普通に言う頭の良いをはるかに超える潜在意識の知恵と結びつく方法が書かれているのだから、そうだと(頭を良くする方法だと)言えないとは全く思えない。
デカルトもスピリチュアルオタクであったが、そんなところにも、マーフィーとも通じるところがあると思う。
マーフィー、デカルトを読もう(笑)。
尚、渡部さんの思想は、やや癖が強いので、反感を感じる人も少なくないと思うが、優秀な人であり、大いに参考になると思う。
渡部さんのお薦めで、自ら実践していたのは「真向法」だったと思うが、私は真向法は全く知らない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新装版 眠りながら成功する(ジョセフ・マーフィー。大島淳一訳
(2)マーフィー成功の法則100(渡部昇一)
(3)努力嫌いの成功法(ジョセフ・マーフィー。桑名一央訳)
(4)方法序説(デカルト。岩波文庫)
(5)知的生活の方法(渡部昇一)
(6)知的風景の中の女性(渡部昇一)

青い花の妖精
AIアート1319
「青い花の妖精」
Kay

世界を変えようなどと思わない

誰が日本の総理になろうが、誰がアメリカの大統領になろうが同じである。
世の中には、誰それが総理大臣になったら日本は終わりだとか、あれがアメリカの大統領になったらアメリカのみならず世界は終わりだと言う人達が沢山いる。
そういったことを「これは陰謀論ではない。世界の真実だ」として、迫真性のある話を一定の説得力を持たせてインターネット上で語る人も沢山いる。彼らを疑う必要はないが、信じてもいけない。また、彼らの話を信じる人達を陰謀論者と言って蔑む必要もないが、あまり関わらない方が良いかもしれない。
少なくとも、誰が総理になったり大統領になったからといって、過度に感情的になる必要はない。

我々が気に入らないと思うのは、世界ではなく人生だ。世界を変えることは難しいが、自分の人生を変えることは難しくはない。
アメリカを代表する現代作家であるカート・ヴォネガットが最高の作家と称賛したH.G.ウェルズの自伝的小説『ポリー氏の人生』に書かれている、「人生が気に入らないなら変えてしまえばいい」という言葉を、イギリスの世界的作家コリン・ウィルソンは座右の銘のようにしていたようだった。
それでウィルソンは、何もかもうまくいかず、絶望的な状況で自殺寸前までいきながら、ふてぶてしく生きるようになり、25歳で著書『アウトサイダー』により、一夜にして世界的作家の仲間入りを果たし、それは生涯続いた。

どうしても総理や大統領が気に入らないなら、彼らが本当にいるのか疑えば、違う総理や大統領がいるパラレルワールド(並行宇宙)に移動するかもしれないが、それよりも、自分に直接関わりのある気に入らないことを疑って消してしまった方が良い。
こんな世界にいるのにも、何か意味があるのかもしれない(ないかもしれないが 笑)。
ヘレン・ケラーが悟った、五感で捉えられるものは全て幻想であるというのは、おそらく正しい。
ある幻想を別の幻想に変えたからといって本質的には何も変わらないなら、世界幻想よりも自分の人生の幻想を変える方が楽である。

とはいえ、ウィルソンも、人生の変え方を具体的に言ってはおらず、彼自身は、少々過激なやり方を取ったが、穏やかな方法がはっきり分からなかったのかもしれない。
だが、彼は、私が好きな、こんな話を、ある本の最後に書いていた。こういう書き方をする部分に一番重要なことが書かれている場合が多い。
ある、全く駄目な青年が「僕はどうしてこんなに駄目なんだろう」とつぶやくと、誰かが、「きみはちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」と言い、青年はそれを聞いて短期間で生まれ変わった。
その時、何が起こったのかについて、ウィルソンは「啓示を受けた」としか書いていない。ウィルソンにも分からないのだ。
だが、その青年は単に「本当に僕は駄目なんだろうか?」と疑い続けただけなのだ。
デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」は、本当は「疑っているわれは確実に存在する」である。
どういう経緯かはっきりしないが、これを「われ思う、ゆえにわれあり」としたことで、デカルトは最終真理を逃してしまった。
全ては幻想で、幻想は疑えば消える。
ただし、求めることで幻想が出来る。
だから、求めずに疑うことが大切で、執着せずに、ただ疑うことが必要である。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ポリー氏の人生(H・G・ウェルズ)
(2)方法序説(デカルト)
(3)オプティミスト(ヘレン・ケラー)
(4)共同幻想論(吉本隆明)
(5)タイタンの妖女(カート・ヴォネガット)

疑う
AIアート1211
「疑う」
Kay

全ては嘘だと知る

嫌な現実を否定せず、ただ疑うことは楽しいものだ。
結果として、それだけで嫌なものが消えたり、本当は嫌でないと分かる場合もあるが、嫌なものを消そうとか、嫌だと思わないようになろうと思ってはならない。
ただ疑うだけだ。

