普通の権力者からは小物感がはっきり感じられるだろう。
「こいつ、〇〇大臣なのに、どうしてこんなに貫禄がないんだ?」と不思議に思っている人は多いと思う。
表に出ている権力者達は実際に小物であり、真に強力な存在は隠れているものである。
真に強力な存在は「黒幕」とでも言うべきものだが、今は「DS(ディープ・ステート。闇の政府、闇の支配者)」と呼ぶのが流行りのようだ。
ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』では、DS(のようなもの)は、「シークレット」という願望達成の秘法を独占し、一般人に隠しているから、権力を維持しており、ロンダ・バーンは、『ザ・シークレット』で、その秘法を明かしたということにしている。
それが嘘とは言わないまでも、「シークレット」は秘法の重要な部分が抜け落ちており、その証拠に、『ザ・シークレット』を読んだり、DVDを見たりしても、「本当に」良いことがあった人はいない。
ただ、ロンダ・バーンに悪意はなく、きっかけとしては良いものだったと思う。
そもそも、DSの手法は、願望成就の秘法を隠すことではなく、自分達以外を、小市民化、奴隷化することだ。そのためには、人々に小市民思想、奴隷思想を叩き込むのである。
もちろん、学校(教育)とマスコミが、彼らの強力な道具だ。
学校で、優等生だったか劣等生であったか、従順な「いい子」だったか問題児であったかは関係ない。それら全ての生徒に、小市民思想、奴隷思想が叩き込まれているのである。

だが、実を言うと、DSが学校とマスコミを使っても、DSの教育(洗脳なのだが)を、完全にとは言えないまでも、免れたような者達がいる。
そういうのがあまり増えるのをDSは良く思わないのだろう。
その中に、意外に優秀な者がいないとも限らないからね。
それで、いくらか前から、新しい手をさりげなく使っているのだ。
その手段も1つではないのだが、1つ重要なものを挙げると、人気映画などを使って、人々に小市民思想をしっかり流し込んでいることだ。
2000年以降くらいだろうか、壮大なSF作品でありながら、家族愛、あるいは、夫婦愛を押し出したものばかりになっていることに気付いている人は少ないかもしれない。
例えば、同じSF小説を原作とする『宇宙戦争』という映画が、1953年と2005年に作られている。
1953年の映画では、地球人より科学技術がはるかに進歩した火星人が地球を侵略するが、圧倒的な力の差を理解しながら、登場人物達は、あらゆる努力をして立ち向かう。しかし、その全てが失敗するが、最後は意外な勝利を掴む。ここには、勇気、英知、運命といったことが描かれている。
しかし、2005年の作品は、最初から最後まで、ベタベタの家族愛が、宇宙人の地球侵略とは何の関係もなく描かれるが、全ての映画がそんなふうなのである。
ハリウッドの監督やプロデューサーが、DSから、家族愛を一番に考えるような作品を作って国民を洗脳しろと命じられているのである。

「いや、だが、家族愛、夫婦愛は大事だろう?」と言いたい人はいるだろう?
これに対して反論しても、どうにもならない。洗脳された相手に、洗脳されて思想について議論しても何の意味もない。
ただ、こんなことでも言っておく。
昔の日本では、庶民達は長屋と呼ばれる、一種の共同住宅みたいなものに住んでいた。
そこでは、家族同士の壁はほとんどなかった。
子供達は皆一緒にいて、夕食時にたまたま居た家でご飯を食べ、寝る時も、必ずしも自分の親のところに居なかった。
いや、生まれた時から、どの大人も分け隔てなく全ての子供達の世話をし、実のところ、どの子が自分の子か分からなかったのだ。
江戸時代後期の庶民は、だいたい、こんな感じであった。
ここには、分離された家族の中の家族愛なんてものはないが、人々のモラルは高く、思いやりがあり、犯罪率は極めて低く、文化も経済も発展した。

「地球は一家、人類は皆きょうだい」という言葉の空虚感が大きく、笑えるとすら感じるかもしれない。
誰もがこんな言葉にピンとこず、「ごく限定された意味で、そう思うのは良いことなのだろう」程度に思っている人ばかりだと思う。
大事なのは自分の子供で、尊いのは自分の夫や妻であると、全く疑わずに信じている。
そんな人間達は弱い。
ごく限定された意味では強いところもあり、庶民には、そのピンポイントの強さが強調され、「やっぱり家族愛は強い」ということになるのだが・・・

家族がいないなら、あるいは、いたとしても、世間的なベタベタの家族愛に吐き気を感じる・・・少なくとも違和感を感じるなら、やはり、神仏の名を唱えると良い。
神仏と称される圧倒的な存在が、あなたの本当の家族である。そして、あなたのきょうだい、子供、夫、妻、親の全てがそうなのだ。
小さな家族の垣根が壊れるほど、人間は強力になる。自分が神仏と一体化していくのだからだ。