ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ツァラトゥストラ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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究極のコスパの良い生き方

ゲーテの代表作は『ファウスト』だと言っても良いと思う。
小説というものは、目的は2種類で、1つは、読者を喜ばせるもので、もう1つは、人間はいかに生きるべきかを教えるものだ。
実際は、どの小説も、それらが混ざり合っている。
「人間、いかに生きるべきか」のみだと、それは小説ではなく、哲学書や思想書、あるいは、宗教書で、まとめて「エッセイ」と呼び、小説とは別なものになる。

『ファウスト』は、小説(形式は戯曲)でありながら、「人間、いかに生きるべきか」を強く教えるものだ。
『論語』やエマーソンの『自己信頼』は、「人間、いかに生きるべきか」のみを書いたエッセイだ。
シェイクスピアの『リア王』や『ハムレット』などは、『ファウスト』同様、「人間、いかに生きるべきか」を教える小説(これらも形式的には戯曲)である。

『ファウスト』や『リア王』が、なぜ、小説の形で「人間、いかに生きるべきか」を書いたのかというと、その方が、「多くの人に読んでもらえるから」と、「分かり易いから」という理由がある。
だが、『ファウスト』や『リア王』ですらそうだが、結局のところ、作者にも、「人間、いかに生きるべきか」を確信出来てないのだという理由で小説にし、「人間、いかに生きるべきか」を曖昧にしたり、(全体、あるいは、部分部分を)読者に考えさせ、決めさせたり、自分も書きながら考えたりしたのだろう。
『ファウスト』も『リア王』も、決して断定的なことは書いていないのだ。

『リア王』と言えば、口先で騙されるリア王のような愚かな真似をしてはならないというのが、この作品の主張であると思われていると思う。
しかし、全くそうではない。
根本的には、自分への愛情で自分の子供達を差別しようとしたことが愚かだっただけである。
また、リア王の末娘も、正直なだけでは駄目で、ある程度の演出や機嫌取りもしないと、自分だけでなく、リア王も不幸にしてしまうのだ。
悪いのは、リア王や、リア王の末娘の傲慢さであると考える方が正しいかもしれない。
そもそも、人間は、それほど大したものではない。
リア王やリア王の末娘も、性悪と思われる娘たちともうまくやってこそ立派な人間なのである。
あの程度の不誠実な人間は、どこにでもおり、そんな人間と無関係ではいられないのだからだ。
末娘以外の娘たちも、本来は、案外、良い人間であるに違いないのである。

『ファウスト』となると、部分部分でゲーテの言いたいことは分かるが、つまるところ大事なことは何かは、ゲーテにだって分かっていない。それで壮大な作品になってしまった。
だから、あの作品から人生を学ぼうなんて、あまり思わない方が良い。書いた本人だって、まるで分かっちゃいないのだから。
ただ、部分的には役に立つかもしれない。
『ファウスト』に似た作品に、『ツァラトゥストラはかく語りき』がある。
部分的には良いが、作者のニーチェにも、「人間、いかにいきるべきか」の確信が持てなかったのだ。
だが、頭が良過ぎる彼は、それを大真面目に考え、発狂してしまった。いかに天才とはいえ、人間には大き過ぎる問題だ。

文明が進歩し、権力者の欲望もあろうが、庶民を統制しないといけない部分が大きくなってしまった。
そんな中で、出来るだけ気分よく支配されつつ、効率的に(つまり、無駄を排しつつ)生きることを教えるネットのインフルエンサーの人気が高くなっている。
彼らの言っていることを一言でまとめると「コスパ(コストパフォーマンス)を上げろ」であるが、そんなことを言われたり、彼らのコスパの上げ方を教えてもらっても、真似出来ることではない。
インフルエンサー達だって、我々が思うほどうまくはいっていないし、うまくいっている部分も「たまたま」でしかない。

で、結局、何が究極の「人間、いかに生きるべきか」であるが、それは、仏教の「自己を忘れる」なのである。
だって、もし、見栄っ張りでない人間がいれば、自然に、最もコスパの良いことをしているし、どんな時代でも、能力の範囲で最高のコスパを発揮するはずだ。
リア王だって、自己を忘れたら、「誰が私を一番愛しているか」なんて馬鹿なことを考えず、末娘も、自分の主義を貫かず、リア王の御世辞を言って、丸く収まったのだ。
ハムレットも、自己を忘れたら、オフィーリアが素晴らしいことを認めつつ、さほど執着せず、面倒を起こさなかったのである。
『荘子』や『老子』も、自己を忘れるということに関しては、仏教と同じである。
エマーソンの『自己信頼』は、自己を忘れることと真逆と思われるかもしれないが、忘れるべき自己とは「小さな自己」であり、実は正しいのである。
仏教の目的は自己を忘れることと明言したのは道元であるから、道元の『正法眼蔵』の分かり易い本を読むと良いだろう。『現成公案』だけでも良い。