ヨガ指導者だった藤本憲幸さんの27歳の時の初めての著書『秘法ヨガ入門』の一番最後に、藤本さんはなぜか20歳の不思議な青年のことを取り上げていた。自分を人類最高の超人で、釈迦、イエス以上と堂々と言う変わった青年だ。
そんな者を普通の人は笑うかもしれないが、藤本さんは何か感じたのだろうし、私も、この青年を只者ではないと思う。
藤本さんがこの青年に、ダイエットする時はどうすれば良いか尋ねてみた。
青年は、「自分はすでに10kg減って痩せていると思うこと。食事を制限したり、運動する必要はない」と言う。
確かにそうだが、青年は「静かでなければならない」と言う。今の人は「静か」を忘れていると。
どこまでも静かでなければならない。
だが、静かであるためには、思考が消えないといけない。普通の人にはそれが難しい。
だから、もう10kg痩せていると思っても、なかなかそれが信じられないのだ。

では、最初に上げた「嫌なことを疑う」ならどうだろう?
「本当は僕はすでに10kg痩せているのではないだろうか?本当はもうスリムなのではないか?」
「僕はすでに痩せている」では嘘だが、「僕はすでに痩せているのではないだろうか?」というのは、単に疑っているのだから嘘ではない。
疑うのは勝手だ。
思考が十分に消えているなら、「私は痩せている」と決めたり、本当に思考が消えれば、決めるまでもなく、痩せていることが好ましいことなら勝手に痩せる。
だが、疑うことなら、思考があっても差し支えなく、疑うことで現実が希薄になる。
元々が、現実なんて幻想だからだ。
それに、「私は痩せている」と無理に思おうとしたら、必死になってしまい、何度もそう思おうとしてしまい思考が強化されてしまう。
だが、「痩せているのではないか?」であれば、たとえ何度繰り返しても、むしろ思考が弱くなっていく。なぜなら、思考の元である自我の認識を疑うのであるから、自我は弱体化するのである。
理屈っぽくなってしまったが、とにかく、本当にうまい方法である。

以前、私が勤めていた会社で、私はある若い男に相談を受けたことがある。
彼は、「僕は皆に軽んじられている」と言う。
その日、出社した際、そこにいた社員達が挨拶してくれなかったことで、改めてそう感じたようだ。
私は彼に、「皆、忙しかっただけだ。別に君を軽んじているわけではない」と言ったが、彼は納得しない。
まあ、彼のメンタルが情けないものであることが問題だが、こんな者も多くなっているかもしれない。
また、もっと切実に、職場で自分が軽んじられているとか、馬鹿にされている、差別されていると思っている人もいるだろう。
そんな人に対し、「そんな職場なら辞めてしまえ」と言う者がいるようだが、そんなことをしても、次の職場でも同じことになる場合が多いと思う。いや、ますます軽んじられていると感じるようになるだろう。
彼に対する良いアドバイスは、やはり疑うことだ。
「本当に僕は軽んじられているのだろうか?本当は皆、僕に敬意を持っているのではないだろうか?」と疑うのである。
ただし、「敬意を持ってもらうために疑う」のではない。
もし、そんな考え方をしていたら、「疑っているのに、皆、僕に敬意を持ってくれない。辛い」と思うことになってしまうのだ。
だが、単に疑えば、世界という幻想を創り出している自我は幻想を維持出来なくなる。

デカルトは何でも疑った。
赤く見えるものも、本当に赤いかどうかは分からないことは少し考えれば分かる。
太陽は月と同じ大きさに見えるが、実際はそうではないようにだ。
そして、どこまでも疑問に耐えられる真実は、なかなかないことが分かった。
デカルトは、「単に本当らしいことは全て嘘」と断じた。
「疑いようもないほど明白なもののみ本当」としようとした。
そうしたら、全てが嘘であると分かった。
だが、最後に1つ、「疑っている自分の存在」だけは本当だと分かった。
デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえにわれあり」は、本当は「疑っているわれは確かに存在する」である。

普通は、良いことまで疑う必要はない。
しかし、嫌なことは疑うと良い。その嫌なことは間違いなく嘘だ。自分が本当にしない限りは。
疑えば、本当であることを装う嘘はぐらつき、ついには抜け落ちるのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)方法序説 (岩波文庫)
(2)秘法ヨガ入門(藤本憲幸)
(3)私は何も信じない ~クリシュナムルティ対談集~
(4)投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待
(5)ヒマラヤ聖者の生活探求 第5巻(ベアード.T.スポールディング)

妖精の時代
AIアート1183
「妖精の時代」
kay

やる気にさせたいと思って書いた話

神とは何かというと、ネヴィル・ゴダードによれば、「私は在る」という自覚であるらしい。
その根拠は、旧約聖書で、神がモーセに、「私は『私は在る』という者だ」と言ったことによるのだが、ゴダードは、旧訳聖書をヘブライ語(へブル語)の原典で読めたらしい。
自分でヘブライ語で読めたのではないかもしれないが、ウィリアム・アーネスト・バトラーは、言語学者の様々な解釈を研究した上で、 「私は『私は在る』という者だ」の解釈に疑問を唱えているが、こういうことは疑問がなければむしろ信じることは出来ない。
そして、異なる解釈も、結局は 「私は『私は在る』という者だ」という意味になることが分かれば、信憑性が高まる。

神とは絶対的真理だという方向から探求することも出来る。
これに関しては、ニサルガダッタ・マハラジが、「あなたが確信出来る唯一のことは『私は在る』だけである」と言ったが、では、眠っていて夢を見ていない時は「私は在る」と感じないのだから、私はないのかという疑問が生まれる。
これに関しては、古来から「夢のない眠りにこそ、本当の『私は在る』がある」と言われているが、当然ながら科学的根拠はない。

つまるところ、全て聖典頼みということになる。
ただ、古代仏教の教典を研究した者が、これに究極の真理が書かれていると信じざるを得ないと言うことがあるが、それはどういうことかというと、人間の知を超えた真理が書かれていることを、直観的に感じたり、ある程度は類推したり、帰納的(個々の特殊な事実から普遍的原理を導くこと)に考えたということだろう。

だが、私は、ゴダードが説く教えは、私の子供の時からの経験とかなり一致するという特殊な事情があって、かなり信じている。
また、私が初めてビートルズを聴いた時、英語は得意ではない私が極めて印象的に憶えていた歌詞が"AT YOUR COMMAND"だが、ゴダードが初めて書いた本のタイトルがまさに"AT YOUR COMMAND"だったということも面白い。

そしてもう1つ。
私は上に書かれてあるようなことを知る前に神の存在を理解し、理解した時はかなり高揚したものである。
それはデカルトの『方法序説』によるもので、これ(方法序説、あるいは、デカルトの思想)には欠陥があることは分かっているが、それでも価値がある。
デカルトは究極の真理を探究していたが、それは当然ながら、なかなか見つからなかった。
どれほど正しいと思えることも、疑おうと思えばあっさりと疑えた。疑えるからには真理ではない。
真理とは疑うことが出来ないからだ。
たとえば、母の愛が真理かというと、そんな馬鹿でも疑えることが真理であるはずがない。
だが、デカルトは気付いてしまった(笑)。
疑えるということは、自分の中に真理があるからだと。それが神である。
これを見て私は感動のあまり恍惚としてしまった。
それでデカルトは「疑っている私は確実に存在する」を究極の真理としたが、なぜそれが「われ思う、ゆえにわれあり」という不純なものになったかは不明だ(笑)。

ちなみに、本人は隠していたが、やはりというか、デカルトも魔法研究をしていた(笑)。
それはニュートンも同じであった。
というか、ニュートンは、メインの研究は聖書や魔法で、数学や物理学はついでにやっていたのである。
だから、魔法・・・これは旧約聖書から出ているものだが、それこそが真理なのである。
尚、デカルトの自己評価について述べておこう。
デカルトは、名門校の出身で、その学校の中でも優等であった自分が優秀であることは認めていた。
ただし、自分よりずっと上の者達がいることも分かっていた。実に聡明であると思う。
そして、さらに偉いのは、書物の学問は全て捨てたと宣言していることだ。
さっきも書いたが、デカルトにも欠点はあったが、これほどの人物はそうはいない。
デカルトは、究極の真理の柱を「疑う」と「在る」の2本としたが、「疑う」は、もっと洗練させて「気付き」とすればより完璧だった。
そうすれば、「私は在る」が神であるという古代の英知にたどり着けた。

そんなわけで、私にとっては「私は在る」が神であることは明瞭になった。
後は、「私は在る」の自覚から離れなければ神になるのだが、これは簡単であって難しい。
これに関しては宇宙人に聞いたことがある。
「適度にやれば超人になるが、やり過ぎるとこの世から消える」
なるほど、確かにいろんな賢者も同じことを言っていたと思う。
尚、正確に言うと、その宇宙人は、茶目っ気があったのかもしれないが、私に、存在の自覚を加速させるメソッドを教えてくれたのだ。
その上で「1日3回にしろ。それ以上やると消えるぞ」と言ったのだった。
まあ、それで結局、全くやらなくなるうちに、やり方を忘れてしまった。
いや、思い出せるが(笑)。
だが、そんなことは知らなくていいから、「私は在る」と感じることを、なるべく長くやることである。
それで十分に魔法使いに、超人に近付く。

眼差し
AIアート775
「眼差し」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)方法序説 (角川ソフィア文庫)
(2)方法序説ほか (中公クラシックス)
(3)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話
(4)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(5)ラマナ・マハルシの教え
(6)聖書(フェデリコ・バルバロ)
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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