問題の起こし方と消し方

問題が起こらない人生はないし、悩みがない人間もいない。
また、病気にならない人間もいない。
ステーキにでもならない限り、人間は何らかの病気になる。
人生は、問題、悩み、病気との共存のようなものだ。
だが、問題や悩みや病気は、こちらが屈服しない限り、向こうが屈服する。
『ツァラトゥストラはこう語った』でツァラトゥストラは、「偶然が横柄に訪ねてきたら、私はもっと横柄に迎える。すると、偶然はひざまずく」と言ったが、この「偶然」を、問題や悩みや病気だと言っても良いと思う。

そして、偶然を自分の意思だと考えると神に近付く。
なら、偶然もひざまずくはずだ。
ある者は、家を奪われ時、家族が殺された時、そして、自分が死ぬ時も、全て自分の意思だと見なした時、神に最も近付く歓喜を得たと言う。
ただそれは、一般的な宗教信仰者が、「全ては神の思し召し」と思って受け入れるのとは違う。
神の意思を自分の意思と見なしているのだから、自分が神なのである。
もっとも、彼は、栄華を極めた富豪だったので、現実的な願いを、もう持っていなかったのだろう。

ユングが好きだった雨乞師(あまごいし。雨を降らせることを仕事とする祈祷師)の話や、このブログでよく取り上げる、宝くじで1憶円を当てたホームレスの話で、雨乞師もホームレスも、同じことをやったのである。
何年も雨が降らない土地にやってきた雨乞師は、「ここの人々は、神の意思に沿っていない」と言った。
これは、人々は神の意思を尊重してはいたが、それを自分の意思と見なしていないという意味だ。
だから、雨乞師は、テントに3日引きこもって、自分がこんな土地に来たことも含め、一切は神の意思であると共に自分の意思であると思った。すると、4日目に雨が降った。
ここらが、普通の雨乞師と、超一流雨乞師との違いである。
「神様の奇跡が起こる」と唱え続けたホームレスは、頭ではっきりそう思ったわけではないが、自分の今の状況も、神の意思であり自分の意思だと分かったのだ。
なら、発想力貧困かもしれないが、自分でも分からないくらい微かに、大金が宝くじで当たる意思を起こしたら、それが神の意思になり、そうであれば、1憶円くらい、当たるというものだ。

ずっと「ありがたい」と唱えていると、良いことも悪いことも全て、神の意思だと思うようになる。
言い換えれば、「ありがたい」と唱えることが、神の意思に沿うことだ。
そして、それに対して、自分が「ありがたい」と肯定しているのだから、自分が神であるということが、理屈ではなく、深い心で悟る。そうなれば、自分がありがたいと思うことも起きるのである。








高品質アファーメーション(2/2)

今朝に続き、特に高品質で、汎用的で、どんな人にも適応性が高いアファーメーション(肯定的確言)の2つ目である。

「予期しないことが起こり、道は開ける」

奇跡の第一の特徴とは何かご存じだろうか?
それは「予期出来ない」ことだ。
「20世紀最大の詩人」と呼ばれ、ノーベル文学賞を受賞しているアイルランドの詩人・劇作家であるウィリアム・バトラー・イェイツの戯曲『カルヴァリー』の舞台は、日本の歌舞伎を参考にしたと言われる。
その『カルヴァリー』の中で、極めて印象深い場面がある。
それは、イエス・キリストとローマ兵との間で交わされる、福音書とは異なる会話の場面だ。
イエスは、神の力の偉大さを説き、自分が、神から、地上の一切の権限を任されていることを宣言した。
ローマ兵達は、イエスの言葉を疑ってはいなかった。
だが、ローマ兵の1人は、イエスに言う。
「それがどうした?お前の神は我々の神ではない。サイコロが我々の神だ。予期せぬことでさえあれば、どんなことでも起こることが最善だ」
イエスは、ローマ兵達の強さに屈服する。

確かに、イェイツは、ニーチェやオスカー・ワイルドらと同様、アンチ(反)キリストだった。
とはいえ、彼らは、決して、イエスをナメているわけでも、低く評価しているわけでもない。
ただ、反発したいのだ。
ニーチェは、『ツァラトゥストラはこう語った』で、ツァラトゥストラに、イエスが高貴な魂の持ち主であると言わせているし、イェイツも、イエスの教えの巧みさを称賛していた。
だが、イェイツは、上の『カルヴァリー』で、イエスを裏切ったイスカリオテのユダに、イエスに向かってこう言わせている。
「俺は、お前が神であることを疑ったことなどない。俺がお前を裏切ったのは、お前が万能に思えたからだ」

ここらは、少し困惑するかもしれない。
だが、何かを感じるのである。
『カードキャプターさくら』でも、魔術師クロウ・リードの生まれ変わりであるエリオルが、聖獣スピネルと、こんな会話をしている。
「この世で一番楽しいことは何か知っているかね?スピネル」
「何ですか?エリオル」
「それは、予想しないことが起きることだよ」

予期しないことを受け入れる者は強いのだ。
予定された、決まったレールの上を行きたがる者は弱い。
分かり易く言えば、強い心の持ち主、勇気ある者は、冒険を恐れず、むしろ、冒険を求める。冒険こそが人生なのだからだ。
そして、奇跡とは、冒険を楽しむ者・・・つまり、予期しないことを待ち望む者に訪れるのである。

神の力は想像を超える。
讃美歌では、神の業のことを、度々「奇し(くすし)」と言う。
「奇し(くすし)」とは、神秘的であるという意味で、人間には不思議なことだ。
神が、人間に予想出来るような、当たり前のことをするはずがない。そんなものは人間にやらせている。
だが、当たり前のことしか起きなければ、大きな発展はない。
山のような大きな問題が解決することもない。
偉大な救い、歓喜する喜びもない。
だから、予期しないこと・・・神の業を受け入れるのである。
そのための言葉が、
「予期しないことが起こり、道は開ける」
なのである。
あなたは今、八方ふさがりかもしれないし、いかに努力しても、厚い壁はビクともしないかもしれない。
しかし、奇跡は起こるのである。
あなたが受け入れさえすれば。
だから、「予期せぬことが起こり、道は開ける」と、常に唱えることにより、神の奇しき業で道は開かれ、あなたは勝利し、歓喜するのである。








夏休みの真の課題

どれほどの、まるで駄目男、まるで駄目子であっても、1つの言葉でアファーメーション(呪文と言って良い)を続ければ、まずは普通の人並になり、平凡を超え、アファーメーションを本当に多くやれば、やがてはエリート、英雄になる。

ところで、10日近い休暇を取っていると、学生の時の夏休みを思い出す。
ほとんどの小中学生は、午前中などは、ある程度暇でゴロゴロしていることも多いと思うが、ぼーっとしながらでも、頭の中で1つの良い言葉を淡々と繰り返せば、すぐにでもヒーロー、ヒロインになれるものを、大切な時間を無駄にしてしまっている。
そして、親やテレビや、いまでは、ネットの悪い影響を受け、下がっていくだけなのかもしれない。
頭の中で「大丈夫」「無敵」「絶好調」「不死身」など、1つの言葉をずっとつぶやいていれば、夏休みの終わりに自死するようなことはなくなる。

あらためて、エマーソンの『自己信頼』を読むと、自己信頼がいかに大切なものであるかが分かるし、ブリステルの『信念の魔術』を読むと、信念の力の強大さがはっきり分かるが、では、どうすれば、自己信頼や信念が得られるかは、全く書かれていない。「書かれていない」などと言うと、反論もあるだろうが、実際に、それらを得るためのことが何も出来ないのだから、書いてないも同様なのだ。
優秀なだけでなく善良なはずの彼らでさえ、正しいかもしれないが難しいことを書くのが精一杯なのだ。
ニーチェすら、ツァラトゥストラに「高貴な魂の持ち主」と言わせたイエスは(※ニーチェはイエスが嫌い)、いくつかの易しいやり方を教えはしたが、それでも難しい。なるほど、彼の教えにより、世界は2千年をかけて随分良くなったが、いまだ多くの庶民は苦しいままだ。
イエスは、第一の法として、「神を強く愛しなさい、誰でも自分のように愛しなさい」と言ったが、感情を込めず、淡々と、「わが信頼する神」と頭の中でつぶやきなさいとは教えなかった。
実際は、それだけで良いのだ。
そして、それを教えたのが、善導、道綽といった中国の僧で、それを日本で引き継いだのが、法然、親鸞だった。
「南無阿弥陀仏」とは、「わが信頼する神」と全く同じ意味である。
しかし、宗教が、念仏に余計な意味をつけてしまい、人々が救われないようにしてしまった。
「南無阿弥陀仏」とは、無限の知恵と力を持ち、限りなく世話を焼いてくれる仏様への親愛を示すものなのだが、宗教は、そんな当たり前で簡単なことを教えない。

自己信頼を難しく考えるくらいなら、「凄いぞ俺」と、頭の中で淡々とつぶやけば良いし、「信念とは何ぞや」などと時間つぶしをするくらいなら、「大丈夫」と心でさりげなくつぶやきながら好きなことをすれば良いのである。
長嶋茂雄は「俺は絶対に打てる」といつも言葉でつぶやいていたし、200安打にこだわったイチローはきっと「俺は200本打てる」という言葉が頭の中にあったのだろうと思う。

私は、プログラマーとしては、短期間でバグのないプログラムを書くことにこだわった。
それで、普通の人が1ヶ月かかるプログラムを数日で書くし、バグはほとんどなく、リリース後は、あまりにトラブルがないので、その仕事から縁がなくなってしまうほどだ。
私はずっと昔、あまり程度の良くない本だったかもしれないが、その中に、
「短期間でバグのないプログラムが書ければ、ロリコンの変態でも一目置かれる」
と書かれていたのをよく覚えていたのだ。
私は、ロリコンでも変態でもない・・・はずだから(笑)、なおさらそうである(変態でない人間などいるのか?)。
だが、「バグのないプログラムを超スピードで書ける」という言葉にして、頭の中で淡々とつぶやいていれば、もっと上手くなっていたと思う。

ただ、法然の時代と違い、今は、誰もが英雄になる時代だ。
だから、唱える言葉は、自分で1つ選ばなければならない。
それが出来れば勝ったも同然であるが、実際、好きな言葉なら、何でも良いのである。









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超人への招待

何かの行を(例えば念仏を)続けていたら、やがて悪魔の誘惑に遭う。
まあ、一応悪魔の・・・と言うが、必ずしもそう言うべきではないかもしれない。
それは、超人への招待である。
当たり前の人間として神仏に守られて生きるか、自分で何でも出来る超人になり神仏を拒否するかだ。

ゲーテとニーチェはその誘惑を受け、ゲーテは人間の道を、ニーチェは超人の道を選んだ。
そのあたりの事情は、ゲーテは『ファウスト』、ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』に書いている。
それぞれ、フランツ・リストとリヒャルト・シュトラウスが、『ファウスト交響曲』、交響詩『ツァラトゥストラはこう語った』で音楽化しているが、よく感じが出ている。
交響詩『ツァラトゥストラはこう語った』の導入部(第1部)は、映画『2001年宇宙の旅』に使われているので、馴染みのある人が多いと思う。

超人になる道を選んだとて、別にニーチェのように発狂する訳ではない。
ニーチェは迷いがあったのだろうと思う。
超人になるなら、素直に超人になるべきだったろう。
ファウストも初めは当然、超人の道を行き、神を目指して努力していた。
そこへ悪魔がやってくるが、それは神も承知のことだった。

ツァラトゥストラ型・・・つまり超人が歴史に名を残す。
ナポレオンやヒトラーもそうだったが、ナポレオンはやや弱く、ヒトラーはとても弱かった。
超人は心が強くなければ、最後は悲惨だ。

超人はどこまでも自由だ。
善悪は何の関係もない。
だが、普通の人間にとって、完全な自由ほど恐ろしいものはない。
それでも、あえてそれを選ぶのを止めるべきではない。
それを選べるほどの者であれば、本来は超人の資格があるのだからだ。

イエスは普通の人間だが、超人に見える。
これはよくあることだ。
ラマナ・マハルシは、「イエスは自分が超能力を使っているという自覚がなかった」と言っていたが、彼は見透かしていたのかもしれない。
復活後のイエスは別人だ・・・などと言ったら、キリスト教徒に怒られるかもしれないが、よく分かっているキリスト教徒なら、案外に、「それはそうだよ」と言うかもしれない。
まあ、新約聖書を読めば分かるが、イエスに近しかった人達も、復活後のイエスを見て、それが誰だか分からなかったのだ。

ファウストは、初めに悪魔に魂を売ったのではない。
「俺の心が折れたら、お前に魂をやる」と悪魔に言っただけだ。
ナポレオンもヒトラーも折れてしまった。
もちろん、ナポレオンは粘ったが、多分、やっぱり駄目だったのだ。

涼宮ハルヒは超人の道を選び、佐々木はヒトの道を選んだとも言える。
そう御大層なことではないが、気の迷いで選ばないことだ。
『傷物語』で、阿良々木暦君は、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードに「闇の世界にようこそ」と言われたが、人間に戻りたがった。
まあ、それで、ちょっと変な人になったが、それもご愛嬌である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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